第8回トリオ・ジャパン・セミナー

「臓器提供―現状と課題」

 

 

 

200078日(土)13:0017:00

キャピトル東急ホテル「竹の間」

 

 

 

 

プログラム

 

 

総合司会            渡辺直道(トリオ・ジャパン)

 

会長挨拶            青木慎治(トリオ・ジャパン)

 

 

第一部

 

 

特別講演「現行臓器移植法の問題点―法律家の立場から」

 

町野 朔 (上智大学法学部教授)

 

 

第二部

 

 

パネルディスカッション「臓器提供―救急医の立場から」

 

 

                 司会 大塚敏文(日本医科大学理事長)

 

    パネリスト

          

菅 貞郎(慶應義塾大学医学部脳神経外科)

       大庭正敏(古川市立病院救命救急センター)

       神野哲夫(藤田保健衛生大学病院救命救急センター)

       濱邊祐一(都立墨東病院救命救急センター)

       有賀 徹(昭和大学病院救急医療センター)

       大和田隆(北里大学病院救命救急センター)

 

 

 

 

 

 

 

 

出演者紹介・講演内容

 

 

特別講演

 

町野 朔(上智大学法学部教授、刑事法・医事法)

 

厚生省公衆衛生審議会臓器移植専門委員会委員

日本刑法学会・日本医事法学会・法と精神経済学会

 

主著 『患者の自己決定権と法』東京大学出版会

   『脳死と臓器移植(第3版)』『安楽死・尊厳死・末期医療』信山社

 

講演内容については、巻末資料を参照。

 

 

パネルディスカッション司会

 

大塚敏文(日本医科大学理事長)

 

日本救急医療財団理事長・厚生省公衆衛生審議会臓器移植専門委員会委員

 

主著 『救急医療―その初期治療の実際』栄光堂

『外傷』日本医事新報社

   『救急医療 ファーストエイドマニュアル』インターメディカ(共編著)

 

 

パネリスト

 

 

菅 貞郎(慶應義塾大学医学部脳神経外科専任講師)

 

日本脳神経外科学会・日本脳神経外科コングレス・日本脳卒中学会・日本脳循環代謝学会の評議員を務める

 

臓器移植法施行後第2例目の「脳死下からの臓器提供」を経験して

 

 

大庭正敏(古川市立病院救命救急センター長・脳神経外科科長)

 

日本脳外科学会評議員/専門医

 

臓器移植法施行後第3例目の「脳死下からの臓器提供」を経験して

 

 

神野哲夫(藤田保健衛生大学病院救命救急センター長・医学部脳神経外科教授)

 

日本脳神経外科学会評議員・日本脳卒中学会理事・日本救急医学会指導医

      

主著 『脳外科医だからできること』リヨン社

 

現在までの当科での献腎数は193例を数えるが、最近はやや減少傾向にある。脳死段階でのドナーカード保持者は2例であったが、うち1例はカロリックテスト不能のため、臓器提供に至らず、他の1例は提供臓器が医学的理由により移植されなかった。これらの経験をもとに、現時点での提供側の問題点、すなわち脳死判定マニュアル、情報開示、マスコミとの葛藤などについて論じたい。

 

 

濱邊祐一(都立墨東病院救命救急センター医長)

 

日本救急医学会評議員/指導医・日本臨床医学会評議員・日本エッセイストクラブ会員

 

主著 『こちら救命センター―病棟こぼれ話』集英社文庫

   『救命センターからの手紙−ドクターファイルから』集英社

 

現行の移植法は、本人の意思を出発点とし、臓器提供をするときのみ脳死状態を人の死とするが、これは悪くない制度であると考えている。これまでの実施例を振り返ると、やはり脳死は「つくられるもの」であり、そこでは救命救急センター、あるいは救急医の医師の役割が問われている。また、予後絶対不良患者において、ドナーカードは死に方あるいは死なせ方の選択を示すものとなろう。今後の問題点として、いつドナーカードの所持あるいは臓器提供の意思を確認するのか、そして15歳未満の提供意思をどう判断するのか、その際には親権者に委ねることに正当性があるのか、自発性の担保をどうするのか、などについて、問題提起をしたい。

 

有賀 徹(昭和大学病院副院長・救急医療センター長)

 

日本臓器移植ネットワーク関東甲信越ブロックセンター事務局次長

日本救急医学会評議員/指導医・日本脳神経外科学会評議員/指導医

 

主著 『脳神経外科学(第8版)』金芳堂(共著)

   頭部外傷. 森岡恭彦監修『新臨床外科学(第3版)』医学書院

   頭部外傷・脊椎損傷. 杉本恒明他編『内科学(第7版)』朝倉書店

   救急医療と感染管理. 救急医療におけるスタンダードプリコーション, 救急医学

   救急医療における質の評価, 病院

 

医科学の方法によれば、脳死から移植に至る過程は、単に<脳死(死亡)→拒否しない(承諾)→移植>となるはずである。しかし、わが国において、現状では、行政の方法論により、<脳死→(承諾)→「臨床的脳死」→承諾→法的脳死判定(死亡)→移植>という過程となっている。すなわち、法的脳死判定により「死亡」とするが、それには移植の承諾(拒まないこと)が「前提」であり、そのための「臨床的脳死」の条件を満たしている必要がある。ガイドラインの原則によれば、臨床的脳死に至ってから、「臓器提供の可能性を知る」こととなっているが、実際上は、「臨床的脳死の確定診断」がいわば「仮判定」のような位置づけにおかれていることは、周知の事実であろう。
 以上を整理すると、(a)医科学的な脳死、(b)臨床的な脳死、(c)法的な脳死の3つの関係は、集合論的に言えば、「(a)は(b)を含み、(b)は(c)を含む」ことになる。(b)は(c)を前提とした位置にあり、違いは無呼吸テストの有無だけであるから、(b)≒(c)となる。本来、(a)が存在して、法的に定められた(すなわち、社会的には意義を有するものの、一方では「恣意的に」決定された)(c)の患者が選択されるということですから、(a)と(c)があれば十分なはずです。

 ここで、(b)は概念上限りなく(a)に近かったと考えますが、ガイドラインによって「お作法」とか「仮判定」になってしまい、「臨床的脳死」という語彙の独り歩きが生じたと考えます。その意味では、法の円滑な運用を期待して作成されたガイドラインの存在意義に負の側面があることを指摘せざるを得ません。つまり、いかにも医科学的な概念・体裁のために、(a)に近いようで、その実「≒(c)」である(b)の存在によって(臓器移植法の成立時から、いかにも素人的な(a)=(c)という向きは実際にもありましたが)、「(a)=(b)=(c) 」であるかのような誤解が生じ、従って脳死[(a)]の状態について、小児例や低体温例では脳死があり得ないという誤解や、判定基準の検査が不可能なら脳死であるか否かもわからないという意見が出されることになります。

 また、移植用臓器の摘出に至るには、「現行行いうる全ての治療」がうたわれ、内科的治療だけでは不十分か、手術が必要だったのでは等々、諸々の意見が出ます(prospective であれ、retrospectiveであれ)。このことは、またいつdonor cardを確認するかという疑問とも軌を一にするものと考えます。つまり、我々医師は、医学的かつ論理的に正しいと考える対応(それは結局accountabilityに帰することでしょう)を常に行うことが正しいことであり、これによってのみ信頼が得られるわけで、これがmedical professionの立場と考えます。その意味では、多分法律そのものは容認できても、ガイドラインの拘束にはやはり異議を唱えざるを得ません。以上の現状から、主治医や提供病院に種々の負担が生じ、それら実際的な問題点は正にrisk managementとして克服すべき対象と言うことになります(勿論、費用というriskもあります)。脳波の問題であったり、薬物の残存による影響の把握であったりということも当然それらに含まれますが、これらは結局のところ日進月歩のmedical professionの立場が尊重されてはじめて解決するものと思われます。

 今回のセミナーから「患者にとって医学的かつ論理的に正しく、かつ現場が困らないような臓器移植法の見直し」の議論がなされれば幸いに存じます。 

大和田隆(北里大学医学部教授・北里大学病院救命救急センター長・北里学園理事)

 

日本救急医学会理事

14回日本外傷学会会長

 

 臓器提供−救急医の立場から

 

1. 北里大学病院救命救急センターの統計

 

       献腎状況

              (年)87 88 89 90 91 92 93 94 95 96 97 98 99

              (例) 2  2 13 12  4  1  1  1  3  0  0  1 1

        移植医療の透明性が問われてから減少傾向

       脳死患者数・脳死臓器提供患者数の予測:1症例未満/年?

 

2. 死体腎提供に関する倫理的問題

      

       臓器保護・終焉の看取りの時間の確保等のためのカテーテル挿入に関して

       大阪地裁と政府答弁書の矛盾

       当病院独自の倫理委員会の見解

 

3. 脳死臓器提供症例について

 

       症例呈示

       臓器提供意思表示カードの記入不備例

       新聞報道について

 

4. 脳死臓器提供について

 

       当院の経緯:脳死判定基準から脳死臓器提供シミュレーション、マニュアル作成まで

       当院の脳死臓器提供対応対策マニュアル

 

5. 何故脳死臓器提供が増えないのか

 

       脳死下での臓器提供の方が心停止下での臓器提供より円滑である

       何故増えないのか:

救急医の意欲減退につながる要因・臓器提供意思表示カードのあり方・ネットワーク

 

6. 救急医として困惑している点

 

       ドナー管理

       臓器提供意思表示カード所持死亡者の死因(1997.10.16〜2000.5.31)

              自殺 51 外傷 21 がん 37 脳血管障害 34 心疾患 16 腎不全 3 不明 26 その他 26

 

7. 移植医療の三権分立


目次

会長挨拶. 1

特別講演. 3

「現行臓器移植法の問題点―法律家の立場から」. 3

現行移植法を見直す二つの方向性.. 3

見直し論議に求められる倫理性.. 4

「遺族主義」と「故人主義」.. 4

現行移植法成立に脳死論議が落とした影−「違法阻却論」.. 5

「旧中山案」から「新中山論」へ.. 5

切り離されるべき「脳死」と「臓器移植」.. 6

移植法改正の行方を決めるものは「人間観」.. 7

第2部 パネルディスカッション. 9

「臓器提供―救急医の立場から」. 9

本邦第2例目の脳死臓器提供を経験して.. 10

本邦第3例目の脳死臓器提供を経験して.. 11

「一点の曇り」.. 14

人生の最終楽章に関わる.. 14

現行の移植法は「非常にいいもの」.. 15

「脳死は作られる」.. 16

ドナーカードの意味.. 16

「臨床的脳死」に関連する混乱の原因.. 18

適切な治療.. 18

カードに○がなかった.. 20

病院としての取り組み.. 20

なぜ脳死臓器提供が増えないのか.. 20

パネルディスカッション... 21

ドナーカード確認のタイミングと「ガイドライン」.. 21

脳死患者を「看取る」.. 23

脳死判定における医師の裁量権.. 24

法的脳死判定とマニュアル.. 25

日常の医療における脳死判定.. 26

尊厳死を望まれた時.. 27

法律家の目から.. 28

医師にとっての「脳死」「人の死」とは.. 29

救命できなければ「敗北」か.. 30

一人一人違うのです.. 31

法律の大前提となっているのは.. 32

脳死をめぐる法律のあり方.. 33

臓器移植の展望.. 33

臓器提供に主治医がどう関わるか.. 34

閉会の辞. 36

巻末資料−町野朔「小児臓器移植に向けての法改正−二つの方向」.. 37

 


渡辺直道(総合司会)

 

 こんにちは。朝起きた時、今日はどうなるかと思いましたが、幸い台風もそれまして、無事開催の運びとなりました。これも皆様の後押しがあったからだと思います。本日はご多忙中にもかかわらず、このようにたくさんの方々に足をお運びいただきまして、誠にありがとうございました。

 ただいまから第8回トリオ・ジャパンセミナー「臓器提供−現状と課題」を開催致します。まず開会に先立ちまして、全世界のドナーとなっていただきました方々に、これまでたくさんの方々に生命の贈り物をしていただいた感謝の気持ちを込めて、30秒間の黙祷をささげたいと思いますのでよろしくお願い致します。黙祷。

 どうもありがとうございました。

 さて皆様、既にご承知の通り、臓器移植法が施行されましてから、この10月で3年間が経過しようとしていますが、臓器提供はまだわずかに7例(200078日現在)を数えるのみにとどまっております。臓器移植医療が日常医療として定着しておりますアメリカでは約6,000例、ヨーロッパ諸国におきましても、数千例の臓器提供が日常的に行われております。そういった数とわが国を比較しましても、比べようもないわけですが、それにしてもいかにも少なすぎると思います。

 一方で、日本で脳死移植が定着していないために、海外での移植を希望する患者が後を絶たない状況があります。日本からの患者を受け入れる海外でも、臓器不足は深刻な社会問題になっております。日本において臓器移植が一向に進まない原因はいろいろあると思いますが、その基本には、日本における脳死移植をできるだけ制限しようとする考え方に基づいたシステムがあるからではないかと思います。

 脳死移植は、本来は愛と善意の医療です。にもかかわらず、日本の脳死移植医療の現状は不信と猜疑心に十重二十重に囲まれて、がんじがらめになっているというのが現状ではないかと思います。

 本日のセミナーは、不信と猜疑心の固まりによって成立した臓器移植法の問題点と、臓器提供の場面で、やはり不信と猜疑心のために、本業の救命救急医療以外の所で大変辛い立場に立たされることのある救命救急医療現場に焦点を絞って進めて参りたいと思います。

 本日のセミナーにご祝辞をいただいておりますので簡単にご紹介申し上げます。参議院議員木俣佳丈様。衆議院議員武山百合子様。衆議院議員川端達夫様。以上の皆様よりご祝辞を頂戴しております。

 申し遅れましたが、私は、本日の総合司会を務めさせていただきますトリオ・ジャパン運営委員の渡辺と申します。本日は大変充実したメンバーを揃えてセミナーを進めていくことになりますので、司会の上手下手はあまり関係ございません。しかしながら、せいぜい今日ご出演の先生方の足を引っ張らないように、精一杯務めて参りたいと思いますのでよろしくお願い致します。

 

 それでは、最初にトリオ・ジャパン会長青木慎治より開会の辞を申し上げます。

 

 

 

 

 

 

 

会長挨拶

 

青木慎治会長

 

 トリオ・ジャパンも8回目のセミナーを迎えることになりました。私は198939日にサンフランシスコで肝臓移植の手術を受けまして、余命2ヶ月と言われておりましたのが見事に甦りまして、それでも3年または5年生存すればいいのかと思っておりましたら、とうとう11年を重ねる次第となりました。

 最初、何故トリオを始めたかと申しますと、トリオというのはトランスプラント・レシピエンツ・インターナショナル・オーガニゼーションという、舌をかみそうな長い会の名前ですが、ピッツバーグ大学のトーマス・スターズル教授がそもそも始められた会で、アメリカでも連綿と続いているわけですが、そこにいらっしゃる北嘉昭さんという、当時若者だった医師が、私に「青木さん、恩返しの意味でトリオ・ジャパンというのを作って、移植医療の啓蒙運動、困っている患者さんをどうやって救うのかということを一生懸命やってみたらどうか」と言ってくれまして、早速「それはいいことだ」と、私も何かやらなければいけないと思って始まりました。

 58歳で移植をしてから11年が経ちました。私は誕生日が818日なものですから、あとわずかで70歳、日本的に言うと古希と言うのだそうですが、古来稀な、というぐらい長生きをさせていただきました。せめてものご恩返しに、皆さんの僕となって下働きをさせていただくということでございます。

私どもの会のスローガンは単純明快に「今日の生命(いのち)を救う」ということに絞って参りました。この10年間にかなりの方の救命をさせていただいたと自負しております。

 その代わり、私のところも副会長が2名亡くなりました。運営委員も1名亡くなりました。くしの歯が欠けるように、残念ながら亡くなっていく同志。たとえば、早稲田大学の仏文の教授をしておりました石井直志くんというのが初代の副会長でしたが、高田馬場に行きますと、今でも石井くんのところへ寄ったら石井くんに会えるのではないかという思いを抱きます。同じレシピエントどうしということもあって、共通の悩みや共通の痛み、そういうものを分かち合える貴重な同志を、不思議なことに移植そのもののアクシデントでなく、彼の場合には脳出血という、「伏兵」といいましょうか、本来の疾病による死ではなくて、ちょっとしたことで失っていく。免疫抑制剤という強い薬を、私の場合も11年間飲んでおりますので、その一種の副作用といいますか、今でも、私も肝機能、腎機能、血圧が高いです。そういうことがあわせて起こってくるのです。

 私はレシピエント仲間に、「自分の生命は自分で守るんだよ。だから自己管理はちゃんとしてくれよ」と必ず血圧のことを訊きます。石井くんも私と随分講演旅行をしたのですが、プレドニンという薬(ステロイド)を飲んでいますとどうも胃液を刺激されるようで、非常に食欲が出るのです。甘いものや脂っこいものを好みます。私と一緒に行っても、彼だけがハンバーグステーキ、ビフテキ、それにケーキというものをばくばく食べますので、「石井くん、少しやめろよ」「青木さん、大丈夫だよ。こんなものが食えるようになって、俺はうれしくてしようがない。カレーライスの上にカツレツを乗せて食うとうまいんだ」としきりに言っておりました。それが直接の原因ではございませんが、ついつい多少の油断もあってか、脳出血をしまして、そしてはかなく私どもよりも先に逝ってしまいました。

 運営委員をしておりました阪野くんという人も、アスキーというコンピューター関係の、IT産業の方の天才的なエンジニアだったそうです。この人も私どもの運営委員の一人を務めてくれておりましたが、ついこの間亡くなりました。私のように片一方で11年も生命を頂戴した者もいるし、中には途上で先に逝ってしまう、悲喜こもごもという感じです。

 とにもかくにも「今日の生命を救う」というスローガンのもとに、われわれトリオは全員が一つになってこれまでも努めてきましたし、今日からまた新たな一歩を踏み出したいと思っています。

 幸い今日は救命救急の第一線でご尽力されている諸先生方にお集まり頂きました。後で司会者から経歴について紹介があると思いますが、特に大塚先生は救命救急センターの泰斗で、第2部はこの大塚先生にご司会をいただきまして、何が日本に移植医療が定着しない所以なのか、その辺をつぶさに掘り起こしていただきたく思っております。

 今日は「アサコ」という、この方はアメリカで留学中にアクシデントがあって急死されて、そして現地でドナーとして臓器を提供された、そのお父様が娘さんを偲ぶために写真集を出されました。この本は受付の所にございます。また、それから、私がおなかをめくっている写真付きの本もございます。決して露悪主義でやったわけではありませんが、普通にしていると肝臓移植をしたということが明らかになりませんので、編集者からおなかを見せろと言われまして、おなかをめくってお見せするというような、多少露悪的なことをやりました。その本も同時に買っていただきたいと思います。後で紹介があると思いますが、あそこにいらっしゃるのが映画のプロデューサーの方で、「アサコ」という映画もあわせて紹介させていただきます。

 ドナーなくして移植医療は成り立たないわけです。3年目を経過した臓器移植法の見直しという時期に入っていくわけですが、我々トリオの運動の目的は、家族の忖度、家族のご意思によって移植が可能だというところへ持っていきたい。今は本人が署名していないと認めないということになっているのですが、これではなかなか臓器提供していただくわけにはまいりません。ご家族のご了承があれば臓器提供できるということを今年のわれわれの課題にしていきたいと思っております。

 最後になりましたが、日本青年会議所の中に「いのちのかけ橋ネットワーク委員会」というご部会がおありになるそうです。今日はここの協賛を得まして、40歳以下のお若い日本中の経営者の方に、やはり臓器提供、移植によって青木というやつが11年も生きている、それも生きて寝ているのではしようがないのですが、私は普通にこうやってぴんぴん生きて、70になって小説を書いておりますというのもおっちょこちょいな話ですが、今、私にできることというと、小説を書くことということで、自己PRをさせていただくと、おかげさまで5冊ほど出版をさせていただきまして、作家の端くれになりつつあると思っております。

 ご挨拶が長いのは良くない、7分半でやめろと言われておりますのに、だいぶオーバーして事務局長からサインが出ておりますので、後は皆さんにバトンタッチを致しまして、私のご挨拶に代えさせていただきます。今日は本当にありがとうございました。

 

 

 

 

 

 

総合司会

 

 本日のセミナーは、青木会長よりお話がありましたように、日本青年会議所のご後援をいただいております。日本青年会議所には、これまでトリオ・ジャパンが行って参りました移植医療の啓蒙啓発活動に対し、様々な形でサポートしていただいております。それでは、日本青年会議所、いのちのかけ橋ネットワークの委員長でいらっしゃいます小嶋吉浩さんより一言ごあいさつをいただきたいと存じます。小嶋さん、よろしくお願い致します。

 

小嶋吉浩氏

 

 こんにちは。ただいまご紹介をいただきました、社団法人日本青年会議所・終の住みか創造グループ・いのちのかけ橋ネットワーク委員会委員長の小嶋と申します。本来上島会頭が伺うべきだったのですが、公務が先に入っておりましたので、私が代わりにご挨拶をさせていただきます。

 日本青年会議所は、今全国で55,000人の20歳から40歳のメンバーで、基本的に明るい豊かな町作りというものを目指して活動しております。その中枢機関として、東京の平河町に日本青年会議所事務局がございまして、そこに44の委員会があります。それは5つのグループに分かれておりまして、その一つが私どもの「終の住みか創造グループ・いのちのかけ橋ネットワーク委員会」と申します。

 「終の住みか」というと暗いイメージもあるのですが、私が今39歳ですから、2030年に老後を迎えたときに、いったいどういった社会であるべきかということを考えているグループです。私が委員長を務めております「いのちのかけ橋ネットワーク委員会」は2つの事業目的がございまして、社会保障制度の研究と提言、それから2番目にいのちの尊さが分かり合えるネットワークの拡大というものをやっております。

 私は今年の1月から委員長を務めておりますが、昨年の8月にこの委員会の委員長をやってくれとご指示がありました。私は土木設計の仕事をしておりまして、極めて健康な体の持ち主だったものですから、当時、脳死下による臓器移植ということについては、新聞などではいろいろと読んではおりましたが、それほど関心もなく、また深読みをするようなものでもありませんでした。

 しかし、この委員会の委員長をやるということであれば相当な知識が必要ですから、これは勉強しなくてはいけないということで、たまたまある日曜日の朝に、「今日は1日寝ていようかな」と思っていた時に新聞を見ましたら、筑波で移植のセミナーが13時から開会するというのが目に付きました。私どもは筑波まで車で40分で行ける所にいるのですが、今日一日寝ていようか行くか、随分迷ったんですが、「悩んだら前へ進め」という私のポリシーがありまして、是非これは行って勉強しなくてはいけないということで筑波へ行きまして、初めて移植のセミナーに参加させていただきました。

 ずっと興味深く聞いていたのですが、本当にこの問題は重大で大変なことだと、私はそこで初めて気が付きました。これは全国の55,000人のメンバーにまず知ってもらわなくてはいけない。青年会議所をやっている人間というのは健康な者が多いですから、関心を持っている者は確かに少ないのです。ある400人ぐらいの会合があった時に、「意思表示カードを持っている人はいますか」という挙手を求めたのですが、その時は400人の中で6分の1ぐらいが持っていたのです。それが多いか少ないかは分かりませんが、何しろこういった問題に関心を持っていただいて、興味を持っていただかなくてはいけないということで、トリオ・ジャパンの荒波さんのほうに何回か足を運びまして、「1月に京都でセミナーをやりたいのですがいかがですか」と言うと、快くお引き受けいただきました。というわけで、まず1月に全国に、知っている方はもちろんいっぱいいらっしゃると思いますが、改めて臓器移植の問題についての発信をさせていただきました。

 また、7月には横浜のパシフィコ横浜で、いろんなNPOの団体がブースを設けているのですが、その中にトリオ・ジャパンのブースも一つ確保致しまして、そこでもいろいろと発信をしたいと思っております。

 私どものように健常者からすると、なかなか興味が向かない部分ではあるのですが、私がいつドナーになるのか、レシピエントになるのか、突然起こってくることですから、普段から考えなくてはいけない問題だと考えております。ですから、これから青年会議所の中でも、普段からそういう問題に目を向けるような啓蒙活動をしていきたいと思っております。

 私どもは骨髄バンクとか臍帯(さいたい)血移植の方もやっているのですが、日本人が古来から持っているはずの助け合いの精神とか支えの精神、そういったものが自然と発揮できるような社会になるようなことを願って、トリオ・ジャパンが地道な活動をされていくしかないと思います。今後ともご活躍されることを願いまして、簡単でありますけれども、ご挨拶とさせていただきます。

どうもありがとうございました。

 

総合司会

 

 小嶋さん、どうもありがとうございました。それでは、プログラムの第1部、特別講演に移ります。本日は、上智大学法学部教授でいらっしゃいます町野朔先生に特別講演をお願いしております。町野先生には、本日のメインテーマの一つである臓器移植法の問題点についてお話しいただくことになっておりますが、今、日本でこのテーマでお話しいただくのに最もふさわしい先生をお招きできたと思っております。

 先生は、これまで厚生省公衆衛生審議会、厚生省臓器移植専門委員会など、臓器移植法に関する多くの会議に、法律家の立場からかかわってこられました。また、臓器移植に関する数多くの著作・論文をお書きになっていらっしゃいます。本日皆様のお手元に配布しております先生の論文を拝見しておりますと、トリオ・ジャパンの臓器移植法に対する主張、たとえば15歳以下の子どもができるようにすればいいといったような小手先の法律改正では駄目で、やはり根本的に脳死は人の死であり、家族の承諾で臓器提供ができるようにするという、そうすべきであるというトリオ・ジャパンの臓器移植法に対する主張が間違っていなかったということを確信することができまして、大変心強く感じております。

 

 それでは町野先生、よろしくお願い致します。

 

 

 

 

 

 

 

特別講演

「現行臓器移植法の問題点―法律家の立場から」

 

町野 朔(上智大学法学部教授)

 

 ご紹介ありがとうございます。過分な紹介をいただきましたけれども、うまくお話しできるかどうか。

 私のテーマというのは「現行臓器移植法の問題点−法律家の立場から」ということです。とかく法律的なことを議論致しますと、なかなかご理解いただくことが難しい。我々は、いつも仲間内で話しておりますから、ジャーゴン(業界用語)を使う、あるいは皆さんがこういうことを前提にされているということで話すことがあります。今日はその点を気を付けながらやろうと思いますが、何せあまり話すのが上手ではないと私は思っておりますので、後で質問の時間を多く取っていただきまして、わからないところは何かご議論いただけたらと思います。

 

現行移植法を見直す二つの方向性

 

 現在の臓器移植法の改正問題というのは、先程ご案内がありました通り、3年後の見直しの時期を控えております。現在の法律にはいろいろと問題があるわけですが、マスコミあるいは多くの人々の議論の中で、一番の中心になっているのは、小児心臓移植の問題です。

 しかしながら、既にご承知だろうと思いますが、現在の臓器移植法の基本的な構造・思想そのものに関わっている問題で、これだけを切り離して議論するということはかなり誤解を招く可能性があります。とにかく、小児心臓移植の問題だけをまず申し上げますと、現在の法律では、脳死者については、生前に書面による臓器提供の承諾及び脳死判定を受容するという意思の表明がなされていなければならない。これは書面によってなされていなければならないということになっております。そのために、書面による意思表示をなし得る意思能力のある者についてしか、臓器提供してもらうことはできないということになります。

 そうすると年齢の点がまず問題になるわけです。これは法律そのものには規定はありませんが、法律の解釈を決めております「ガイドライン」というのがありまして、これは厚生省の行政指導の一種と考えてよろしいわけですが、ガイドラインによりますと15歳ということになっている。それで「15歳」ということが盛んに言われるということです。

 小児につきましては、特に心臓におきましてはサイズが合致しなければいけない。子どもの場合については子どもの心臓がやはり合致する。子どもの心臓に対して大人の心臓を持ってくるということはかなり困難であるし、多くの場合不可能であろうということになります。

 そうすると、15歳以下の子どもから心臓の提供というのはあり得ないとするのが現行法の立場ですから、15歳未満の子どもは心臓移植を受けられない可能性があります。この点が非常に問題にされるわけです。

 この点を打開しようということで、二つの方向が早くから議論されていました。それは、小児についてだけ特則を設けようという考え方が一つあったわけです。そのやり方として、だいたいの多くの人が考えているのは、親権者の承諾によって臓器の提供、心臓の提供等を認めようという考え方です。一般原則はそのままにしておいて、つまり一般的には本人の書面による承諾がなければ臓器の提供はなし得ないとしつつ、ドナーが小児である場合については、親権者等の承諾によってこれを可能としようというものです。

 もう一つの方向は、現行法の建前である本人の書面による承諾、法律用語でオプトイン(opt-in)と申しますが、オプトインという原則をそもそも検討する必要があろう。そして、今、トリオ・ジャパンの立場がそのようなものだということを承りましたが、そのような方向で本人の明示の承諾、書面による承諾がなくても遺族等の承諾で摘出し得るようにしよう。こうすることによって、小児についても臓器移植が可能になり、あるいは現在の一般の人々の臓器移植というものがもっと推進されるだろうということです。

 

見直し論議に求められる倫理性

 

 今、お手元にあります原稿といいますか、論文というほどではございませんで、北川班という研究会の公開シンポジウムでの報告の土台となった原稿(巻末資料参照)に過ぎないわけですが、私はその中ではやはり後者の考え方が望ましいと思います。

 やはり、医療というのは平等でなければいけない。子どもは確かにかわいい。私は自分の子どもがもしこのようなことになったら、何とか心臓移植を受けてもらいたいと思います。しかし、医療はやはり平等でなければいけないのでありまして、子どもの生命は確かに大切ですが、しかし大人の生命も同じように大切です。子どもだけをまず救おうという意図は分かりますが、そちらだけを突出させるということは、やはり救われる生命に差別を設けるということで、基本的には私は良くないことではないかと思います。

 第二に、現行法の一般原則、つまり本人のオプトインを必要とするという考え方、その妥当性を正面から議論することなく、その場しのぎをするということはやはり良くないことではないだろうか。現在の臓器移植法のいろんな問題点、私は倫理的にも混乱を巻き起こしたと思いますが、それはとにかく臓器移植をできるようにしようということで妥協に妥協を重ねて、玉虫色の表現を取り、がんじがらめにした結果、こういうことになった。私は、その時はしようがなかったかと思いますが、もう1回同じことをするというのは、過去の教訓を生かさないことになるのではないかと思います。

 しかしながら、言ってみますと現行法は国会が決めたものです。また、現行法の立場を支持するかなり多くの人がおります。多数決といいますか、最初にこの問題を提起して授業などで手を挙げてもらいますと、現行法の立場を支持するという人のほうがおそらく6割か7割、もしくはそれ以上いるだろうと思います。そういう人たちの承諾といいますか、ご理解をいただかないことには、私は物事とは運ばないだろうと思います。

 また、臓器移植は推進されるべきである、現在は臓器が出ない、子どもの心臓移植はできない、だから法改正すべきだという議論は、やはり限界があるということです。問題は、今のような事態、つまり本人のオプトイン、本人の積極的な承諾がなければ臓器の提供を認めないという態度が正しいかどうかということです。

 脳死の場合に、本人のオプトインを必須の要件とする思想の倫理的な意味というものが本当にどこにあるのだろうか。そういうことを正面から議論しないと、私は駄目だろうと思います。しかし、このことは脳死がおそらく完全な死としては多くの人に認識されていないということと関係致しまして、かなり困難な仕事であると認めざるを得ないだろうと思います。

 しかし、それでもやるべきときはやらなければいけないだろうと思います。いくつかの法律家の中には、どうせそんなことを言ったって世論の支持は得られない、国会はその通り動かないだろう、厚生省も動かないだろう、だからやっても無駄である、だからやるべきではないということを言われる人はおりますが、それも一つの考え方かもしれません。でも、そういっていては何もできないと私は思います。次の国会の改正でそれが可能となるかどうかということは別なことで、私は正しいと信じたことはやらなければいけないと思います。

 

「遺族主義」と「故人主義」

 

 ところで、臓器提供することにつきまして、「本人の積極的な承諾がなければいけない」というのは、「死者の自己決定権」と言われております。死者の自己決定権は保護されるべきである。何も言っていないのに臓器を取られたらたまったものではないという考え方です。

 そして、死者の自己決定権の保護そのものは世界的な主張です。これに反することは、私はすべきではないだろうと思います。日本は、基本的にこのような主張からはるかに離れたところにあった国です。このような考え方、つまり遺族がOKすれば本人の意思と無関係に臓器を提供できるという考え方、これをある法哲学者は揶揄(やゆ)致しまして「遺族主義」と言ったわけです。

 このような遺族主義が日本では強かったというのが一般的なことです。このことが最初のチャレンジにさらされましたのは、角膜及び腎臓移植に関する法律の成立の時でした。その時、世界の方向というのは本人の自己決定を重視すべきであって、遺族のそれだけで決めるべきではないという考え方が、既に世界的な臓器移植法の潮流になっていたわけです。その中で、角腎法を作る時にもこの方向で考えるべきだという何人かの有力な法律家がおいでになりましたし、法律家はすべてこういう考え方だっただろうと思います。

 しかし、角膜及び腎臓移植に関する法律はそのようなものとはなりませんでした。今のような主張というのはまだ早すぎる、日本では家族が中心だ、だからそのようなものとして作るべきだと、いうことになりまして角腎法というのができたわけです。従いまして、その条文を見ますと次のような帰結になっております。

 「本人が臓器提供の意思を表示しているときは、なるべくそれに従うようにしろ。しかし、遺族がそれを拒否したら、そのときは臓器提供はできない」

本人が何も言っていないときは、当然のことながら遺族の同意だけで摘出できる。さらに、本人が嫌だと言っていたとしても、遺族がいいと言えば摘出できる。全て遺族の意思が最終的に決める。もちろん、本人が何か言っていたという意思は尊重されなければいけないということですが、遺族の意思が、本人の意思をオーバーライド(override)することは常に認められていたということです。

 臓器移植法の議論が始まった時から死者の自己決定権の重視、これは同じ法律家の言葉を借りますと「故人主義」、亡くなった人という意味です、これが既に動かし難いものになっていました。すなわち、角腎法の建前というのは基本的に誤っているということです。そして、今のことはマスコミ等ではあまり議論はされませんでした。マスコミ等は脳死論のほうに頭が行っておりまして、脳死だけのことを議論していたと思います。

 しかし、実は法律家や多くの人たちの中では、脳死が人の死かということと並びまして、「遺族主義」か「故人主義」かというのがもう一つ極めて重要な論点であったわけです。この場合故人の意思を重視すべきである、死者の自己決定権を重視すべきであるというのは争いのないことだったわけですが、これは故人の意思に反する、亡くなった人の意思に反する臓器摘出は許さないという限度のものでして、本人が書面によって積極的に承諾していなければ摘出してはならないというものなど、実はだれも考えてはいなかったわけです。つまり、死者の自己決定権を重視することが当然とされていた諸外国の臓器移植法でも同 じものでした。おそらくご存じだろうと思いますが、多くの国では遺族が承諾すれば本人が「ノー」と言っていない以上摘出し得るというのは当然のこととして考えられていました。

 このことは、脳死臨調の最終報告が出た時も同じでした。脳死臨調の最終報告は、脳死論だけが例によって注目されましたが、誰のどのような承諾があれば臓器を提供し得るかについても、実はその中で白熱した議論が交わされておりました。本人の意思の少数意見、つまり脳死を人の死とすることに反対するという少数意見、梅原猛先生などの少数意見があったわけですが、そのような少数意見も、提供する本人の意思の認定が慎重でなければいけないということを説いておりました。しかし、このような少数意見も、死者本人が積極的に承諾しなければ臓器提供をしてはならないということは言っておりませんし、まして書面によるそれも必要とするとは言っていなかったわけです。ここのところでは伝統的な死者の自己決定権の範囲内で議論がまだ動いていて、おそらくこの範囲では健全な議論だったであろうと思います。

 

現行移植法成立に脳死論議が落とした影−「違法阻却論」

 

 このような状況が大きく変わってしまったのは国会で、しかもそれは脳死論議との関係が大きく影を落としておりました。脳死を人の死としない、あるいはそう断定しないで心臓などの臓器の摘出を認めようとする見解、つまり脳死者は生きている可能性はあるけれども、心臓を摘出して、言ってみれば循環を止めてしまって、だれが見ても死と思われる状態を招致しても構わないという考え方というのは、「違法阻却論」と法律家の中では呼ばれております。つまり、今のような行為というのは人を殺している、脳死は人の死ではないという前提に立つと人を殺しているけれども、それは違法ではないという意味で「違法阻却論」と呼ばれるものです。

 このような見解は、おそらく日本固有のものであったと思います。そして、伝統的な法律家の考え方では恐るべき議論であったわけです。つまり、生きている人が死にそうだから、脳死というのは死にそうなのだから、その人の心臓を取って殺してしまってもいい、他の人を助けるためならこれも許されるという議論は、言ってみれば、昔の乙姫様が猿の生き肝を取ってこいとクラゲに命じたというのと、かなり似ているシチュエーションです。何回も申しますが、これが多くの法律家によっても採られた考え方です。脳死臨調の少数意見もこれを採ったということについてかなりの衝撃を覚えました。

 しかし、さらに衝撃を覚えましたのは、これが人道主義だと信じている人がかなりいたということで、私には理解がいかなかった。非常にショックでした。おそらくこれは日本固有の考え方で、外国にはこういうことはないだろうと思っておりましたが、のちにドイツで緑の党が臓器移植法を作る時に、脳死を人の死としない立場でこのような主張をしていることを知って、もう1回びっくりしたわけです。もっとも、のちに述べます通り、緑の党は小児について臓器移植を認めないかといいますと、生きている子どもなのだから、親権者である親の立場でそれに承諾を与えることができるとしていたようです。

 違法阻却論では、基本的には脳死者からの臓器の提供は生きている人からの臓器の提供と同じように扱うということですから、生体肝移植等の生きている人からの臓器の提供と同じように、積極的に本人の承諾が要るというのは当然のことです。従いまして、違法阻却論の立場ですと、脳死者の積極的な承諾がない以上臓器の提供はできないということになるのが筋道です。

 このような考え方を明示的に採りましたのが生命倫理研究会、まだ存続しているか私は知りませんが、そちらが出しました民間の団体の試案がそのようなものでした。そして、法律家の集団であります日本弁護士連合会が対案としてこれに沿ったものをまとめたわけです。

 ところが、脳死臨調の少数意見は、先程のような違法阻却論を採用しつつ、しかし本人の明示の積極的な書面による承諾までは要求しておりませんでした。

 このような主張があったわけですが、これらが法案成立の経緯にどのような影を落としたかということです。

 

「旧中山案」から「新中山論」へ

 

最初に提出されましたいわゆる旧中山案の段階では脳死も心臓死も同じように人の死としながら、本人が何も言っていない、拒絶していないときについては、遺族が承諾によって提供することができるという、世界各国の臓器移植法とほぼ同様のものを規定していました。

 ところが、ある時期に改正の修正提案というのが出されまして、それは本人が積極的にOKしていなければ提供することはできないというようにしようというものでした。これは脳死論議がある程度決着といいますか、暗礁に乗り上げたあとで、そこで出てきた議論というのが、本人が積極的に何も言っていないのに臓器を取られたらたまらないという議論がかなり強くなってきたというので、それへの対応として出てきたようです。

 しかしこのように致しますと、角膜及び腎臓の移植に関する法律で、角膜と腎臓については遺族の意思だけで取れるということになっておりましたから、これが非常に具合が悪い。こちらの方は今までよりかえって厳しくなるということで、これは法文では眼球になりますが、「眼球と腎臓についてはこれを適用しない。しかも、その場合は脳死以外の場合についてはこれを適用しない」

 簡単に言いますと、心臓死の場合に角膜と腎臓を提供する場合については、角腎法と同じような手続きを取るということが一つ認められ、かつ、今のように致しますと、本人の積極的な承諾が必要だということになりますと、臓器の提供がおそらく減ると考えざるを得ない。これでは具合が悪いということにおそらくなるだろうということで、「5年後の見直し」と最初の法案ではなっておりましたが、それを3年に前倒ししたわけです。

 このようにして、修正案は「新中山案」として国会に提出されました。しかし、その過程で再び脳死は人の死かという議論が持ち上がり、そして、最終的には参議院に法案が送付された時に、「脳死を人の死と断定しない」という法文になりました。昔は脳死を「脳死体」と表現しておりましたが、これを「脳死した者の身体」と改めました。「身体」ということですと、もしかしたら死体も生体も入るかもしれない、ということです。法律的に見ますと、「身体」とは通常は生きている人の体のことを言うわけですから。あたかも、移植目的で臓器の提供をするときに限って、脳死を人の死とするかのような、目的による死の概念の相対化を認めた形になりました。

簡単に言いますと、脳死者がそこに横たわっているときに、誤って蹴飛ばして傷つけたら過失傷害になり、一方で臓器を提供するために心臓を取ったら、死んでも死体をいじったことにしかならない。せいぜい死体損壊になるだけで、しかも死体損壊の違法性が阻却されることがあり得るというようなことです。

 さらに、脳死判定の選択も認めました。つまり、本人が脳死は嫌だと言っているときに脳死の判定はしてはいけない。遺族もそのことに同意していなければならないということです。他方、心臓死については今のような縛りは一切かかっていません。もっとも、心臓死の場合については付則の4条で、眼球と腎臓の摘出についてはほぼ従前の例、つまり角腎法とほぼ同じにするということです。

 以上のような法の態度から、心臓死の場合は、提供についても、死亡の判定についても、死者の生前の承諾は不要であると考えて、厚生省の方で組織の移植等について、角腎法と同様に遺族の承諾だけで提供しうるというガイドラインを作ろうとしました。しかし、これに対しては、そのような試みは臓器移植法の基本原則に反するとして反対が強かったのはご存じのことだと思います。

 以上をまとめますと次のようになります。

 日本の臓器提供における死者の自己決定権論は、最初は現行法のようなものではなかった。つまり最初は外国のそれと同じであったものが、以上のような経緯によって、現行法のようになった。そしてこれは、脳死懐疑論と非常に緊密に結び付いた議論だったのです。

 そして、先程申しました、小児の臓器移植の問題は、臓器移植法の基本的な構造と切り離して議論することはできないというのは、一つは以上のことです。つまり、脳死体からの臓器の摘出には、臓器の提供と脳死判定の双方に関する提供者の書面による意思表示が必要であるという要請があり、小児が提供者であるときには、彼にはこの点についての有効な意思表示能力がないので、以上の要請を満たすことはできない、ということです。

 臓器提供に関する、提供者の書面による意思表示のほかに、脳死判定についてもこれを必要としたことは、実際上は大きなものではなかったことは確かです。本人が積極的に承諾していない以上は脳死状態で臓器の提供ができないとする以上、ついでに脳死判定もそのようにしたとしても、それほど相違はないということです。

 

切り離されるべき「脳死」と「臓器移植」

 

 以上のような現行の臓器移植法によりまして、脳死と臓器移植とを切り離そうとしたこれまでの多くの人たちの努力、特に法律家の考え方が明らかに否定されたということになります。つまり、脳死と臓器移植とは、「脳死臓器移植」というように一体となって扱われることになったということです。

 従来の古典的な考え方は普遍性を持っていると思いますから、私はそれを維持すべきであると思います。それは次のようなものです。

 生きている人間から臓器を摘出するときには、その人を傷つけるわけだから、彼の任意で真摯な承諾が要る。しかし、それだけでは十分ではない。臓器の提供によって、提供者に重大な障害を与えるとき、生命に危険が生じるときには許されない。生きている人から移植用の心臓を摘出するなどということは当然許されない。他方、死んでいる人間の肉体は死体であり、死体からの臓器の摘出は結果として死体損壊を生じさせる。それが許されるためには、遺族などの承諾が必要となるが、侵襲の重大性は問題とはならない。眼球も心臓の摘出も許されることがある。

このように、ドナーが生きているか死んでいるかで決定的な差があるのは、そこから移植用臓器の摘出される肉体が生体であるか死体であるかということによっているのです。従って、生きている人の心臓をとってもいいとは言えないことはもちろん、心臓を摘出する関係で死んだことにしよう、などと言うことは到底できないのです。

 従って議論の出発点は、脳死は臓器提供に必要だから脳死を人の死としようという議論はすべきでないというものでした。最初に和田心臓移植が行われた時に、最初、ドナーが脳死になったことを確認したから、心臓の提供を受けたのだ、と発表されました。しかし、後でどうもそれは怪しい、ということになりました。どうもそこでは、心臓移植のために必要だから脳死を人の死としようという議論が時々垣間見えたわけです。

 法律家の多くはそれに反対しました。脳死は人の死ではないというなら、やはり臓器移植は認めるべきでない。脳死が人の死であるといったときに臓器移植を認めるべきであって、臓器移植をすべきであるから脳死を人の死とするという考え方はおかしい。

 以上の基本的な考え方は、別な表現では「社会的合意論」だったと思われます。社会的合意論は、しばしば世論調査と同じであるかのように誤解されますが、実はそういうものではありません。死の概念というのは社会の中に存在しているものでなければならない。法律的な合目的性や、医学的な合理性などから死を認めるべきではない。死の概念というのは、社会の中に倫理的概念として存在し、それを起点とした倫理秩序が成立しているのですから、それに反するようなことは許されないというのが一つの表現でした。

 しかし、ここに至りまして、臓器移植法によりまして、このような考え方は完全に否定されたということになります。

 何回も繰り返しております通り、脳死が人の死でないのなら、脳死臓器移植は絶対に行うべきでない。本人が、「自分は生きているけれども自分の臓器をやっていい、殺してくれ」と言ってもそれに従うべきでないと思います。ましてや両親が、「この子どもは脳死でまだ生きているけれども、殺してどうぞ取ってください」と言ってそれに従うべきだというのは、極めてグロテスクな議論だと思います。

 お医者さんたちから何回も聞いたことですが、「私たちは脳死者が死んでいると思うから、そう信じるから身体にメスを入れることができる。生きているのになぜメスを入れられようか」と言われたことは、私はその通りだと思います。国会の中で心臓病の子どもたちを持っている母親の方が参考人として意見を述べられて、「私たちは人を殺してまで自分たちの子どもを助けてもらいたいとは思いません」と言ったのを、私は誠にその通りだろうと思います。

 「どのようにしたら脳死臓器移植は許されるか」という問題の立て方は、やはりおかしいものです。この考え方は、生と死との限界をあいまいにしたまま、大きな倫理的ジレンマをもたらしたものです。そして、今言いました通り、臓器移植と結びつけて脳死を議論したということです。生きている人を殺しても、臓器を摘出しても合法。これは正当防衛でも緊急避難でも何でもない。脳死者が生きている、この人は別に悪いことをしたわけではない、人に対して襲いかかったわけでもない、死刑の判決を受けるべき人間でもない。それを殺していいという議論は、私には到底出てこない。

 これが許されるという考え方は、一つには当事者のほうがみんないいと言っているではないか。本人もいいと言っている。そして家族もいいと言っている。医者もやっていいと言っている。全員がいいと言っているなら許していいのではないだろうかという考え方がある。これはある意味では日本的な美徳かもしれません。しかし、見方によっては生と死の問題にかかわることにこのような談合体質を持ち込むということは極めて良くないと思います。

 

移植法改正の行方を決めるものは「人間観」

 

 このような考え方を世界に発信すべきだと考えている人がかなりいるようです。中には論理一貫させまして、渡航移植にも反対すべきだという人がかなりおります。この人たちの考え方は確かに一貫しております。このような人たちというのは、子どもが何も言っていないときに親の承諾だけで臓器を提供するというのは、子どもの権利条約の趣旨に反すると言います。では、渡航移植をして助かろうとする子どもたちを阻止することが、なぜ子どもの権利条約に反しないのか、私には理解できません。このような行き方というのは、つい最近の「神の国」という発言、及び昔の「ジャパン・アズ・ナンバー・ワン」という考え方が再び復活してきたようなもので、私としてはあまり好きになれない、危険な兆候ではないかと思います。

 基本的な問題は、今の場合では死者の自己決定権ということであります。先程申しました通り、諸外国におきましては、本人が何も言っていないときは遺族の意思によってこれを摘出しても死者の自己決定権を反するものではないと考えている。しかし、日本の場合は本人が「イエス」と言わない以上は、臓器の提供を認めることは権利の侵害だと考えている。この大きな相違があるわけです。

 もしかしたら日本の文化を発信しようとしている人は、外国においては死者の自己決定権が日常茶飯事的に臓器移植法によって無視されているとまで考えていらっしゃる可能性があります。しかし、それは諸外国に対して失礼な考え方だと思いますし、決してそのようなものではないだろうと思います。

 諸外国におきましても、今のように、もし日本のように臓器の提供を本人の承諾がなければできないとすると、臓器が少なくなるということが盛んに言われます。たとえば韓国におきましても臓器移植法が成立しましたが、その時は日本法のようにすると臓器移植ができなくなる、臓器提供がなくなるということも一つの理由であったように思います。だから日本法を採用せず、その前に成立したドイツ法に習おうという考え方が、韓国では採られたようです。

 その奥にあるのは、本人が何も言っていないときについては、おそらく本人は提供するということに異議がないはずであるというような考え方があるというわけです。言ってみますと、「イエス」と言わなければ、日本法のように生前に臓器を提供しますと積極的に言っていなければ、臓器は提供しないというのが人間だとは考えないということだろうと思います。本人が「ノー」と言っていない以上は、おそらく臓器を提供するというつもりだろう、それが人間だと考えるという前提に立っているわけです。

 これは基本的には人間観の問題です。従って、日本で臓器移植法を改正するときにどのような人間観に立つかということが問題だろうと思います。そのような人間観、つまり本人が「イエス」とも「ノー」とも言っていないときについては、おそらく「イエス」と見ても差し支えないだろう、そしてそれが人間なんだという考え方に立つということが許されるならば、臓器移植法はそのように改正されるべきであり、遺族の承諾ということだけで臓器提供できるということにすべきだろうと思います。

 今のように申しますと、一定の人間観を多くの人々に押し付けていることではないだろうか。確かにその通りです。やはり、ある意味では価値を強行しなくてはいけないということはあります。

 どういうことかといいますと、たとえば日本国憲法ができました時に、多くの人は大日本帝国憲法のほうを支持していただろうと思います。だからといって、日本国憲法を作ったのが悪かったとはだれも今思わないわけです。あるいは時期尚早だとは言わないわけです。

 おそらくどちらかの決断に従わざるを得ないだろう。多くの人たちが、やはり臓器提供についてはあるべき人間像というのは現行法のような考え方だ、臓器を積極的に提供するという意思を持たない以上は臓器提供を認めるべきではない、本人は「ノー」という趣旨なのだと見るべきだというなら、やはりそれに従うべきだろう。

 しかしそうではない。「博愛」という言葉を出しますと非常に薄っぺらく聞こえますので問題ですが、諸外国のように、人間というのは、やはりある意味で自分の身体というのは誰からかもらったものである、自分自身のものではないとみんな思っているのが普通だろう。そして、死後には誰かに役に立ってもらいたいと思うのが普通ではないだろうかという意識を持つかどうかということです。

 一部の人たちには、今のように本人の自己決定権を重視しながら、年齢を下げることによって対処しようという考え方があります。一部の法律家はこれを12歳まで下げたらどうだろうかと言い、一部の評論家は6歳まででも可能であるという言い方を致します。ここには「自己決定」という言葉そのもの、つまり子どもの自己決定ということは残っておりますが、その内容は極めて軽いものになっているということは否定せざるを得ないわけです。

 すなわち、小児が、子どもが、生と死についてある程度のことは理解できます。しかし、果たしてそれが十分に理解した上でのものだろうかということは問題です。ここには、ただ本人が「イエス」と言って紙に書けばそれで満足していいという一種の形式主義というものがあるように見えます。さらに言いますと、これは地方公務員的形式主義と言わざるを得ない。はんこと紙さえそろっていれば、あとは責任を免れるという考え方しかない。

 私は、むしろ人間の本性に依存すべきだと思います。紙一枚の意思表明、もちろんそれがあることによりまして、書いてくれるということは正しいことです。しかし、今のように形式的にそれにこだわるということは、人間の本性ではなくて、むしろ形式的な、ただ一言の意思の表示、それだけを頼りとして何かをしようということです。どちらが危ういかといったら、後者のドナーカード一枚だけを頼りにするという態度のほうこそ危ういものであろうと私は思います。

 以上のようなことで、臓器移植法の改正につきましては今回はうまくいくかということは全然分かりませんが、私は基本的な議論をすべきだろうと思います。時間を超過したようで失礼致しました。

総合司会

 

 ありがとうございました。それでは質疑応答に移りたいと思いますが、どなたか先生にご質問なり、あるいはご意見のある方がいらっしゃいましたら、どうぞ遠慮なく挙手をお願い致します。

 本日参議院議員の渡辺孝男さん、衆議院議員の土屋品子さんにご出席いただいておりますが、現在の臓器移植法は確か議員立法だったと記憶しておりますが、何か今の町野先生に関連して、ご意見等おありでしたら是非ともよろしくお願い致します。

 

土屋品子(衆議院議員)

 

 衆議院議員の土屋品子でございます。今日はトリオ・ジャパンと青年会議所の皆様にこのような企画をしていただきまして、本当にありがとうございました。

 私は、実は臓器移植法の提案議員の一人で、中山案で連日連夜ホテルに詰めて一生懸命作った本人です。まだその時は私は1年生で、法制委員会に入って1年目で、何が何だかわからない中、しかも当選した直後でした。臓器移植法の提案をするということで人数が足りないと言われて、「是非参加してほしい」。その時点で、私は臓器移植ということに関しては全く無知でございまして、3日間、参加するかどうか決断をするためにいろいろな本を読みあさりました。参加をするには精神的に非常に厳しい状況でした。最終的にはやはり人の命を助けたいということと、私は埼玉県出身ですが、過去に友人の子どもがドイツへ心臓移植に行くに当たっては基金を集めた一人でもございまして、そういう経験を踏まえて、やはりこれはやらなければならないということで参加させていただきました。

 そして、その時にどんどん国会の中で中身が変わっていくのを非常につらく思いながら、まずは何とか法律を作ろうということでこういうことになってしまいました。今日先生のお話を聞いていて、本当に先生のおっしゃる通りです。一番大事なことは、脳死が人の死であるということをいかに国民全体に認知していただくかということです。私たちはこれから地道に活動していくことが重要だろうと考えております。

 後は、子どもの臓器移植が、先生がおっしゃっているように、自分の意思というかたちではなくとも、遺族の意思によってでも、法的に認められる法律を早く作るのが私たちの役目だろうと考えておりますので、これからも頑張って参りますのでよろしくお願いしたいと思います。

 

総合司会

 

突然のご指名で失礼致しました。

どうぞ。

 

冨田伸(旭中央病院副院長・千葉県移植コーディネーター)

 

 私は旭中央病院で脳外科をやっておりまして、かつ、緩和ケア関係、ホスピス関係、そういうことにも一応携わっている者です。千葉県の移植コーディネーターもやっております冨田と申します。

 私は法的な関係でわからないことでご指示いただければと思いまして、先日、藤田保健衛生大学の神野教授がいらっしゃいましたので疑問点を質問したのですが、法律の第2条第1項に「死亡した者が生存中に有していた自己の臓器の移植術に使用されるための提供に関する意思は尊重されなければならない」という法律があります。それと、何らかのガイドラインがありまして、鼓膜1枚の損傷とどちらが法的に価値があるものなのか、その辺のところを教えていただければと思いましてお願い申し上げます。

 と言いますのは、ときには聴神経腫瘍の方が亡くなるかもしれませんし、あるいは子どもの頃に眼球の病気を患う場合もあるかもしれませんし、いろんなことがあるかと思いますけれど、法律の第2条第1項の「尊重されねばならない」という言葉と鼓膜1枚、角膜1枚のちょっとした損傷、どちらが大事なものか、法律学的に教えていただければありがたいと思います。

 

町野

 

 質問のご趣旨は、おそらくご本人は臓器の提供をしたいということを言っていたにもかかわらず、鼓膜の損傷があるために脳死判定ができないということでそれが不可能になったというようなことを取り上げておっしゃっているのだろうと思いますが、そのようなことですか。

 基本的に言いますと、それは私以外のお医者さんにお教えいただきたいところですが、鼓膜が損傷しているために脳死判定ができないという事態であるならば、私は絶対やるべきではなかったと思います。しかし、多くの人に聞きますとそうではなかったというようなことも聞いておりますので、それは疑問です。

だから、ご本人が脳死下での臓器提供の意思を持っている。そうだと致しましても、生きている可能性があるときについては、私は殺していいとは言えないだろう。簡単に言いますと、脳死判定はきちんとしなくてはいけないということです。やはり死んでいるということが前提ですから、そのことが判定できないときについては、ご本人がいくら提供したいと言っても私はすべきではないだろうと思います。

 先程の場合ですと、どちらが優先するかということですが、私は基本的には生きているか死んでいるかということが優先されるべきだろうと思います。そして、死んでいるという判断がきちんとできるのならば、その次にご本人の意思に従うということだろうと思います。

 死んでいるということの判断ができない、脳死であることの判断ができないという前提で、おそらく厚生省のほうがそのように指導されたのだろうと思いますから、もしその前提が正しいのならそれは正しかっただろうと思います。もしそれがそうではない、医学的にこれは無知であるということであるならば、やはりそれは問題があったということにならざるを得ないと思いますが、今の点の医学的な正当性については、私はなかなか判断ができない、いろんな人からいろんなことを聞きまして、どちらももっともなように聞こえることがありますので、どなたかにお訊きいただきたいと思います。

 

渡辺孝夫(参議院議員)

 

 参議院議員の渡辺と申します。私も修正案のほうで賛成をさせていただいた者です。脳神経外科の専門医でもございますので、脳死臓器移植に関しましては参議院の方でいろいろ議論をさせていただきました。本来であれば、脳死というものが医学的にきちんと判定されてしかるべきと思っておりましたが、やはり医療不信というものが国民の中にございまして、本当に脳死というものがきちんと判定されるのか、あるいは脳死というのが本当に存在するのかというのが、当時は非常に問題になっておりました。

 しかし、これがわからないからということで日本において臓器移植を進めないというのも非常に問題であると思いましたので、ワンステップとして、次善の策として本人の承諾、それから家族の承認といういろいろな条件を付けまして一歩進ませていただいたということです。

 今後見直しということがございます。これから国民的合意というのがどうしても必要なので、それには一気にというわけにはいかない面もございます。医療関係者も脳死臓器移植に関して国民の方々によく理解していただいて、より一歩進めるという立場で私のほうは考えております。

 今のところ、トリオ・ジャパンでは家族の承諾でさまざまな移植ができるようにというご希望のお話がありましたが、私個人は医師としまして、やはり本人の意思というものをまだ大事にしていきたいという思いもございます。そういう意味でなかなか複雑な思いですが、今日は臓器移植に携わった多くの方々が来ておりますので、その現場の声を是非ともお聞かせいただきながら、また、トリオ・ジャパンの取り組みについてもよく理解をして、今後の判断に資するようにと参加させていただきました。

 

総合司会

 

 ありがとうございました。それでは、そろそろ時間も押して参りましたので、町野先生の講演をこれで終わりにさせていただきたいと思います。町野先生、どうもありがとうございました。

 

 それでは、これをもちまして第1部を終了させていただきます。10分間の休憩を挟みまして、1420分から第2部を開催したいと思いますので、それまでにご着席くださるようお願い致します。

 

 

 

 

 

 

第2部 パネルディスカッション

「臓器提供―救急医の立場から」

 

総合司会

 

 それでは、第2部パネルディスカッション「臓器提供−救急医の立場から」をはじめたいと思います。本日は、パネリストとして、わが国の救命救急医療の柱を担う役割を果たされていらっしゃいます先生方に集まっていただきました。

 何故、臓器提供が進展していかないのか、その問題点をえぐり出していただけるのではないかと期待しております。パネルディスカッションの司会は、日本医科大学の理事長で、日本救急医療財団の理事長でもいらっしゃいます大塚敏文先生にお願いしております。

 大塚先生は、旧中山案と呼ばれた臓器移植法案の作成段階から救命救急医のお立場から関わってこられ、臓器移植法の施行過程では、日本救急医学会の会長として、日本における脳死移植がその第一歩を踏み出すために力を注いでこられた方でございます。また、現在、町野先生とご一緒に厚生省臓器移植専門委員会の委員を務めていらっしゃいます。それでは、大塚先生、よろしくお願い致します。

 

司会(大塚敏文・日本医科大学理事長)

 

 ただいまご紹介を賜りました日本医科大学の大塚でございます。今日はトリオ・ジャパンのセミナーにお招きをいただきましてありがとうございました。「臓器提供−救急医の立場から」というテーマで、ただいまからパネルを開催したいと思います。

 先程来お話がございますように、臓器移植法が制定されましてから3年が経過致しました。今日も福岡のほうで提供があるやに伺っておりますけれども、これまで7例の方々の提供をいただいたわけでございます。

 それ以前、今から10年ぐらい前のことを考えてみますと、当時私が日本救急医学会の理事長をやっておりまして、「臓器移植に提供側として参画すべきではないか」ということを実は盛んに学会なんかでも主張をして参ってきていたのですが、残念なことに、その当時は救急施設といういわゆる提供側の施設の8割ぐらいまでは、臓器移植に関わりあいになりたくないというのが本心であったわけでございます。

 臓器移植というものは、正に臓器提供がなければ成立しない医療でございます。従って、提供施設からの臓器の提供がみられなければ前進致しません。そういう意味で、臓器提供側の先生方の考え方をいろいろと改革しようとして努力をして参ったのでございます。

 幸いなことに、最近ではかなりの提供施設の先生方が臓器移植に対して前向きに考えてくださるようになってきた。それは大変喜ばしいことであると思っておりますけれども、まだまだ提供側の施設から見てみますと、いろんな所で問題点が提起されているわけでございます。

 今日は6人の先生方に、その辺のことも含めまして、今臓器提供施設として何を考えているか、何を思っているか、あるいは実際に提供する場合に何が障害になっているのかというようなお話をしていただきます。6人の先生方にまず一通りお話を聞いたあと、10分ほど休憩をいただきまして、そのあと残る時間、フロアの皆様方と共にディスカッションに臨んで参りたいと考えております。どうぞご協力をお願いしたいと思います。

 

 それでは早速始めて参りたいと思います。まず最初は慶應義塾大学脳神経外科の菅貞郎先生でございます。先生は今申しましたように慶応義塾大学の脳神経外科でございます。そして、第2例目の臓器提供をされた先生でございます。先生は、当然のことながら脳神経外科学会の評議員、あるいは脳卒中学会の評議員を務めておられまして、ある意味ではこの脳神経外科に関する権威者のお一人でございます。それでは、先生、どうぞひとつよろしくお願い致します。

 

菅貞郎(慶應義塾大学脳神経外科)

 

 大塚先生、過分なご紹介をありがとうございました。それから、この発表の機会を与えていただきましたトリオ・ジャパンの皆様に感謝致します。

 今回、私に与えられましたテーマは「臓器提供−救急医の立場から」ということで、昨年の5月に慶應大学病院でも本邦第2例目の脳死体臓器移植を提供側として経験致しましたので、その現状と感想といったものを直接携わった者として発表させていただきたいと思います。スライドをお願い致します。

 このセミナーに当たりまして、トリオ・ジャパンの方から、この4つの点についてお話ししてくださいということでしたので、順番にお話ししていきたいと思います。まずは1番目の心停止下での腎臓・角膜提供の慶應病院の状況ということです。

 これを簡単にお話ししますと、私、大学に戻りまして丸3年になりますが、この間、腎臓移植につきまして、脳神経外科で対応したのは1例だけでございます。これは、やはりご家族、ご本人が生前より希望を持っていらっしゃったということで、そういう状況がわかっていたという方1例だけで、こちらから心停止下での腎臓の移植をお願いするという状況にはなっていないというのが慶應病院の現状であります。

 

本邦第2例目の脳死臓器提供を経験して

 

 今回の議論の中心になります脳死下におけるお話をしたいと思います。脳死下における臓器移植の慶應大学病院での準備内容ということでございますが、大学病院という性格上、非常に早くからその体制というのは検討されておりまして、平成9年の7月に判定検討委員会というものを設置致しまして、判定にかかわる検討を開始しております。10月には、院内規約とマニュアルの作成、それから脳死判定医や検査技師などの当直予定表を作成し、ドナー候補者が発生したときの対応などの態勢を調え、また説明会を適宜実施しておりました。ただ、昨今行われているような、シミュレーションのようなことは経験しておりませんでした。

 ちょっと小さい字で汚いのでわかりにくいと思いますけれども、一応慶應病院ではこういう規約を作っていました。実際の患者さんがいらっしゃって一番感じたことは、最近では臓器移植のマニュアルがきちんとしたのが作成されて、脳死判定に至る手順そのものはわかりやすくなってきていますが、やはり病院ごとの体制によって、実際院内でどういう流れでいくかというのは非常に異なります。

 これは慶應病院の中のネットワークでありますが、初め主治医が情報を確認したら、すぐ病院長に連絡する。病院長から各関連科に連絡が行く。それから、外傷の場合は、四谷警察の担当者の方も決めている。こういうネットワークやフローチャートを院内で作っていました。一応こういうのが、スムーズにいく一つの要因ではなかったかと思います。

 それでは、実際にどういう症例であったかというのを簡単にご説明したいと思います。既に報道等でも発表されていることなので問題ないと思います。30歳代の男性で、平成1157日に昼食後に倒れられて、救急車で来院しております。来院時の意識レベルはJCS200、深昏睡の一歩手前という状態で、既に瞳孔は散大して、対光反射が消失していたということであります。

 すぐCTを撮りまして巨大な脳出血を認めました。CT終了後より既に深昏睡状態となって呼吸状態が悪化していたということで、救急外来にて血腫を吸って、その後手術室にて大開頭と言って、頭を大きく開けて骨を外す処置をしております。しかしながら、手術の後も意識レベルは改善せず、瞳孔散大して、対光反射もなかった。ただ、咳反射はまだ残存していたということであります。

 手術のあとご家族の方に経過を説明したところ、ご家族の方から、意思表示カードを本人が持っているというお話がございました。手術の次の日、それまであった咳反射も消失しました。基本的には、脳圧降下剤等の脳圧を改善する治療を続行しております。

 結果的に、11日の朝に臨床的脳死と診断し、ご家族との相談の上、日本臓器移植ネットワークに連絡してコーディネーターとご家族に話し合いをしていただいて、脳死判定及び臓器摘出の承諾書を受け取りました。第1回目の法的脳死判定、第2回目の脳死判定ということで死亡を確認致しまして、臓器摘出という経過になっております。最終的には、62日に厚生省の専門委員会で検証を受けて了承されております。

 実際、私が経験して思ったことをいくつかお話ししたいと思います。私の経験から1年経ってだいぶ報道関係の発表もトーンダウンしているように感じられますけれども、当時は、いかに報道関係者から患者家族を守るかというのが主治医の一番の苦労の点でした。どこから情報がリークするのかわからないのですけれども、こちらの予想しないことまでが早々と新聞に発表されるのが一番びっくりしました。

 病院側で記者会見をする必要性というのは私はあまり感じないのですけれども、一応厚生省の方針としてそういう場を設けるということですから、記者会見を行ったわけです。記者会見で質疑応答がありますと、私の場合も記者会見の前に、「こういうことをお話しします」というのを紙に書いてご家族の方にお見せして承諾していただきました。最終的には「先生がいいと思うことは答えてくださって結構です」という了解をご家族からもらって記者会見したわけです。けれでも、どこまでしゃべっていいかということが自分自身わからないという問題がありました。

 医学的な問題としては、最近はマニュアルが完成されていますのでだいぶわかりやすくなってきましたが、当時はガイドラインとか、いろんな法律の文献を集めてやるという状況でありまして、実際やってみて非常にわかりにくい部分が多かった。特に法律用語がわかりにくいという印象がありました。

 ただ、ここで私が感じたことは、我々ドクターサイドの裁量権というのは、これは臓器移植法という法律でございますから制限されております。言い換えれば、法律に則ってやっていけばいいということで、困った問題があったら厚生省にすぐ訊いてみる。厚生省に下駄を預けてしまうというのが、一面我々ドクターサイドが無用なトラブルに巻き込まれない一つの方法ではないかと感じました。

 一番現場として問題になるのは、日常業務への影響ということだと思います。我々のところは大学病院ですから、この患者さんが入院されてから、私は新しい急患を取りませんでした。実際の管理に私を含めて4人が専属、それから、脳波の判定、マスコミ対策、教授を含めると6人がほぼこれにかかりきりという状況でありました。ドクターサイドだけではなく、よく言われるようにパラメディカルも含めて、非常にマンパワーの拘束が大きいというのが問題だと思います。

 先程も言いましたけれども、最近ではこの2つのマニュアルが完成して、脳死判定の手順に関してはかなりわかりやすくなってきていると思います。ただ、このマニュアルをもってしても、いろんな問題があります。最近問題になったように薬の問題とか、脳波の問題、こういう問題がいっぱいあります。こういう問題というのは、よく考えればサイエンティフィックに解決していける問題だと私は考えていますので、あまり心配していません。

 最後に感想ということです。ご覧になった方もいらっしゃるかと思いますが、プレジデントという雑誌の今年の5月号に「脳死ドナーとなった息子へ」ということで、我々の施設で臓器提供された方のお父様が手記を書かれております。これを一読していただければわかると思いますけれども、僕自身の印象としても、今の日本においてはご本人並びにご家族の強い希望というものがなければ、主治医サイド、要するに臓器提供側としてはなかなかこの医療を進めていきにくいという現状がございます。

 このご家族も、倒れる前の5月の連休直前にご両親とご夫妻で家族旅行をして、この息子さんが臓器提供をしたいんだということをたまたま倒れる数日前にお話ししていたということがなければ、この話もスムーズにいったかどうかわからないという印象を持っております。

 最後ですけれども、これは私個人の基本的なスタンスです。1221日は私の誕生日なんですけれども、私自身はドナーカードを持っております。脳死というのは医学的に言って死であるというふうに考えていますし、救命治療が最善を尽くされて脳死と正確に判定されれば、臓器提供するということは素晴らしいことだと私は考えております。ただ、これはあくまでも私個人の考えでありまして、それを他の人に強要するというものでは全くありません。

 以上、簡単ではありますが、私の経験と感想について発表させていただきました。

 

大塚

 

 ありがとうございました。ご質問などあろうかと思いますけれど、先程申しましたように、この後全ての方に集まっていただいてディスカッションをしたいと思いますので、そのときにご質問をいただきたいと思います。

 

 次は第2席ですが、大庭正敏先生にお願いしてあります。大庭先生は、古川市立病院の救命救急センター長でいらっしゃいまして、同時に脳神経外科の科長もなさっておられます。大庭先生は第3例目の臓器提供をなされた方でございます。先生、どうぞよろしくお願い致します。

 

大庭正敏(古川市立病院救命救急センター)

 

 大塚先生、ありがとうございました。古川市立病院の大庭でございます。このような発表の機会を与えていただいて大変光栄に存じます。

 早速始めさせていただきます。当院での脳死からの臓器提供についてお話しさせていただきます。これから先のお話は、厚生省の公衆衛生審議会での発表原稿を基にしています。患者さん、ご家族などの敬称は省略させていただきます。スライドをお願いします。

 当院は、宮城県仙台市より北に約40キロの田園地帯に位置する、病床数379床の中規模自治体病院であります。平成6年に併設型の三次救命救急センターが開設されました。ICU10床、HCU17床を有し、救命救急センターとしての医療人口は約40万人をカバーしております。平成10617日、臓器提供病院に指定されたため、同年71日、倫理委員会及び脳死判定委員会を設置、109日倫理委員会において、「臓器提供に協力する」との院内における合意を確認致しました。

 私は、救命救急センター長、脳神経外科科長、及び脳死判定委員会委員長を兼務しております。脳外科では、脳死患者は年間約30例発生致します。しかし、脳死患者に対して病院側からはドナーカードの有無は確認しておらず、今回までに臓器提供を申し出た家族はありませんでした。臓器提供施設としての名乗りを上げたものの、脳外科医としての本音は、脳死の宣告、すなわち自分の患者は救えないという敗北宣言から始めねばならない移植医療は、自分たちには全くメリットのない、責任と負担ばかりが大きい仕事であり、できることなら関わりたくないという消極的な姿勢でありました。

 しかし、反面では、脳死になった提供者と家族のlife giftの善意は報われるべきであり、もし患者と家族からの臓器提供の意思表示があった場合には、こちらの都合でできないと断るわけにはいかないだろう。そのときが来たら、我々の責務として、全力を挙げて行うしかあるまいと覚悟はしておりました。

 

本邦第3例目の脳死臓器提供を経験して

 

 平成11614日、臓器移植法施行後第3例目の「脳死からの臓器提供」が当院で行われました。これからその概略について報告致します。患者は20歳代の男性、平成1169日夜930分頃、事故により受傷、救急車にて当救命救急センターに搬入されました。

 初診時の意識レベル200、両側瞳孔散大、対光反射消失の状態でありました。頭部CT上は、()(まん)性の脳腫脹、少量の急性硬膜下血腫を認めましたが、その時点で外減圧などの手術適応はなく、血圧は低めで脱水状態及び他臓器損傷の可能性もあり、ICUに収容して人工呼吸器を装着し、保存的に治療を行いました。

 受傷翌日610日の朝9時頃、CT施行直後に意識レベル300、自発呼吸停止、急激な血圧低下が起こりました。脳圧降下剤を投与し、一方で昇圧剤を用いて循環状態の維持管理を行いましたが、受傷3日目の611日朝、3回目のCTを施行、脳全体に及ぶ瀰漫性の低吸収域を確認し、回復不能の器質的脳障害と判断致しました。無呼吸テストを除く一連の脳死判定を行い、臨床的脳死状態と家族に報告致しました。

 臨床的脳死状態と告げた際に、家族から、患者本人及び父親の署名のある意思表示カードの提示を受けました。そして、患者及び家族に臓器提供の意思があり、臓器提供に関しての説明を受けることを希望されたため、臓器移植ネットワークのコーディネーターに連絡を取りました。

 また、今回は事故による受傷であり、所轄警察署署長に「法的脳死判定を行う可能性のある患者が入院中」との連絡を致しました。家族への説明、病院の各部門の対応については後程述べます。

 613日午前9時、脳死判定・臓器提供に同意するとの承諾を得て、脳死判定承諾書、臓器提供摘出承諾書を受領致しました。同13日の午前11時より第1回法的脳死判定、午後7時より第2回法的脳死判定を行い、家族に2回目の判定終了時刻が患者の死亡時刻となることを告げました。

 事故のため、所轄警察署・県警より数名の検視官、加えて東北大学より法医学の教授が同行し、検視が行われましたが、司法解剖は不要と判断されました。コーディネーターにより摘出チームの要請、派遣が行われ、臓器摘出は翌日614日の午後から、各移植施設の医師によって心臓、肝臓、腎臓の順に行われ、約2時間で終了致しました。遺族の希望によりご遺体は一晩霊安室に安置し、翌615日朝、病院長、総婦長、主治医、看護婦、及びコーディネーター一同でお見送り致しました。

 患者のドナーカードは、事故の現場で救急隊と警察によって発見され、これを基に警察が身元を確認致しました。そして、救急隊員がそのまま患者と一緒にカードを病院に運び、救急外来看護婦に引き継ぎました。看護婦はそれを医師に渡し、医師はそれを確認したのみで、患者の所持品として、衣類等と一緒にひとまとめにビニール袋に入れ、入院翌日朝に主治医の指示で家族に返されました。

 移植コーディネーターによる第1回目の説明は、本部のチーフコーディネーターの到着を待って、611日午後930分過ぎから行われました。説明にはICUの婦長が同席致しました。これはコーディネーター側からの要請でもありました。あくまでも説明に徹し、説得などは一切なさらなかったことを確認致しました。

 第1回目の説明の際、家族は受傷前から本人の臓器提供の意思を承知しており、家族の中でも話し合い、よく理解していたことがわかりましたが、当然のことながら、家族全員の同意のためには時間が必要で、脳死判定・臓器摘出の承諾までに36時間を要しました。この間、家族が患者の面会に来院した際に、主治医の側からはその都度、患者の状態及び脳死についての説明を行いました。しかし、臓器提供に関しては、「十分に考えてください。決して急いで決断していだたく必要はない。受容ができなければ無理をして提供していただく必要もない。また、いったん承諾しても、いつ撤回していただいても構わない」と再三説明致しました。この説明は摘出直前まで行い、家族に確認致しました。

 受傷3日目、回復不能の器質的脳損傷を確認し、臓器提供の可能性が現実味を帯びてきた時点で、脳死判定を行うに際し、母体組織である東北大学脳神経外科に相談致しました。大学からのアドバイスは、「臨床脳死以後はもはや救命救急医療の段階ではない。従って、決して移植のために性急に事を運ぼうとしてはならない。十分に時間をかけて家族の受容を待つべきである。さらに、家族が何らかの決断を下すまで患者の生命維持に全力を尽くすべし」というものでありました。

 また、これまでの事例から、脳波の記録が最も重要であり、この点は日本脳神経外科学会 脳死・臓器移植検討委員会が既に応援態勢を確立しており、早速脳神経外科学会の脳波検査専門委員を派遣してもらえることになりました。臨床的脳死判定は、主治医と専門委員の2名で行いました。

 法的脳死判定は、専門委員の立ち合いのもとに、臓器の移植に関する法律施行規則(厚生省令第78号)に基づいて、主治医を除く2名の脳死判定医が行いました。

 重点は、脳波と聴性脳幹反応に置き、後日の厚生省での検討委員会では、脳波はノイズが少なく、非常に見やすく記録されていると評価されました。無呼吸テストの際、検査前の血中の二酸化炭素分圧がやや低いという指摘を受け厚生省に伺いを立てるという事態も生じましたが、その他には特に問題点は指摘されませんでした。

 ところが、脳幹反応検査の一つである前庭反射については、外傷による頭蓋底骨折の存在から注水試験は感染の危険性があり適当でないと考え、耳鼻科医と相談しエアーカロリックテストを採用致しました。これは、後日、刺激温度が十分低くなかった可能性があるとの指摘を受け、この検査はその後、脳死判定における問題点として注目されました。

 主治医は、同時点で入院中の他の重症患者の治療も並行して行わねばならず、家族の決断を待つ間の患者の全身状態の維持管理が重要な問題となりましたが、集中治療医のみならず、循環器、内分泌、代謝及び人工透析のそれぞれの専門家からなる内科医のチームが自発的に参加し、電解質、血糖、尿量などの補正を行ったため、一時危篤状態に陥った患者の全身状態は改善し、良好に保たれました。また、法的脳死判定以後もドナー管理に携わってくれたため、脳外科医の負担は軽減されました。

 摘出当日は、移植チームのミーティングが行われました。コーディネーターの司会で、当院より手術室長、集中治療室長、総婦長、ICU婦長、手術場婦長が参加、移植チームの紹介と術式が話し合われました。さらに摘出臓器の搬送時の詳細な注意があり、ドナーの意思の尊重と礼意の遵守が確認されました。私はセンター長、主治医でもありましたが、移植医とは接触致しませんでした。

 ドナーが摘出手術に入室した時点で、麻酔担当は移植チームに移りました。手術台への移動、ポンプ類の設定、その他のセッティングは、看護婦が行いました。摘出手術中は、記録はコーディネーターが行い、当院のスタッフはだれも室内には入れませんでした。予定の定期手術は支障なく行われました。当院では、臓器摘出手術は緊急手術に準ずると取り決めてあります。幸い、摘出手術中は他の緊急手術はありませんでした。

 病院としては、院内に臓器提供に関する各部門の合意が既になされていたため、対応は速やかに行われました。病院長、事務長、総婦長を中心として、まず病院内に患者のプライバシーの厳守を基本とする態勢が敷かれました。次いで倫理委員会が開かれ、私が法的脳死判定臓器摘出の可能性を報告致しました。次いで、脳死判定・臓器提供における実行手続き書(マニュアル細則)の承認が行われました。

 病院長、事務長がマスコミ・厚生省との連絡を、総婦長が患者家族・コーディネーターへの対応及び摘出チームのための手術室の手配を、それぞれ担当することと致しました。家族の承諾確認後、再度倫理委員会が開かれ、臓器提供の承認を再確認し、引き続き脳死判定委員会を開き、脳死判定医2名を選任致しました。病院の事務職員は、経過中、終日病院内の警備を行い、マスコミ関係者の院内への立ち入りを監視致しました。

 後日、脳神経外科学会より諸経費算定の依頼があり、当院事務から、今回の臓器提供にかかった経費は合計6154,268円と報告されました。内訳は、611日から14日まで土曜・日曜を含む4日間の事務職員延べ157名の時間外勤務手当、及び夜間の警備委託が主で、これはマスコミ関係者の病院内立ち入りを監視する業務に事務職員の大半が携わっていたためでした。

 情報開示については、摘出終了日の夕方、地域保健所の会議室において記者会見を行いました。また、後日、厚生省の公衆衛生審議会疾病対策部会臓器移植専門委員会「脳師判定等に係わる医学的評価に関する作業班」に私が参考人として呼ばれ、経過報告を行いました。マスコミ各社からの取材の依頼は相次ぎましたが、患者のプライバシー厳守が最優先であること、後日医学的評価に関する作業班からの報告書が公表されることを理由に、全てお断り致しました。報告書の公表後は、学会等で数回発表の機会を与えていただき、また公表された資料の範囲内でマスコミの取材にも応じております。

 患者の家族に関しては、後日厚生大臣、県知事より感謝状が贈られたそうであります。その後は、コーディネーターによりフォローされております。しかし、既にマスコミ数社が家族に対して直接取材を行ったことが明らかになっており、ネットワークを通じて自粛の要請がなされました。また、人権擁護を標榜する反対団体は、自らの主張を通すための手段として、我々提供施設を人権侵害の疑いという名目で非難し、さらに弁護士などを直接患者家族に接触させ、医療に対する不信感をあおっております。

 最愛の肉親を失い、善意以外のいかなる提供の理由がないにもかかわらず、支援してくれるものもなく無防備の状態に置かれた家族の悲しみと精神的な苦痛を思いやるとき、この医療があまりにも多く提供側の犠牲のうえに成り立っていることを感じざるを得ません。

 脳死は、脳神経外科救急医療に携わった者にとっては、全ての治療努力が報われなかった結果であり、敗北を認めることであります。また、脳死判定とは、救命と延命との境、すなわち救命救急医療と終末医療の境を判定することであります。我々にとっては、患者を救えないという無力感と虚しさの中で行わねばならない厳粛な責務であり、決して移植医療のために行うものではありません。

 脳死移植が、提供者の死のうえに成立するものであり、その死を我々医師が判断しなければならない以上、十分な、誤りのない判断が行われたかどうかの検証は当然のことでありましょう。しかし、その過程で提供者の善意が他者の思惑により歪められ、逆に提供者の家族が不幸に陥ることのないように、残された家族に対する礼意は失われてはならず、そのプライバシーもまた確実に保護されるべきと思います。

 最後になりましたが、亡くなられた患者さんのご冥福をお祈りし、ご本人の崇高なお志と残されたご家族の善意と勇気に心から敬意を表します。また、提供を受けられた方々の今後の益々のご健康とご多幸を祈念して、私の発表を終えさせていただきます。ありがとうございました。

 

大塚

 

 先生、どうもありがとうございました。

 

 それでは、3席目でございますけれども、藤田保健衛生大学医学部救命救急センター長ならびに、脳神経外科教授をなさっておられます神野哲夫先生にお願い致します。先生は、実は大変この臓器移植に前向きの先生でいらっしゃいまして、いろいろと提供ということに関してお心配りをしていただいております。

 皆さんもご存じだと思いますけれども、ごく最近では、提供したかったのにもかかわらず、投与されました薬がまだ体内に残っているのではないかということで、再三にわたって法的脳死判定が行われ、結果的には臓器移植に至らなかったという経験をお持ちの先生でございます。それでは先生、どうぞよろしくお願い致します。

 

神野哲夫(藤田保健衛生大学病院救命救急センター)

 

 大塚先生、ご紹介ありがとうございました。今日はこのような機会をいただきましてありがとうございました。

 私は去年の暮れは鼓膜の破れた症例、それからごく最近は薬物のことで、2例経験致しました。私たちの病院は、名古屋の桶狭間にあります施設で、1,500床の病院でございます。脳外科はそのうち150床使っております。私の本業は手術でございまして、こういう忙しい中にポンとああいう症例が入ってくるというのが現実でございます。

 私どもは、1979年から今日まで献腎は193名、348個の献腎の提供者側に立っております。コーディネーターが調べましたところ、全国の10%強であるということでございます。

 この理由ですけれども、東海地方の脳外科のセンターみたいになっておりますので、最重症例の搬入が非常に多いということと、手前味噌ではございますが、脳外科の手術が年間800例を超えますので、全国で圧倒的に一番多い数であるということ。それから、東海地方に名古屋大学泌尿器科の大島教授のご一門の、非常に腎移植にご熱心な先生方がおられるということで、こういう結果になっているのではないかと思います。

 いずれにしましても、献腎に致しましても、あるいは脳死段階での移植にしましても、ご家族へのお話は脳死の段階ですることになるのでございます。そういう意味では、脳死ということに関しましては、かなり経験をしてきたつもりでございます。

 

法的脳死判定−重症の脳死ほど除外される

 

 脳死段階での臓器移植でございますが、去年の暮れ、若い女性が交通事故で来られました。完全な脳死でございます。鼓膜の損傷といいますか、頭蓋内の髄液と血液が耳から外へどんどん流れている状態でございました。CTでは頭蓋底骨折がはっきりございました。さっき町野先生でしたか、どなたか、鼓膜損傷があったかどうかわからないということでしたが、ああいうご専門の先生の所にも誤った情報が入るということには、さっき伺ってびっくり致しました。プロが見ているので間違いはないのでございます。

 鼓膜の損傷なんていうとすぐわかるだろうと思われるかもしれません。耳鼻科に行って、耳鏡でちょっとこうやって、すぐわかると思う方がほとんどです。ところがそうではないのです。こういう外傷のときは、鼓膜も外耳もぱんぱんに張っていまして、耳鏡が入らないのです。それで、直径2ミリのファイバーを持ってきて、やっと中に入れて、しかも血液が固まっていますから、それをずっと溶かしてから見ていく。30分以上かかるのです。かなりの大手術に匹敵するほどの苦労をするわけです。それで、外耳道に耳の中の小さな骨が出てきまして、脳の一部が外に出てきている。そういう状態でございます。

 ですから、外界の汚い所から、脳のようなきれいなところに水を送り込むなどというようなことは、細菌を脳の中に運び込むことでございますので、そんなことはいくら脳死の方でも、人道的にやるべきでないということでやらなかったわけでございます。

 ところが、この耳に水を送り込む、カロリックテストという検査ができなかった、だから止めた方がいいというご指示がございまして、やむにやまれず、非常に残念でございましたけれども、中止したわけでございます。

 このような症例、たとえば外傷で眼がつぶれている方なんか、たくさんおられるわけです。そうしますと、対光反射の検査ができないのです。それも除外例。そういうことで、ちょっとこれはおかしいということで、厚生省のほうで「脳死判定上の疑義解釈に関する研究班」というのができまして、私もメンバーに入れていただいています。もう半年以上やって参りまして、ちょうど先月最終結論が竹内先生から出る予定だったのでございますが、選挙の影響で報告が延びていると聞きました。

 そこで問題になっていますのは、極端かもしれませんが、こういう疑義というものは永久に出るだろうと。それを何かゼロクリアするものが必要ということで、脳循環が全くないことを証明することでクリアにしよう、という結論に今なりつつございます。これはその委員会でも出たのですが、東北のある地方の病院では、耳から脳が出ているような外傷例があって、これも前庭反射試験ができないということで除外されました。東京のある病院では、首の骨が折れてぶらぶらですから、人形の目試験ができないということで除外されました。

 平たく言えば、重症の脳死ほど除外される。脳死判定もへったくれもないだろうというような、そういう症例ほど除外されていくわけです。これは、非常に理屈に合わないといいますか、理不尽なことでございます。これは、厚生省もちゃんとお考えになっているようでございまして、今こういう研究班ができております。この結果がもうすぐ出ると思いますが、竹内先生からご発表があると思います。脳循環については、血管は常に脳に行っていますが、脳死になると血圧が脳圧に負けて血液が上がっていかないということで、いろんな検査方法がありますが、こういうことでゼロクリアしようというのが今のところの結論でございます。

 

「一点の曇り」

 

 次の症例でございます。中高年の方で、出血性の脳卒中でございます。臨床的脳死判定は何も問題なく終わりました。それから、法的脳死判定に入りました。臨床的脳死判定というのは、我々が日常1週間に23回やっていることですので、何も問題はないのでございます。

 法的脳死判定というのは、先程の町野先生のお話にありましたように、法律の世界のことでございます。いずれにしても全部やりました。すると判定委員の中の1人から、出血性脳血管障害に関して使った筋弛緩剤の影響がまだ残っているのではないか、一応確かめておこうという意見がでました。3人のうちの1人です。

 出血性脳卒中というのは、1回出血して、ぽっとかさぶたみたいなので止まるのです。これがもう1回ぽんと破れたら、それで終わりという、そういうことで、2回目の出血をいかに避けるか。それには、患者さんが暴れたり、変な呼吸で戦ったりなんかしないように、筋弛緩剤を与えて、呼吸器の管理下に置いて、脳の代謝その他を全部静かにしてやろうという治療法で、これはごく一般的な治療法でございますが、その薬を使いました。

 この薬は、半減期、この薬の効果が半分になるのが12分、90%なくなるのが323分です。薬について話題になった時には、もう既に薬を切ってから19時間たっている。これも全く、そんな話もへったくれもないだろうということでございます。

 しかし、判定委員の中から1人そういうことを言った者がいたということと、実際に厚生省の方も来ておりまして、みんな知っているということ。ということは、今、世の中の流れは、「一点の曇りもなく行わなければならない」というご時世でございますので、「この一点の曇りがあるのだったら全部クリアしましょう」ということでやりました。

 ところが、この検査が、易しいようで易しくないのです。ちょっとした検体の付け方なんかですぐデータが狂ってくるし、出たデータをどう解釈するか。文献もちゃんと漁りました。それから、日本におられるこういう権威者の方々にも電話でも聞きました。ノーアンサーです。やったことがないのです、脳死の患者に。私どもの今までの症例でも、やったことがありません。

 実際、223%という数字は出るのです。まあ、20%ならまず大丈夫だろうと世界的に言われているわけです。しかし、それでは21%ではどうだ、22%ではどうだというデータは全くないわけです。でも、これが表に出てしまったら、それもやはり一点の曇りになるわけです。20%で大丈夫だろうと言われているものを、22%ではどうでしょうといったら、「やはり一点の曇りになるだろう」という考え方があるわけです。それが、今のご時世です。ですから、正確で確実なデータが出るまで、20%を切るまで辛抱強く待ちました。こういうことです。

 私どもには、マルチスライスCTが世界で最初に入っていまして、脳循環がゼロだということは、それでもうクリアしています。でも、この薬だけが引っ掛かるのです。つまり「一点の曇り」があったのです。

 その後、この検査についてもデータを積み重ねていますが、今から思えば私どもは心配し過ぎであったように思います。しかし、その時点においては、何らデータの前例がないのです。ノーマンズランド(No man's land)なんです。だから、慎重にせざるを得ない。

 これがマルチスライスCTです。今最先端のCTで、こういうのが一遍に、0.54秒でぽんと出るわけです。これで脳循環を測りましたらゼロです。本来はもうこれでクリアなのです。衆議院の選挙がなかったら、今ごろ竹内先生が発表されていて、とうにこれでOKだったのです。だけど、そうは行きませんでした。

 今の世の中、さっきも言いましたように、一点の曇りがあったら駄目だ。特にマスコミさんが一番うるさいのです。彼らは、「一点の曇り」は全体に(もや)がかかっているような、こういう曇りだと思うのです。我々の場合は、「一点の曇り」というのは「全部証明した中のほんの一点」だという、このセンスのずれがございます。

 

人生の最終楽章に関わる

 

 その時、仲間内でも、こんな誰も踏み込んでいない所に足を踏み入れて、それで長いこと時間を待って、臓器がどんどん痛められていく。そんなことは意味がないから止めようじゃないかという意見もたくさん出ました。でも、私としては、みんなを抑えました。

 一つは、「一点の曇りもなき」というご時世であるということ。それから、我々は良き臓器を出すために治療しているのではありません。やはり救命が第一であり、第二にはその方の人生の最終楽章がきちんとクリアであるということを証明するのが我々の役目でございます。そのために1,000時間かかろうが2,000時間かかろうが、それは仕方がないことだというのが私の個人的な見解です。ちゃんと死はクリアにしなければいけない。その脳死という第二の死は、かなりきついのです、心臓死は易しいけれども。それが現実でございます。

 誤解しないでください。1,000時間かかろうが2,000時間かかろうが、その後のことは知ったこっちゃないよと言っているのではありません。私は192例の献腎移植で、腎臓の患者さんなんかも見たことがあります。移植手術の前に、おしっこの管に全く何も流れていないのが、移植した翌日からその中にきれいなおしっこが流れていて、本当に、森総理大臣ではないけれど、そのおしっこを日本中の神棚に載せて拝もうかと思ったことは何回もあるのです。

 だから、移植の大切さというのはものすごくよくわかる。アイ・ガット・ユー・アンダー・マイ・スキン(I got you under my skin)なのです。肌でわかっているのです。けれども、我々はそのためにたとえば100時間かかるのを3時間にしてしまうとか、2時間にしてしまうというわけにはいかない。そうやって、みんなを説得したのです。

 その後のマスコミの報道は散々でした。これは、一つには、厚生省や臓器移植ネットワークの記者会見が最初東京で行われたのです。我々は桶狭間ですから、不確かな情報で記者会見をやられる。それで記者が怒りまくって、今度は夕方の我々の記者会見。この二つを重ねまして、いろいろありました。

 要するに、ノーマンズランドで、単なる医学的問題なのです。はっきり言うと、厚生省のマニュアルが不備なのです。厚生省のマニュアルが「完成した」なんてさっき言われていましたが、全然そんなことはありません。まだまだこれから問題が出てきます。しかし、それはそれでいいのです。でも、そのために、何でゼロクリアするかが今問題なのです。

 

誰が診ているのか

 

 一番ひどいのは、「大学の危機管理がどうのこうの」なんていう話とか、それから世の中の「識者」とか称する人たちのコメント。これも困りました。この臓器移植の問題については、誰でも一言言えるのです。どんな領域の人でも一言言える問題。だから、逆に困ることもあるし、またいい面もあるのでしょうけれども、今回は、事情を知らない方に勝手なことを言われて、非常に困りました。それにマスコミが乗りましたから。

 年間手術例ですが、私のところは800例を超えますし、私自身、術者としてメイジャーサージャリーを年間250例やっている。多分僕は日本で一番手術をやっている脳外科の医者だと思います。1979年から今まで、約1,500例の脳死の患者を診ています。献腎も193例。

 これも誤解しないでください。僕、もう今年還暦を迎えますから、皆さんの前で自己宣伝なんかするつもりは全くないのです。わかってほしいのは、「アマチュアでない者があの症例を診ているのだ」ということなのです。それがあれだけ時間がかかっているのだから、何か問題があるのです。「無知だからできない」とか、「病院の体制が」とか言いますけれど、判定員の資格をもっている者なんて、うちは25人もいるのです。しょっちゅう、週に3例ぐらいは脳死の患者さんがいるのです、カードはもちろん持っていないけれども。だから、ずぶの素人ではない者が診ていてもなおかつ時間がかかるのには、それなりの理由があるのです。そういうことを理解してほしいものです。

 あえて一言言えば、たとえば先程の古川の先生にしても何にしても、地方に出て第一線でやっている人は、すごい手術経験があり、症例経験があります。大都市の旧帝国大学の、何も手術していない人たちと違うのです。そういうプロが見ていて、一生懸命やっていて、なおかついろいろ問題があることは確かなのです。それだけまだ、第二の死という脳死というものは、現場で実際、法律の言うようにやると難しいところがあるのです。今日はこれだけ言いたかったのです。是非ともご理解いただきたいと思います。

 最後のスライドですけれども、結局、「医師の裁量」と「一点の曇りなき」、これのバランスなのです。この「医師の裁量」なんていうのは、マニュアルにたくさん書いてあるのです。だけど、これはどんどん認めない方向なのです、世間では。「一点の曇りなき」という方に比重を多くしているのです。だから、せっかくのベテランが診ていて、「お任せいただけませんか。昔から人の死は我々医者が診ておりますから」と言っても、この脳死判定ということに関しては通用しなくなるのです。かといって、先程の町野先生のような弁護士さんが人の死を判定するわけではありませんよね。この辺のところをどう考えていったらいいのか、「世間」の皆さんがどう考えているのか、ちょっとよくわからないのです。

 最後になりますが、先程のお話のように、提供者側にとって得な話はほとんどないです。年間1,500例ですから、病院には他にも患者がいるのです。そのうちの1人の患者のために病院が引っかき回されるのはたいへん困ったものです。僕の場合、週に8例ぐらい手術をやっているので、たとえばあの患者さんだけにつきっきりになるというわけにはいかないのです。他の患者さんも生命懸けて待っていてくれているわけです。

 それで、マスコミには叩かれるでしょう。それから、反対の団体みたいなのが来ます。1979年から21年間、何回この仕事から手を引こうかと思ったかわかりません。でも、その都度、この仕事は損得の話ではないのだろう、学会のネタにもならないし何もいいことはないけれども、損得の話ではないだろう。いつも言うのだけれども、移植を一日千秋というよりも、一秒千秋の思いで待っておられる方がおられるわけです。たとえ大人数ではないかもしれない。だけど、そういう方が待っているのは事実だし、我々が医者の免許証をもらった時は、そういう「患者さんのサイドに立つ」ということを世間様と契約していただいたはずなのです。

 そう思い直して、この医療に関しては我々は脇役だけれども、できることは一生懸命やろうと思って、心にむち打ちながらやっているのが現状でございます。ありがとうございました。

 

大塚

 

 ありがとうございました。

 

 それでは、引き続きまして濱邊祐一先生にお願いしたいと思います。先生は、都立墨東病院救命救急センターの医長をなさっておられます。皆さんお読みになったかどうかわかりませんけれども、『救命センターからの手紙』と言う本を書いておられる先生でございます。ではどうぞ。

 

濱邊祐一(都立墨東病院救命救急センター)

 

 都立墨東病院の救命センターの濱邊と申します。今日、何人かの先生方がパネラーとしていらっしゃっているのですが、正直申し上げると、何で私がここにいるのかちょっと奇異な感じというか、全く場違いな感じで申し訳ないと思います。

 というのは、過去何年間かのうちに脳死臓器移植の提供病院になったわけでもございませんし、偉い大学の先生方と違いまして脳死判定基準をうんぬんするというような立場にもございません。東京の下町で救命救急医療の実践をやっている一救急医という立場でしかないわけです。しかし、せっかくこういう機会を与えていただきましたので、僭越ですけれども、最近思っていることをちょっと述べさせていただければと思います。お手元に講演内容を簡単に書いたレジュメを置いてあります。

 

現行の移植法は「非常にいいもの」

 

 まず、現行の臓器移植法がどうかという問題があると思います。今年の秋、丸3年を迎えて改正論議がそろそろ出てくるだろう。おそらく町野先生のお考えなども十分取り上げられてディスカッションされるだろうと思うのです。それについて申し上げると、現行の臓器移植法は非常にいいものだと思っています。

 それはどうしてかというと、2点あります。まず、本人の意思が出発点になっていることが一つ。もう一つは、おそらくは法律家の方に言わせるととても困ったことなのでしょうけれども、臓器提供するときのみ、脳死状態を人の死として扱っていいということで、このことは現場の医者からするととてもありがたい、非常にいいものだという実感を持っています。

 ただ一つ、現行法の中で我々が困ったのは、実際の法律のことではなくて、厚生省が出してきたガイドラインです。脳死判定の基準そのものについては、今神野先生とか皆さんがおっしゃったようにいろいろ不備があって、これから詰めないといけないと思うのです。まあ、そういうことは脇に置くとして、一番困ったのは、臓器提供の意思をいつ確認するかという問題でした。

 厚生省のガイドラインでは、臨床的脳死判断を下したあとで、ご家族に対して、患者さんは臓器提供の意思をお持ちでしたか、脳死判定をしてもいいとおっしゃっていませんでしたか、などと尋ねるあたりから出発する。「まず臨床的脳死判断をして」というのがガイドラインとしてある。実は、このことが我々現場のほうで非常に問題になりました。この臓器提供の意思の有無を尋ねる時期が何とかならないのかということです。

 と言いますのは、我々の所は救命救急センターですから、当然一般的な脳死判定が十分できるわけですけれども、正直申し上げまして、一般臨床の中で脳死判定をきっちり行ってそれをご家族の方に、言葉は悪いですけれども、突き付けるというようなことは一切したことはございません。別の言い方をすると、そうする必要性が全然ないものですからそういうことは一切過去にしておりません。

 ところが、ガイドラインに従いますと、そういうことをやらなければいけない。これまでのことに慣れているスタッフにとりまして、とてもそれに抵抗がある、辛いという意見が随分出されました。それでどういうことを行ったかといいますと、「墨東病院の救命センターの場合は、入院したときにドナーカードを持っているかどうかを訊いてしまいましょう」という話にしたのです。

 もちろんドナーカードだけをことさら取り上げて聞くというのはとても奇異ですから、そういうことではなくて、たとえば「信仰している宗教がおありですか」とか、あるいは「リビングウイルをお持ちですか」とか、「常日頃、どんなご病気でしたか」とか、そういうことを聞く一連の項目の一つとして「ドナーカードというものをお持ちでしょうか」ということを尋ねましょうというようなマニュアルといいますか、そういう方法論で確認しようという話をしたのです。

 実際その方法でやって、地域柄でしょうが、ドナーカードを持ってらっしゃった方は1年半の間にわずか3名だけでした、確認できたのは。もちろんそれ以外にも確認が取れなかった方もいらっしゃいますので、実はもっと多かろうと思いますけれども、年間1,2001,300名やってくる救命センターで、1年半でわずか数名というようなドナーカードの普及だったと思います。

 そうこうしているうちに、高知で第1例目の脳死移植、そのあと慶應病院さん、それから古川病院さん、いろいろ出てきたわけです。その時いろいろなことを報道されたわけですけれども、墨東病院がやった最初にドナーカードをチェックするというのはとてもいい方法だなと、実は内心思いました。どうしてかというと、レジュメに書きましたけれども、やはり「脳死は作られるのだな」というふうに思ったからです。

 

 

 

「脳死は作られる」

 

 これはとても誤解を招きやすい言い方で、僕もちょっと怖いのです。やはり脳死状態というのは、救命サイド、救急側の医者が意識をしない限りはおそらく作れない。いい悪いを言っているわけではなくて、脳死状態に持っていく、それを安定させるためには、救命サイドの医者が意識的に、意図的にそれをやらない限り絶対に無理なんだなということがよくわかったという感じです。

 たとえば、今日実は高知の西山先生がおいでになるというふうに聞いていたものですから、是非お話をお聞きしたかったのですけれども、高知の例を検証したものを読みますと、ある主治医がご家族に「もう2時間ほどで心臓が止まってしまいます。覚悟してください」というお話をしたあとから、突然昇圧剤を使って血圧を上げて、結果的に脳死になってしまったような症例だったと考えているのですが、おそらく我々の病院だったとすれば、そのまま心停止に至ったのだろうと思うのです。決して昇圧剤を使ったりしないで、脳死状態に持ち込むということにはならなかったろうと考えています。

 それから、先程の発表で初めて知ったのですけれども、慶應の場合も古川市立の場合も、ドナーカードの所持を確認されたのはすべて入院時である、脳死判定以前にご家族のほうから提示を受けられたということを聞いて、実は僕はほっとしたのです。ほっとしたというのは、もし我々がその時にいれば、「この患者さんは脳死状態にしてしまってもいけるな、大丈夫だな」というふうな、救急側の確信が得られた症例だったと感じるからです。

 別の言い方をしますと、おそらく今言った高知の例だとか古川、慶應のような例が墨東病院に来たとしますと、脳死状態を経ないでそのまま看取るという格好になった可能性が非常に高いということです。臨床的脳死判断をしたり、まして法的脳死判定をやってそれを家族に突き付けて「どうしますか」というような手段を経ないで、いわゆる「看取った」というケースになっただろうと思います。

 今僕が言っていることは非常に誤解を与えるかもしれないというのは重々承知のうえでお話をしているのですが、救命救急センターの医者の役割というのは、二つあると思うのです。一つは、その名の通りとことん救命するぞ、0.何パーセントの可能性であってもとことんやれることは全部やるぞという立場。もう一つの立場は、そういうことを日常やっていますと、これは何をやっても駄目な症例というのは必ずあるのです。そのときに、いかに安らかにその死を迎えさせようか、あるいはご家族にそれを認めていただこうかという二本立てになります。

 

ドナーカードの意味

 

 僕にとってのドナーカードはどういう意味かというと、おそらくその患者さん、ドナーカードを持っていらっしゃる患者さんの死に方、あるいは、誤解を招くことを承知で言いますが、「死なせ方の意思表示」であると思います。つまり、とことんやって脳死状態にしてくれて構わない、死ぬときは安らかでなくてもいい、脳死状態で構わない、臓器も取っていい、そういう最期を迎えさせてくれて構わないというのがドナーカードだろうと思います。

 そうではなくて、通常我々が考えるのは、最期、臨終のときというのは、そんなにばたばたしないで家族の人に看取っていただく、一番安らかな死に方というのはどういうものだろうかということです。けれども、逆にドナーカードを持っている方というのは、「そういうことはいい。仮にそうならなくても、自分が脳死状態というような人為的なものになっても構わない」ということの意思表示だというふうに私自身は解釈しています。

 従って、できるだけ早い時期にドナーカードを見たいのです。この患者さんはどう思っていらっしゃるのか。こういう話をすると、実は厚生省の方から「先生、そんなことを言って大丈夫ですか。そんなことを言うと先生の治療を疑われますよ」と何回か言われたことがあるのです。しかし、ドナーカードによって治療内容を変える気は全くありません。ドナーカードを持っているから手を抜くとか、逆にドナーカードを持っているからとことんやるとか、そういうことは全く考えていません。

 ドナーカードを持っている、持っていないによって何が変わるかというと、その方の最期の看取り方が変わるだけなのです。治療方法は、ドナーカードを持っているか持っていないかによっては全く変わりません。そうではなくて、最期の臨終の仕方が、持っている場合と持っていらっしゃらない場合で若干変わる。その心つもりを主治医サイドは持ちたいがために、できるだけ早くドナーカードを知りたい、見たいということなのです。

 ドナーカードというのは、おそらくそういうような物ではないかと思っています。これはディスカッションで随分たたかれると思いますけれども、今日は覚悟してきたので、それはたたいていただいてよろしいです。現場の救急をやっている臨床医としてはそういう意識を持っています。

 逆の言い方をしますと、ドナーカードを持つ場合は、臓器をあげる、あげないということ、もちろんそれもそうなのですけれども、それ以前の問題として、自分の臨終をどういうかたちで迎えたいのかということの意思表示のカードである、まさしくリビングウィル、あるいは遺言状なのだというようなつもりで持っていただきたいのです。つまり、死んだらあげますとか、死体になったから取っていいですとか、そういうことで普及されてしまいますと、町野先生のような法律的な混乱が生じる。

 そうではなくて、自分の最期をどうしたいのかという一種の遺言状といいますか、自分の死をどういうかたちで迎えたいのか、どういうかたちの臨終を望んでいるのかということを意思表示するものであるという解釈で、ドナーカードというものを現場では取り上げたいと思っています。これは、あとでたたいてくださって結構です。

 そのうえで、今日はせっかく町野先生がお見えですので、おそらく今秋から始まる改正論議の中で、当然家族の忖度(そんたく)だけで臓器提供を受けられるようにすべきだというふうなことが出てくるかと思うのです。最初にお話をしたように、実は現場は現行法であまり困っていない。むしろ、家族の忖度でOKだと言われたほうが大きな混乱を招くのではないかという気がします。町野先生から叱られますが、15歳以下の子どもの場合はどうするかということは別個に考えたほうがより現実的ではないかという気がしました。

 最後に今後の問題点として書きましたけれども、15歳未満の提供の意思というものをどう判断していくのか。あるいは、そのときに、たとえばドイツの緑の党がやっているような、今日初めて聞きまして、親権者に委ねるということが出ていましたけれども、そういうことでいいのかどうか。

 と言いますのは、我々救命センターで、小さなお子さんのけがとか病気とかをしょっちゅう診ますけれども、そのときの親御さんの混乱ぶりといいますか、半狂乱ぶりといいますか、これはもう取り付く島もないというか、冷静な判断なんかできるはずがない。そんなときに、臓器提供という道がありますというようなこと、その決定を親御さんに委ねることが果たしていいのか、悪いのか。法的にという以前の問題として、果たしていいのか、悪いのか。その辺のところは、現場の臨床医としては非常に気になります。必要であれば法改正をしていただいていいと思うのですが、そういった観点を踏まえた論議を是非やっていただければと思います。

 私は一介の都立病院の医者でしかないものですからスライドを作る暇もなくて、三宅島が爆発したとかばたばたして、本当はもっときっちりスライドでも作ってお話しできればよろしいのですけれども、誤解を招く言い方をしたかもしれません。せっかくこういう所を与えていただいたので、日ごろ思っていることを述べさせていただきました。あとで、是非たたいていただくということで、どうもありがとうございました。(拍手)

 

大塚

 

どうもありがとうございました。濱邊先生、覚悟していてください(笑)。

 

 それでは、次は有賀徹先生にお願いしたいと思います。有賀先生は、昭和大学の副院長、救命救急センターのセンター長をなさっておられます。そして日本臓器移植ネットワーク関東甲信越ブロックセンターの事務局次長をなさっておられる先生でございます。先生、どうぞよろしくお願い致します。

 

有賀徹(昭和大学救急医療センター) 

 

昭和大学の有賀です。本日この会に出席するに当たりまして、様々なパネラーの方がおられますので、私自身は聴衆の皆様方に、この種の問題を考えるに際しましての医学の立場から見た基本的な考え方をご説明したいと思います。医学的な考え方そのものも、町野先生のお話にありますように、様々な社会的価値観によって影響を受けているわけでして、その中でこの種の問題について、私たちが辛い状況にあるということをわかっていただくため、まずは基本的な考え方について、少しの時間を使ってしゃべらせていただきます。

 今、濱邊先生が話されたように、心象風景としては、私も濱邊先生の前半の5分の4ぐらいはほとんど同じであります。一緒に働いていたこともあります。それでも、少し違うところもありますので、そういうようなところも後でディスカッションできればと思います。

 基本的に、医科学というか、メディカルサイエンスの方法では、脳死状態になれば積極的な延命をしない方針で行く。こういう「単純な」といったら失礼ですけれども、もちろん町野先生が言われるように「脳死は全て死亡である」としても、現場の私たちが死を看取るという部分について、それなりのパフォーマンスがあるということは当たり前であります。それは、普通の臨終でもその通りなのであって、誤解を怖れずにいえば、場合によっては演出することもあるわけです。その点は濱邊先生と同じです。

 そういうことですけれども、行政の方法論というか、現在の法的な枠組みですと、脳死状態となれば、そして最終的には移植というゴールが設定されたことを前提にすると、臨床的脳死の判断があって、その後に承諾があって、脳死の法的な判定がある。要するに、先程濱邊先生も言われたように、どこでドナーカードを見るのかということと根源的には同じ問題になるのでありますけれども、話の筋としては、移植というゴールがあるときにのみ、この筋道が存在していくことになるということです。これがまずは基本です。

 

「臨床的脳死」に関連する混乱の原因

 

 いろんな言葉が出てきて、混乱していると言っていいかもしれませんが、私自身は混乱しておりません。しかし、マスコミの方たちやその他の方がいろいろと訊いてくださる中においては、混乱がないわけではないということを感じますので、その「混乱の原因」を説明致します。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 集合論的に言いますと、こういう図を出すと数学の集合論のようですか、Aという集合を医科学的、つまり病態生理学的な、私たちの把握するところの脳死の集合だとしますと、その集合の中に包含されます部分集合Bとして、法的な脳死の患者さんがおられるわけです。

 すなわち、私たちの把握するところの「脳死」、すなわち集合Aに含まれる一部分が「法的な脳死の患者さん」、集合Bなわけです。この法的な患者さんの集合というのは、たとえば、子どもは入らないとか、薬物の影響が残っている者は入らないとか、低体温の者は入らないとかというからも規定されていますので、この境界は社会的に、または恣意的に決められたものであるということになるわけです。

 子どもだって赤ちゃんだって脳死はあるわけです。だから、そういう「脳死」の集合Aと「法的な脳死」の集合Bとはこういう関係なのです。この集合Aを□、集合Bを○で表現しますと、ある人が「日の丸みたいだ」と言いました。まあ、別に○と○でも何でもいいのですけれども、これが「法的な判定だ」ということをまず頭に入れてください。そうしないと、「子どもの脳死はない」とか「低体温だと脳死にならない」とか、そういうよくわからない話に自動的に巻き込まれるわけです。

 ガイドラインにありますところの「臨床的脳死」というのは、そもそもは集合Aが存在することを前提にして、「法的な脳死」すなわち集合Bを選び出しなさいということを言っていたと私は理解していますが、行政指導の中身を見ますと、行政指導のいうところの「臨床的脳死」、これを集合B’としますが、これは最終的なゴール、つまり集合Bを選び出すこととほとんど似ている。無呼吸テストがないだけ。それだけの話なのです。

 従って、この「臨床的脳死」を決める場合に、あたかも「法的脳死の仮判定」というような形になるかもしれませんし、場合によっては「お作法」みたいになる。すなわち、集合Aにはもちろん包含されますが、集合Bを含んで、かつ集合Bよりやや大きめの集合B’という行政指導の「臨床的脳死」を確定してから、このゴールとなる集合Bの部分に行きなさいという話で、何だかよくわからない。つまり、日の丸の赤丸の周囲に、一回り大きな赤丸があって、この集合B’が集合Bのようでもある。でも、この集合B’というのは、元々の考え方では集合Aのはずであったということがあるのです。これが「臨床的な脳死」に関連した混乱の原因であると思います。ここまでがいろいろとごちゃごちゃしている諸問題のまとめであります。このことも理解していただきたいと思います。

 こうして理解していただいたことを前提にして、「臨床的脳死」をもう一度ご説明致します。それはガイドラインに出てくるとき、ガイドラインでは今申し上げた、四角だったはずの集合Aが、実は○のB’になってしまっている所に問題があるのです。

 加えて、先程濱邊先生が言われたように、ガイドラインでは意思表示カード確認の前に臨床的脳死を判断することになるのですが、それならば理論的にはカード所持の有無にかかわらず、脳死が疑われる全例に臨床的脳死の判断を行うのか。つまり□である集合Aではなく集合Bの○に限りなく近いような集合B’を確定する作業をいつもやらなければならないのかという話にそのままなるのであります。

 そんなことは、実際問題としては多分ない。先程濱邊先生が言われたように、濱邊先生の場合はどういうことかというと、病態生理学的に脳死になった状況において、そのまま死を看取る、しかしそれが許されないなら、どうしていったらいいのだろうという葛藤の末にあのような発言になっているわけであります。私たちも、そういう意味では同じような心象であります。

 

適切な治療

 

 もう一つ、「適切な治療」というのが出てきます。これは、「検証」というようなことと裏腹の関係になります。脳死判定の手順で、判定対象症例の必須条件に、「現在行われる全ての適切な治療手段をもってしても回復の可能性が全くないと判断されるような症例」と条件があります。ここに「適切な治療」という言葉が出てまいります。以下でそれについてご説明致します。

 ガイドラインは法律を現場で円滑に運用できるようにということで作られているのですけれども、それによりますと、意思表示カードの有無にかかわらず、脳死が確定する以前においては、「現在行われる全ての適切な治療手段を患者に尽くすことは当然である」として、これが原則であるという。

 言われてみればその通りです。これは何を意味しているかというと、たとえば私が受け持っているその患者さんに対して、倫理的かつ医学的に正しいことをやれということを言っているわけです。ですから、そこではその患者さんに、たとえば低体温療法をする必要がない、またはしてはいけないというようなことがあれば、やらないわけです。低体温療法は特殊かもしれませんけれども、たとえば手術をしなかったとしたら、それは適切な治療をしなかったことになるのかというような話が当然出てくるわけです。本来、治療内容というものは、個々の症例に応じて違って当然なのでありますが。

 要するに、私たちが「適切な治療」というとき、これはここにおられる皆さんにというよりは、むしろマスコミの方たちに確認した方がよいかもしれませんけれども、「脳死判定の手順における適正な治療」というのは、純粋に、医学的に、生物学的に、全ての治療手段を講じても救命ができないという意味で使われているということです。

 つまり、「患者にとって一番いいことは何なんだ」ということを、私たちが普段考えて行っているということ、それをそのまま素直に理解していただければ良いのです。この話も、さっきの四角と丸のように、何となくごちゃごちゃしているかもしれません。

 スライドを使った私の話はこれで終わりに致します。先程来、各先生方が様々なことを仰っておられて、大変勉強になっております。後程、ここでパネルでディスカッションをすると、私にとっても大変勉強になると思います。

 願わくは、基本的には筋は通す。たとえば法的にも筋を通す。医学的・倫理的にも筋を通す。私たちがこういうきちっとしたことをがきちっとできる社会になっていかないとなかなか話がすっきりしない。

 そういう意味では、医学のプロ、少なくとも医療の専門家の立場が、それなりに尊重されるような局面にならない限り、やれ薬がどうした、やれ脳波がどうした、誰がどうしたこうしたという話で、揚げ足を取られるような状況がこれから先も続く可能性があります。とすれば、おそらく元気な救急医の人たちも、いずれは疲れていってしまう。そしてその暁には、いなくなってしまう。そういうことを非常に強く懸念しております。以上で終わります。(拍手)

 

大塚

 

ありがとうございました。なかなか厳しい意見が出ております。

 

 それでは最後に、大和田隆先生にお願いしたいと思います。大和田先生は、北里大学の救命救急医学の教授をなさっておられますし、北里学園の常務理事もなさっておられます。以前は病院長もなさっておられました。救命救急では、私どもと一緒にずっとやって歩んで参りました仲間の1人でございます。どうぞひとつよろしくお願い致します。(拍手)

 

大和田隆(北里大学救命救急センター)

 

 ありがとうございました。私は、今までの先生方とはちょっと観点が違うかもしれませんけれども、大学病院が今までやってきた、特に救命救急センターが中心にやってきた経緯をお話しして、今私たちが現場で抱えている問題点などをご提示しまして、皆様方のご意見をいただきたいと思います。

 北里大学の救命救急センターができましてから、藤田保健衛生大学にはかないませんけれども、かれこれ、今まで42例の腎提供がなされております。最初、救命救急センターができたころは相当あったのですが、専任のドナーコーディネーターを置いたころからケースが減って参りました。これには、いろんなことがあります。たとえば、非常に厳格になってきたとか、情報がかなりオープンになってくるとか、決してこの間に密室的にやっていたということではありませんけれども、そういうことで、あまり症例数が増えてこない。今度、臓器移植法が法律として提示されてからまた一時減りましたけれども、最近少し増えてきているというのが現況でございます。

 北里病院の救命救急センターも非常に手術数が多うございまして、くも膜下出血が年間120から140ぐらいになります。その中で、臓器提供の候補となるような患者さん、一次性の脳疾患で亡くなる方が約100例を超すわけです。70%ぐらいが脳死を経由してきますから、だいたい年間70例ぐらい脳死の患者さんが発生しています。

 うちにも移植グループがいるので、後からカルテを調べてもらいました。実際に北里大学の救命救急センターに入ってくる患者さんの中で、死亡時にドナーの適応基準、肝臓、心臓、腎臓の提供に耐え得るといいましょうか、そういう状況の患者さんはどのくらいいるかというと、10年間で182例でした。それから、患者さんが入ってきたとき、そういう適応基準の人が661例。

 ということは、年間約18例ぐらい、いわゆる移植医側の希望通りといったらおかしいですけれども、ドナー基準を満たしてかつ脳死判定を経由してくるのはそのぐらいです。ただ、これは正しい数かどうかわかりませんけれども、現在6,000万枚ドナーカードが世の中に出回っているようですけれども、そのドナーカードを持っている割合、その中で提供したいという意思率、それから承諾率というのを文献的に調べましてやってみますと、このぐらいの規模の救命救急センターで、年間1例出るかどうかというのが現状だろうと思います。

 後でドナーカードの是非というのがおそらくディスカッションになるかと思います。ドナーカードは確かにたくさん出ていますけれども、本当にそういう臓器提供に結び付くものかどうかというのが非常に問題があるということの一つのデータだと思います。

 昭和54年にできた角腎法は一応廃案になりましたけれども、今回の法律でそれは残されたかたちになっていますから、実際に私たちは心停止での腎提供を行っています。後でちょっと触れますが、これも私の専門外ですからわかりませんけれども、腎臓を保持するためにカニュレーションを行うわけです。

 これが脳死を経由しない心停止の場合ですと、今はカニュレーションをしないで手術室に行って摘出しているようです。しかし、当院では脳死を経由するケースがほとんどなものですから、現在臓器移植法にある程度準じたかたちで、脳死判定を2回して、それからカニュレーションをするという経緯を取っています。

 何故こういうことになったかといいますと、平成10年、関西のある大学病院で死体腎提供の際にカテーテルを挿入しておりました。それが、患者さんからの告訴がございまして、大阪地裁では「カテーテルを入れるということは、その亡くなった患者の方の救命治療行為ではない。生存中にそういう本人の意思はなかった。一般的医療行為だというけれども、それは違法性阻却の事由にはならない」ということで有罪になったわけです。

 その大学病院は控訴しなかったわけですけれども、その当時、厚生省なり政府が言ったことは、「心停止後の腎摘出は、遺族の承諾で行えるからいいじゃないか。カニュレーションは、これまでやられている一般的行為である。患者の身体への侵襲はほとんどない、軽いのだ」これは、大阪地裁の判決とは全然違うことを言っているわけです。ですから、私たち提供側としては真剣にとらえないと駄目で、当院には倫理委員会がございますから、倫理委員会に掛けたのです。

 倫理委員会は非常に厳しい、うちにはA・B・Cという3つの倫理委員会がありまして、Cの倫理委員会というのは医療行為に関する倫理委員会なのです。当たり前のことですけれども、十分な救命行為をしているか、北里病院の脳死判定基準にきちっと従って脳死判定されているかどうか、カニュレーションは患者さんへの侵襲になるということ、そのことについて書面による承諾を得なさいとか、家族にできるだけ協力をして、静謐の配慮をしなさいとか。それから、一例一例倫理委員会に出しなさいということを決められまして、それに則ってカニュレーションの話は推移しているわけであります。

 

カードに○がなかった

 

 私たちもそういう患者さんが出た場合には積極的に臓器提供に協力したいという気で居ります。これは実際の症例ですけれども、42歳のくも膜下出血で、奥様も非常によく理解していますし、カードも一応持っていらっしゃったのですが、これがそのカードの実物ですけれども、ここの大項目、1番のところに○が付いていなかったわけです。

 私は、家族の話も聞きましたし、本人の生前の意思の話もよく聞きました。それで緊急に倫理委員会を開いて、「厚生省が何と言おうが、臓器移植ネットワークが何と言おうが、うちの倫理委員会がいいと言ったらいい、私の責任でいい」ということで、倫理委員会を緊急で召集したのです。けれども、夜中ということもありまして、なかなか集まらない。そのうち厚生省のほうから「まかりならん」という話が出ました。それで、残念ですけれども、臓器提供にならなかったのです。

 これは、高知日赤の臓器提供の第1例が行われる2週間前のことでした。第1例にならなくて良かったのか、悪かったのかはよくわかりません。その後、ここの数字に赤い印が付いて、ドナーカードが変わったはずです。ここを落とさないようにということでです。

 この時も、どこからリークされたのか知りませんけれども、新聞にこういう記事が出ました。これは、全く私たちも心外で、新聞社にもクレームをつけたわけです。非常に恐ろしいなと思ったことです。

 

病院としての取り組み

 

 私たちの大学病院では、脳死判定基準を、臓器移植とは関係なく、厚生省の基準ができる9ヶ月前に決めてありました。そういう経緯がございます。それに、いち早くドナーのコーディネーターを設置したこと。それから、倫理委員会が約4年かかって、臓器提供に関するいろんなことを検討してきました。

 倫理委員会が終わるころ、ちょうど法律ができてきたのですが、ほぼ倫理委員会がまとめたのと、法律と変わらなかったといいましょうか、参考にしたという話もありますし、「本人の意思」ということが強く打ち出されたという一つの経緯がありました。昨年の12月には、大学病院を上げて1日かけてこのシミュレーションも終わっております。いろんなマニュアルも作っております。

 当たり前のことですが、脳死判定医は専門医ということで限定されています。それから、緊急倫理委員会がその都度開かれるようにもなっています。どこもそうだと思いますけれども、院長を中心とした対策本部、マスコミ対策のいろんなマニュアルもできております。特に法医学、院外との連携についてもマニュアルはできております。

 今までの経験から、おそらくこの角腎法が廃案になったということで、日本中の救命救急センターに「心停止後の腎臓、角膜は提供できないのではないか」という誤解があって、腎臓提供がどんどん減っているのではないかということを感じます。

 私たちが今回経験してみて、心停止下での臓器提供、主として腎臓よりも脳死下での臓器提供のほうが非常にやりやすいのではないか。法律が整備されている、必要な書類も整備されている、本人の意思表示も確認できる、マニュアルができ上がっている。いろいろな関係部署の協力態勢も、この脳死下の臓器提供ということでマニュアルが出ている。経緯の予測がつく。ということで、案外脳死下のほうがやりやすいのではないかというように思っています。

 

なぜ脳死臓器提供が増えないのか

 

 あとでいろいろディスカッションが大塚先生の司会であるのでしょうけれども、これはいいかげんではありませんけれども、最近ちょっと感じているようなことです。先程からいくつか指摘がありますが、何故脳死臓器提供が増えないのか。

 臨床の現場から脳死下での提供について問題提起をしたのにもかかわらず、解決されないまま数例の提供がなされました。予想通りと申しますか、運用手順が不明瞭であることを、実際脳死下での提供経験してみてから、改めて問題として取りあげるかたちになってしまって、より問題を大きくしてしまいました。

 また、法律施行直後は厚生省とマスコミでいろいろと情報公開について話し合われたようですが、結局は結論が出ないままであった。そのこともあるかとは思いますが、マスコミ報道の過熱、これが救急の現場に非常に悪い影響をもたらしている。救急の現場の雰囲気が何となくそうなってきている。そういう煩わしさです。移植医療に、臓器提供に、今日トリオ・ジャパンでこういう話をするのは良くないのですけれども、救命救急センターの中の雰囲気が、何となくそういう煩わしさをできれば避けたいというか、そういう医者も少しずつ増えつつあるということも事実かと思います。

 いろいろ思いますけれども、カードを盛んに配っているのですけれども、臓器提供の意思表示を本当に自分の問題としてとらえているのか。自分は脳出血を起こしたり交通事故に遭うことはないと、自分以外のこととしてとらえているのか。この辺りのところが非常に問題になるのではないかと思います。啓蒙がもっと必要な点だろうと思います。

 いろいろアンケートがあります。よく学生の講義のときに言うのですけれども、あなたは返事をどう書くか。「自分ならいい」と書くか、自分の家族、第二人称でも、自分の子どもとか、愛しているか愛していないかは別ですけれども、奥さんを考えながらそういうアンケートに答えているか。あるいは第三者、第三人称、医者としてただアンケートに答えているのか。アンケートの内容が本当に自分だけの問題、あるいは家族も含めて愛する連中のことの脳死の承認、あるいは臓器提供の意思表示ということを考えているかというのは、非常に大事なことだろうと思います。ネットワークの機能が今いろいろ問題にされていますけれども、そういうことも含めてもっと啓蒙の仕方に方法があるのではないかとも思います。

 現場で困ると思うのは、これは臓器提供の意思表示のカードが亡くなってから出てきて、その人が何の病気で亡くなったかという日本のアンケートの結果ですけれども、自殺が多いのです。これをどう考えるか。生命の尊厳さということを良く理解すれば、自分の命を失ってでも臓器提供をするのだという善意の考え方があるかもしれませんけれども、そういう生命の大切さというか、そういうことに対する自殺ということの考え方です。

 それと、自殺をなさる方の前の状態は本当に正常であるかどうか。精神状態が本当に問題がないかどうか。うつ状態の人が多いとか、うつ病の人が多いという話があります。今日、法律の先生がいますけれども、犯罪でも精神病の患者さんは犯罪者にならないというか、無罪になることが多いようです。今意思表示を非常に大事にしている時に自殺者が多いということで、救急センターでそういう方が実際に臓器提供のカードを持ってこられたら僕ならどうしようか、どう対応しようかという悩みは持っています。いろいろご議論いただきたいと思います。

 救急センターとしてはいろいろな問題があるのですが、これも今までも言われていることです。私たち救急の医者としては脳死の判定までなのでしょうけれども、この間にたとえばドナー管理といいましょうか、やはり移植側としてはあまり薬を使わないでくれ、あるいはいろいろな条件が出てきます。そういう管理まで救急の医者がやるという問題点を早く解決していただかなければ、私たちはここまでは関与しますけれども、このあとから摘出までの、たとえば管理を救急医にやれというのは、夜も寝ないで休みもしないで手術している連中にこれはかなりきつい話であります。今は提供側がお金も全部負担しているわけですけれども、その辺りのお金のことも含めて早く解決してもらわなければならないのではないかと思います。

 私の持論ですけれども、救急の医者あるいは脳外科の医者は、救命の脳死判定まで。そのためには、今いるコーディネーターの資格とか、権限とか、そういうことを本当にきちっと確立していきたい。言葉は良くないかもしれませんけれども、アリバイ的にコーディネーターが入ったということが何か承認事項になって、本当に彼らの将来の教育、都道府県のコーディネーターがいるようですけれども、本当に今中央にあるブロックセンターと同じレベルで育てているのかどうか。そういう問題があります。

 移植医がコーディネーターを使う、という言葉はおかしいですけれども、移植医の動きによってコーディネーターが左右されるということがあってはならない。本当の移植医療が根付くためには、救急の我々のやること、移植医のやること、コーディネーターのやることというのは、同じ権限として、三権分立を確立しなければならないだろうと思っております。少し手前味噌な話になりましたけれども、これで終わらせていただきます。ありがとうございました。(拍手)

 

大塚

 

 どうも先生ありがとうございました。それでは、ここで10分ほどお休みをいただいて、場所の設営をし直します。

 

パネルディスカッション

 

大塚 それでは時間になりましたので、ただいまから第2部の続きを始めて参りたいと思います。ただいま6人の演者の方々にそれぞれのお立場からお話を賜ったところでございますが、お聞きになります通り、いろいろな問題点が山積しております。これから聴衆の皆様方と一緒に議論を進めて参りたいと思っております。

 最初に、6人の先生方、お互いに講演を聞かれまして、それぞれに何かご質問がございますでしょうか。ございましたらどうぞおっしゃっていただきたいと思いますし、講演の中で言い足りなかったことがあれば追加していただいて結構でございます。はい、どうぞ。

 

ドナーカード確認のタイミングと「ガイドライン」

 

有賀 ドナーカードについて濱邊先生が言及されました。実は711日の火曜日に、昭和大学病院で移植用臓器摘出のためのシミュレーションが予定されています。そこでドナーカードが出てくる局面についての議論がスタッフでありました。
 ガイドラインの言うように淡々と筋道に沿った揚げ句の果てにドナーカードが出てくるという話はどう考えてもあり得ない。むしろ、最初から出てきたほうがわかりやすい。しかし最初から出てくると、今度はガイドラインに抵触するという話になりました。
 「抵触する」というのは難しいところですけれども、結局僕たちは、患者の状態が非常に厳しいとお話ししたときに、ドナーカードが最初に一度出てくる場面では、「そうですか」と言って返すことにした。その後にガイドラインのように進んでいくというシミュレーションを無理矢理作ったのです。

 濱邊先生の所とか、2、3、そのような議論で、「初めに尋ねてしまったほうがいいのだ」「むしろそちらのほうが倫理的な対応だ」とそういうセンスというか、感覚というかで、1年半だか2年間、おやりになった結果として、やはりどうなんだというところを少し伺えればと。

 

大塚 濱邊先生、どうぞ。

 

濱邊 アンケート方式でドナーカードを「持っていますか」「持っていませんか」と尋ねました。つまり、問診表の最後にその項目を作ったのです。「ある」「なし」「わからない」と一応その3項目作ったのです。もう一つ「答えたくない」というのも作ったほうがいいのではないだろうかという意見はあったのです。あったけれども、「ある」「なし」「わからない」ということだけでやってみましょうということになりました。

 実際に1年半やってみて、「この病院は何でこんなことをしょっぱなに訊くのか」というお叱りを受けるのではないかというのを実は最も恐れたのですけれども、予想外といいますか、全くそういう反応がなくて、ないときは「ない」、あるときは「ある」と丸を付けていただいたということには、少しびっくりしました。

 最初に渡すというのは、ある意味ではそのご家族にとっては混乱期ですから、悪く言えばどさくさ紛れに手渡して聞いてしまったところがあるものですから、あまり深くとらえないで答えられたのではないか、逆に言うと本当のことが返ってきているのではないかと思いました。

 

大塚 はい、どうぞ、大和田先生。

 

大和田 もう一面あるのだろうと思います。うちでもドナーカードのタイミングというのは早くわかったほうがいい、それはいろいろばたばたしない意味でもいいというのです。日本の救急の医者が、ドナーカードが出たから治療方法が変わるとか手を抜くということはないのですけれども、「医療不信」と一言で言っていいかどうかわかりませんけれどもそういうことをまだかなり懸念するというか、用心するというか、そういうことがあるのではないか。あまり早くにドナーカードを見るということが、そういう疑いを持たれるといいましょうか、そういうことを気にしている医者もいることはいます。タイミングの問題ではそういう面もあるのではないかと思います。

 

大塚 ほかの先生はどうですか。ドナーカードの問題について、何かご意見がございますか、いいですか。

 では、聴衆の皆さんからドナーカードの問題について何かご意見をお持ちの方がいらっしゃったらどうぞ。ご質問あるいはご意見をおっしゃっていただく前には、どうぞお名前を先に言ってから発言をしていただきたいと思います。ドナーカードの問題、いつ見せるかということだけでなくて結構です。ドナーカード全般にわたって何かご意見ございますでしょうか。

 はいどうぞ。

 

青木 大変素朴な質問ですが、救命救急センターへ運び込まれた患者は、その場でドナーカードがあるかないかということはご確認になるのでございましょうか。

 

大塚 それは今おっしゃっているように、濱邊先生の所では最初に見せていただくというお話ですが、そのほかの先生方はあまりおっしゃっておられません。今の青木会長の質問はどうでしょうか。

 

 慶應大学では確認しておりません。

 

青木 しておられない?

 

 はい、多分それが一般的というか、多くの病院ではそうです。

 

青木 それはドクターがなさるのではなくて、入院手続きというとおかしい話ですが、救急車で運び込まれます。そのときに私の経験で、私も十何回救急車で運ばれたのですが、必ず消防隊員が病状や経過チェックします。そのときは今までの病歴はどうだったとかということを問診されます。そのときに、「ドナーカードを私は持っています」と言えば、先生のほうのコーディネーターに伝わるのでしょうか。

 

 いえ、その段階では主治医に伝わるだけだと思います。

 

青木 主治医に伝わるだけ?

 

 基本的には身元不明の方、要するに交通事故で運ばれてきた方は救急隊の方が所持品をチェックされますから、財布等にお持ちになっているとその時点でわかるということはあり得ますが、おうちで倒れられたりとか、身元がはっきりしている方は身元確認を行いませんので、ドナーカードの有無はこちらから積極的に訊かない限り不明です。それで、訊くことは基本的にはしていません。

 

青木 たとえば、名刺入れとか何とかをチェックされるというようなことはないわけですね。

 

 身元不明者以外はしません。

 

青木 そうですか。

 

大塚 よろしゅうございますか。

 

青木 その辺が・・・。

 

大塚 ほとんどの救命センターでは、入院してきたときにドナーカードをお持ちかどうかを聞くことはしておりません。

 

青木 ドクターがお聞きになるのはとてもやりづらいと思うのです。私は、入院チェックのような、意識不明で入られた方は別ですけれども、そうでない意識がある場合には、どなたか事務的な手続きのようにドナーカードがあるのかないのかを確認されるとあとあと都合がいいのではないかと思うのです。さっき濱邊先生が「ドナーカードがあったほうが処置はしやすい」というお話でしたので。

 

大塚 濱邊先生。

 

濱邊 もう一度申し上げますけれども、ドナーカードのあるなしで治療内容は一切変わりません。変わるものがあるとすれば、いよいよとなったときの看取り方に差が出るということです。ついでに申し上げますと、事改めて「ドナーカードを持っているの、持っていないの、どっち? はっきりして」というのはもちろんやりませんけれども、たとえば厚生省辺りでも運転免許証の裏にシールで張りましょうとか、健康保険証にシールで張りましょうということを勧めていると聞いています。

 そうしますと、入院手続きをすれば必然的に事務職員は確認というか、見てしまうわけです。それを何もガイドラインのように最後まで隠して、いよいよになってぱっと出すということは必要ないでしょう。何よりも大事なのは、こういうことを言うとまた叱られるかもしれませんが、おそらくドナーカードというのは隠すものではないのだろうということです。私はこういう意思を持っていますというのは社会的な意思であって、秘め事ではない。

 

青木 必携のものでもありませんから。

 

濱邊 もちろん秘め事だとおっしゃる方もいらっしゃるのだけれども、本来は社会的な意思、パブリックな意思だということだろうと僕は勝手に思っているものですから。

 

青木 そういう点からいくと、運転免許証なり健康保険証に意思の表示が、丸でも赤でも結構ですが、赤丸が付いていれば、シールが付いていれば自分は移植に賛成だ。反対の方は何もしなければいいわけです。身分証明書とか、健康保険証とか、ドライバーライセンスというのは強制されています。ドナーカードは本当は持っていなくてもいいわけで、常時携帯していなければいけないものではないです。何か事故があって救急車で運ばれた場合には、警官が付いては行かないのですか。消防隊員が連れていってしまうわけですか。

 

濱邊 もちろんいろいろなケースがあります。先程の古川のケースで、救急隊員の方が「ドナーカードあります」と病院側に提示されたというお話を聞いて、そういうこともあるのだと僕は思ったのです。何回も言う通り、ドナーカードのあることによって治療内容が変わったり、あるいは救急隊員がまずドナーカードを見て、この人は持っているからA病院に行く、この人は持っていないからB病院ということは絶対あり得ない。それは間違いないと思います。

 

青木 1人で独占してはいけませんのでお返しします。

 

 

 

 

 

脳死患者を「看取る」

 

大塚 6人の演者の方の中でだいぶ法的なことが出ています。町野先生、何かご質問がございますか。どうぞおっしゃってください。

 

町野 随分たくさんあるのですけれども、今のところで一番疑問に思ったのは、濱邊先生が言われたことで、有賀先生も言われたことですけれども、最初にドナーカードがあるということがわかると、治療に手抜きをするのではないかという意識がおそらく普通の人にあるだろうと思うのです。「そういうことは絶対ありません。ただ、看取り方が違うのだ」とおっしゃられたけれども、もう少し具体的にご説明いただけると皆さんの不安も解消するのではないかと私は思います。

 

大塚 どちらにお答えいただきましょうか。有賀くん、まずどうぞ。

 

有賀 まず前座から(笑)。話は極めて単純明快であります。医学的に、さっきのスライドでいくと、医科学的にというか、メディカルサイエンスの立場でということでなのですけれども、その状況で脳死に至った患者さんについてはもう先がありません。そういう意味で、その段階においては、ご家族に「葬式の準備をしろ」とは言いませんが、「もう駄目なんだ」と言って、最終的にお亡くなりになるような、こういうところで言う言葉だとすれば「受容」を誘うような、そういう形で私たちがご家族と接するということです。

 脳死になってしまうまでは必死でやるわけです。カードがあろうとなかろうと、それはどうでもいいことです。こういう法律があるなしにかかわらず、一生懸命頑張って治療をしていって、そして厳しいと思うところでは「厳しいですよ」と、通常と同じように、患者さんの治療の内容をご家族に理解していただくための話をしているわけです。そして、病態生理学的に脳死になってしまったという段階においては、「これであきらめなくてはいけませんね」という話になる。その受容のプロセスが、今濱邊先生が言われたようなかたちでの「看取り方」ということになるのではないかと思います。それが前座の説明です。(笑)

 

大塚 それでは、濱邊先生、どうぞ。

 

濱邊 では、真打が(笑)。今のは冗談です。具体的な例を申し上げます。先程中でもちらっと触れましたが、高知日赤のケースでくも膜下出血の方が、主治医の先生が「あと2時間ほどで心臓が止まってしまいます。ご覚悟をしてください」と言われたあとで、昇圧剤を使ったらめきめき血圧が上がって数日間もったという具体例がございました。その時に昇圧剤を使うか使わないかというのは、実は医者の裁量だろうと思っているのです。

 先程言いましたが、もし我々の墨東病院で同じようなケースがあったとすると、ドナーカードの所持がわからなければ、あるいは持ってないということが確認できれば、おそらくそのまま看取って心臓死というかたちに持っていったということです。非常に語弊のある言い方かもしれませんが、脳死状態というのは意図的に維持しない限りは、たとえば呼吸器を装着し続けるであるとか、昇圧剤を用いるとか、何らかの意図的なことをやらない限り絶対維持できない状態です。

 そうするかしないかは、実はご本人がどういう死に方を期待されているか、希望しているかにかかわってくる問題です。非常に微妙な言い回ししかできないのですけれども、主治医サイドの裁量がかなり大きく反映することはあるだろうと思います。

 もちろんこれは一般化できるかどうか僕はわかりません。現に神野先生の所であるとか古川市立病院のような、とことんやって、とにかく脳死状態というものをまずそこまで行ってきっちり判定してということをやられている施設もたくさんあると聞いておりますので、一般化できる考えではないかとは思います。けれども、おそらく多くの臨床医は、今僕がお話をしたような感覚を持っているのではないでしょうか。そういう感じが致します。

 

有賀 脳死になる、そこの部分までは、濱邊先生と僕は多分一緒だろうけれども、その後の維持のプロセスに少しは裁量の部分が、ということですね。

 

濱邊 そういうことです。

 

大塚 はい、どうぞ。

 

光石忠敬 弁護士の光石と申します。今のことにすごく興味があって、町野先生のご質問とも関連するのですが、濱邊先生のお考えに立つと、意識しない限り脳死というのは作られないとおっしゃったと思うのです。そうしますと、カードなどは持っているか持っていないかを知らないほうが、要するに先程の先生の2つのスタンスといいますか、とことん救命するにしても安らかに死を迎えさせるにしても、カードを持っているか持っていないかを知らなければ、全く自然の流れで治療ができるのではないか、仮にそこを知ってしまうと、もう少し頑張るとか昇圧剤を使うとかという話になっていくのかという気がします。そこのところは、早い時期にカードを持っていることがわかることは、むしろ先生のお考え方からすると悪ではないのかと思ったのです。それは整合しているのでしょうか。

 

濱邊 いわゆる脳死状態に陥ってしまうまでは、持っていようと持っていまいとおそらくやることはそんなに変わらない、全く同じだということです。ただそのあとの、やはりこの人は脳死状態に陥ってしまった、これは主治医サイドでわかりますから、そのあと事改めて脳死判定をやって、ご家族に「脳死判定をやったら、脳死だというふうに判定が出てしまったのですけれども、どうしますか」、つまり「人工呼吸器をはずしましょうか、どうしましょうか」というようなことを聞く救命センターもあれば、そうではなくて、「もう土俵を割ってしまいましたね、では、あとはご家族が受け取れるような環境を作って、少し看取りのほうをやりましょう」というような、たとえば我々のような救命センターがあるということだけだと思うのです。

 だから、僕は「意図的に作る」という言い方をしてしまったのはとても語弊があり誤解を招きやすいと思うのですけれども、いわゆる土俵を割ったあとの主治医サイドの対応に別の仕方があるということだろうと思います。それでお答えになっているでしょうか。

 

大塚 よろしゅうございますか。はい、どうぞ。

 

大和田 少し誤解があるのではないかと思うのです。濱邊先生がおっしゃったようなケースもありますけれども、脳死の2回の判定、6時間後にまたやるわけですけれども、その間に何が何でも昇圧剤を使わなければ全例脳死の判定ができないのだということはございません。特別こちらでかなり手を加えなくても、ナチュラルコースでちゃんと6時間後に脳死判定するケースも現場ではけっこうあると思います。

 今の先生のお話ですと、脳死になるのは、みんな黙っていれば心臓死になるのに無理やり救急の現場では脳死のケースを昇圧剤や何かいろいろな薬を使って作っているのかというような言い方だったような気もしたものですので。

 

濱邊 私自身はそうではないのだけれども、要は、カードを持っているかいないかを知らなければ、とことん救命するにしても、安らかに死を迎えさせるにしても、本当にずっとその方針でやっていくのがいいのかどうか、迷うことがあるんだと思います。仮にそれを知っていると、その微妙な判断を回避して、それをみんな家族なりカードに全部乗っけてしまうということが可能になって、それが悪くすると手抜きと受け取られる可能性が出てくるのではないかと思ったのです。

 確かに先生がおっしゃる通り、我々はカードがあると楽なのです。このご家族はこう思っている、この患者さんはこう思っている、だからそれに従いましょうと、ある意味では「免責」されるわけです。ただ、それは別の非常に抽象的な言い方をしますと、臨床医としてのプライドを放棄することになります。

 僕は若い医者によく言うのだけれども、救命センターの役割は今言った2つある。とことんやること、それは若い連中なら放っておいてもやるわけです。ただ、もういよいよ駄目だとなったときに、いかに矛を収めてご家族にそれを納得させるのか、実はそれが臨床医の腕の見せどころなわけで、そちらの方を学べという話をよくするのです。実は、救命センターはそういう役割も持っている。

 それがドナーカードが出てきてしまうと、ドナーカードは別のことを想定していますから、そちらのほうのレールへとポイントが切り替わってしまう。そうすると、後は言葉が悪いですけれども「流れ作業」になるので、臨床医として腕を振るうところはごくごく少なくなって、あとはレールに乗っかってゆくだけということではないかと思います。

 

脳死判定における医師の裁量権

 

大塚 よろしゅうございますか。今もお話が出て参りましたけれども、もう一つ、「裁量権」という問題が生じてくると思うのです。その辺をどう考えるか。元々医学は確かにサイエンスという分野に入っておりますけれども、数学とか物理とは少し違いまして、必ずしも1+1=2とはならない学問です。

 たとえば、肺炎といってもいろいろな種類がございますし、症状の現れ方も違います。いろいろなことがある。それを医師は医学的に捉えて、いろいろな治療をやって行くわけです。従って、A医師のやる治療とB医師のやる治療が全く違うということもあり得るわけです。

 ところが、脳死に関しましては、ガイドラインでぴったりと縛られてしまって、裁量権なるものが認められておりません。そこを皆さんどうお考えになるでしょうか。演者の先生方にお一人ずつお考えいただきたいと思います。いかがでしょうか、どちらからでも結構ですが、答えにくいかもしれません。

 どうぞ。

 

 私自身は、経験から言うと法律に従ってやるほうが楽だと思います。法律に忠実にやっていけば、訴えられることは少なくともない(笑)。困ったことがあったら厚生省に判断を仰ぐ。言い換えれば、主治医のプライドは捨てているわけですけれども、脳死という状態に陥ったということは治療するという主治医の役割が終了したわけですから、そこからは法律に従ってやるということで、脳死と判定されてからは裁量権がないというのはしょうがないと思っております。

 

大塚 大庭先生、どうですか。

 

大庭 我々の所では、カロリックテストを空気でやったということで、あとで厚生省のほうから十分に温度が低くなかったと書かれているのですけれども、新しいマニュアルではすべての脳幹反応の検査の具体的なやり方が出ました。それまでは具体的なやり方が書かれていなかったということで、その意味では我々のやったことは医師の裁量権の中に属するのかと考えております。

 

大塚 神野先生、どうですか。

 

神野 医者の裁量権はどんどん狭められているのが現状ですし、この問題に限って言えば、私はそれもいいかと思っています。一つは、医者の裁量権が厚生省のマニュアルにも言葉として何ヶ所か出てきますが、厚生省の委員会などに出てみますと、委員のほとんどの方が、医者としては残念なことだけれども、やはり裁量権は小さくなっていくというのはご時世だろうという認識があります。

 もう一つは、たとえば私なども医者を32年やっていますので裁量権は多少いただいてもいいかと思いますが、大学病院にいますと若い医者がたくさんおります。そちらのほうが多いわけで、いろいろな者がおりますので、安全を期して、なるべく医者の裁量権というものは少ない方向に持っていかざるを得ない。そういう立場に今私はおります。

 裁量権という言葉は、「一点の曇りもなく」ということとも表裏一体の言葉だと思います。それだけ医者がどんどん袋小路に追い込まれているわけでございますが、これもご時世かと思っています。

 

大塚 濱邊先生、どうですか。

 

濱邊 これは個人的な考えですが、私は脳死状態を人の死だとは積極的には考えておりません。脳死は脳死状態である。死を宣告する場合は、臨床医としては大きな裁量が与えられる、あるいは、臨床医しか死を宣告できないと思っているわけです。

 たとえば極端な言い方をしますと、心電図のモニターをピコピコ最後やるわけですけれども、ピコピコ出ていても「ご臨終です」と言えば、その患者さんは死んでしまうわけです。逆に真っ平らになってしまったとしても、たとえばマッサージをするなり何なりして死を引き伸ばすことも臨床医の裁量として許される。

 何を言いたいかというと、死を宣告するということに関しては、僕は臨床医としての裁量は現在でも認められている、というか、それが本来主治医としての役割だと思います。ところが、脳死というものは人の死ではなくて、脳死状態というある非常に特殊な状態だとすれば、しかもそれが細かくマニュアルによって規定されているのだとすれば、やはりそれを満たすことが要求される。それは裁量ということではなくて、単にマニュアルのチェック項目をチェックするという程度の作業でしかないと僕は解釈しています。

 

大塚 有賀先生、どうですか。

 

有賀 そもそもこの手の話が生じた時から、医師の裁量というか、医学の方法と、社会的な、または、行政的なというか、法的な、そういう方法との確執のようなものがあったのではないかと、遡ってみてよく思います。

 それはたとえば僕が大塚先生に、「脳死判定から臓器移植に行く患者さんを有する病院をあんな4類型、そもそも最初は2類型でしたが、に決めたというのは、どう考えてもおかしいのではないか」とお話ししましたら、先生が「とにかく社会がそういう形でやっていこうということなんだから、おまえ、従えよ」とおっしゃったのです。今神野先生の言われたようなことも、かつて大塚先生が僕におっしゃったことと同じ意味だと、今から思えば感じます。

 要するに、医師がそれなりの経験を持って、きちっと診ることができているとすれば、それはそれでいいのです。たとえばこういう場かどうかは知りませんけれども、いろいろな立場の方から、いろいろと訊かれたら、「それは医学的にこうなんだ」ということをきちっと説明することができれば、レジュメに書いてありますけれども、アカウンタビリティー、説明責任を果たすことができれば、それはそれで認められるべきだと思うのです。それは正に、格好良く言えば「裁量権」です。

 たとえば、耳に血がいっぱい出ていてとか、首がへし折れていてとかということでできないというのは、あれは単にマニュアルに従ったらそうだというだけの話であって、そういうことがあったとしても、「脳死」はきちっと判断しようと思えばできるわけです。

 ですから、疑義解釈のための厚生省の委員会もおそらくは、単に医学の決められる部分を行政の立場で確認しようという話だと思うのです。しかし、そういう意味では、裁量権が狭まっているようにも見えるということに問題があるのではないかと思います。

 いずれにしても、「裁量権」と言うと「いい加減なことをやっている」とマスコミの方たちが言ってしまうものだから、話がこんがらがってしまうのです。実際いい加減なことをやっているわけではなく、医科学に、または倫理学に忠実に正しくやっていこうという専門家の集団がそう言っているのであれば、それは認めるというのが本当の意味での「裁量権」であって、それを認めようとしないということによって、社会が全体として不幸になっていくということをどう考えるかということではないかと思います。

 

大塚 大和田先生、どうですか。

 

大和田 人間の死というのは法律や何かでうんぬんされるべきものではなくて、医師の裁量に任せられるべきであります。今まで「死」ということに対しては、法律でたとえば「こういうのを人間の死とする」という法律がないわけですから、今まで医師に任されてきたわけです。

 今回、脳死というのは、私たちのサイエンスから言えば一つの厳然たる医学的事象でありまして、臓器提供する脳死は死体であって、臓器提供しない脳死は何だかわからないというのは、これは「死」としてきちっとしていないからだろうと思います。今ある法律は、裁量権うんぬんすべきようなものでもなくて、僕は「法的脳死判定」という厚生省から示されているものは一つのセレモニーだと思っています。

 

法的脳死判定とマニュアル

 

大塚 ありがとうございます。神野先生が5時でお帰りになられるというので、先に神野先生の問題を少しお聞きしたいのです。有賀先生もおっしゃいましたけれども、たとえば神野先生の講演の中で「鼓膜の破れた患者さんに脳幹反射の判定ができないから、これは見送らざるを得なかった」ということになったわけですけれども、それが一つできなくてもはっきり申し上げて脳死の判定はできるのです。それが、たった一つの脳幹反射がうまくいかなかったからといって、脳死の判定ができないということで葬り去ってしまっていいのかどうかという問題です。

 厚生省のガイドラインにたて突くわけではないのですけれども、あの通りにやらないと駄目なのか、その辺はどうでしょうか。

 

神野 正確には鼓膜が破れる破れないの話ではなく、脳幹反射は破れてもできるわけです。それも、いつのまにか新聞で「鼓膜が破れている」だけになってしまっているというのも大問題です。ちゃんと頭蓋底骨折があって、脳が外に出てきている、髄液も出ているという状態の時にできないということです。こういう誤解はしょっちゅう起きるような感じがします。

 いずれにしましても、脳幹というと全体で親指大ぐらいの所です。片一方のカロリックテストができないということは、その中の多分9分の1ぐらいの所の部位の検査ができないということです。脳全体として見れば脳死を示していて、他の脳幹反射もそこにオーバーラップして通り道があるわけです。それが全部の脳死を示している。その上で、それこそ数ミリ範囲のところの検査ができないだけで、全部を否定してしまうのは、極めてノンサイエンティフィックな話でございます。

 厚生省の方は、ものすごく真摯に考えられておられます。シャープだし、サイエンティフィックなこともおわかりになる。ですから、我々が考えておかしいと思うことは彼らも当然おかしいと思っている。きちんと対応をされて、会合を重ねられて、もう解決策も見つけられて、既に発表の段階に来ているというところです。

 私個人としてはあの若い娘さんの意思をあの時は果たしてあげられなかったけれども、その後大きな貢献をしていただいたと思って、何となくほっとした気持ちが心の中に一部あるのです。いい方向に向かっていると思います。

 

大塚 そうですか、ありがとうございました。ほかの方、今の問題はどうですか。何かご意見はございますか。はい、どうぞ。

 

濱邊 マニュアルの問題は確かに現場にとっては大きな問題ですけれども、やはり基本的には脳死の定義ということだろうと思います。脳死が「大脳を含む全脳の非可逆的機能停止」と定義されているわけですから、それを具体的にチェックするにはどうしたらいいのかということで、厚生省はいろいろなチェック項目を出してきたわけです。言い換えると、厚生省のチェック項目以外の方法で、「大脳を含む全脳の非可逆的機能停止」が確定できるのであれば、それでいいのだろうと思うのです。

 たとえば一つ例を挙げると、先程神野先生も脳血流の話をされましたけれども、脳血管撮影をやって、完全に頭蓋内に血流が入っていないと確認されれば、脳幹反射とかを一切チェックするまでもなく、「大脳を含む全脳の非可逆的機能停止だ」と言って差し支えないと思います。ただ、それがルーチン化されないがために、厚生省がこういうチェック項目を出してきたということです。神野先生と僕はたぶん意見が違うのですけれども、もし厚生省の出してきたチェックリストが満たされないのであれば、「厚生省が出してきたチェックリストに合わない状態である」とは言えるのだと思います。

 ただ、それは「脳死ではない」という意味ではなくて、「チェックリストに合わない状態である、従って臓器提供者としての候補にはなりません、ドナーにはなりません」ということにすればいいだけであって、「厚生省のチェックリストに合わないから脳死ではない」ということではないと思います。

 

日常の医療における脳死判定

 

大塚 ありがとうございました。お一人ずつお聞きしたいのですけれども、先生方の施設は臓器移植に行かないケース、脳死かもしれないという患者さんに対しては脳死判定をなさっておられますでしょうか。大和田先生のほうから、やっているかやっていないかだけで結構です。

 

大和田 やっておりません。全例にやっておりません。脳死判定をするということは、次に何かのアクション、たとえば呼吸器を止めるとか、何かそういうアクションがつながるケース以外はほとんどやっておりません。

 

大塚 有賀くんの所はどうですか。

 

有賀 研修医の教育という目的で、ガイドラインに書いてあるような無呼吸テストを省いた方法については1回だけやっています。ただ、いわゆる「判定のための判定」はしていません。

 

大塚 濱邊先生の所はどうですか。

 

濱邊 当然のことながらやっておりません。

 

大塚 神野先生の所はどうですか。

 

神野 私の所は、臨床的脳死判定は全例やっています。

 

大塚 大庭先生の所はどうですか。

 

大庭 我々の施設も、臨床的脳死判定という項目まではやっております。ただ、ケース・バイ・ケースで、全例にきちんと平坦脳波を確認するというところまではやっておりません。画像でちゃんと器質的な非可逆的な脳障害を確認するというレベルまでは臨床的脳死判定ということでやっております。

 

大塚 菅先生、どうですか。

 

 慶應病院でも、患者・家族の希望がなければ脳死判定はしておりません。希望があって臨床的脳死判定をする場合も、脳波の検査も感度を上げることはしていません。普通の感度でやっています。

 

大塚 そうしますと、お聞きいただきましたように、多くの施設では臓器移植を前提にしなければ判定をしておられないということになります。臓器移植が前提ということは、当然さっきの話に戻りますけれども、ドナーカードを持っておられるか否かにかかわります。そうしますと、臨床的脳死判断をする段階では、まだ脳死ではないのです。生きているのです。その段階でカードが出てきて、では移植でということで法的脳死診断に移っていくのですけれども、その法的脳死診断に移るときはまだ生きている。脳死ではないのです。にもかかわらず、臨床的脳死診断を行った段階でドナーカードを見せてもらって、法的診断に入る段階では、救命医療を放棄したことになりませんか。

 

有賀 法的には脳死でなくとも、先の集合論で説明すれば、集合Aの四角には入っている。それは医学的倫理的にあきらめることを既に決意しなくてはならない段階である。従って、医学的には脳死であっても、法的な脳死ではない状態を先生は仰っているのだと思うのです。法律上の脳死ではなくても、治療をあきらめざるを得ないという局面が厳然と存在する。そして、そのことは「法的な決定」よりも、倫理的に、つまり私たちの日頃のパフォーマンスとして、もっと上位の決定なのです。このことについての理解は、患者さんのご家族と私たち主治医の間で共有する。従って、共有された後については、「治療を放棄する」という言い方が正しいのだとすれば、それは全く放棄します。放棄していますけれども、早速電気を切ってピッピッピと心臓が止まるようなことをしているかというと、そうではない。

 

大塚 さっき先生が講演の時にお示しくださったように、救命治療に全力を尽くすということをおっしゃっていましたね。

 

有賀 ですから、それは医学的には脳死になる前に、脳死にならないように頑張るということです。脳死になってしまったというその時点までは頑張っています。

 

大塚 だけど、臨床的脳死の段階では正確にはまだ脳死ではないです。

 

有賀 臨床的脳死の段階というのは、医学的には脳死です。つまり、集合論的には前述の集合Aに入るわけです。そして、これは医学的な事象として存在することを忘れてはいけません。従って、「その先の治療」を必要とする状態ではない、私たちはそう考えているのです。

 

大塚 わかりました。はい、どうぞ。

 

大和田 私も判定はしていないとお話ししましたけれども、脳死というのは突然ある瞬間にぱっと脳死状態になるのではなくて、かなりの時間経過があって推移していくわけです。頭蓋内圧を測定しているうちにだんだん、専門的になって申し訳ないのですが、血圧を超えるぐらいに頭の圧が高くなれば、モニター上わかるわけです。それで、当然頭の中に血は行っていないというのがわかります。

 それから、脳幹反射とかああいうことは、その患者を診察している中で何回も繰り返し行われていることで、先程の「セレモニー」という言葉は悪い言葉かもしれませんが、そういう法的に決められたようなある時間に限ってばちっと脳死判定をしているというわけではないということです。臨床的には、いろいろな場面で脳波を取り、脳幹反射を診察し、頭蓋内圧を見るということはやっているわけです。

 

大塚 はい、どうぞ。

 

神野 私は、臨床的脳死判定は全例やるというのは、やはりご家族にきちんと今の状態がそういう状態であるということはお知らせすべきであろうと思いますのでやっております。ときに心臓停止のあとで腎提供をいただく方もございますので、そういう意味でも私は必要だろうと思っています。

 治療方針、救命を放棄するかしないかという問題ですが、私どものほうではカードを持っているか持っていないか、臨床的脳死になろうがなるまいが、治療方針を原則的に変えないというのが最初にあって、ただし、例外が三つあると医局員には言っています。

 一つは高齢者です。実際には80歳以上の方は、医師の裁量というか、私の裁量を許させてくれと申しています。2番目は、ほかにかなりの進行がんを持っておられる方、これもある程度私の裁量に任せてくれと。3番目は、はっきりとした痴呆です。救命センターに来られる前のヒストリーが完全な高度な痴呆であられた場合には、ある程度裁量に任せてくれ。この3つが逆に例外としてあって、ベースは何であろうが治療方針を変えるなと。

 その時に議論がありましたのは、たとえば生意気な医局員ですと、そういうことが経済効果の問題でどうだとか、医療費を使い過ぎるのではないかとか、そういう話はいくらでも彼らのほうから意見が出ました。

 ただ、私は思いますのに、そういう患者さんの経済効果をうんぬんして何かしなければならないような日本の経済というか日本の国であれば、本当に貧しい国で、むしろそちらのほうがみっともない話でございます。日本はもう既にそんな国ではないはずだということで彼らを説得しています。

 ドナーカードの提示の話ですけれども、確かに私どもの2例におきましてもそれとなく情報は入ってくるのです。臨床的脳死に入ろうか入らないかのところで情報は入ってきます。けれども、これは一切看護婦さんその他にも公表しないようにします。とにかく完全に臨床的脳死判定が終わるまで、ドナーカードを持っているか持っていないかということで影響を受けるということが極力ないようにしているというのが基本方針です。

 要するに、問題は治療の基本方針がその施設においていったいどこにあるかという、それにプラス当然医療ですから例外はいくつかあると思うのです。例外のほうが医師の裁量の分野であって、原則のほうで医師の裁量が入ってしまうといけないと思っています。

 

大塚 よくわかりました。大庭先生、どうぞ。

 

大庭 先程大塚先生が、「どの時点まで救命救急医療を続けるか」ということをおっしゃられましたが、脳死というのは一本の線に例えられるとお考えいただけると思うのです。心臓死が点だとすると、脳死というのは一つの線に例えられる。臨床経過としてどんどん患者さんの状態が悪くなって、先程大和田先生がおっしゃっていられましたように頭蓋内圧が高くなってきますと、瞳孔が開いて脳幹反応がなくなって、最終的に自発呼吸が止まるのです。

 そのあとで、ハイポテンションアタックという急激な血圧の低下が起こります。それをポイント・オブ・ノー・リターンと言って、日本では切迫脳死と言うのですけれども、臨床的にはそこからがいわゆる脳死状態だろうと考えられております。現実問題として、そこからまたしばらくの間、救命救急医療は続けられます。それは、脳死というのはあくまでも臨床的な概念でありますので、完全に判定しなくてはならない法的脳死判定以外にも、臨床的脳死判定をやる方法はいろいろあるわけです。

 ですから、私は確実に患者さんにとっても一番わかりやすいと思うのは、ハイポテンションアタック(低血圧発作)が起こって、もうポイント・オブ・ノー・リターンと言われる状態を過ぎたあとで、たとえばCTを撮って()(まん)性の完全な低吸収域を確認された時点で、患者さんのご家族に臨床的な脳死状態であると告げる。そこまでが救命救急医療、そこから先は延命かあるいは終末医療になると私としては考えております。

 

大塚 ありがとうございました。大変クリアカットにご説明いただきました。

フロアのほうから何か、はい、どうぞ。

 

尊厳死を望まれた時

 

山内喜美子 ライターをしております山内喜美子申します。日本の脳死判定は、臓器提供の意思があって初めて脳死判定をしてもらうことになっているわけですけれども、尊厳死の問題からいって「自分は臓器提供しないけれども、脳死の段階になったらそのあとの治療はしてほしくない」というような本人の意思とか、また家族の同意などもあった場合には、先生方はどう対応されるのでしょうか。

 

大塚 どなたにですか、皆さんに一通り聞きますか。

 

山内 そうですね。

 

大塚 今度は向こうから、菅先生、どうぞ。

 

 ご家族の希望がございましたら、脳死判定は致します。その後の治療法に関してはご家族の希望に沿うようにしますが、基本的に呼吸器をはずすことはしません。昇圧剤と点滴を絞ることで対応しております。

 

大塚 どうぞ、大庭先生。

 

大庭 我々の施設では、尊厳死を考えておられるご家族の場合には、脳波を含めた無呼吸テストも含めた脳死判定を行います。そのあとでどうするかということになるのですけれども、このままレスピレーターを止めてもらいたいという場合には、これは言葉のあやに入るのですけれども、1回全く何もしない状態に戻す。結局、レスピレーターをはずすということは、レスピレーターをはずすのではなくて、自発呼吸が止まった状態にしてあげる。それで「再装着をしますか、しませんか」と一応お尋ねをして、「やらないでください」と言ったらそのまま自然経過に任せるということをやっております。ですから、やること自体はレスピレーターを止めるということです。

 

大塚 神野先生、どうぞ。

 

神野 私は32年間たくさんそういう経験がありました。尊厳死ということはもちろん十分に理解致しますが、それでそれまでの治療を急激にダウンしたということは一度もございません。もちろんちゃんとご家族と何回も話し合います。あとで、「やはり精一杯のことはやったのだというので、今となったら良かったと思われる」という手紙をいただいたのも1通や2通ではないです。何日も何年もそういう状態でご家族が待たれるわけでもないし、患者さんに何年もそういう目を遭わせるわけではないです。長くて2週間ぐらいだと思うのです。だいたい本人は意思が何もわからないのですけれども、周りのご家族が、非常にかわいそうだという精神的な苦痛があるのでしょう。

 でも、いつも「必ず明日はわが身ですから、自分がそういう目になったときに、家族は現代の医学で精一杯やってくれたほうがいいのではないですか」という話をします。そうするとだいたいご家族の方は、今までの経験では納得していただいて、実際に呼吸器をはずすということは、私は1例も経験がありません。

 

大塚 ありがとうございました。濱邊先生。

 

濱邊 今のご質問はつらいです。つらいというのは、正直言いましょうか、医者というのはとてもうそつきです。裁量というのは、実はうそつきです。裁量権はうそつき。神野先生はさっき30何年間の臨床経験で高齢者とがんと痴呆に関しては俺の裁量を通せとおっしゃいました。それも少し極端なのかもしれません。逆に、僕は20年間の臨床経験の裁量を現場で通しています。

 何を言いたいかというと、今質問者の方がおっしゃったように、尊厳死を望む場合と反対に延命を望まれる方もいるわけです。実際心臓がもう止まってどう見ても死んでいるのに、「まだ生きているから、先生、何とかしろ」と言ってむしゃぶり付いてくる家族がいるわけです。そのとき引導を渡すのも、実は主治医の役目です。

 尊厳死を望む場合で言いますと、実際にこういう例がありました。「うちの母親は尊厳死を望んでいますので、先生、レスピレーターを止めてください」と言った時に、非常に真っ当な申し出だと思ったのですが、さっき言いましたように医者はうそつきですから、「わかりました、はずしましょう」とは絶対言いません。どう言うかといったら、「そんなに慌てなくても今晩辺り山ですから、少し見守りませんか」。つまり、そこが臨床経験、たかだか20年しかないので申し訳ない、20年で裏打ちされた演出だと思ってください。

 つまり、そこまで来て土俵を割ってしまえば、あとは人間的なやり取りだろうと思うのです。それが広い意味での裁量に入ってくる。さっき有賀先生は講演の中で「演出」という言い方をされましたけれども、演出です。演出というのは、裏を返せばうそをついている部分はあるのです。これ以上言わせないでください。もう、僕、医者をやっていられなくなります(笑)。

 

大塚 有賀くん、どうぞ。

 

有賀 濱邊先生の本がよく売れる理由はこれだろうというのがよく分かります(笑)。濱邊先生と僕と少し違うのは、僕は正直だということです(笑)。そういう方は確かにいるでしょうが、「これがその書類でございます」と言う方に私は会ったことはありません。ただし、それに非常に近いことをおっしゃって、何となくナウいというか、尊厳死の雰囲気を、例えば家族の希望を、主治医が述べるカンファレンスの中で感じることもあります。ただ、そのような場合でも一応お話は聞きます。そして、早速レスピレーターを切るという方法もあります。または相当程度今と同じようなお薬を使い続ければそこそこ行くでしょう。だけど、そういう方法もあればその中間ぐらいの方法もあります。もう1回よくご家族全員の方々とお話し合いをして下さい。またご親戚もいるでしょうし、遠くから、たとえば九州から明日ようやく伯母さんとか伯父さんとかが見えるかもしれないではないですか、その方たちともお話ししてみてください」と言って、いったん帰ってもらいます。

 そうすると、非常に極端な長さとか、非常に極端な短さを要求するご家族はいません。濱邊先生が言うようなかたちでの言い回しはしませんが、そこそこのところで最終局面を迎えます。ですから、本当に困ってしまうということは、実はあまりありません。

 

大塚 大和田先生どうですか。

 

大和田 尊厳死、脳死、それから何かのアクションということの質問だと思います。僕も神野先生とほぼ同じぐらいの医者の経験を積んできているのですけれども、尊厳死を希望した患者さんに2例ぐらいお会いしたことがあります。脳死を判定してくれないかということは対応するかもしれませんけれども、私自身、自分で患者さんの呼吸器を切ったりはできない。私自身、「尊厳死」というものがどういうものかというのを、この歳になってもまだよく自分で割り切れていないといいましょうか、そういうことですので、私も患者さんの尊厳死うんぬんに対してすぐにぱっと対応するということはありません。

 

大塚 ありがとうございました。5時を少し過ぎておりますが、神野先生、よろしゅうございますか。どうぞいつでもご退席いただきたいと思います。ほかの先生はもう少しお付き合いいただきたいと思います。

 それでは、ほかに何かございますか。どうぞ、フロアのほうから。はい、先生どうぞ。

 

法律家の目から

 

町野 今、裁量の問題と尊厳死の問題が出てきたのですけれども、やはり基本は脳死概念についての混同だろうと私は思うのです。何回も言っていることですけれども、この法律は、「こう判断されたものは脳死と言う」と定義しておりますために、判定されなければ脳死ではないかのようにも読めるわけです。これが論理的でないことは明らかで、判定される前から脳死はあるということです。

 ですから、法的脳死がされるか、あるいは臨床的脳死がされるか、それと関わりなく脳死そのものは存在している。ただ、それをどういう格好で確認しているかの問題であって、脳死体からの臓器移植を行う場合については法的な脳死判定という手続きを取りなさいということだけだろうと思います。

 先程大和田先生が「死の判定というのはもともと医者の裁量だ」とおっしゃられましたけれども、死の概念そのものは、おそらく医者の裁量の問題ではないと思います。これがおそらく多くの法律家の誤解を招いて、医者は何と思い上がっているのかということを言われると思うのです。おそらく本意はそこにあるわけではなく、脳死を人の死だとした場合に、その判定の方法については医療的な裁量が認められてしかるべきだというご趣旨だろうと思うのです。私はその限りでは理解できます。

 これとの関係で、鼓膜が破れていた時の脳死判定の問題がありましたけれども、これは私はいまだもってわからないのです。少なくとも法律上は規則までが法律でございまして、そこには何も書いていないのです。今ガイドラインを確認しましたが、ガイドラインにも明確なことは書かれていない。結局、確かに理屈としては脳幹を含む全脳機能の非可逆的停止が確認できればいい、そしてこの規則に掲げられているような項目がクリアできればいいのだというだけの話ですから、私はおそらくやってしかるべきだったのではないかと、今でもわからないところがあるのです。

 ただ、「一点の曇りもない」ということがありましたので、ああいうことになったのだと思います。その点についてのご不満を私は非常によく理解できます。私はあまり好きではありませんし、先生方の責任ではないかもしれませんけれども、和田心臓移植がそれだけ大きかったということは自覚せざるを得ないだろうと思います。やはりああいうことがあった以上は、これを打ち消すためにどれだけの努力が必要かということを、おそらく行政の側も考えたのではないかと思います。

 もう一つは、先程の尊厳死の問題です。脳死がもし人の死ではないとするならば、これは尊厳死の問題です。しかし、脳死は人の死である以上は、これは尊厳死の問題ではないのです。死後についてのまさに作法の問題だということでございます。ですから、たとえば心臓マッサージをして全部止まってもう動かない、「ご臨終です」、「そんなことを言わずにまだやってください」と頼まれたら、それはやるだろうと思うのです。それと同じ問題だと思います。だから、尊厳死の問題と今の脳死の問題とを混同するというのは、私は少し具合が悪いことになるのではないかと危惧します。

 

医師にとっての「脳死」「人の死」とは

 

大塚 ありがとうございました。今ご指摘いただきましたように、確かに技術的な問題のところもたくさんあるのですけれども、この先生方の中では脳死は人の死ではないと思っておられる方、濱邊先生は先程そのようなことをおっしゃっていましたね。濱邊先生は、脳死は人の死ではないと本心で思っておられるでしょうか。

 

濱邊 本心ですか(笑)。正直申し上げますと、脳死が人の死とは思えません。もっとさかのぼって言えば、何を持って脳死とするのか。つまり、脳死状態をどういう状態だと規定するのか。脳死臨調あるいは厚生省が言っている「脳幹を含む全脳の非可逆的機能停止」というのが脳死の定義だとすれば、僕は脳死が人の死だとは思っていません。ただ、脳幹を含む全脳の非可逆的機能停止をチェックするための項目はいっぱいあるわけです。話がずれましたので結論だけ言いますと、僕はそういう意味での脳死は人の死ではないと思っています。

 

大塚 よくわかりました。ほかに脳死は人の死ではないと思っている方、大庭先生もそうですか、どうぞご説明ください。

 

大庭 私も濱邊先生と同じように臨床の現場にいる人間ですので、脳死状態は絶対に助からないということだけは自信を持って言い切ります。ただ、それが死体だときちんと家族に自分の確信を込めて言い切るだけの自信がございません。ですから、臓器移植に持っていくということは、結局その中の臓器はほかの人の体に入っても生きているわけですから、それを死体とあくまでも決め付けるということだけで、それは自分の頭の中でなかなか納得できることではない。だから、私自身は助からない、絶対に死にますということは言えますけれども、これは死体だということは、心臓死になるまでは自分では言っておりません。

 

大塚 ありがとうございました。ほかに同じような意見の方はいらっしゃいますか。はい、どうぞ。

 

神野 私も前から言っているのですが、個人的には脳死の状態が患者さんの、人の死だという感じはいまだにありません。やはり温かいですし、爪は伸びていくし、ひげは伸びていくし、あの状態を見ていて、私個人としては人の死だとは思いません。特に僕は宗教が好きなものですから、そういうところから見てもそうは思いません。

 ただ、脳外科医で救急という提供者側のどんぴしゃの場にいるものですから、これは医局員といつも言うのです。「我々の心を二つに分けよう。個人の心はもうご自由、教授といえどもとやかく言えることではない。ただ、職業人としてのマインドは、そういうどんぴしゃの場でいるのだし、そういうことを待っておられる患者さんがおられるのだから、協力できることは最大限に協力しよう」と姑息的な方法で心を2つに分けまして、それで実際の活動をやっているのが現実です。

 

大塚 ありがとうございました。お聞きいただきますように、救急医療をやっておられる方の中にも「脳死は人の死ではない」とはっきりおっしゃられる方はまだ結構いらっしゃるのです。これはよく考えていただかなければならない点だと思います。

 そうなりますと、今、脳死は人の死ではないと致しましても、脳死というものは厳然と存在しているわけです。その脳死に、臓器を提供しない場合の脳死と臓器を提供する場合の脳死と、実は法的にと言ってもいいと思うのですけれども、二つに分けられております。その辺はどうお思いになっておられるのでしょうか。二つの脳死をどう考えておられるのでしょうか。大和田先生のほうからひとつお願い致します。

 

大和田 それは先程少しお話ししましたけれども、脳死ということは一つの医学的事象ですから、移植する、しないということとは関係なく脳死という状態はあるわけです。その二つに分けるということの意味については、僕もなかなか自分でもはっきりお答えできるものがないというのが、その通りだと思います。

 

大塚 有賀先生、どうぞ。

 

有賀 私は個人的には脳死は人の死だと思っています。ただ、医者は現実の現場にいて仕事をしていますから、そう思っていないご家族がいるということを知っていなければならないということを医局スタッフ間での合意にしています。ですから、私はそう思う、しかしそれを押し付けるつもりはない。つまり、そうではない家族もいるということを知って現場でやろうではないかという話です。

 先生の今言われたご質問に答えるなら、そういう意味ではおかしいのです。おかしいということは十分認識しています。詰まるところ最終的なゴールは、あるものに関しては殺人罪にしないとかを法的に決める、そういうようなことのために決めざるを得ないのだということと理解しています。法治国家ですから、法律に従うという意味においては納得しているということです。しかし、心の中では変ではないかと思っています。

 

大塚 はい、矛盾を感じておられるわけですね。

 

有賀 そうです。

 

大塚 濱邊先生、どうですか。

 

濱邊 結論から言うと、矛盾ではなくて方便だと僕は思っているのです。確かに脳死臓器提供する場合としない場合で2通りあるではないかとおっしゃるかもしれませんが、脳死状態は一つだけだろうと思います。

 ただ、最初にお話ししたように現行法は非常に良くできていて、提供する場合のみ脳死を人の死として扱いましょうというような、これはまさしく方便だと思うのです。それは、取り出す側が死体だから安心して取り出せる。つまり、死体ということにしてくれないとメスを突き立てられないというのがベースにあると僕は思っているのです。

 つまり、法律を変えて脳死状態で取ってもいい、それが法制局なり何なりいろいろな法律的な根拠があるかもしれませんけれども、死体でなくとも、これこれこういう場合にはメスを突き立ててもいいのですよということが確定されれば、片方は死んで片方は死んでいないというような矛盾は解消されるという程度の方便だろうと僕は思っています。

 

大塚 神野先生、その辺はどうですか。

 

神野 両者とも私にとっては別に差はありません。ただ、後者の場合は法律の世界のことが入ってくるもので面倒だというセンスが重なる(笑)。ただ、いずれにしても人の死をちゃんと(まっと)うしてあげようという気持ちだけで、治療方針が変わらないものですから特に変わりはありません。

 

大塚 大庭先生、どうですか。

 

大庭 私は、脳死状態というのは、一つの時間的な経過を表すものだと考えています。その期間を人為的に延長したり縮めたりすることができるということで今の移植医療が可能になっているわけですし、我々にこれができるということが、一つの大きな問題ではないかと思うのです。

 私にとっての脳死といいますのは、臓器移植法に書かれてありますように、臓器提供に供されることになったものの身体と、いわゆる法的に規制された移植になる場合の脳死状態とそうでない脳死状態と、私の頭の中ではクリアに分けられております。ですから、移植にならない脳死状態に関しては、これは一つの期間をどのように我々が医療の立場として、主治医の立場としてやっていくかということです。移植に入った場合には、そこに全く我々と関係のない他者が入ってきて、その人の命を縮めたりするという操作が入るわけですから、それに関しては法的に非常に大きな規制があるのは当然だと思いますし、それを判定する我々にはそれだけの責任がある。

 ですから、法的脳死判定というのは、法的により厳密に行わなければならないと自分では考えております。法的な厳密性ということが、2つの脳死の間の一番大きな問題だと考えております。

 

大塚 はい、菅先生、どうでしょう。

 

 私自身の中では人の死、それから医学的な脳死というのは一つだけです。ですから、医学的な脳死を判定するというところまでが医者の裁量権と考えております。医者の裁量権によって脳死であると判断してからあとは、言い方はあれですけれども、手順に従ってそれぞれの本人並びに家族の希望によって終末を迎えられる方、臓器移植を希望される方と進んでいくという状況ですので、自分の中では矛盾は持っていません。

 

大塚 ありがとうございました。さて、フロアのほうから・・・。はい、どうぞ。

 

救命できなければ「敗北」か

 

 JR東京総合病院の北と申します。救命救急医療には研修医の2年目の時に関わっておりまして、大した経験ではないのですけれども、三次救命救急センターで働いていた経験があります。お話を聞いていますと、救命できなかったら敗北だったと思っているようなニュアンスが出てきたと思うのです。

私は救命救急医として働いていましたけれども、救命できなくても、たとえ医学的な脳死になっても、次にその人が臓器提供を望んでいるなら、今度は臓器を生かす、臓器を救命するという目的もあると思うのです。それは死ぬことがどうもネガティブだという考え方があるような感じを受けました。

 僕はデス・イズ・ナチュラルだと思っているのです。病気になればある程度生かす手はあるかもしれないけれども、人は基本的には死んでいくものだ。デスはナチュラルだから、いかに患者さんが望むことをサポートできるかということが医者としての最大の務めだろう。だから、救命救急医は救命して完全に社会復帰させる、これがもちろんベストの方法ですけれども、できなかった場合は、脳死になったときは今度はその人の臓器を救うのだ。それで駄目なら、ターミナルでその人が望むように、あるいは家族が最大にいいことをしてもらったと思えるような治療というかサポートをする。それが治療になっていなくてもサポートする。それでいいのではないかと思うのです。

 だから、脳死になったら終わりでもう関係ないというわけではなくて、救命救急医である前に医者なわけで、医者である前に人間ですから、人間としてサポートする。それでいいのではないかと思うのです。

 

大塚 今のご意見、どうぞ。

 

大和田 「敗北だ」と言うのには、いろいろな意味合いがあると思うのです。先生もご存じのように、「くも膜下出血とか脳血管障害の患者さんからの移植で何百人助けられる」とよく移植医の先生方に言われるのですけれども、年間交通事故だけで1万人、そのぐらいの人間が死んでいるわけです。

 私たちが敗北だと言うのは、決して病院の中に閉じこもって医療のレベルだけで言っているのではなくて、患者に対する市民教育、たとえばどうやって塩分を取らないようにするかから始まって、交通事故のためには、極端な話ですけれどもたくさん信号機を付ける、あるいは車の制限時速をもっと抑える。それから、患者の情報、搬送システム、そういうことについて、本当に完璧、ということはできないのでしょうけれども、最善の策が採られているのかどうか。

 たとえば変な話、こういう所でこういう話をしたら非常に失礼かもしれませんけれども、たとえば臓器の搬送とかそういうことには、やれヘリコプターだ、チャーター機だと使われますけれども、救急の医者の中では、急患の搬送が間に合わないというのはざらにあるのです。そいうことがいったい本当にいいのかどうか。僕たちは救急医ですから、どうしても救命救急側に立ちますけれども、そういうことも含めての敗北だという意見が時々出るのだろうと思います。

 

 私も常々思うのですけれども、注目される医療にはたくさんお金が使われて、人も行く。救急ももちろん重要なことですが、一般の市民レベルの救急で、たとえば心停止の心臓死は100パーセント大丈夫だと言いますけれども、研修医が1人しかいないような病院に運ばれて亡くなるような人もいっぱいいるわけです。そのくせ脳死のほうは、大学病院で何十人ものスタッフでこれ以上はできないというぐらいやってもまだ文句を言われる。このアンバランスが僕は問題があると思います。

 

神野 先生がおっしゃるように全部ナチュラルでいっていたのです。ややこしくなったのは法律の世界です。あれが加わってきただけに、脳死の法的判定というのは実際やってみれば本当に厄介なものです。やればやるほど穴がわかってくるのです。知らぬが仏で通ってしまうというところがあると思うのです。けれども、知れば知るほど、正直なところ法律が不備です。マニュアルも不備です。それは言いたくはないけれども、本当にわかっている人が作っていないからです。(笑)根本的にそこに原因があるのです。

 それをまたわかっていない人がいろいろなコメントを言うでしょう。だから、ごちゃごちゃになってしまっているのが現状です。本来は極めてシンプルなものです。先生のおっしゃる通りです。

 

 マニュアル化するということは、僕は非常にいいことだ思うのです。つまり、スタンダードを作る。皆が共通の目的で作るわけですから、そこに先生のようなプロが入っていただいていいものを作っていただくというのが一番重要ではないか。

 

一人一人違うのです

 

神野 プロとか何とかではなくて、患者さんというのは一人一人違うのです。その違いがああいうものに網羅、包括できないのです。ないものねだりかもしれませんけれども、そこに難しさがあると思うのです。

 たとえば、筋弛緩剤の残っている方、太っている人、太っていない人でもデータが違うのです。脂肪に蓄積されるかされないかとか。だから、一人一人患者さんは違う。それを一つのマニュアル、一つの法律で全部決めてしまおうと思うところと、それで何かはずれたらものすごいミスをしたというようなマスコミさんの態度も大問題です。

 

大塚 濱邊先生、どうぞ。

 

濱邊 今のご質問でいくと、確かに僕も中で言いましたけれども、救命センターの医者だって2つ役割があって、とことん社会復帰目指してやれることを全部やるというのが一つ、もう一つはそれで土俵を割ってしまったらいかにご家族の方にそれを受け入れていただくか、いわゆる看取りを持っていくか、僕は大きく2つだけだと思っています。

 先生はその3つ目として、では「臓器を助けるということはないのか」とおっしゃいましたね。そのことに関して言いますと、僕は医者はもっと謙虚であるべきだろうと思うのです。先生は、確かに先生のお立場で臓器だけを助けてそれをどこかで利用するというのはとてもいいことだから、それをやるべきであると思っていらっしゃると思うのだけれども、僕に言わせるとそれは先生の価値観だろうと思うのです。決して万人に受け入れられた価値観ではないと思うのです。

 つまり、もっと慎重になる必要がある。神野先生がおっしゃったように「一人一人違うのだ」という言葉の中には、臓器をあげたいと思っている人もいるし、嫌だと思っている人もいるし、いろいろな人がいるわけです。そのことと臓器を助けることは医者の役目だからということを一くくりにしてしまうのは、僕はとても危険だと思うのです。

 あえて言うと、医者が勝手に脳死というものを作り出しておいて、それを人の死かどうか、さあどちらだ、と突きつけるのは、一般の方からするととても無責任な言い方になるのではないかと思うのです。医者が脳死判定をして、「どうしますか、人工呼吸を付けたままにしますか、それともはずしますか、どちらかを選んでください」と言ったら、「おいおい、誰も脳死なんて訳の分からない状態にしてくれなんて頼んでないのに、そのうえどちらかを選べだなんて余計なことをこちらに押し付けないでちょうだい」というのがおそらく一般の方の思いだろうと思います。

 医者として正しいということと、それがいわゆる人間一般にとって正しいということには、僕は必ず乖離があると思うのです。そのことに対してもう少し敏感になるべきであって、慎重になるべきだと思います。

 

 プロフェッショナルとしては冷徹な面が必要だと僕は思うのです。プロフェッショナルというのは、あくまで感情に左右されず、冷徹にものを判断する。ただ、それプラスその人がどういう人間性を持っているかというのはまた別の問題で、どのように患者さんのパターンに合わせて対応していくというのがその人の持っている人間の幅だと思うのです。相手がどういうことを望んでいるかということを敏感に察知して、それに応じて対応する。

 ただ、医者としては脳死というものを一応学んでいるわけですから、一応こういう状態になったということを診断する。判定するかどうかは別にして、診断して記録に残しておく。必要であれば家族に説明するというのが最低必要な義務だと思うのです。

 

濱邊 おそらくプロに徹すれば徹するほど、さっき神野先生がおっしゃったようにわからないことがいっぱい出てきます。わかったようなふりをしているのが一番困ると思うのです。逆に言いますと、プロであればあるほどもっと謙虚になってほしいのです。わからないことはいっぱいある、あるいは自分のやっていることはいいことだと思わないで、ひょっとしたらどういう意味があるのだろうかということを反芻(はんすう)するというのが僕はプロだと思っています。

 それが冷徹かどうかというのはわかりませんけれども、そうすることでおそらく信頼が得られるし、そうすることで医者の裁量というのが認められてきたのだろうと僕は思います。それを踏みはずすというのはとても危険だと思います。

 

 ただ、現在あるすべての医学知識を総合して、自分が勉強した範囲で、今の時点で診断というものをしなければ仕方ない。今教科書にあることは半年たてば間違っていることがいっぱい出てくるかもしれませんが、自分が最大限勉強してこれ以上は知らないということで診断しないと仕方ないですね。知識というのは常に変わっていくものです。

 

大塚 有賀くん、どうぞ。

 

有賀 ですから、患者さんが脳死状態に至るまでに関して言えば、とことん頑張っている、これは先生いいですよね。そして、そのあとそのような医学的な事象なり状況に関して患者さんのご家族にもお話し申し上げて、もちろんカルテに記載し記録を残します。アカウンタビリティという話をしましたから、それはそれで記録ということになるわけです。そういう局面までは共有する。

 そして、その先において臓器を使ってくれという話がもしあれば、それはそれで私たちが持っている基本的な医学的な知識を使って臓器を救うための何かをする。多分、救命救急側の医者よりも、むしろ移植の先生とか、場合によっては昭和大学はそうですけれども、救急側には頼らないという意見によって、麻酔科の先生が「そこら辺は一肌脱ぐ」と言ってくださっていますから、そこでバトンタッチするのでしょう。そういう意味においては、臓器を救うということに関して合意があるのです。

 その合意の究極の局面はどうなっているかというと、今の日本国においては、このような法律とその法律を運用するためのガイドラインなるものが私たちの所にかぶさってきて、それに従ってやっているというだけの話です。

 ちなみに、先生のコメントだけを一般の方が聞いて場合によっては誤解するかもしれないので補足しますと、脳を助けるために体中の臓器を動員していますから、相当程度、いろいろな臓器が傷んでしまっているということがあります。あたかも脳だけがやられていて、あとは非常に使い物になるような物体が横たわっていると、もしここにおられる方が感じたとすれば、それは間違いです。

 僕たちが一生懸命頑張ったあとの臓器は、肺臓も心臓も肝臓も腎臓も、とてもたくさん傷んでいます。これは、傷まないようにしようという話ではありません。救うためにはとことん頑張って、とにかく徳俵の辺りまでは頑張っているわけです。そこで俵を割って、初めて患者さんのご家族に対して、私は自分の考えはそうですけれどもそうではないという家族もいるということを前提にして、脳死状態に関する理解を誘うという話です。そこら辺は整理していただかないと困ってしまいます。

 それから、先ほど大庭先生が「厳密な法的な脳死判定」とおっしゃいましたけれども、医学的な脳死の局面に関する理解の仕方というのは、決して厳密の反対の「いいかげん」というわけではありません。むしろこちらのほうが大変なことです。つまり患者さんの治療についてあきらめるということを患者さんのご家族にお話をして、そしてそういうあきらめてはならないという価値観でやっていこうということを決めることのほうが、はるかに倫理的にとても大変なことなので、医師の仕事という意味では余計たくさんこちらのほうが厳密です。これも誤解をしていただかないために補足しました。

 

大塚 ありがとうございました。

 

 

 

 

 

法律の大前提となっているのは

 

神野 今の話に関連してですが、脳死と臓器移植では、とにかく大問題が一つあると思うのです。臓器移植は現在の医療水準で最善の治療を尽くして、なおかつ刀折れ矢を尽いた時に始まるのだという前提で確かあの法律は始まっています。そうしますと、みんな今まで自分の持っている知識、その場でのいろいろな機械を使ったりして一生懸命やるわけです。

 ただ、たとえばがんの場合、どこかの離島の病院のがんの治療と国立がんセンターのがんの治療とは、最善の治療に差があるわけです。けれども、あそこの病院はあのレベルであれだけ一生懸命やったからいいではないかというのが、普通何となく世の中を通っています。ほかの業界でもこういう考え方が基本的に通っていると思うのです。

 ただ、臓器移植の場合にそれが通るのか通らないのかが、我々もいまだによくわからないのです。そうなると、がんの治療は全部国立がんセンターに送ってそこで判断してもらうということと同じことになってくるのです。そうすると、あの法律の大前提というのはいったいどうやって証明するのか。多分脳波の付け方がどうのこうのとか何とかという話も、その病院ではとにかく最大限のことをやっているのです。基本的には脳死は間違いないのです。だけど、付け方は国立がんセンターとは少し違うかもしれない。これはいったいどういうふうに解決していくのかわからないのです。

 それをマスコミの方も何となくわかっているから、地方の何とか病院の、どうせ大したことはないのだろうというような話でペンがどんどん走っていってしまうのです。これは僕は法律家の先生や、法律を作った先生方の大前提の条文はどういうふうにこれからやっていくのか、1回お聞きしてみたいと思っております。

 

大塚 大庭先生、どうぞ。

 

大庭 今の「最善の治療」という項目は、確かガイドラインの低体温治療をやるかやらないかというところに一言ぐらい記載されていたことだと思います。そのほかのいわゆる臓器移植法にはそのような項目は確か全然なかったと私は記憶しております。

大塚 ありがとうございました。

 

渡辺 総合司会の立場を離れて質問をしたいのです。今日お話を聞いていて、脳死というのが専門家の先生から見ても大変難しい問題だということはよくわかったのですが、素人の立場から言いますと、医学的な脳死と法律的な脳死が二つ併存するというところがそもそも何か話をややこしくしているのではないか。たとえば、アメリカとかヨーロッパで今行われているのは、きっと医学的な脳死、先生たちが先程来おっしゃっている裁量によって脳死だと思われたらそこで脳死になって、次に移植となるかならないかは別として、そういうことになっているのではないかと思うのです。

 それで質問したいのです。今は法律があるわけですからしょうがないのですけれども、あるべき姿として法律的な脳死というのが今あるわけです。この状態と併存する状態が望ましいのか、あるいは脳死は一つだという考え方に行くのが正しいのか、それはどうお考えになっていますでしょうか。

 

脳死をめぐる法律のあり方

 

大塚 神野先生どうぞ。

 

神野 私は現時点においては、それと近未来においては、併存していくほうがいいと思います。その最大の原因は、やはりとんでもない医者がいることです。医者側の責任だと僕は思います。それだけきちんと信用されていないのであって、これは法律がいいとか悪いの話ではないと思います。我々の自浄作用がきちんと効いていないという、その1点に尽きると思います。それにはまだちょっと時間がかかりますから、併存せざるを得ないと私は思います。

 

大塚 はい、ほかの先生方はどう思いますか、併存するかどうか、一つにしてしまったほうがいいのか。なかなか難しいですね。

 

有賀 必ずしも議論のために言うわけではないのですけれども、基本的には町野先生のおっしゃるようなかたちでの筋を通したいというか、そういう基本的な方針をまず決めたうえで、医師が脳死だと判断すれば、それは脳死であるという方法が私は一番話がすっきりすると思います。訳のわからない医者が訳のわからないことをするかもしれないということについて担保する方法としては、これはうまくいくかどうか知りませんけれども、やはり客観的ないわゆる「質の評価(quality review)」ということで対処する他はない。つまりこれは脳死の医療に限ったことではなくて、どんな分野でもそうなのです。どんな診治療に関しても一定の質の評価、クオリティーコントロールをするような方法論を導くことが大事なことだろうと思います。それによって、医療の質が評価される、その延長上に脳死の判断もある。アカウンタビリティーに欠ける医療は排除されるので、そのような状況がかなうなら、医学的に脳死なら即脳死でよい。

 

臓器移植の展望

 

大塚 だいぶ時間が過ぎて参りました。最後に、演者の方々に、将来に向けての臓器移植の展望をどのようにお考えになっておられるのか、お一人ずつお伺いしたいと思います。

大和田先生のほうから参りましょうか。難しい質問かもしれません。

 

大和田 先程データで示したように、今のままのやり方でいく限りは、かなり急性での臓器提供者になり得るような患者さんが運ばれてくる中小の施設でやっても、年間これだけ7千万枚だ8千万枚だというドナーカードが出ても、おそらく計算でいくと年間1人ぐらいでしょう。ということになれば、今のままでは絶対に良くはならない。やはり、何か啓蒙の仕方、あるいはもう少し一般市民の納得の得られる方法、僕自身、どうやればいいのかわかりませんけれども、少なくとも今のままでは臓器提供は増えないと思います。

 

大塚 はい、悲観的でございます。有賀先生どうぞ。

 

有賀 対極的な政治評論家的な言い方をすれば、大和田先生の言われる通りなのではないかと想像しますが、この手の問題の基本は、人々がそれぞれの立場でどういう死に方をするのかということについて、それなりの議論がなければどうにもならないと思うのです。今の状況は永久に死なないと思っている人ばかりが世の中に住んでいるという、これしか考えようがないのです。

 救命救急の現場で患者さんに今濱邊先生が看取りの話を一生懸命していましたけれども、人々は死ぬことなんて考えたこともないわけです。そういう人たちばかりだったらこれはどうにもならないのです。きっと死ぬ、そのときはどうなんだという、どうせ死ぬのですから、そういうことを家庭なり学校なり社会なり、とにかく人は群れて生活しているわけですから、そういうふうな何らかのかたちでの議論がない限り、これはどうにもなりません。

 これは、たとえば自衛隊の問題にしても何でも、みんなそうです。からっきし永久に安全で健康なまま生き続けると思い続けている国全体脳天気というのでしょうか、この状況をどう克服するかということになると思うのです。

 

大塚 そうすると、「もう少し死の教育をせい」ということですね。

 

有賀 死の教育というか、生きることについての意味ですね。

 

大塚 わかりました。濱邊先生はどうですか。

 

濱邊 大筋は有賀先生がおっしゃった通りだと思うのです。中でも言いましたが、ドナーカードを持つことの意味が単に臓器をあげるあげないではなくて、自分の死に方というか、死に様というか、それは裏を返すと、自分が今どういうふうに生きるのかということだろうと思うのです。だから、僕はそういうことを示すカードが7千万枚も出ているということに腰が抜けてしまったのだけれど、そうではなくて、本当にそういうことを考えて持ってくれる人が着実に増えていけば、それなりに臓器は出てくるだろうと思います。

 逆に、家族の忖度の議論は、決して提供臓器を増やすことを目的にしてはいないとおっしゃっているのだけれども、おそらく改正論議の中では臓器をもっと増やしましょう、だから家族の忖度でいいじゃないですかという議論が当然出てくると思います。しかし、そういうふうには持っていってほしくないのです。本当の意味でドネーションということが着実に増えていく方法、家族の忖度に頼ること以外の方法でやっていけばいい。

 ただ、その結果として遅々として進まないとすれば、それがおそらく受け入れなければいけない現実だろう。そのことに関してあまり焦らないほうが得策ではないか、急がば回れかという気はします。

 

大塚 ありがとうございました。神野先生、どうですか。

 

神野 まず、長期的には私は多分人工臓器に行ってほしいと思います。近未来的にはまずマニュアルのきちんとした改良、医者の勉強、これが第1です。2番目には、マスコミさんのスタンスを各社各社、一応決めて、よくディスカッションしてほしいと思います。インタビューを2時間ぐらいして「わかった、わかった」と帰っていって書いた記事では、全く逆のことが、裏切られたような感じの、寝首をかかれたような記事が出ます。ですから、マスコミさんは、自分の筆の走りが、鉛筆の走りが世の中を動かしているのだという自覚をもっときちっと持っていただきたいと思います。

 第3に、とりあえずは今も福岡で1例やって何かまた脳死の判定をやり直しているのでしょう? 多分また叩かれます。この中でもしそのコメントを求められる方がおられたら、やはり何か理由があるのだから、知ったかぶりした批判的なコメントは出さないようにしてほしい。まずそういうことをして、とにかく移植を待っている患者さんがおられるのだから、近未来的にはそういう何か育てていこうというベースでお互いがつながっていくようにしてほしいと思うのです。(拍手)

 

大塚 はい、ありがとうございました。大庭先生、どうですか。

 

大庭 ドナーカードの所持者はおそらく確実に増えているということが報告されておりますので、今後もドナーが出てくるチャンスは多いのではないかと考えております。我々はドナーカードの有無は確認しておりませんが、持っているかもしれないということを前提にした対応は取る必要があると考えております。

 しかし、最終的にドナーが臓器提供に応じるというのは、あくまでもその個人の意思ということではなくて、自分たちがちゃんとした医療を受けられたかどうかということを納得してのうえだと考えております。従って、救命救急センターとしては、どんなに重症で、もう駄目だと思う患者さんにも、きちんとした治療をちゃんとやってあげて、最終的に脳死を確認した段階でドナーの申し出があればそれは法律の最初に書いてありますように、本人の意思は尊重されねばならない。これを第1に考えてやっていかなければならないのではないかと思います。

 医療不信を抱いている人たちは決して臓器提供に応じないと思っていますので、その医療不信を改善するための努力を我々は常に続けていかなければならないと考えております。(拍手)

 

大塚 菅先生、どうですか。

 

 先程来お話がありますけれども、私自身の印象では現在のままでは臓器移植の数、ドナーの数はほとんど増えないと考えております。それは、我々脳外科、救命の立場で一生懸命やっておりまして、マスコミからもたたかれます。実際非常に大変ですけれども、もしご家族の方、ご本人が移植をしたい、してあげたいという希望をお持ちだったら、我々はそのために一生懸命頑張っていきます。その点に関しては私は救命側ですけれども、臓器提供側の妨げになるようなものは少ないと考えています。

 ただ、現実的に私も今回のセミナーに参加する前、何回か前の本会のご講演集を読ませていただきましたが、諸外国においてもドナーカードの提供は数パーセントと言われているという現状だそうですから、そこのところが解決されない限り日本においてはレシピエントサイドが希望されるドナー数は、望むべくもないのではないかと考えています。

 

大塚 ありがとうございました。はい、どうぞ。

 

臓器提供に主治医がどう関わるか

 

清水牧子 静岡県でドナーのコーディネーターをしています清水と申します。今の総括に関する質問なのです。先程の濱邊先生のお話を伺いますと、ドナーカードの普及ということに関して言えば、今のかたちではばらまき型のドナーカードですので、とても死の選択だとかいったところまで考えて普及されているわけでないと感じます。そういったことまで考えていくと、臓器提供がだいぶ遠いもののように感じてしまうわけです。

 現実に死後のドナーカードの提示等がありまして、そういったことも考えますと、私どもドナーコーディネーターが主治医の先生方の負担を軽減するには、ということをいつも考えているのですが、ただ、法律の中で最初の提示を主治医の先生にしていただかなければならないというようなところのかせもあったりしまして、なかなか負担を軽減していただくことはまず第一歩からできないというところがジレンマになっているわけです。

 ある腎臓の提供の多い病院さんの統計で、患者さんの家族に「提供のことに関してどなたに聞きたいですか」というのを以前見たことがあります。6割の方が主治医の先生だったという統計を見ました。ウエットな国民なのかもしれないのですが、その点も考えると、法律を超えたところで今後どういうシステムを変更していくことによって普及していくのかということを伺いたかったのです。

 

大塚 では、先生方、一言ずつ簡単に答えてください。

 

 その通りだと思います。私の経験でも主治医が、主治医というのは入院されてから1週間近いコミュニケーションが家族とあります。ところが、コーディネーターの方はその時に初めて来て、はじめまして、とご挨拶をして臓器移植の話をするわけです。とてもその段階で信頼関係というのは作れていないわけです。

 だから、家族の方が移植うんぬんの話を主治医に聞きたいというのは当然であって、それはある程度主治医側に理解がなければなかなか話は進んでいかないというのは、私も現実だと思います。

 

大塚 大庭先生、どうですか。

 

大庭 私もそう思います。信頼関係が一番成立しやすいのは患者家族と主治医の間です。ただ、我々が患者さんにお願いするという立場ではございませんので、あくまでも患者さんがどうしても使ってもらいたいという場合のみ臓器提供は成立するものではないかと私は考えております。従って、コーディネーターの方がお話しするときに、同席をしてそういういろいろな外的な圧力がないということを確認することが我々の仕事ではないかと考えております。

 

大塚 神野先生、どうですか。

 

神野 60%というのは多分うちの数字だと思うのです。だいぶ前ですが、あのころはコーディネーターさんというと、本当に何かお嬢様とか、どこかの坊ちゃんとかという若い方ばかりだったのです。本当に頼りなかったのです。前にも言ったけれども、あのころは多分高野山か比叡山からお坊さんを呼んできて話してもらうと一発で決まるのに、この人たちがしゃべったら多分駄目だと思ったことが何回もあったのです。

 でも、最近はコーディネーターさんが伸びました。本当に伸びたし、天職として思ってやっておられる方がどんどん増えているように思います。うちでもコーディネーターさんの役割は飛躍的に上がっていますし、私がお会いするコーディネーターさんは昔の彼女、彼ではありません。そういう点、非常に頼もしく思っています。これからコーディネーターさんヘのパーセントが多分70%、80%になると思います。今、非常にいい方向に来ていると僕は思いますので、どうぞ自信を持ってやられていいと思います。

 

大塚 濱邊先生、どうぞ。

 

濱邊 主治医が話をするのはそれまでの信頼関係をベースにして、それが一番いいではないか、それはもっともな話です。もっともな話だからあまりやりたくないのです。つまり、「主治医の先生が言うのだったらいいですよ」というのが一番嫌なのです。はっきり言って、僕は落とすのが上手ですが、だけど落とすのが上手だとは言われたくないのです。だからこそ、かえって主治医は身を引くべきであろうと思います。

 「先生がそんなにおっしゃるのだったら先生にあげます」とよく言われるのですけれども、僕らが欲しいわけではなくて、あるいは良くしてもらったからあげるのではなくて、ドネーションというのはそういうものではないのだろうと僕は思うのです。

 大庭先生もさっきおっしゃった、日本の医療が信頼に足りれば臓器は出てくるというのも一つの考えだと思うのだけれども、もちろん不幸な和田心臓移植がありましたからそれで後退したのは事実だけれども、逆に信頼に足る医療になったから臓器が増えるかというと、僕は必ずしもそうではないと思うのです。ドネーションというのは、全く別の問題だろうと思うのです。そこのところを履き違えてしまうと、たとえば信頼感のある主治医に話をしてもらうのが一番いいのだというようなことになってしまうのだけれども、実はそうではないと思います。そこのところは是非わかっていただきたい気がします。

 

大塚 有賀先生、どうぞ。

 

有賀 増やすためにどうしたらいいかということについては、先程少し生意気なことを言わせていたのでそれでいいと思うのです。主治医のかかわりに関して言うと、僕らの仲間、または昭和大学の倫理委員会などでの基本的なコンセンサスは、やはり脳死状態になってしまったということを事実として患者のご家族と共有した時点において、あきらめざるを得ないというお話をするときに、移植という方法がありますという事実だけは、情報としてご家族にインフォームするのが、基本的には正しいやり方だろうとなっています。

 濱邊先生は「落とすのが上手」と言われましたけれども、確かにそうだと思うのですが、上手とか下手とかそういう問題ではなくて、救急側の主治医は、少なくともそれ以上に関して立ち入るというようなメンタリティーには残念ながらならないのです。ですから、私たちはそういうのがあるということを知っていていただければ、あとは何かもっとお聞きになりたければコーディネーターという人がいますからお呼びしますという水準で今のところ推移しております。

 私たちの施設には専従のコーディネーターもいません。ですから、神野先生がかつてコーディネーターは高野山のお坊様がよいという話をされて僕も全くそうだと思ったのです。いまだに多少そう思っているのですが、そういう方がもし病院の中におられれば、私たちの話に引き続いてというようなことがあるのかもしれません。そうなると、「落とす」ということになるのかもしれませんが、現状は原則的に今言ったようなところで推移している。

 というわけで、そういう話をするのに多分耐えられないだろうという心の動揺を感じるようなご家族には、やはりそういう話はすべきではないだろうというのが昭和大学の倫理委員会の基本的な考え方です。私たちはそう思ってやっております。

 

大塚 はい。大和田先生、最後にどうぞ。

 

大和田 橋渡しする機会というのは主治医にあるかもしれません。私が最後にお話しした三権分立というのが、少し言葉が足りなくてよくご理解いただけなかったかもしれませんけれども、主治医が臓器移植のいろいろなことに関してかかわるというのは、僕は全くおかしいことだと思います。コーディネーターに提供に関わる情報が入った時点から、コーディネーターも関与すべきだと思います。私がコーディネーターの資格、あるいは教育の在り方、権限の在り方ということで三権分立と言ったのは、まさにそこのところを言ったのです。幸いに北里大学病院には専任のドナーコーディネーターがいるものですから、救急の主治医がそういうことに絡むということはなくて、かなり早期からコーディネーターの権限の範囲内で進めております。そうあるべきだと思います。

 

大塚 ありがとうございました。だいぶ司会の不手際で遅くなってしまいました。これで閉じさせていただきます。本来こういうシンポジウムなどは、学会でやるべきときは前もってシンポジストの先生方と綿密な打ち合わせをやって行うのです。実は今日は、事前に全く打ち合わせなしにこの場に臨んだわけでございます。従って、シンポジストの先生方は、ご自分の思ったことをお話しいただけたのではないかと思っております。

 そういうことで、実はまだまだ議論したかった部分がいっぱいあるのですけれども、残念ながら時間になってしまいましたので、これをもって終了させていただきたいと思います。パネリストの先生方、長時間ありがとうございました。皆さん方、ありがとうございました。(拍手)

 

 

総合司会

 

 長時間にわたるパネルディスカッション、どうもありがとうございました。もう一度盛大な拍手をお願い致します。(拍手)

 次に、「アサコ」と言う本の映画化を企画しているイチカワさんにお話をいただく予定でしたが、時間が迫って参りましたので、第2部のティーパーティーのほうでお話しいただきたいと思います。

 それでは最後に、トリオ・ジャパン副会長野村祐之氏より閉会の辞を申し上げます。野村さん、よろしくお願い致します。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

閉会の辞

 

野村祐之(トリオ・ジャパン副会長)

 

 先生方、本当に今日はどうもありがとうございました。私個人と致しましては、移植が行われていくためには、当然レシピエントやお医者さんだけではなくて、臓器提供側の問題が一番大きくある。移植を待つ患者はある病院でそのときを期して十分な準備をして待っていればいいわけですが、臓器提供というのは、いつどこでどういう状況で起こるかわからない。そういう意味で言うと、日本の社会全体がこういうことに心を向けていなければ、結局は移植医療というのは進まないということを感じておりました。

 その現場にいらっしゃる先生方が、「実は、自分は時としてうそをつくのだ」とおっしゃるところまで正直に、本気で、本音で語ってくださったということは、しかもある閉じられた医学会ではなく、一般の我々素人がいるところで語ってくださったのは、日本の医療の中でも画期的なことだったのではないかと思います。

 これからの医療というのは、こうして本当に努力なさっている先生方が、本音で我々の前で語ってくださると同時に、我々もそのことを本気で受け止めながら進んでいくという形になるのだと思います。移植法の問題も間近に迫っておりますけれども、今日ここで何か新しい確信というか、これでいいのだということを、移植法うんぬんとは別の意味で感じさせていただきました。

 そして、先生方が本当に科学者として、そしてまたさらに言えば哲学者として、それ以上に深く人間として苦悩し、格闘し、一人一人の命のために努力なさっているという姿が本当私の胸を打ちました。有賀先生もおっしゃっていましたけれども、確実なことは、今私はここで生きているということです。そして確実なことは、いつかこの私が死ぬということです。そして確実なことは、病気なり何なり、どんなに天才的なお医者さんが助けてくださって完治しておうちに帰った方も、いつかは死ぬということです。

 どうせ患者は死ぬのではないかということで言えば、手抜きの治療をされても亡くなりますし、最善を尽くされても亡くなる。だとすれば、人間は永遠の命がないわけですから、死ぬか死なないかということではなくて、今生きているという事実を踏まえて、どう生きるか、そして死に瀕したときにどう死ぬかという、「どう」というところが一番問われている。また、そのことが移植医療の一番のポイントにかかわってくるのではないか。そのとき、臓器提供とは、全員に対する絶対の答えではなく、一つの深い深い選択肢として、今の医療技術が私たちにプレゼントしてくれるものだと思います。

 ですから、これにどう応答をしていくのかが問われる。ということは、臓器提供をしたいという人たちの権利が十分に守られなければいけない。それは法律的だけではなく、医療技術も含めてです。だとすると、日本全国津々浦々でそうした希望の人が本当に真剣に受け止められる、そのことは、日本の医療が非常に厳密な意味で全体的にレベルが上がることではないか。

 現実の新聞報道だけで見ますと、どうしたことかと思うような初歩的なミスやトラブルが出ております。移植医療の問題というのは、狭く移植だけではなくて、日本の医療全体にかかわっている。それから、日本の社会全体を包むということからしましても、これはこの社会が「生命(いのち)」ということ、あるいは「死」ということをどう受け止めているのかという問題でもあると思います。

 私たちが個人個人の人生の中でこうしたことを真剣に考える姿を若い人たちに見てほしい。そして、人を殺すということがどんなことなのか、「ちょっとやってみたかった」などということで悲劇的な事件が起こるようなこの社会の中で、生命の尊さ、死ぬことの深刻さ、そうしたことが若い世代にも伝わっていくのではないかと思います。

 そういう意味で言うと、まさに新しい世紀を迎えようとしている日本が、命をどう受け止めるのか、医療をどう受け止めるのか、共に生きていくということがどういうことなのか、そのことを深く深く問われています。この問題への方向付けとして、私たちは移植の問題を一つの与えられたテーマとして真剣に受け止めていきたいと思います。

 おかげさまで青木会長は移植後11年を迎えられました。私自身は10年を迎えたところです。本当だったら10年近く前に亡くなっていた人間がここに生きて、おかげさまで皆さんとお目にかかっているというのは、一つの事実であります。そうでなければ、私は「肝死」をしていた人間だと思います。肝臓が駄目になったために死んでいた。

 10年前に脳死をした一つの命が、しかしその臓器が今ここで生きております。私は「共に生きている命」であるという、そのことの意味の重さ、そしてその喜びの深さというのを、今日ここにいて改めて感じておりました。
 先生方お一人お一人の真摯なお心が、本当に予期した以上に、深い深いところで魂を揺すられるような会にしてくださったのだと思います。そして、この時にこうして共に集えた私たち一人一人が、自分の存在ということを問われつつ、ここで会が終わるのではなくて、これをそれぞれの場に持ち帰って、新たにそこからそれぞれの仕方で出発をしていきたいと思います。

 個人的に胸がいっぱいになもので、少しも閉会のごあいさつになってないと思いますけれども、今の気持ちの一端を率直に申し上げさせていただきまして、これで閉会のごあいさつの代わりにさせていただこうと思います。今日はあんな不安な天候だったにもかかわらず恵まれまして、これだけの会場、席がないのではないかと思うほどに多くの方にお集まりいただきまして、本当にありがとうございました。これからもまたどうぞよろしくお願い致します。(拍手)

 

総合司会

 長時間どうもありがとうございました。これをもちまして第8回トリオ・ジャパンセミナー「臓器提供−現況と課題」を閉じさせていただきます。なお、隣の京都の間でティーパーティーをノンアルコールでやりますので、皆さんご都合のつく方は是非ともご参加くださいませ。どうもありがとうございました。(拍手)


巻末資料−町野朔「小児臓器移植に向けての法改正−二つの方向」

平成11年度公開シンポジゥム(国際研究交流会館・国際会議場)2000.2.18.


本稿は、2000年2月18日に開催された臓器移植法に関する公開シンポジゥムで町野の報告の基となった原稿である。私は「厚生科学研究 免疫・アレルギー等研究事業(臓器移植部門)」の「臓器移植の法的事項」を担当する分担研究者であり、このシンポジウムでの報告は1999年度の中間報告的なものであった。これは研究協力者との討論を経ていない私見であり、当然、研究班全体の考えではないし、厚生省の見解でもない。


目次
T 小児心臓移植について
 1) 法の検討を要する諸点
 2) 小児心臓移植問題の背景
 3) 法改正の二つの方法
U 臓器提供者が年少者であるときについての特則
 1) 親権者(であった者)の承諾
 2) 親権者(であった者)の権利
 3) 便宜主義的法改正
V 死者の自己決定権
 1) 本人のopt-in (contract-in)から遺族のopt-in (contract-in)へ
 2) 医療不信について
 3) 意思表示カードの普及について
 4) 死者の自己決定権について
W 臓器移植と日本人
 1) 臓器の法的性格
 2) 日本人の遺体観
  3) 日本人の国民性


T 小児心臓移植について

 1) 法の検討を要する諸点

 1997(平成9)年716日に公布された「臓器の移植に関する法律」の附則2 1項は、「この法律による臓器の移植については、この法律の施行後三年を目途として、この法律の施行の状況を勘案し、その全般について検討が加えられ、その結果に基づいて必要な措置が講ぜられるべきものとする」としている。本法が施行されたのは「公布の日から起算して三月を経過した日から」(附則1条)であるから、本年(平成11)年1016日がその「目途」の日ということになる。
 現在の臓器移植法に検討を要する重大な点はかなりある。
 a @現行法は、死体からの臓器の摘出・移植だけを規定し、生体からの臓器の移植、例えば腎臓、肝臓、肺などの「生体移植」については規定していない。これを現在のように「社会通念」の範囲内で、医学的判断と当事者の意思に任せるという慣行はそのままでいいのか、例えばドイツ法のように、生体からの臓器提供について要件と手続を法律で厳格に規定する必要はないのか。
 A 現行法はさらに、「心臓、肺、肝臓、腎臓、厚生省令で定める内臓[膵臓及び小腸とされている。規則1 条]及び眼球」だけを法が規定する「臓器」としている(5 条)。このようなカズイスティックなやりかたでいいのか。臓器一般、さらには組織まで含めた立法にすべきではないか。臓器と組織とを区別せずに規定するのが、国際的には一般的であるといってよいだろう。
 b 以上の様に包括的な臓器移植法にするならば、次に考えなければならないことが生じる。
 @ 第一は、公平・公正な移植が以上の様な多様な臓器・組織についても可能となるためには、現行のネットワーク・システムで十分か、臓器あっせん業務に関する新たな法整備が必要ではないか、である。これには、多様な臓器・組織の移植を行える医療的態勢が整うという、移植医療の足腰が強くなることが、まず先決問題なのであろう。
 A 第二は、臓器売買禁止のあり方である。現在は法・省令の規定する「臓器」だけが対象とされているが、臓器一般、組織にまで対象を包括的にするとなると、全体について売買を禁止することになるであろう。しかし、アメリカを中心とした臓器・組織の商品化は一つの潮流となりつつある様にも見える。現行法は、摘出、保存、移送などの「通常必要と認められるもの」以外は「対価」であるとしてその授受を禁止しているが、すべての臓器・組織についてもそれでいいのか、あっせんの営利性をすべて否定すべきかは、あるいは今一度問題にされることになるのかも知れない。
 c 現行法における「脳死」の位置づけも再検討を必要としていることは疑いない。
 現行法は、移植用臓器摘出のときだけに限って脳死を人の死であることを認めるような文言を用い、本人が脳死判定に承諾し「家族」がそれを拒まないときにだけ脳死判定をなしうるとしている(6 2 項・3 項)。さらに、「脳死した者の身体以外から」眼球・腎臓を摘出するときには、当分の間遺族の承諾だけで足りるとしている(附則4 1 項)。このように、日本の臓器移植法は「脳死・臓器移植法」である。
 脳死を他の死(心臓死)に対してこれほどまで相対化したことは、法的レトリックを超えた重大な倫理的問題を生じさせたことは疑いない。臓器移植が法的に許されるときには脳死が人の死となりえ、法の手続に従った脳死判定がなされたときだけ、いわゆる「法的脳死判定」がなされたときだけ脳死が存在するかのような現行法は、臓器移植の目的の存在によって脳死を人の死としてしまったのである。医療の現場では、「法的脳死判定」でない「臨床的脳死判定」がなされたときには脳死が存在しないのか、移植の許されるとき、移植を目的としないときには脳死判定してはいけないのか、法的脳死判定の要件を満たさないときには脳死はないのか、などという疑問が噴出しているのである。

 2) 小児心臓移植問題の背景

 以上の問題も、重要な法の見直しについての重要な論点である。しかし、本日は本人の生前の書面による意思表示がなければ臓器の摘出を許さないという現行法6 1 項の態度に由来する、小児の臓器移植、特に小児心臓移植の事実上の非合法化に関する問題を取り扱う。
 
最初に、この問題の法的バックラウンドを見てみる。
 a 1994(平成6)年に国会に提出された臓器移植法の「旧中山案」では、見直しまでの時間は5年であった。しかし、臓器提供の意思が生前に書面によって表示されること、すなわち本人のopt-in (contract-in)を移植用臓器摘出の必須の要件とした1996(平成8)年に衆議院の厚生委員会に提出された修正案は、これを3年とし、それが現在の法に受け継がれているのである。同時に、この修正案は、本人のopt-inを臓器摘出の要件とすることにより、腎臓、眼球については「角膜及び腎臓の移植に関する法律」(角腎法。昭和54年)より厳しくなることを慮って、これらについては、暫くの間、角腎法の原則に基本的に従うという経過規定を置くことも提案している。
 
臓器移植法の成立によって廃止された角腎法は、本人の臓器提供の意思表示がないときには、遺族が書面により承諾すれば(遺族のopt-in (contract-in)があれば)、腎臓、眼球を提供しうるとし、旧中山案も基本的にはそれに従っていた。その態度を変更して、諸外国の臓器移植法にも例のないような方法で「死者の自己決定」を重視した法を作るならば、臓器の提供が困難になるであろうことは当然予測されていたことであった。また、このような法の下では、小児の心臓移植手術は不可能となるであろうことも、当然予測されていたことであった。すなわち、本人の承諾意思の表示を臓器提供の必須の要件とする以上、有効な意思表示をなしうる能力の欠如している小児が死後にドナーとなることは不可能である。しかし、移植に用いられる心臓は、移植を受ける小児に適合した小さなサイズでなければならず、提供者も小児に限られるのである。上記の修正提案を受けた臓器移植法は、腎臓、眼球の摘出に関しては「当分の間」遺族の承諾だけで摘出しうるとし、これは、基本的に現行法に受け継がれているが(附則4 条)、これは角腎法のときよりも摘出要件が厳しくなってはならないと考えたためであり、当然、心臓はこの経過措置の対象外であった。また、心臓死の下では移植可能な心臓を摘出することが不可能なのであるから、附則に心臓を追加したとしても問題の解決にはならない。
 以上の事情からも、見直しを5年から3年に前倒しにした立案者は、移植用臓器摘出要件としての本人の「書面による承諾」の問題、心臓移植を中心とした小児臓器移植の問題を早期に再検討すべきであると考えたからであることが分かる。
 b その後、「死体」に「脳死体を含む」とし、本人の書面による承諾を臓器摘出の要件とした新・中山案(平成9 年)は、衆議院において、脳死を人の死としないで脳死体からの移植用臓器の摘出を認める、いわゆる違法阻却論に立脚する「金田案」を制して衆議院を通過したが、参議院において「関根案」により重大な修正を加えられた後、現在の姿における臓器移植法が成立することになる。それは、前述の様に、移植用臓器の摘出のときだけに限って脳死を人の死とするかのような文言を採用し、本人が生前に脳死判定に承諾しかつ遺族もそれを拒まないときのみ脳死判定をなしうるとしたものであった。これによって、脳死問題は新たな、そして倫理的にも重大な検討課題となったことは否定できない。しかし、臓器の摘出について本人の書面による承諾を要件として臓器提供の可能性を大きく狭めてしまった以上、さらに脳死判定に本人の承諾を要件としたとしても、実質的にはもうどうでもよかったことといえるかもしれない。

 3) 法改正の二つの方法

 もし小児の心臓移植を実施しようとするなら、法律改正が必要である。
 臓器移植法も、同法の施行規則(省令)も、臓器提供に関して有効な意思表示をなし、脳死判定に有効に承諾しうる年齢については何も述べてはいない。「ガイドライン」(平成9年の保健医療局長通知)は、「臓器提供に係る意思表示の有効性について、年齢等により画一的に判断することは難しいと考えるが、民法上の遺言可能年齢等を参考として、法の運用に当たっては、十五歳以上の者の意思表示を有効なものとして取り扱うこと」としている。ガイドラインは、脳死判定への承諾意思の有効性についても同じことが妥当すると考えているようである。
 ガイドラインは厚生省の行政指導に過ぎず、法的な拘束力があるわけではない。
 「十五歳」が低過ぎるのではないかという議論も、逆に高過ぎるのではないかという議論もありうる。しかし、いずれにせよ、子どもが心臓のドナーとはなりえないこと、小児心臓移植が現行法のもとでは不可能であることは確たる事実である。子どもたちの心臓移植手術は、現在では「渡航移植」によらざるをえないことになる。このような事態を打開し、小児の心臓移植に道を開くことを考えるならば法改正が必要となる。ガイドラインを変えれば済むという問題ではない。
 現在、小児の心臓移植を可能にするために、二つの法改正の方向が考えられている。一つは、小児・年少者からの臓器の摘出を可能にするために、誰かが彼(彼女)に代わって臓器提供を承諾する意思を表示することを認める特則を設けるという方法である(A案)。いま一つは、死者本人の臓器提供に承諾する意思表示がなければ許されないとする現行法の立場を修正することによって、子どもにも大人にも平等に移植医療を可能とする方向をとることである(B案)。以下では、そもそも法改正をすべきであるかも含めて、いずれの方向が妥当かを考えてみたいと思う。

U 臓器提供者が年少者であるときについての特則

 1) 親権者(であった者)の承諾

 A案の場合、小児に代わって臓器の提供に同意する人としては、その親権者が考えられることになる。これにも、a)小児の生前に、その親権者が、彼のために書面によって死後の臓器提供の意思表示をすることを認める、b)小児の死後に、その親権者であった者が、書面によって彼の臓器提供の意思表示を行うことを認める、c)その両者とも認める、という法改正が考えられる。いずれも、現行法6 1 項の後に特則として2 項を加えるというものである。

テキスト ボックス: A−a)案
第6 条A 当該者が死亡したときに十五歳に満たなかった場合において、その者の生存中にその親権者が当該者の臓器を提供する意思を書面により表示していた場合においても、前項と同様である。
A−b)案                                 
第6 条A 医師は、死亡した者が十五歳に満たなかった場合において、その者の親権者であった者が当該者の臓器を提供する意思を書面により表示したときには、移植術に使用されるための臓器を死体から摘出することができる。                                     
A−c)案                                 
第6 条A  医師は、死亡した者が十五歳に満たなかった場合において、その者の生存中にその親権者が当該者の臓器を提供する意思を書面により表示していた場合、又はその者の親権者であった者が当該者の臓器を提供する意思を書面により表示した場合には、移植術に使用されるための臓器を死体から摘出することができる。                                  

 これは、現行法の枠組を大きく動かすことなく、年少者の死体から臓器摘出を可能にすることであり、法改正としては実現性が高いと考える向きもあろう。また、これまで厚生省と移植医療の人々は、本人のopt-inを要件とする厳格な現行法の態度を前提にしつつ、移植医療を推進するために意思表示カードの普及に努めてきた。以上のような特則を設ける法改正は、このような努力との整合性を維持する方策であるとも考えられるのである。

 2) 親権者(であった者)の権利

 しかし、このような法律は妥当でないように思われる。
 @ 本人が死後にその臓器を提供する意思を表示していないときには臓器の提供を認めないという現行法の基本原則に固執する以上、A−a)案、あるいはA−c)案前段のいう親権者の承諾はその子の意思そのものであり、子の意思決定の代行であるということにならざるをえない。しかし、年少者である子が現実にそのような意思決定をしていない以上、これは擬制に過ぎない。本来、自己決定権は本人に一身専属的に帰属するものだからである。そして、もしこのような擬制を認めるなら、親権者とその子に関してばかりでなく、(改正民法843 条における)成年後見と成年被後見人に関しても認めなければならないであろう。
 A 親権者に、その子の意思決定の代行としてではなく、子が生きているときに、その死後にその臓器を移植のために提供する意思表示を行う固有の権限を認めることも、困難である。それは、民法(820 条)の認める「子の監護及び教育」という親権者の権利・義務には含まれない。それでも以上のような法律を作るということになると、民法の基本原則を修正することを覚悟しなければならない。
 B A−b)案、あるいはA−c)案後段のように、子の死後に親が臓器の提供に承諾することを認めることには、さらに困難が伴う。親権は子が存在する限り存在するが、子が死亡したときには存在しない。「親権者であった者」は親権者ではない。彼は、子の遺族としての権限を有するのみである。そうすると、子の死後にその親権者であった者が臓器の提供を承諾しうるとすることは、本人の明示の反対がない場合には遺族の承諾によって臓器を提供しるとする、旧中山案、後に述べるB案と同じ考えだということになろう。しかし、A−b)案、A−c)案後段は、遺族が承諾できるのは、年少者が死亡したときの親権者であったときに限ろうとするものであるということになるが、これが合理的かは疑問がある。どうして他の場合には遺族は臓器の提供に承諾できないのだろうか。
 C 実際問題として、自分の子どもが生きているときに、その死後に臓器を提供するという文書を作る親が多いとは思われない。A−a)案、A−c)案前段は、非現実的であるといわざるをえない。

 3) 便宜主義的法改正

 以上のように、臓器提供者が年少者であるときについて特則を設けるという法改正は、理論的にも、実際的にも大きな問題を含むものである。それにもかかわらすこのような法改正を行うとするなら、それはかなりその場しのぎ的な、便宜的な法律を作るということである。これは、脳死・臓器移植ができるようになるなら妥協も止むを得ないとした現行法と同じことをすることである。
 臓器移植法によって現に脳死臓器移植が行われ、それによって生命を長らえた方々もおられるのだから、確かにこのようなおかしな法律ならない方が良かったとはいいづらいところである。しかし、もう少し考えた方が良かったことも事実である。新たな法改正も安易な妥協に走らず、public acceptance のある、重みのあるものであった方がいいことは確かである。

V 死者の自己決定権

 1) 本人のopt-in (contract-in)から遺族のopt-in (contract-in)へ

 第二の法改正の方向は、本人の書面による承諾を要件とする現行法を修正して、本人が反対の意思を表示していないときには遺族の書面による承諾によって臓器の提供を受けうるとすることである。これは例えば以下のように現在の6 1 項を変えることである。

テキスト ボックス: B案
第6 条@  医師は、死亡した者が生存中に臓器を移植術に使用されるために提供する意思を書面により表示している場合であって、その旨の告知を受けた遺族が当該臓器の摘出を拒まないとき、若しくは遺族がいないとき、又は死亡した者が当該意思がないことを表示している場合以外の場合であって、遺族が臓器を移植術に使用されるために提供する意思を書面により表示したときには、移植術に使用されるための臓器を、死体(脳死体を含む。以下同じ。)から摘出することができる。




 もともと旧中山案は、本人が生前の意思表示によって臓器摘出に反対していたのでないときには、遺族の承諾によって臓器の摘出が可能であるとしていた。それが19956 24日に議院厚生委員会に提出された修正提案以来、生前の本人の書面による承諾がなければ臓器を摘出しえないとすべきであるとされたことは既に触れた。この子どもの心臓移植を事実上不可能とする修正案は、移植を待っている心臓病の子どもの家族を落胆させたのである。B案は、この点では旧中山案に戻るべきだとするものである。
 我々はB案の方向で法改正がなされるべきだと思っている。その理由については既に昨年度の報告書で「臓器移植の法的事項に関する研究−現行法の3年目の見直しに向けての提言−」として述べたところである。以下では、これを補足するかたちで、若干述べさせていただくことにする。

 2) 医療不信について

 世界に例を見ない厳格な、本人の書面による承諾がなければ死後にその臓器を摘出しえないとする日本の臓器移植法の背後には、脳死に対する懐疑的な世論、自己の身体を提供することに対する消極的な人々の存在、そして、脳死判定を行い、臓器を摘出し、臓器移植を実行する医師の権限行使に対する不信感があることは否定できないように思われる。これらの問題はさらに議論を必要とするであろう。特に医療不信は、脳死・臓器移植問題の「通奏低音」のように人々の心の中に流れているかのようである。
 しかし、このような懸念があるから、このような法律の要件を維持すべきであるということにはならない。脳死が人の死であるといえないのなら、むしろ心臓移植は行うべきではないのである。脳死判定の基準・手続に問題があるのなら、それは変えなければならない。医師が権限を濫用するというのなら、それを防ぐために適切な事前措置をとるべきである。医療不信があるならその原因を除く、あるいは何が不当な行為であるかを明らかにして、医師が不当な行為を行ったなら断固処罰するというのが筋道である。医師が、移植用臓器の摘出のために、ドナーの救命に十分な努力を尽くさなかったなら、そのことを非難すべきである。以上のことをせずに、なるべく臓器移植をさせないようにする、というのは筋違いであるように思われる。

 3) 意思表示カードの普及について

 法律が本人のopt-inを必要としないとしたとしても、意思表示カード普及の努力は続けられなければならない。後でも述べるようにB案のような法においても、それが死者の意思に合致していると思われるから、臓器の提供が受けられるのである。本人のopt-out がないときには遺族のopt-inで移植のために臓器を摘出しうるとしても、遺族は本人の意思もそのようなものであると思って承諾を与えるのである。人々に実際に意思表示の機会を提供しておくことは、やはり望ましいことなのである。
 意思表示カードを普及させることは、臓器移植に関する人々の関心と理解を深めるものでもある。意思表示カードを手にしてopt-in/opt-outを考えるときは、単に臓器移植シンポジゥムのポスターをながめるときとは明らかに違っている。意思表示カードを普及させてきた関係者は、さらに一層の努力を続けなければならないと思われる。
 B案のようなのが諸外国の法律であるが、そこでも登録への呼びかけ、意思表示カード普及の努力が続けられているのは、以上のような事情があるからである。

 4) 死者の自己決定権について

 やはり、B案の最大の思想的問題は、死者の自己決定権との関係である。
 自分が承諾していないのに、死後に臓器を摘出されるのは嫌だという認識を持つ人はいるであろう。既に見たように、新・中山案は、そのような感情に配慮して、本人がイエスといっていなければ臓器の摘出を認めないことにしたのである。それには、善意の贈り物を無駄にすることは許されない、その範囲では臓器移植を是認していいという考え方もあったろう。諸外国では、本人の承諾がない場合に、遺族の意思に従うなどしてその臓器を摘出しても、死者本人の自己決定権の侵害であるとは考えられていないのに対して、日本の国会はそうなると考えたということである。日本の臓器移植法は日本人の国民性に合致したものであり、この建前を変更することは絶対に許されるべきでない、という人もいる。
 しかし、はたしてそうなのだろうか。生前に積極的に臓器提供の意思を表示していない以上は死後にも臓器を提供しないという意思があったとみるべきなのが日本人であって、提供しないことを表明していない以上は死後の臓器提供は本人の意向に沿うものであるとみるべきなのが外国人である、というものなのだろうか。もし日本人はこのような人種で、法律もそれを前提にしなければならないというのなら、遺族の承諾を得て眼球・角膜を心臓死体から摘出することを認める、前述の経過規定も不当であって、廃止しなければならないということになろう。
 問題は法がいかなる人間像を前提にするかである。日本の臓器移植法は、本人が生前に死後に自分の臓器を提供することを申し出ていない以上、彼はそれを提供せず墓の中に持っていくつもりなのだ、と考えていることになろう。そうであるからこそ、本人が何もいっていないのに臓器を摘出するのは彼(死者)の自己決定権に反するのだ、と考えるのである。しかし我々が、およそ人間は連帯的存在であることを前提にするなら、次のようにいうことになろう。――たとえ死後に臓器を提供する意思を現実に表示していなくとも、我々はそのように行動する本性を有している存在である。
 いいかえるならば、我々は、死後の臓器提供へと自己決定している存在なのである。
もちろん、反対の意思を表示することによって、自分はそのようなものではないことを示していたときには、その意思は尊重されなければならない。しかしそうでない以上、臓器を摘出することは本人の自己決定に沿うものである。
 多くの国が、本人の明示の承諾がなくても摘出できるとしているのは、このような人間観に立っているからであろう。これらの国が、死者の自己決定権を軽視していて、日本の現在の臓器移植法だけがこれを重視している、というのではないと思われる。

W 臓器移植と日本人

 臓器移植全体についてのネガティヴな態度が、日本の臓器移植法の死者の自己決定権に関する規定の背後にあるとも考えられる。医療不信が第一の「通奏低音」だとすると、これは第二のそれだということになる。

 1) 臓器の法的性格

 第一にそれは、臓器の法的性格に関するものとして現れてくる。それは、およそ、個人の身体、臓器は公共のものではない、きわめて個人的な人格権の対象なのであり、心臓も腎臓も、例えていえば、愛用していた眼鏡、万年筆、ステッキ、あるいは初恋の人の思い出と同じように棺の中に持っていくのがむしろ通常なのである、そのことを認めることと、人間の連帯性、博愛主義とは何の関係もない、自分の人格がしみ込んだものでも人に贈りたいという人の存在は否定できないが、それは例外に過ぎない、というものである。そしてこれは、本人の積極的な承諾がないときにも臓器提供を一般的に認めることは、臓器を物と同じに見ることである、公用徴収を認めることである、という臓器移植に対する漠然とした反発に至る。
 たしかに、個人の身体、臓器は単なる財産権の対象ではない。それは売買を禁止された倫理的意味を持った人格権の対象と考えなければならない。しかし、そうだからといって、自分の死後にも同胞のために用いることが一般的に予定されているものではない、ということではない。むしろ、自分が苦労して手に入れ、心から愛してきた「棟方志功の絵」であるからこそ、死後にはほかの人々の心に返したいと思うのが通例で、棺桶の中に入れて自分の死体と一緒に焼いてもらいたい、誰の目にも触れさせたくないと思うのは異例なのではないだろうか。それは、臓器を通常の財産と見るのとは正反対の心情である。そして、日本人は、臓器に関してアメリカや韓国の人とは違う見方をしているとは思われない。

 2) 日本人の遺体観

 第二は、日本人の遺体観に関する。日本人は遺体を大切にする、だから日本人には臓器移植はなじまないのだ、という古くからの考えである。しかし、外国人が遺体を大切にしないわけではない。外国人は遺体を土葬にし、火葬にする日本人のやり方になじまないものを感じるという。しかし、その物理的存続よりも、愛する人の臓器が人の役に立つことを優先させることが遺体を大切にすることだと思うが故に、臓器移植により積極的である。問題は大切にする仕方であるということであろう。そして、この点においても、日本人が臓器について外国人とそれほど違う考え方をしているとも思われない。

  3) 日本人の国民性

 現在の臓器移植法は日本人の国民性に合致した素晴らしい法律であるから、改正など到底許されない、という人もいる。しかし、以上に見たようにそのようなことはない。我々は、脳死と臓器移植は生と死に関する重大な問題であるからこそ、冷静に考えなければならないのである。日本文化固有論、日本人の国民性の議論が、貪欲な怪獣のように、一時は皆が必死に考えて議論してきたところを一気に飲み込み、後は何事もなかったようになるということは、耐えがたいことである。
 本人のopt-inを要件とする現行法の態度は、見直され、検討されなければならない。議論の結果、あるいは法改正はされないという結論になるかもしれない。しかしこの点については検討すらしない、議論することさえ許されないとすることは、法律の成立に当たって、患者とその家族が見直しに期待していたことを裏切るものであるといわなければならないだろう。