ゲバラ没後三十周年記念企画

ゲバラ略伝・手紙

われわれの行動のすべては帝国主義に対する戦いの叫びであり、人類の最大の敵・北アメリカ合衆国に対する全人民の団結を訴える叫びなのだ。たとえどんな場所で死がわれわれを襲おうとも、われわれの戦いの叫びが誰かの耳にとどき、誰かの手が倒れたわれわれの武器をとり、誰かが前進して機関銃の連続する発射音のなかで葬送の歌を口ずさみ、新たな戦いと勝利の雄叫びをあげるならば、それでよいのだ。

「二つ、三つ…数多くののベトナムをつくれ、これが合い言葉だ」より抜粋。

アジア・アフリカ・ラテンアメリカ人民連帯機構が1967年に公開したもの。


チェ・ゲバラ略伝 1928−1967

パンフレット「チェ・ゲバラ 死者はいつまでも若い」に収録されていた樋口聡氏作成のものを一部修正して掲載した。

 一九二八年六月十四日、エルネスト・チェ・ゲバラ=リンチ・デ・ラ・セルナは造船業を営む父エルネストと、母セルナの第一子として、アルゼンチンの第二の都市、ロサリオに生まれた。持病の喘息の療養のためコルドバに転地したが、発作はしはしは彼を苦しめ、それは終生続くことになる。

 高校入学(十三才)の頃より、アルゼンチン国内の旅を開始し、ブエノスアイレス大学の医学生だった一九五一年には、年長の友人グラナドスと約一年にわたるラテンアメリカ放浪に出発している。このとき、ラテンアメリカにおける現実をつぶさに見聞きしたことが、エルネストの人格を革命的に形成していったことは疑いない。

 フアン・バロンの支配するアルゼンチンで軍医として徴用されるのを嫌ったエルネストはホリビアへ脱出。籍二のラテンアメリカ放浪の旅を経て、アルベンス社会主義政権が誕生したグアテマラに到着する。そこでペルー人の社会主義者、イルタ・ガデアと出会い、大いに影響を受けた。アルベンス政権がアメリカ合衆国政府の支援を受けたアルマス反革命軍に打倒されると、ふたりはメキシコに亡命し、結婚した。死ぬまで続く、アメリカ帝国主義との戦いの端緒でもあった。エルネストは街頭写真屋を商いながら細々と生計をたてたが、生活はアルゼンチンを出てからずっと極貧だった。

 一九五五年夏、「亡命者の天国」といわれるほどラテンアメリ力中の亡命者がひしめいていたメキシコで、エルネストはフィデル・カストロと出会う。フィデルはモンカダ兵営襲撃のあと収藍されていたビノス島の監獄から、弟のラウルらとともに赦免により出獄し、捲土重来を期すべくメキシコに亡命していたのだった。ラウルに紹介されてフィデルと出会った直後、エルネストはフィデルの組織する叛乱軍の一員となっていた。冒険に対するロマンティックな共感と、純粋な理想のためならば異国で死しても惜しくないというのが、参加の理由だった。エルネストはチェ・ゲバラになったのである。

 一九五六年、フィデルの率いる叛乱軍はグランマ号という名のヨットでキューバに向けて出発。定員を大幅にオーバーする人員を乗せたため、また叛乱をキューバ全土に宣言しての出発だったため、キューバ東部のコロラダス海岸に漂着すると同時にバチスタ軍の強襲を受け、叛乱軍は十二名になってしまう。フィデルとゲバラは生き残る。ニ年以上にわたる革命戦争を経て、バチスタはドミニカに逃亡。一九五九年一月一日、革命政権が樹立される。

 国立銀行総裁、工業大臣などの要職を歴任したチェは、ラテンアメリカ解放のゲリラ闘争を継続するために出国。「第二、第三のベトナムを!」というチェの言葉は、人民解放を目指す人々の闘いの合言葉となった。

 アフリカをはじめ、第三世界をめぐったのち、革命根拠地建設を目指してボリビアでゲリラ活動を開始するが、圧政者の凶弾によって目的を達することなく斃れる。一九六七年十月九日、三九歳であった。


チェ・ゲバラの手紙

レボルト社発行「国境を超える革命」に収録されていたものを転載した。

 「農業の年」ハバナ発

 フィデル・カストロ宛

 フィデル。

 いま私は、さまざまのことを思い出している――マリア・アントニアの家ではじめて君に会った時のこと、君が遠征に参加するように私にすすめた時のこと、そして準備の時のあの緊張のすべてを。

 ある日われわれは、死んだら誰に知らせたらいいのかと尋ねられたことがある。その時われわれ全員は死の現実的な可能性に衝撃をうけた。あとになってわれわれは、革命のなかでは(それが真の革命である限り)人は勝利するか死ぬかなのだ、ということを知った。勝利にいたる途上で多くの同志が倒れた。

 いまではすべてにあまり劇的な調子を感じることはないが、それはわれわれが成熟したためだ。だが、いまも生と死は繰返されているのだ。キューバ革命が私に課した任務を私はキューバ国内においては果してしまったように思う。だから私は君や同志や君の人民――それはすでに私のものでもある――に別れを告げる。

 私は党指導部における私の地位、閣僚の職、少佐の階級、キューバ市民としての条件を公式に放棄する。法的には私をキューバに結びつけるものは何もない。ただ、任命書を破り棄てるようにはあっさりとは棄てることができない違う性格の絆があるだけなのだ。

 過去をふり返ってみて、私は自分が革命の勝利を不動のものとするために十分に誠実に献身的に働いてきたと信じている。私に何らかの誤りがあるとすれば、それはただ、シエラ・マエストラの初期の段階において十分に君を信頼していなかったことと、君の指導者ならびに革命家としての能力を十分に理解していなかったことだけである。

 私は偉大な日々を生きてきた。君の傍で力リブ海の危機の輝かしく悲劇的な日々をわが人民の一員として生きたことを私は誇りとしていた。

 あの日々の君ほど輝かしい政治家はほとんどいない。私は躊躇することなく君に従い、君の思考方法に自分を同一化したこと、君と同じ方法で危機と原則を理解し評価したことを誇りに思っている。

 世界の他の土地に私のささやかな努力を求める大衆がいる。キューバの指導者としての責任から君には許されないことが私にはできる。別れの時が来たのだ。

 私が喜びと悲しみの混じり合った気持でキューバを離れるのだということを知って欲しい。私はここに建設者としての私の最も純粋な希望と、私が愛するもののうちの最愛のものを残して……そして、私を息子のように受け入れてくれた人民と別れていくのだ。このことは私の心を深く切り裂く。私は新しい戦場に、君が私に教えてくれた信念、わが人民の革命精神、最も神聖な義務を果そうとする感情を携えていく。そして、どこであろうと帝国主義と戦うのだ。戦いが私の心のすべての傷を十分に慰め癒すのだ。

 もう一度言うが、キューバに関して私はいっさいの責任から解放された。だが、キューバは私にとってひとつの模範だ。私がどこか異国の空の下で最後の時を迎えたら、私の最後の思いはキューバの人民、そして特に君に向かうだろう。君の教えと模範に感謝する。私は私の行動において最後までそれに忠実でありたいと思う。私はこれまでわれわれの革命の外交政策に常に従ってきた。これからもそうしたいと思っている。どこにいようとも私はキューバの革命家としての責任を自覚しているだろう。そして、そのように行動するだろう。私は私の子供や妻に何も残しておかないが、それは別に心残りのことではない。そのほうが私には望ましいのだ。国家が生活と教育に十分なことをしてくれる以上、私はそのほかに何も望まない。

 君とわれわれの人民に語りたいことはたくさんあるが、それはもう必要のないことなのだろう。言葉は私が望むことを表現しえない。これ以上紙をよごすまでのこともないだろう。勝利に向かって常に前進せよ。祖国か死か。革命的情熱をもって君を抱擁する。

                       チエ


 一九六五年発

 両親宛

 再び私は踵の下にロシナンテの肋骨があたるのを感じています。盾を腕にかけ私は道を引き返すのです。

 十年ほど前、私はべつの別れの手紙を書きました。いまでも覚えていますが、あのとき私は自分が立派な兵士でも立派な医者でもないことを残念に思っていました。いまはもう立派な医者になろうとは思っていませんが、兵士としては私はそう悪い方ではありません。

 私がより自覚的な人間になったということ以外に、本質的に変ったことは何もありません。私のマルクス主義は根を下ろし、純粋なものになりました。私は解放のために戦う人民の唯一の解決は武装闘争であると信じています。私は絶対的にそうだと信じています。多くの者が私を冒険主義者と呼ぶでしょう。私はそうなのです。私は違った型の人間、自分の正しいと思うことを証明するために自分の身体を賭けるだけの人間なのです。

 決定的な事態が生じるかもしれません。私にはわかりませんが、論理的にはその可能性は考えられます。もしそうなったら、その時は最後の抱擁をおくります。

 私はあなた方を心から愛していました。ただ私は私の愛情を表わす方法を知らなかったのです。私は自分の行動に極度に厳格でした。だからあなた方は私のことが時にわからなくなることがあったのだと思います。私を理解することはやさしいことではありません。 そうではあっても、今日はただ言葉通りに私を信じて下さい。これからは、私が芸術家のような喜びをもって鍛え上げてきた意志の力が、弱い脚と疲れた肺を支えてくれるでしょう。私はそうしなくてはならないのです。

 時々は、この二十世紀の小さな隊長のことを思い出して下さい。セリアに、ロベルトに、ファン・マルティンとポトティンに、ベアトリスに、みんなにキスをおくります。あなた方には強情な放蕩息子の大きな抱擁をおくります。

                  エルネスト


一九六六年二月十五日発

イルディタ宛

愛するイルディタ。

 いま私はおまえにこの手紙を書いているけれども、これがおまえにとどくのはずっとあとになってからだろう。だが、私はおまえを思い出し、おまえが誕生日を幸せに過ごしているようにと願っている。もうおまえも大きくなったのだから、私は小さな子供に話すような調子でおかしなことやでたらめを書くわけにはいかない。

 私たちの敵と戦うために遠いところで私はできるだけのことやっているのだが、まだこれからもおまえと離れたところにいなければならない。おまえにはこのわけがわかるだろう。けっして大きなことではないのだが、必要なことなのだ。だから、私がおまえを誇りにしているように、おまえもおまえの父親をいつも誇りにすることができるだろう。

 戦いはこれからも長いあいだ何年もつづく。おまえは女だけれども戦いのなかで与えられた任務をしっかりやらなければだめだ。戦いに備え、革命的でなければならない。それはおまえの年頃では、できるだけたくさんのことを知り、常に正義を支持することができるようになっているということだ。それから、お母さんのいうことをよく聞きなさい。何ごとも時の来る前に信じこんでしまってはいけない。その時はまもなく来るだろう。

 学校では一番よい生徒になるように努力しなさい。おまえもわかっているだろうが、すべての意味においてよいということは、勉強と革命的行動、つまり、善い行い、真剣であること、革命への愛、同志愛などを意味しています。

 私はおまえの年頃の時にはそうではなかった。私はいまのおまえと違った社会にいたのだ。あの社会では人間が人間の敵だった。いまおまえは別の時代に生きるという特権をもっているのだから、それにふさわしい人間として生きなければならない。家では小さな子のめんどうをよくみ、勉強し行儀のよい子になるようにいろいろ教えてやりなさい。特にアレイディタには姉としていろいろしてあげなさい。

 では、もう一度繰返して言います。誕生日を幸せに過ごしなさい。お母さんとヒーナを抱いてあげなさい。そして、私たちはこれからも長いあいだ会えないだろうが、その長い時間の抱擁を全部合わせたのと同じくらい大きい強い抱擁をおまえにおくります。

                        父


わが子たちへ

愛するイルディータ、アレイディータ、カミーロ、セーリアそしてエルネスト、もしいつかお前たちがこの手紙を読まなくてはならなくなった時、それはパパがもうお前たちの間にはいないからだ。――お前たちはもう私を思い出さないかもしれない、とくに小さい子供達は何も覚えていないかもしれない。――お前たちの父はいつも考えた通りに行動してきた人間であり、みずからの信念に忠実であった。――すぐれた革命家として成長しなさい。それによって自然を支配することのできる技術を習得するためにたくさん勉強しなさい。また次のことを覚えておきなさい。革命は最も重要なものであり、またわれわれの一人一人は(ばらばらであるかぎり)何の価値もないのだということを。

 ――とりわけ、世界のどこかである不正が誰かに対して犯されたならば、それがどんなものであれ、それを心の底から深く悲しむことのできる人間になりなさい。それが一人の革命家のもっとも美しい資質なのだ。――さようなら、わが子たち、まだ私はお前たちに会いたいと思う。しかし今はただバパの最大のキスと抱擁を送る。                 

                  「子供への手紙」


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