第7回トリオ・ジャパン・セミナー

「いのちを見つめる」

 

19991016日(土)13:0017:00

キャピトル東急ホテル「銀の間」

 

プログラム

 

総合司会            高橋 剛(トリオ・ジャパン)

会長挨拶            青木慎治(トリオ・ジャパン)

 

1

 

講演1『日米の医療と医学教育』

        黒川 清(東海大学医学部教授・医学部長)

 

    講演2『こどもが生きるということ』

        南 和友(ボッフム大学胸部心血管外科教授)

 

    講演3『いのちを見つめて』

        細谷 亮太(聖路加国際病院小児科部長)

 

    講演4『ともに活きる生命・臓器提供のこころ』

        野村 祐之(青山学院大学・青山学院女子短期大学講師)

 

2

 

パネルディスカッション「我が国で移植医療が根づくために」」

 

                 パネリスト

          

黒川 清(東海大学医学部教授・医学部長)

                      南 和友(ボッフム大学胸部心血管外科教授)

                      細谷亮太(聖路加国際病院小児科部長)

                      野村祐之(青山学院大学・青山学院短期大学講師)

 

                 コーディネーター 若林 正(トリオ・ジャパン)

 

 


演者・パネリスト紹介

 

黒川 清(東海大学医学部教授・学部長、東京大学名誉教授、内科学)

 

1936年 生まれる

1962年 東京大学医学部卒業

第一内科入局

1967年 東京大学大学院医学研究科終了

1969年 ペンシルバニア大学リサーチフェロー(生化学)

1974年 南カリフォルニア大学医学部内科準教授

1977年 カリフォルニア大学ロサンゼルス校医学部内科準教授

1979年 同教授

1980年 東京大学医学部第四内科助教授

1989年 東京大学医学部第一内科教授

現 在  東海大学医学部教授・医学部長

        国際腎臓学会理事長(1998年〜)

        厚生省公衆衛生審議会成人病難病対策部会 臓器移植専門委員会(委員長)

 

『内科学』文光堂 『腎臓学』南江堂 『腎臓病学』医学書院

EBM現代内科学』金芳堂 『臨床検査データブック』医学書院

『診察マニュアル』南江堂 『Clinical problem-solving collection』南江堂

『医を語る』西村書店ほか、内科学・腎臓病学の著書・監訳・監修・共著多数。

 

南 和友(ボッフム大学胸部心血管外科教授、心臓外科)

 

1946年 生まれる

1974年 京都府立医科大学卒業

1976年 ドイツ交換留学生(DAAD)

       デュッセルドルフ大学胸部血管外科

1981年 デュッセルドルフ大学外科助手

1989年 ボッフム大学附属病院 州立バード・ユーンハウゼン心臓病センター教授

1992年 世界人工臓器免疫移植学会(WAIS)発起人

1997年 President, IV World Artificial Organ, Immunology and Transplantation

 

1989年3月〜1999年2月の間に950症例の心臓・肺移植を執刀、現在に至る。

 

細谷亮太(聖路加国際病院小児科部長、小児科学・小児がん・ターミナルケア)

 

1948年 生まれる

1972年 東北大学医学部卒業

聖路加国際病院小児科

1977年 テキサス大学総合がん研究所・M.D.アンダーソン病院小児科

1980年 聖路加国際病院復職

現 在  聖路加国際病院小児科部長

        俳人(俳号−喨々)

 

著 書  『川の見える病院から−がんとたたかう子どもたちと』岩崎書店

『いのちを見つめる』岩波書店

『ぼくのいのち』岩崎書店

『子育て育児の常識ウソ!?ホント!?』法研など

訳 書  ベーカー『君と白血病』医学書院

        シュルツ『チャーリー・ブラウン何故なんだい−ともだちがおもい病気になったとき』

      岩崎書店など

 

野村祐之(青山学院大学・青山学院女子短期大学講師、神学)

 

1947年 生まれる

1975年 青山学院大学文学部神学科卒業

1981年 イエール大学神学大学院修了

世界教会協議会教育部(ジュネーブ)勤務後、米東ハーレムの教会伝道師として活動

米国初のコネチカットのホスピスで芸術担当ボランティア

1982年 脳死肝移植(ベイラー大学メディカルセンター)

現 在  青山学院大学・青山学院女子短期大学講師

        トリオ本部国際理事、トリオ・ジャパン副会長

著 書  『死の淵からの帰還』岩波書店

        『輝いて もっと輝いて』テクノコミュニケーションズ

        『ボランティアの心』ライフプランニングセンターなど

 

パネルディスカッションコーディネーター

 

若林 正

 

1971年 生まれる

1989年 東京大学教養学部理科二類入学

1991年 東京大学教育学部進学

1993年 東京大学大学院教育学研究科進学

1996年 生体部分肝移植(東京大学医学部附属病院)

1998年 脳死肝移植(マイアミ大学・ジャクソンメモリアルホスピタル)

現 在  東京大学大学院教育学研究科博士課程在学中

              トリオ・ジャパン広報・医療情報担当

 

総合司会

 

高橋 剛

       1969年 生まれる

       1996年 生体部分肝移植(京都大学医学部附属病院)

       現 在  放送大学在学中

              トリオ・ジャパン ファミリー・コーディネーター

 

会長挨拶

 

青木慎治

       1930年 生まれる

       1989年 脳死肝移植(カルフォルニア大学サンフランシスコ校)

       現 在  著述業

              トリオ・ジャパン会長

       著 書  『移植から10年−肝移植私は生きている』はる書房

              『迷走航路』新潮社

              『北風のマイウェイ』はる書房

              『遠野女大名』小学館文庫

 

閉会挨拶

 

磯田省三

       1946年 生まれる

       1993年 脳死肝移植(フンボルト大学病院)

       現 在  服飾販売業

              トリオ・ジャパン関西支部長


目次

会長挨拶. 1

臓器移植法施行2年目に向けて.. 1

「同行二人」.. 1

第1部. 2

講演1 日米の医療と医学教育. 2

臓器移植専門委員会の委員長を引き受けた経緯.. 2

アメリカの医学教育.. 3

20世紀後半の二大革命――交通と通信.. 3

大学に求められるもの.. 4

アメリカの教育の魅力.. 4

アメリカの大学の制度.. 5

アメリカの医学部.. 5

混ざる・混ざる・混ざる.. 6

講演2 こどもが生きるということ. 6

子どもの脳死判定は可能――子どもの移植に道を.. 7

小児心臓移植の実施状況.. 7

子どもは拒絶反応や薬の副作用が少ない.. 9

移植後の問題点.. 9

移植後のQuality of Life. 9

講演3 いのちを見つめて. 10

生命に対する考え方――それは文化.. 10

ご両親に「お話しする」.. 10

子どもに話すときの3大原則.. 11

小児へのインフォームド・コンセント.. 11

小児がんの告知例と非告知例の比較.. 12

ターミナルケア――これまでと立場を変えた医療のはじまり.. 12

3日前」のディズニーランド.. 12

在宅ターミナル――いちばん美味しかった餃子.. 12

家族のケア.. 13

『わすれられないおくりもの』――残されるきょうだいへ.. 13

「ひと」を診る医療.. 14

講演4 ともに活きる命――臓器提供者の心. 14

唯一確実なこと「誰もがいつかは死ぬ」.. 14

9年半前の私.. 15

ともに生きる.. 15

臓器提供者――移植の主役.. 16

遺族の立場.. 16

アメリカでは本人の意思表示は「参考資料」.. 16

アメリカも「全員賛成」ではない.. 17

臓器提供――社会とつながるということ.. 18

第2部 パネルディスカッション. 18

日本の医学教育.. 19

アメリカの医者は哲学者.. 20

ムラ社会日本.. 21

チーム医療.. 22

日本の医師の専門性の中身.. 23

日本の医療に改革をもたらすもの.. 24

少子高齢化――未来への問い.. 25

我が国で移植医療が根づくために.. 27

閉会の辞. 30

第7回トリオ・ジャパンセミナーの感想から. 30


総合司会(高橋 剛)

 

 総合司会をさせていただきます高橋剛と申します。

私は4年ほど前に京大病院で生体肝移植を受けました。現在はトリオ・ジャパンで運営委員のお手伝いをさせていただいております。よろしくお願いいたします。

さて、19971016日。この日は臓器移植に関する法律が施行された日であります。あれから、丸2年が経過し、以来計4例の脳死体からの臓器提供がございました。いろいろと問題点も残されましたが、ご本人様、そのご家族の方々の生命(いのち)に対する思いが、たくさんの方たちによってつながれ、実現いたしました。大変素晴らしいことだと思います。

トリオ・ジャパンは「今日の生命を救う」という合言葉の下に活動を続けている組織です。日本で移植を受けたいと思いながらも、たくさんのリスクを背負いながら海外での移植を選ばざるを得ない患者さんがたくさんおられます。ギリギリのところで命と対峙しているのですから、現状では仕方ありません。

 

本日のセミナーは、移植医療を含めた「医療」を考える上で、根源的テーマである「いのち」にスポットを当てて、今一度「いのち」を見つめてみる必要があるとの思いから開催をいたしました。どうぞ最後までご参加下さい。

本日のプログラムをご紹介させていただきます。第1部は開会の挨拶、そして4人の先生方のご講演をお願いしています。休憩をはさみまして、第二部は講演者の方々によるパネルディスカッションです。

ご講演いただきます先生方のプロフィールは、お配りした資料の中にございますのでご参照下さい。先生方のお話に対するご質問は、同封の質問用紙にご記入下さい。第1部終了後の休憩時間に回収させていただき、第2部のディスカッションに活かさせていただきます。どうぞよろしくお願いいたします。

 

それでは最初に、トリオ・ジャパン会長・青木慎治よりご挨拶申し上げます。青木会長は、C型肝炎による肝硬変でしたが、1989年にアメリカのカリフォルニア大学サンフランシスコ校にて脳死肝移植を受けられました。現在は著述業にてご活躍です。近日、新刊が出版される予定だそうです。移植後10年目を迎えた会長です。

どうぞよろしくお願いいたします。

 

 

会長挨拶

 

青木 慎治(トリオ・ジャパン会長)

 

皆さん、こんにちは。

私の挨拶の前にお願いがございます。私どもレシピエントが今日こうやって皆さんの前で元気にお話をさせていただけるのも、ひとえに善意の愛の命のプレゼントをいただいたドナーの方のおかげです。開会に先立って30秒ほど、皆さんのお力を借りて、おしつけがましゅうございますが、黙祷をさせていただきたいと思います。お座りになったままで結構です。それでは、私どもに命の贈り物をしていただきましたドナーの皆さんのご冥福を祈って、黙祷をさせていただきたいと思います。

(黙祷)

本当にありがとうございました。

総合司会者が、私がお話ししたいことをほとんど話してくれましたので、簡単にご挨拶をして引き下がらせていただきます。私は198939日にサンフランシスコで、ナンシー・アッシャーという女性プロフェッサーの執刀の下に脳死からの肝臓移植を受けました。ちょうど今年で10年になります。今日まで大した拒絶反応もなく、大変つつがなく、元気に第2の人生を過ごさせていただいております。

私は来年、古希を迎えます。古希とは「古来稀なり」ということです。今は、小説を書かせていただいております。今度の正月に出るのが第5作目でございまして、「まあ、作家と名乗ってもいいよ」と編集者から言われております。これまで十分に生きさせていただきましたが、この分でいきますと、まだ4、5年は生きさせていただけそうな気がしております。

 

臓器移植法施行2年目に向けて

 

ちょうど、その10年目が、この1016日が、いみじくも移植法施行以来2年目であります。しかし、まだ4例しか脳死からの移植が行われてない。自分が生かしていただいたことを含めて、今一度生命倫理について見直す時期なんじゃないかなと考えています。しかし、これは大変大きな課題であり、今日明日フワッと思い浮かぶようなわけにはまいりません。

トリオ・ジャパンのスローガン「今日の生命を救う」を日々の行動に移しながら、生命倫理について、今日をスタートの日にして、皆さんとご一緒に考えていければいいなと思います。これを片づけないと、たとえば、法律に書かれていない15歳未満の子どもさんの場合、意思表示カードの不備、それから患者の家族の方のご忖度(そんたく)[1]の問題など、解決がつかないと思うのです。家族のご忖度があれば海外では臓器提供できるのですが、日本は本人の意思を示す署名がなければ有効ではないと、がんじがらめです。この点がかなりネックになっていて、移植が進まない要因の一部をなしているかと思います。

2年目を期してですね、忖度、ご家族の方が、「うちの子は不幸にして亡くなったが、日ごろから移植医療に関して非常に前向きの考え方を持っていたので、新しい命の芽生えにどうぞ臓器を活用して下さい」というようなことがあってもいいと思います。

 

「同行二人」

 

ピッツバーグ大学にスターズル教授という移植医療のパイオニアの偉大な先生がいらっしゃいます。何回も日本へ来てくださっていますが、こうおっしゃったことがあります。「青木さん、あんた、元の青木慎治じゃないんだよ。あんたの髪の毛や皮膚から遺伝子を摘出すると、過去の青木慎治がAだとしたら、移植後はA+αになっているんだ」と。トリオ・ジャパンの野村(ゆう)()さんに言わせると、「ドナーの方の生命と共になって、I-dentity(アイデンティティ)ではなくwe-dentity(ウイデンティティ)になった」ということです。

仏教に「同行二人」という言葉がありますが、レシピエントはドナーの方と一緒に生きているということです。実際、そうした実感があります。大変傲慢無礼な、話のわからない、わがまま者であった私が、移植を受けてから、いい遺伝子と混ざり合ったのでしょう、穏やかにもなりましたし、人の痛みのわかる人間にも生まれ変わった気がします。私が元気で生き長らえることは、ドナーの方のお命を継承させていただいて、後にまたバトンタッチしていくことだと思います。

だから、私自身も意思表示カードをもっております。心臓のほうは至って丈夫です。肝臓もひょっとしたら使えるんじゃないかなと。角膜、その他、私でも立派にドナーになり得ると思い、意思表示カードを持っております。

こうやって生命は、継承されていくのではないでしょうか。これが、仏教で言う起死回生、輪廻転生、生命の再現と言いますか、そういう意味なんじゃないかと思ったりしております。

トリオ・ジャパンは、非常にアグレッシブに行動を起こす集団として、今日までやってまいりました。これからもその火を消さずにやっていきたいと思っております。どんなことでもご相談下さい。トラブルがあった。海外へ移植に行きたいので情報が欲しい。どこへ行けばいいのか。どうフォローしたらいいのか。募金を集めたい。様々な問題を抱えていらっしゃると思います。トリオ・ジャパンにはファミリー・コーディネーターがおります。幸い、経験者がたくさんおりますので、その実体験や現実に即した情報に基づくご助言ができます。

たとえば、募金についても、エフェクティブに募金をさせていただいて、皆さんのご支援を平等にちょうだいして、移植という自分の目標を貫通することは、なかなか至難の技なんです。それから、海外での移植には海外ならではの心配が伴います。私自身もそうでしたが、妻の苦労、これはもう大変でございました。私の家内は英語がしゃべれません。私という重病人を抱えながらの長期滞在用アパートメントでの暮らし。よく半年間頑張ってくれたと思うんです。帰るころには、片言ながら英語もしゃべる、相手の言うことはだいたいわかる、というぐらいになりました。やっぱり必要は発明の母なんでしょうか。それにしても、海外に行かれる方は、いろいろな文化的なギャップを背負って行くわけです。また、移植にかかる費用、生活費等、経済的な心配もございますでしょう。

トリオ・ジャパンのファミリー・コーディネーター制度をどうぞお気軽にご利用下さい。できる限りのご助言を申し上げます。それが、即「今日の生命を救う」という我々のスローガン、コンセプトに合致するものだと深く思っております。今後とも継続していけるように、皆さんの篤いご協力とご支援をお願いして、今日のセミナーのご挨拶とさせていただきたいと思います。

後先になりましたが、今日は、遠いところから、お忙しいのにも関わらず、トリオ・ジャパンのために、こんなにたくさんの方にご集会ご参加いただきまして、誠にありがとうございました。

では、よろしくお願いいたします。(拍手)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

第1部

 

総合司会

 

 ありがとうございました。

これより4人の先生方にご講演していただきます。最初にお話しいただくのは、黒川清先生です。黒川先生は、東海大学医学部教授、また厚生省の臓器移植専門委員会の委員長もされております。「日米の医療と医学教育」についてお話をいただけることとなっております。それでは、先生、よろしくお願いいたします。

 

講演1 日米の医療と医学教育

 

黒川 清(東海大学医学部教授・医学部長)

 

 こんにちは。お招きいただきましてありがとうございました。今日は私はスライドを使わずに、25分ほど、「日米の医療と医学教育」というテーマでお話することになっているのですが、実は、何を話せばいいのか、少し迷っています。

 

臓器移植専門委員会の委員長を引き受けた経緯

 

私は今ご紹介にありましたように、厚生省の移植専門委員会の委員長をしております。脳死に関する議員立法が出されようという頃、2月でしたか3月でしたか、私に委員長になって欲しいという話がありましたが、最初は断わりました。もし法案が通れば、その半年後には法律を施行しなくてはならない。もちろん通らない可能性もある。だが通ったときには、準備期間は6ヶ月しかない。厚生省は、それまでにも、いつか来る日のためにかなり準備はしていたわけですが、法案が通ったら実際に委員会をオフィシャルに立ち上げなくてはいけないということでした。

私の専門は腎臓です。透析の患者さんもたくさん診ています。プログラムの2枚目に私の背景が書いてありますが、南先生と同じように、私も15年間アメリカの大学で臨床もやり、研究もやり、教育もやってまいりました。日本に帰ってきて、今15年経ちました。ですから日米両方の大学のことを割合によく知っているつもりです。日本で人工腎臓が始まったのが1960年の前半ですが、1960年代になって、いわゆる「シャント[2]」というものができました。これはシアトルで生まれたんですが、シャントによって慢性的に何回も人工透析を繰り返すことができるようになったのです。これが1960年代の大きなイベントです。ちょうど、私が腎臓をやるようになった頃です。日本でも腹膜灌流とか、透析は結構やっていたのですが、このシャントがない。シャントがないと、人工腎臓を繰り返すことができません。当時は慢性腎不全の患者さんはみんな目の前で死んでいきました。

私は、あるとき立川の米軍病院にシャントを分けてもらえないか交渉に行きました。たまたま米軍病院の先生が、そのシアトルのグループで腎臓のトレーニングを受けた人だったのです。「じゃあ、1本取ってくるから」ということで、飛行機で取ってきてくれました。当時、私は東大にいたんですが、そのシャントをその医師と一緒に入れた。これが日本人の最初の症例でした。そんな経験をしていまして、アメリカでも腎臓をやっていました。

さて、この専門委員会の委員長ですが、委員長というのは、結構いやな役、ですよね。いろいろな問題に関するいろんな意見をまとめなくてはならない役です。たとえば、「家族の同意」という表現がありますが、じゃあ家族とは誰だ? っていうような話がどうせ出てくるに決まっているわけです。

で、最初はお断わりしたのですが、どうしてもと言われまして、厚生省に1つだけ条件を出しました。その条件とは、「この専門委員会を全て公開する」というものでした。議事録を出すという公開の仕方は、今はもう原則になっていますが、私は、審議そのものを公開してくれ、と言ったんです。最初、厚生省はそういう前例があまりないと渋っていましたが、結局は私の出した条件を飲んでくれました。ですから、もしご興味がある方がおられたら、是非、いつでも来て下さい。厚生省の臓器移植対策室に電話していただければ、次の会議が、いつ、どこであるか教えてくれます。

1例目の移植が行われたとき、臨時審議を開いたのですが、そのときは150人ぐらいプレスの人達が来ました。全てビデオですが、実際のCT画像、脳波もお見せしました。プレスの人も撮っていましたが、審議を公開にしていくと、いったいどういう議論があって、その結果どういうふうになってきたというその過程がきちんと一般の方に伝わると思うのです。公開しておくことは非常に大事なプロセスだと私は思っております。

皆さんとも非常に関係が深い委員会です。また、私は、今ネットワークの仕事にも関わっています。これも早いところで辞めたいと思っていますが、以上のような経過でここに至っています。

 

アメリカの医学教育

 

さて、そこでアメリカの医学教育と医療ですが、今日は時間が限られていますので、医学教育についてだけお話ししようと思います。何故かと言うと、お医者さんの質が医療全体にとって一番大事な問題だからです。
 医療のあり方は国の政策によってかなり変わってきます。アメリカはかなり市場にドライブされたコンペティティブで(競争の激しい)オープンな医療です。「マネージドケア(管理医療)」と言われる保険会社が管理する医療体制も増えています。アメリカでは医療のコストがどんどん上がって、GDP1415%に達し、これを抑制するのに貢献したのがマネージドケアですが、あまりにも管理の強い医療になりつつあったので、医療をする側が患者さんと組んで、行き過ぎた振り子が戻りつつあるところです。

一方で、南先生のドイツをはじめとするヨーロッパは、どちらかというと、詳細については今日はお話ししませんが、日本のように社会主義的な医療制度を敷いております。

何故医学教育か、何故アメリカの医学教育か? この理由は、私がたまたまアメリカで15年間医学教育に携わったからではありません。もし、私がフランスで15年間仕事をし、日本に戻って15年仕事をしたからという理由で「日本とフランスの医学教育」という話をしてもこれは全然インパクトがありません。何故でしょうか。やっぱり、「アメリカの医学教育」でなければならない理由があるのです。

 

20世紀後半の二大革命――交通と通信

 

20世紀の後半に起こった2つのことを考えてみましょう。まず、1つは、ものすごい交通の手段の発達です。交通手段が発達したおかげで、24時間以内にニューヨークでも、ロンドンでも、パリでも行けるようになりました。30年前には考えられなかったことです。

日本は経済大国になりG7に入っています。いろんな仕事のチャンスがあるので、外国の人もたくさん来るようになりましたし、経済大国になったおかげで、たくさんの日本人も外国に行くようになりました。年間1500万人ぐらいが海外に出かけています。40年前は、日本人がそんなに外国に行くなどということは考えられませんでした。今では出かけて行って、外国を身をもって見た人がたくさんいます。もしかしたら、外国で病気になった人もいるかもしれない。ここにおられるように、実際にそこで医療を受けた人もいる。逆に、日本で病気になって、日本の病院の入院経験を持つ外国の人もたくさんいる。外国からお医者さんも来るかもしれない。患者さんも来る。交通の発達のおかげで何が起こってきたか。日本と外国との壁が低くなって、外国を見聞きした人たちがたくさんいる、ということであります。

2番目に世の中を変えた20世紀後半のテクノロジーは、コミュニケーション、情報伝達の方法であります。テレビ、ラジオ、新聞、テレビは衛星を通じて、世界でいったい何が起こっているかを世界中で同時に見ることがます。しかも、最近はコンピュータが発達したおかげで、インターネット等で、医療情報から何から、専門家ではなくても誰もが世界中の情報に瞬間的にアクセスできるようになりました。つまり、情報をワールドワイドでシェアできるようになったということであります。

たとえば、30年前、40年前、私が医学部の学生だった頃、あるいは若い医者だった頃、高価な英語の本なんていうのは、教授しか買えません。図書館にも1冊しかないかもしれない。全てのジャーナルが揃っているわけでもない。教授はそういう新しい本なり、雑誌なりをこっそり買って、それをネタ本にすることができました。今はそんなことはできません。学生でも知っている情報はいくらでもある。情報テクノロジーによって、世の中は変わったのです。

ですから、日本のお医者さんがこの治療方法がいいと勧めても、本当かな? と自分でどんどん調べることができます。たとえば、アメリカのハーバード大学の病院へ来る患者さんは、その6割が自分の病気についてインターネットで調べています。いわゆるEvidence Based MedicineEBM[3]と言われるランキングづけされたデータを調べるのです。ある病気に関して、今現在、何がわかっていて、どの治療法の成績が良いかということが、全部コンピュータで調べられるのです。ランキングをつけてインターネットにその情報を公開している団体もたくさんあります。患者は自分の病気をインターネットで調べた上で、「私の病気はこうなんですね」と、「先生はどうしてこれこれの治療にしたいとおっしゃるのですか」というような会話を医者と持てるわけです。全ての人が情報を得ることができるようになりました。誰もが使うことができます。使わない人はいつまでもわかりませんが、使う気なら使えるということであります。

たとえば、今インターネットでユノス(UNOS)[4]のホームページにアクセスしてみましょう。先月までで腎臓移植は何件あったか、今年何件行われたか、肝臓移植は何件か、みんなわかります。去年、1998年はだいたい2万件の移植が行われました。そのうち1万件が腎臓。残りが肝臓、心臓、肺です。登録者は何人いたと思いますか? 6万人です。

10年前、1989年はどうだったでしょうか? 15,000人が移植を受けました。登録した人が2万人弱です。つまりウェイティングリストに載れば、だいたい1年から1年半の間に移植が受けられたんですね。ところが現在は、6万人登録して移植を受ける人数は2万人ですから、4万人がウェイティングリストで待機中。臓器が不足している、足りなくなっているということが、アクセスすれば誰にでもわかります。情報が世界のみんなのものになった。世の中が変わってきてしまった。医者しか情報が得られなかった過去と違い、その気になれば誰もが情報を得られ、使える現在、医者に対してどういう要求が出てくるでしょうか。

 

大学に求められるもの

 

 30年前の日本、昭和40年過ぎから高等学校に進む人が50%を越えました。日本は何事でも50%を越えると、突然、付和雷同現象を起こしてドーッと行っちゃいます。現在では97%が高等学校へ行きます。つまり全員高校卒です。その高等学校を卒業した人がどのぐらい大学へ行くと思いますか? 47%です。日本人の半分は大卒者です。昭和30年代は15%でした。

大学の進学率が20%以下の社会では、大学のその社会での役割は、エリートを作ることにあります。ある職業人を作るというはっきりした目的がありました。ですから、高等学校を出て18歳で大学に行くときに、法学部・経済学部・文学部・工学部・医学部と分かれていることにも意義がありました。ところが、アメリカや日本のように50%の人が大学に行くような世の中になってしまうと、大学に行くことは当たり前のことで、もう決して一握りのエリート養成ではあり得ません。大学の目的は明らかに変わっているはずです。それはいったい何でしょうか。

50%の人が行く大学という場所は、国民としての、紳士としての、淑女としての教養と文化を身につける場所なんですよ。教養と文化を身につけてから、その後、医学部に行くとか、工学部に行くとか、ビジネススクールに行くとかいうことが可能な、十分に成熟した社会になったはずなんです。ところが、日本では相変わらず18歳で学部を選択させている。教育が荒廃して、大学生の程度が低いとか、いろいろなことが言われていますが、50%の人が進学している現状を考慮してみたらどうでしょう。

ということからすると、アメリカの教育システムは非常に参考になる。アメリカの歴史は300年しかありません。と言うことは、固有の歴史的な縛りが少ないということです。しかも、アメリカは、多国籍、いや、国籍はアメリカかもしれませんが、多民族、移民の国です。元々移民で来た人たちは母国でエリートでなかった、ハッピーではなかった人たちが多かった。チャンスを求めて移民してきたのです。

という社会では、いったい何が起こるか。常にフロンティアスピリットで、新しいものを創る。そういう300年がアメリカの歴史であったわけです。新しいものを創る、新しいものにどんどん変えるには、歴史が短い方がやりやすい、変えやすい。しかも、変えてきたものは、様々な背景を背負って移民してきた全ての人たちに共通に受け容れられるようなシステムです。

今の、金融がそうです。株式がそうです。医療もそうですよ。いわゆる「プロフェッショナル」と言われる人たちにとっては、アメリカがつくるシステムは非常に魅力がある。何故かと言うと、多民族だからこそ、魅力あるいろんな人がいて、その人の元々の国、たとえばチャイナであり、イタリーであり、ユダヤ人であり、日本人であっても、ああ、すごくいいなあと思えるようなシステムづくりができるわけです。

だから、今、世界中の若い人に、たとえば3万ドルの奨学金をあげるから、どこの大学へでも行きなさい、あるいは、どこかの研究室へ行きなさい、と言ったら、どこに行くと思いますか? 9割の人はアメリカに行くと思います。何故? 何故、アメリカの高等教育と研究はそんなに魅力があるのでしょうか。その理由を考えるべきです。

 

アメリカの教育の魅力

 

たとえば、フランスで一生懸命新しい大学のシステムを作ろうといろいろやってみても、どうしてもフランスの1000年以上の歴史と、フランス特有の文化の枠組みから、抜けられません。だから、フランスがつくったその新しいシステムが世界中の人たちに魅力的に映るプログラムかというと、なかなかそうはなりにくい。過去にフランスの植民地だった国からは人が来るかもしれませんが、世界中の人がエキサイトして来るような普遍性の高いプログラムはなかなかできない。ところが、こういうことができてしまうのがアメリカの大きな魅力です。アメリカは国自体が非常に大きいし、来た人が頑張れば今までのエスタブリッシュメントを越えて、どんどんキャリアアップすることができます。
 ということからして、当分、アメリカの力は弱まらないだろうと思います。つまり、若い、大きなエネルギーが世界中から集まり、その人たちが上昇志向を持って自分を試す。そういう機会を与えているのがアメリカです。しかも、その人たちがちゃんと成功すれば、ちゃんと見返りががあるのですから、このエネルギーはものすごい。世界の相当なブレーンが入ってきます。

 たとえば、奨学金を出すからと言っても、外国人が日本の大学にみんな来ると思います? 今、日本に来ている留学生は何人いるかご存知ですか? 中曽根総理のとき、「留学生10万人計画」ということで、どんどん予算をつけました。順調に毎年伸びましたけれども、3年前に54,000人ぐらいになって、今はどんどんどんどん下がってきています。何故?

留学生の大部分はアジアの人です。経済成長した日本に来ることにはメリットがあると思って来てみた。だけど、今や、そんな魅力はありません。アジアの人にさえ魅力を感じてもらえないのが日本です。アジアの人でも、3万ドルのお金があれば日本を選びません。半分の人はアメリカに行きます。残りの半分の人はイギリスに行きます。何故? インド、パキスタン、バングラディッシュ、マレーシア、シンガポール、オーストラリアなどではイギリスに行く人が多いと思います。これらの国のリーダーには元々イギリスで教育を受けた人が多い。イギリスを非常に好いています。イギリスの高等教育は、ちょっとスノビッシュなところもありますが、素晴らしくいいですね。実際、私も好きです。そういうわけで、日本はこのままではまずいんじゃないかと思います。

そこで、何故アメリカの教育かということの答えですが、アメリカは非常に普遍的で魅力のあるプログラムをつくるからです。もし、医者になれる機会があるんだったら、アメリカで学んでみたい。医者ならアメリカに行って医学の研究をしたい。だけどなかなか行かしてくれないと、それだけの話であります。

 

アメリカの大学の制度

 

さて、そこで、簡単に残りの時間に、アメリカの医学教育はどうなっているかというお話をします。アメリカは日本と同じように50%以上の人が大学に行きます。どの大学に行きたいか。もちろん、いい大学に行きたい。いい大学とはどこですか。プリンストン? ハーバード? スタンフォード? バークレー? いろいろありますよね。そういうところへ行こうと思ったら、いったいどうすればいいでしょうか。入学試験なんかありません。高等学校の3年、あるいは学校によっては444制ですから、高校4年というのもありますが、最後の18歳までの34年間の成績が非常に大事なんです。いい大学に入るには、その成績があまり良くなかった人はダメです。入れません。

学業の成績だけでなく、いろいろな課外活動をやって、自分は他の人よりも優れている点があるということは、すごくアピールできることですね。スポーツもできる、いろいろな文化的な活動もする。こういうこともすごく大事です。ペーパー試験は、日本のセンター試験のようなSATという試験があります。年に6回ぐらいありますから、それを適当に受けます。何回受けてもいいんです。SATの点数は必ず受けたい大学に知らされます。大学側が何をするかというと、高校の成績、課外活動、SATの点数などを見て、こういう学生が欲しいという人を取る、そういうやり方です。

大学の4年間の教育はどういうものかと言うと、学部なんかありません。たとえば、ハーバード大学から入学許可を得たということは何を意味するかと言うと、ハーバード大学にある、1年でだいたい1,600人を入学させるハーバード・カレッジに入ったというだけの話です。4年間、これはアンダーグラデュエート(undergraduate)と言いまして、学部教育ではありません。リベラルアーツ&サイエンスというカリキュラムです。スタンフォードに行ったとか、プリンストンに行ったというのは、みんなそういうことで、ここに入ったということです。

学部はありませんから、何を勉強するか。何を勉強してもいい。学生が自分で好きな科目を選んで登録すればいいのです。セメスター制で半期に5、6科目を選びます。どういうわけか、心理学を取る人は多いです。それから、英語とか、歴史を取る人も結構います。何を取ってもいいんです。いい大学に行けば行くほど、ものすごく勉強させられます。1つの科目を取るのに、本を10冊程度すぐに渡されて、読んでこないと全然授業が始まらないということになりますから、ものすごく勉強しなくてはなりません。毎日朝の45時まで勉強するのは当たり前です。授業時間は毎日あるわけではなくても、そのぐらい勉強していかないとついていけないというふうになっています。

大学の4年間は何を取ってもいいのですが、1年半ぐらいすれば、自分はどういうところにフォーカスして勉強したいのかということがだんだんわかってきますよね。2年目、3年目、4年目といろんなのを取りながら、自分はこれ、というものに絞られていきます。それをメジャー(主専攻)と言います。

たとえば、今の皇太子妃の雅子さん。あの方はハーバード卒業と言われてますが、何学部に行ったんだと思います? 別にないんですよ。今言ったアンダーグラデュエートのカレッジに4年間いたのです。最終的にあの方のメジャーは国際経済だったと思います。

 

アメリカの医学部

 

さて、そこで、アンダーグラデュエートの後、医学部に進学する人はどうするんでしょう? 何でもいいと言っても、医学部に行きたい人はバイオロジー(生物学)を2セメスター、ケミストリー(化学)を2セメスター、物理と数学も取らなくてはなりませんが、後は何でもいい。主専攻も何であっても医学部に行く妨げにはなりません。生物でも、化学でも、中世の美術でもいい。何でもいいんです。

さて、医学部に行くには3年の終わりに願書を出しますから、それまでの3年間の成績がすごく良くないとまず話になりません。医学部へ行きたい人はたくさんいるので、競争率がものすごく激しいです。学業成績が良くないと入学できません。それからもう1つ成績に関するものとして、医学部に行くための共通一次のような試験、MCATと言いますが、年に2回あります。これを受けます。だいたいの人は1回しか受けません。その成績も一応送ります。その他、夏休みなども遊んでいるとダメです。誰かの研究室へ行ったり、病院へ行ってボランティアをやったり、いろんなことやって、そこからいい推薦状をもらうことが非常に大事です。推薦状は書くほうもいい加減なことは書けません。もし、私がいい推薦状を書いて、変な学生だったとしたら、私の評判は、あっという間に全国的に落ちてしまいます。「あの人の推薦状はいい」という信用を築くことは、私たちにとっても非常に大事なことです。

さて、希望する大学の医学部にアプリケーション(願書)を出します。いい大学には、たくさんのアプリケーションが行きます。選ぶ側は、アプリケーションの書類から良さそうな人を選びます。それから、その学生を学校に呼び、1日ぐらいかけてインタビューをする。そういう過程を経て、非常に良ければ、「あなた、うちの医学部にいらっしゃい」となります。非常に優秀な学生なら、いろんな大学から来て欲しいと言ってきます。1つから誘いが来ても、一番行きたい大学でなかったら、しばらく返事を保留する。で、自分が行きたい大学から来たら「はい、行きます」と返事をする。1年ぐらいかけて決めるというプロセスであります。ですから、大学は8月から始まりますが、次の年の新学期が近くなっても、つまり67月になってもインタビューのお招きの来ない人は、今年はダメだなということになるわけです。

こういうプロセスで大学が決まるのですが、特に大事なことが1つあります。たとえば、スタンフォード大学の例で言うと、医学部の定員は160人だったと思いますが、自校、つまりスタンフォード大学を出た人は、意識的に2割以上は取りません。全国からいろいろな面白い学生を取ってこようとします。しかも、その学生は成績がいいだけではなくて、さらに人と違った何かを持っている人。そういう人は強いですね。アンダーグラデュエートのカレッジでものすごく勉強しているのは分かっていますから、たとえば、オリンピックの代表選手になったとか、コンサートのピアニストで何回も演奏会に出ている、そういう人はもう引く手あまたです。成績が良くて、そんなことができる人っていうのは、もう必ず何かをやり遂げるに違いないと思われていますから、あっという間に決まってしまいます。

こういうプロセスを経て、見事4年間の医学部に進みます。今日は時間がありませんから、医学部の教育の内容には触れません。実際、医学部の教育も今どんどん変わっていますが、非常に実践的であることは確かです。

医学部を終わると、次にはどこかで研修医にならなくてはなりません。日本だと、卒業した大学の医局に入ります。第1内科、第2内科、第3内科とか言っちゃって、同じ大学なのに、全然交流しない「縦社会」に入ります。これに対し、アメリカは、全く異なる方式を採用しています。卒業してどこで研修をするかは、全国のコンピュータのマッチングで決められます。非常にいい病院には、たくさんのいい大学からいい人が応募してきます。いい病院にはたくさん来るし、いい大学の非常に成績優秀な人はそういうところに入りやすい。両方で順番をつけるんです。「今年、うちは30人研修医が必要」という大学は、応募者のリストをつくるわけです。応募者はたいてい、学生のときにもインタビューに来ていますから、「あ、この人いい。ぜひ欲しい」といった場合は、リストの上位におくのです。

学生のほうも、ここに行きたい、ここに行きたいと何ヶ所かを選んで、リストに順番をつけて送ると、全国でコンピュータが動いて、マッチングされ、318日ごろに全国一斉にバッと発表になって、手紙が来ます。「あなたの来年の研修先はここです」と、決まるわけですね。

 

混ざる・混ざる・混ざる

 

お気づきのように、アメリカでは、医者になるいくつかのステップで混ざる。医学部に行く前に混ざる。医学部へ行くところで混ざる。卒業してまた混ざる。これはいったい何を意味するんでしょうか? 病院の質が良くないと、いい人は来ない。大学も常にいい評判を立ててないと、いい学生は来ない。卒業した人がたいした人じゃないと、あの大学はダメになってきたと、評判はあっという間に下がってしまいます。この方式があるから、すべてのステップで一生懸命良くしようという意識が働くわけです。医学校に行かせる前の大学、アンダーグラデュエートの大学も意図的に混ぜるから、一生懸命になっていい大学にしようと競争します。これが、いわゆるピアレビュー(相互評価)です。つまり、みんなで評価しようということです。ピアレビューをするのには、みんなが同じ価値の物差しを持ち、その物差しで物を評価しなくてはいけない。日本でも、ピアレビュー、ピアレビューなんて言いますけど、そんなシステム、働くわけがないです。

つまり、アメリカはプロになる1つ1つのステップで混ざって、他流試合をする。だから、非常に信頼感が高い。日本で唯一混ざるのはどこですか。大学の入試だけです。これだけ。18歳の大学入試の学力で入った大学をそのまま黙って卒業する。勉強してもしなくても卒業させてくれる。国家試験さえ通れば、そこでどっかの医局に入る。胸部外科、第1外科、第1内科、第2内科、どこに入るかは、カラオケで飲んで、まあ、医局長が来たら「入ります」と言ったらおしまい、というだけの話でありまして、そういう、非常に閉ざされたムラ社会で、決して他流試合はしないで、その後も関連病院を回って、本当の実力がお互いにばれないように、守りながらやっているという、情けない社会です。

今まで情報が十分開示されていなかったので、日本人全員、我々も、肩書きの偉い人は偉いんだと思っていたでしょ? とんでもない。

ということも、わかっていても、なかなか言えないでしょ? 日本はそういう社会だということです。

一方、アメリカの医学、医療は、非常に開かれていて、いろんな国から見ても魅力あるプログラムを常につくり、改良を重ねてきているというところがすごいところです。医者というプロフェッショナルをつくる大学は、卒業する医者にどこに行っても使える腕と力量と知識があることを保証しています。このことがアメリカや、特にイギリスもそうですが、大学が、あるいは専門家集団が社会と結んでいる契約です。社会との契約。このようなコンセプトが最初から組み入れられている。だけど日本はそうではありませんね。片やエスタブリッシュメント、片や庶民である。もっと分かりやすく言うと、庶民と言うより、村民、ムラ人と言ったほうがいいかもしれません。これが日本の社会ではないでしょうか。

どうもありがとうございました。

 

総合司会

 

 黒川先生、どうもありがとうございました。アメリカで勉強するには、えらい時間と、パワーがないと勉強できないのかなという感じもしましたが、それだけ、学生さんも、本当に何になりたいかということを考え、またプロを目指していると。大学側も、本当にプロを育てようという意識がものすごく高いのかなというふうに感じました。

 

引き続きまして、次にお話しいただきますのが、南和友先生です。南先生はドイツのバード・ユーンハウゼン心臓病センターの胸部心臓血管外科の教授をされております。これまでに、同センターで約1,000例に及ぶ心臓や肺の移植を行っておられます。本日は、「こどもが生きるということ」と題しまして、お話をいただけることになっております。それでは、先生、よろしくお願いいたします。

 

講演2 こどもが生きるということ

 

南 和友(ボッフム大学教授)

 

皆さん、こんにちは。ご紹介ありがとうございました。

今、黒川先生から非常に楽しいお話を聞かせていただきました。私は、本日与えられたテーマ「こどもが生きるということ」というシリアスな題でお話をさせていただきます。次のスライド見せてください。

これはヨーロッパの地図で、アメリカは入っておりません(笑)。ここにドイツがありまして、イギリス、フランス、スペイン、イタリー。ドイツのわりと北の方にありますノルトライン・ヴェストファレンの、このハートセンターに私は居ります。ノルトライン・ヴェストファレンというのは州の名前です。アメリカで言うところのカリフォルニア州とか、テキサス州とかいうのに当たります。その州のバード・ユーンハウゼンという都市です。非常に言いにくい。ドイツ人でも言いにくいようです。そこの心臓血管胸部外科におります。センターは、このボッフム大学、ボッフム大学っていうのは、我々のセンターから100キロほど離れておりますけれど、そこの大学病院に附属しております。

トリオ・ジャパン事務局長の荒波ご夫妻から、本日の第7回セミナーに、子どもの心臓移植を中心に話をして欲しいというご依頼があったとき、かなり簡単に「やらせていただきましょう」とお引き受け致しましたのですけれども、その後、プログラムの内容がだんだん煮詰まってまいりまして、「こどもが生きるということ」という題名に決まりました。大変抽象的と言いますか、文学的と言いますか、宗教的と言いますか、そういう題名になりまして、実を言って、臨床の心臓外科医であります私が、皆さんの前でそのような話ができるかどうかわかりませんが、日本でも心臓移植が可能になったにも関わらず、15歳未満のお子様には、法的にまだ門が閉ざされている、やむを得ず外国に行って移植を受けてくるという、日本以外にはない異常事態を踏まえ、私なりにお子様の、特に心臓移植の意義について、本日お話をさせていただきたいと思います。

子どもの脳死判定は可能――子どもの移植に道を

 

ほとんどの子どもは、これといった重い病気にかかることもなく健康です。ですから、先天性の、あるいは後天性の重い心臓病や肝臓・腎臓の病気、あるいは脳障害の子どもを持つご両親の精神的経済的負担を、健康なお子様しか持たない方々には十分なご理解をいただくことはできません。

一方、ここにお集まりの皆様の中にも病気をされたお子様をお持ちの方がたくさんおられると思います。親には、子どもの生命を助けるためには、自分の生命を犠牲にしてもよいという本能的なものがあるということは、ご承知のことかと思います。私は心臓外科医として、先天性の心臓病で、何年にも分けて何回もの手術をしなければならない子どもを何人も手術しました。その都度、若いご両親が自分たちの人生を何年も、ひどいときには10年以上も犠牲にしているのをよく知っています。

日本を除いたアジア・欧米で、脳死臓器移植が普及して20年になろうとしています。そのような国では、臓器移植しか助かる方法がないという時、多くのお子さんが移植を受け、苦痛が除かれ、生命が助けられています。それだけではなく、移植は犠牲心に富んだご両親の負担も軽減してくれます。

日本の臓器移植法は、6歳未満のドナーの脳死判定は難しいので、ドナーの対象外とするということになっています。世界の医学的常識から全くかけ離れているばかりでなく、今、私が申しましたような、「子どもが生きるということ」「親に強いられる全面的な負担を軽減すること」を無視した以外の何者でもないわけであります。

脳死の判定を大人には認めるが、子どもでは難しいということを主張している人は、たとえば、車を例に取ると、大型車と軽自動車の両方とも一緒にガソリンがなくなっている場合を想像したとき、大型車は走れないけれども、小型車だったらひょっとしたら走るんじゃないかと、そういうことを主張しているのと同じなわけです。

脳死を認めない人たちに、ドナーになれと言っているのではなくて、それに同意するドナー、もしくはその家族があれば、子どもの移植も日本でも可能であってもよいはずです。このへんをイントロといたしまして、私の話を進めたいと思います。

 

小児心臓移植の実施状況

 

右上のようなスライドを作ってまいりましたけれども、我々のセンターで心臓、または肺移植を始めまして、ちょうど10年になります。10年間で、総数1,031例の手術をやってきました。小児は総計で84名です。

84例のうちの半分以上、66%にあたる方々が特発性の心筋症という診断を受けておられます。その他、先天性の種々の疾患、その中でも多いのが、左心系の低形成症候群、大血管転移症、非常に複雑な エプスタイン奇形と申しますけれども、そういういろいろな疾患があります。こういうお子さんたちは、23回どころか、78回といろんな手術を受けて命をもたせてきて、もうそれ以上手に負えないという時点で、移植に踏み切っております。

 

レシピエント術前診断(小児84例)

心筋症

55例(66%)

左心低形成症候群

 9例

大血管転移症+エプスタイン奇形

 3例

単心室症

 3例

大血管転移症+両大血管右室起始

 2例

心室中隔欠損症+大動脈基部低形成

 2例

ファロー四徴症

 2例

両心房左室流入症

 2例

その他

 5例

 

 

これがレシピエントの年齢分布であります。1歳から6歳が多く、1歳以下のお子さんも16人ありました。

 

これがレシピエントとドナーの性別であります。レシピエント、ドナーとも男性のほうが過半数であるということです。

ドナーの死因は、外傷が一番多いです。その次が低酸素血症などの脳内出血です。腫瘍もあります。

ドナーの方の年齢分布でありますけれども、1歳未満の方も結構ありますし、16歳という方もこれが大半を占めております。

このような専門的な話をするのはどうかと思いますけれども、ドナーの心臓を摘出してから植えられるまでの時間を「心虚血時間」と言います。心臓が摘出されてからトランスポート(搬送)されて、心臓が植えられて心臓が動き出すまでの時間は、だいたい3時間から4時間というのが主であります。中には、お子さんの場合はもっと時間が取れますので、6時間に至るものもあります。ドイツから、たとえばスペインやスウェーデンにトランスポートされる場合など、そのぐらいの時間がかかります。

 免疫抑制剤ですけれども、我々のところは、サイクロスポリン、アザチオプリン、プレドニゾロンの3種を術前、術中はプレドニゾロンを用いています。

術前投与

サイクロスポリン 0.25mg/kg 静注

アザチオプリン  3-4mg/kg  静注

プレドニゾロン  125mg     静注

術中投与

プレドニゾロン  125mg     静注

 

術直後もできるだけ、この3種で行き、できれば、長期的には1種、サイクロスポリンだけにもっていくという方向に進めていますが、現実にはそうも行かず、3分の1の患者さんは1剤でやっていけますが、後の3分の1が2剤、後の3分の1が、やはりプレドニゾロンをやらなくてはいけないということで3種の混合です。

 

術後早期投与

サイクロスポリン 0.1-0.2mg/kg 静注

アザチオプリン  1-4mg/kg     静注

プレドニゾロン  125mg        静注(3回/日)

術後遠隔期投与

サイクロスポリン 4-6mg/kg     経口

アザチオプリン  0-2mg/kg     経口

 

術後30日以下の早期に死亡した患者さんは13例あります。どういう要因で亡くなられたかと言いますと、右心不全が強過ぎた、左心不全になった、ミスマッチ(体重・表面積などが完全に一致しなかった)、その他の要因です。死亡した患者さんの大半は、どちらかといいますと、先天性の心疾患で非常に重症でありました。

 

術後早期(術後30日以内)死亡原因:13例(15.7%)

 

右心不全            4例      多臓器不全          1例

左心不全            2例      肺炎               1例

ミスマッチ          1例      肺出血              1例

肺梗塞              1例      ドナー心不全        1例

出血               1例

 

次に30日を越えた患者さんですと、このように拒絶反応、あるいは突然の心停止、いわゆる不整脈で亡くなるわけです。

術後遠隔期(術後30日以上)死亡:8(9.6)

4              先天性心疾患                    拒絶反応       113日目

1              拡張型心筋症                    拒絶反応       154日目

9              先天性心疾患                    拒絶反応       552日目

11            拡張型心筋症                    拒絶反応       693日目

4              拡張型心筋症                    突然心停止    1191日目

0.5           先天性心疾患                    拒絶反応       1696日目

11            拡張型心筋症                    敗血症          2278日目

15            拡張型心筋症                    突然心停止    2378日目

 

移植を受けたお子さんの中から、移植が成功して5年以上経っている患者さんをピックアップしますと33名(男18名・女15名)です。彼らがその後、どういうふうに生活しているかを示します。観察期間が平均で7.4年(5.110.9年)。心臓移植をしたときの平均年齢が3.1才(0.415.7才)。現在の年齢が10.4才(5.825.5才)ですから、現在、既に25歳になって結婚されてお子さんをお持ちの方もあります。いろんな方がありますが、合計33人の方が5年以上生存されております。ちなみに体重も平均33kg14.385kg)まで戻っています。この33名の年齢別の内訳は次の通りです。

 

1才以下         4        5.2〜9.8年(平均7.9年)

2〜5才          16        5.5〜10.9年(平均7.6年)

6才以上         13        5.1〜9.3年(平均6.4年)

 

免疫抑制剤については、先ほども申しましたように、31%、約3分の1がサイクロスポリン単剤でやっていける。サイクロスポリン+アザチオプリンで44%。3種混合が16%。サイクロスポリン+プレドニゾロンが3%。それ以外のFK506(プログラフ)と言われる特殊な免疫抑制剤を使わざるを得ないような症例もあります(6%)。ですが、だいたいは今までありますようなお薬で十分に対処できるということであります。

 

子どもは拒絶反応や薬の副作用が少ない

 

拒絶反応ですけれども、これは小児患者に独特の傾向なんですが、大人の場合と違いまして、拒絶反応を非常に起こしにくい。このことは私たちのデータにはっきり出ています。拒絶反応を起こさなかった症例が78.8%もあるわけですね。1回起こした症例が15.2%、2回は3%、3回も3%。従いまして、ほとんどの症例は拒絶反応を全く起こさずに済んでいるという、私にとってみても驚くべきデータが出てきております。

ところで、長期生存しております患者さんの心臓血管のカテーテルのデータを見てみますと、左心・右心機能正常が56%、やや異常が44%。長期にわたって免疫抑制剤を飲んでおりますと、大人では冠動脈の狭窄が問題になってまいりますが、お子さんの場合は正常である率が高い。5年以上経過していて正常である例が84%、やや異常が16%。ですから、思っていた以上に、子どもさんの場合には免疫抑制剤の副作用がそれほど多くないことがわかります。

ちょっと専門的になってきますが、左室の収縮機能、心臓がどれだけうまく動いているかをいろんなデータで調べますと、超音波では大半の患者さんが非常にいいファンクションを示しています。左室収縮力(Shortening fraction)32%以上の子が26名、2832%が4名、そして28%以下が1名ですから、ポンプとしての力が非常にある子が多いということです。

ポンプの力はある。では、我々が言うところの拡張期の作用はどうか。それは左室拡張末期圧というもので見るわけですが、これは数字が低ければ低いほどいいことを示します。812mmHg7名、1215mmHg9名、16mmHg以上が11名ですから、数字は少し高い。すなわち、収縮の方はいいけれども、拡張の作用が少し悪い。言いかえれば、心臓のが固めになってきているということになります。血圧の数値にも収縮期と拡張期がありますよね。下の値が高ければ高いほど、一般的に血管が固くなっているということが言えます。それと同じように左室の、つまり心臓の、ポンプとしての収縮力はあるけれども、少し拡がる方の力がやられてきていることがデータからわかります。

 

移植後の問題点

 

さて、お薬の副作用の1つとして、相当腎臓がやられてくるのが問題になります。腎機能については、クレアチニンクリアランスの数値を調べます。我々のセンターの長期生存のお子さんの例を見ますと、正常群(70ml/)に入る子が12(36)、中等度群(70100ml/)13(40)、重症群(100ml/)8(24)となっています。

時系列で見ますと、やはり腎機能は少しずつ落ちてきています。クレアチニンの値で元々正常だったのが、だんだんだんだんと上がってきている。移植後、年月が経てば経つほど、だんだんと腎機能が落ちてきている。これも1つの明らかなデータであります。クレアチニンも1ならいいですが、1.52.5となってくると、問題が出てきます。この値がどんどん上がらないように、何とか、できるだけ副作用のない薬ができればいい。もしくは、3種を使わずに1種だけでやれればいい。まあ、免疫抑制剤を一切使わずに行ければ、もちろん一番いいわけですけれども、そこまで行きませんので、できるだけ、副作用の出ないような格好で持っていかないと、心臓は良くなったけれども、腎臓が悪くなるということになりますから。そのへんを注意しなくてはいけないと思います。

薬剤、免疫抑制剤の副作用は、腎毒性が一番の問題です。68%には多かれ少なかれ腎毒性が出てきている。次が、だんだんと高血圧になる(35)。これも1つの腎機能悪化の結果で、腎性の高血圧症です。一般に、心臓が拡張期の最後で悪くなるということは、全体の血管の収縮や拡張の作用が悪くなるということですから、高血圧が出てくるということです。それから、歯茎に肉芽が出てくる。歯肉過形成といいますが、これも1つの特徴であります(55)。それから、リンパ球の増殖異常(3)。幸いにして、我々のところにはほとんどありませんけれども。このような副作用が非常に問題になってくるということです。

 

移植後のQuality of Life

 

このスライドはお子さんの教育発達状況です。移植をした後、どんな生活しているか。小学校に行っているのが半分(54.5%)。実業学校に行っている者が3分の1ほど(18.2%)。それからギムナジウムと言われる進学校、高校ですね、これが4.5%。職業訓練校に行っている子もいます(18.2%)。こういう状態で、移植した後、やはり、何だかんだあっても、大部分の患者については満足のゆく形で教育を受けることができているわけです。

以上のことをまとめてみますと、

 

1.       多くの患者に左室拡張不全を認め、また冠動脈病変を伴う患者も若干認められた。

2.       免疫抑制剤投与による副作用として、腎毒性が最も重要である。

3.       教育現場への復帰については、大部分の患者において満足すべき結果が得られた。

 

ということが言えます。

 

 実際に移植を受けたお子さんの写真をお目にかけますと、このお子さんも生後2ヶ月で手術しまして、今6ヶ月ぐらいで、ロンドンで非常に元気に生活しています。

これは神山葵ちゃんですけれども、埼玉から寝たきり状態でドイツに来ました。こちらが術前の写真。こちらが術後3週間目にお母さんと一緒にベッドサイドに座って元気にしている様子。これは手術から45年してからの写真ですが、このように元気に成長しています。
 今では移植してからもう5年半経ちましたが、非常に元気です。もっと成長しています。

これが、移植した後の生存曲線であります。移植した後、患者さんがどれくらい長く生きられるのかということを示すものですが、赤で示したのがお子さんだけを取り出した生存曲線で、ブルーが、大人子ども全体約911例の患者さんの生存曲線であります。これを見ると、術直後のモタリティ(死亡率)、つまり手術の危険率は多少高いわけですけれども、その時期を過ぎると、死亡率はずっと低下してくる。そして、お子さんの方が予後がいいということがここではっきりと見えるかと思います。

これをもちまして、私の講演を終わらせていただきます。

 

総合司会

 

南先生、ありがとうございました。南先生には、昨年のトリオ・ジャパン・セミナーでもご講演をいただきました。去年のセミナーの記録は受付に置いてあったかと思いますが、去年、先生は、確かこんなことをおっしゃいました。

「今、病気に悩んでいる患者さんを助けるために手を差し伸べなければ、10年後もおそらく患者さんを助けることはできないだろう」というお言葉です。

現在の日本には、国内で移植を受けたいと思いながらも法律に阻まれて受けられず、海外へ行く道を選ぶご家族の方がたくさんおられます。しかし、海外へ行くには、大変な問題、たとえば、お金の問題とか、家族の問題とかがあるわけですから、海外へ行くのも本当に大変なリスクを背負って行くわけですね。ですから、日本で、安心して移植が受けられるシステムが早くできればいいと、本当に望んでいます。

 

それでは次に、細谷亮太先生にお話を伺いたいと思います。先生は聖路加国際病院の小児科部長をされております。今年の6月に『ぼくのいのち』という絵本を出版されました。本日は、「いのちを見つめて」と題しまして、お話を伺えることになっております。それでは、先生、よろしくお願いいたします。

 

講演3 いのちを見つめて

 

細谷 亮太(聖路加国際病院小児科部長)

 

どうも、皆さんこんにちは。今、ご紹介いただいた聖路加国際病院小児科の細谷亮太です。先ほど、南先生は二つ返事で講演を引き受けたとおっしゃいましたが、ぼくは、荒波さんと若林さんから話があったときに、移植の専門家でもないし、場違いではないかと思いました。それでお断わりしたかったんですが、今回のテーマが「生命について考える」ということでもあり、迷った末にお引き受け致しました。

私の専門は小児がんです。元々は化学療法が専門です。小児がんは、昔は治らない病気でした。先ほど、心臓移植の成績で7〜8割のところにサバイバル・カーブ(生存曲線)がありましたが、私の専門の小児がんもトータルでだいたい7割ぐらいまでは生存が可能になってきております。生存とは、一時的に良くなるということではなくて、「治る」という意味です。今では、その位まで成績が伸びてきています。

 ただ、治ると言ってもですね、きちんと治るということになって、一方で治らない人たちが非常にはっきりと浮き彫りにされてきまして、2〜3割の人は、どんなにがんばっても治らない。治らない子どもたちを診るのも、小児がんの専門家の役割でして、そして、こういう治らない子どもたちが、先ほどのお話にあったように、今後、移植のドナーになるかもしれない。
 子どもの生命に関わる1番大きなファクターは外傷、つまり何と言っても小児の事故です。2番目が小児がんでして、先ほど、南先生のスライドにも腫瘍が5%ぐらいとありました。今後、移植の医学が進むに連れて、子どもの移植も当然、我が国でも行われるようになるはずですし、ドナーになるのは、実際、私が関わっているような、ひょっとしたら亡くなってしまうかもしれない病気にかかっている子どもたちでもあります。そういう子どもたちへの内科的な関わりがどういうものか、このことをお話してみようと思って、きょうはお引き受けいたしました。

 

生命に対する考え方――それは文化

 

今朝、出てくる前に、たまたまテレビを見ておりましたら、イーデス・ハンソンさんが、出雲かどこかの旅をレポートしておりまして、アメリカ人から見て、日本の一番いい点というのは、ものすごく古いものと、ものすごく新しいものが一緒になっていることだと。そういうたくさんの中から選択できるというのは、1つ、日本人が気づいていない非常に幸せなことなのかもしれない、というようなことを言っておられました。

先ほど、黒川先生がアメリカの医学のお話をなさいました。ぼくも初期の研修医を4、5年やってから、向こうでクリニカル・フェローっていう臨床の仕事を3年ちょっと経験しました。そのときに、アメリカの文化と日本の文化の違いを非常にはっきりと感じました。

育児ひとつをとっても、元々、アメリカの育児っていうのは、できるだけ早く子どもを自立させて、家から外へ出す。アメリカの広大な原野を、何とかパイオニアとして切り開いていくということが国の目標だったわけです。それはもう非常に明確に、自立ということを最初から目的にして育てました。ですから、昔は子どもたちがいくら泣いてもですね、時間が来なければミルクをあげていませんでした。寝る場所も、親と子どもは別の部屋で、泣いても行かないというようなことをしながら育てた。
 だけど、だんだん時代が経つに連れて、アメリカも歴史を積み重ねるに連れて、やっぱり最初の1年間ぐらいは、きちんと親と子どもがつながることが必要なんではないかという反省から、今、少しずつ育児の方法について、東洋流の育児法が見直されてきていたりしています。

育児もそうですが、生命に関しての考えというのは、様々な立場とか、様々な人たちによって全くそれぞれでありまして、文化と言わざるを得ないと思います。

 

ご両親に「お話しする」

 

この写真は、今年2回目になりましたが、小児がんの子どもたちのうち、病名、病態ともにきちんと話されている子どもだけを集めて、夏に23日で、三浦半島でキャンプをしているところです。この子ども達は皆悪性腫瘍で、いわゆる小児がんなんですが、今はこんなふうに、治るようになってきました。

結局、小児がんになったときに、一番最初、発病の時期のクライシス(危機)、つまりご家族が非常にびっくりする時期があって、それから、辛い治療があって、治る人たちと、どうしても治らない人たちという2つのグループに分かれるわけですが、そのどの時期でも、クオリティ・オブ・ライフと言うか、子どもたちのことをきちんと考えてあげる必要があると考えます。

「トータル・ケア」という言われ方をしますが、これは、ハーバード大学のドクター・ファーバーという小児科の教授が一番最初に掲げた概念です。どういうケアかと言いますと、集学的治療、すなわち、内科の化学療法の専門家による抗がん剤等を用いる化学療法、外科的療法、放射線療法、その他免疫療法などをみんな行う。それから支持療法としての輸血・制吐剤・高カロリー輸液・痛み止めなどを含めて、いろんな人たちが関わって治療に当たることで、一生懸命やって、精神的な苦痛や社会生活への影響をできるだけ少なくしながら、きちんと治そうというものです。

最初に診断名を告げるときに、ご両親に対してはどんな配慮をしなければいけないかと言いますと、まず、揃って来てもらう。ご両親に別々に来てもらうと、片方から片方へ話がうまく伝わらなかったり、伝言ゲーム風に間違って伝わったりというようなことがあります。できるだけ、一緒に来てもらうようにお願いをします。それから、落ち着いた場所で、できるだけゆっくり。これは、なかなか日本の状況では難しいんですが、外来が終わった後の診察室とか、そういうような場所を使います。それから、できるだけ希望を与えるような話し方をする。たとえば、「7割の子どもたちは治りますから頑張りましょう」という言い方と、「お気の毒ですが、3割は亡くなるんです」というような言い方とでは、もう最初からえらく心構えが違ってきます。そしてともかく、正確に、正直に、です。先ほど、コミュニケーションの発達というようなお話がありましたが、できるだけ、本当にきちんと、診断・治療の概要をお話しすることです。

 

子どもに話すときの3大原則

 

子どもたちと話すときの大原則を決めております。

 

1)       ウソをつかない

 

これは、わかっていることを全部話すというわけではないんですが、ウソをつかないということを1つの目標にします。

 

2)       わかるように話す

小児と言っても、今、小児科がカバーする領域というのは、私の感覚では新生児から2324歳までです。この辺で成熟が終わって、後は老けはじめる。老化が始まったら、もう小児科の領域からは外れるんですが、「成熟しつつある」間は、小児科の医者が診て構わないと私は思っています。ときどき、患者さんから「いくつまで来ていいんですか」と聞かれますと、「老けはじめたら来るな」と言っています。そうすると、どうしても、女の子のほうが後々まで来る(笑)。ということで、2526歳の人はざらです。

 

3)       周囲への気づかい

 

先ほど日本の文化のお話をしましたが、私のところでは、これからお話ししますように、本人がわかる歳になったら、小児がんであることを本人にきちんと話そうというスタンスを取っております。しかし、これは必ずしも100%できるわけではないのです。だから、告知を受けている子と、受けていない子が混在している環境において、告知を受けた子が、自分の非常にプライベートな事柄をベラベラしゃべるということのないように、「病気というのは、非常にプライベートな事柄だから、言ってもいい相手といけない相手があるので、あまりベラベラ言わないほうがいいよ」と、できるだけきちんと話しておくようにします。

 

小児へのインフォームド・コンセント

 

これから申し上げることは日本の文化の今の現状の1つの特徴だと思います。

ぼくは、1980年にアメリカから戻ってきたんですが、そのときに既にアメリカでは、小児のインフォームド・コンセントをきちんと取ってました。病名もきちんと言っていました。日本に戻ってくるときに、プロフェッサーから、「戻ったら絶対病名を告知するように。病名もきちんと告げて治療をするのが小児科医の役目だ」と言われてきました。

その通りにしたかったのですが、なかなかそんなに簡単に文化は変わるわけではありません。1980年から準備を始めて、1986年までの6年間かかって、初めて子どもに小児がんだということを、きちんと準備をした上で話をするという機会に恵まれました。準備というのは次のことです。できるだけ良い医療チームを作り上げること、ご両親にもよーく、いろいろと考えてもらうこと。たまたま、患者さんと周囲の状況がうまく噛みあえば、第1例目ができるのではないかと思っていました。

この写真は、うちの医療チームです。医者がいて、看護婦さんがいて、訪問看護婦さんがいます。それから、キリスト教の病院なんで、私はクリスチャンじゃないんですが、チャプレンがいます。大事な仲間です。それから、病棟の保母さんがいて、小児科をメインでみてくれる栄養士さん、小児科をメインでみてくれるケースワーカー、それから、小児の心理士がいます。

これが、第1例目の患者さんですが、先日たまたま来てくれてお話をしました。生まれたのは1976年で、10歳のときに病気の話をしました。愛媛県の宇和島というところで、急性の非リンパ性の白血病になって、どうしても治らないということでうちの病院に送られてきました。今から13年前ですから、当時は、急性の非リンパ性の白血病ってなかなか治らなかったんですね。だけど、非常にうまい具合に治りまして、帰るときに、「自分の町が非常に小さいので、小さいところに帰って、いろんな話が入るとかえって難しくなるかもしれない[5]」ということで、ちゃんと話をして、きちんと自分の病気に関する理解をさせておいた方がということでお話ししました。

心理テストはいっぱいあるんですが、どんな心理テストをやったか、その1つをお目にかけたいと思います。これは、木と家と人間を描いてもらう心理テストです (HTPテスト)。これは、この子の告知前のチェック・シートです。自分の部屋の窓ガラスが透けて見えています。中のドアや本棚までちゃんと外から見えるように描いています。子どもの手足が突っ張っています。

こちらは告知後、3〜4ヶ月経ってからの絵です。2階の自分の部屋にベランダができて、中が外からは見えなくなっています。下の窓ガラスにもカーテンがかかっています。女の子の手足がちゃんと動くようになっている。

最初の絵と告知後の絵との違いについて、心理学の先生がおっしゃるには、自分の気持ちの中に、他の人に言いたくない何かができあがった。後の絵には、前の絵にあった突っ張ったような、緊張した感じがなくなって、積極的な状態がうかがわれる。そのようなコメントだったんですね。何例かやっていてもらったこういうコメントに、日本でもちゃんと言えば大丈夫だと確信が持てるようになり、10歳ぐらいを1つの目安にして、小児がんの告知を始めました。

もちろん、ご両親の承諾が一番大事です。先ほど言いましたように、新生児から2425歳までを一塊りで小児というふうに括りますから、全部を同じように扱うのが非常に難しい。おとなではずいぶん考えられ、研究もされているインフォームド・コンセント、患者さんの権利、自分でどうしたいかを決める自己決定、などが、子どもの場合には、各年齢層に合わせて考えられていません。これは、これからの研究課題だと思います。

ここに示すのは、子どもの権利条約です。

 

 第12条  1  締約国は、自己の意見を形成する能力のある児童がその児童に影響を及ぼすすべての事項について自由に自己の意見を表明する権利を確保する。この場合において、児童の意見は、その児童の年齢及び成熟度に従って相応に考慮されるものとする。

 

すなわち、今や「自分の意見をまとめる能力のある子どもが、その子に関わるすべての事柄において、自由に自らの意見を表明する権利を認めないといけない」というふうになっています。

先ほど言いましたように、この三原則は、子どもの患者さんに話をするときには、話をする前に、もう1度必ず復唱してから子どもに対応するようにしています。ご両親にも役に立つ三原則だと思っています。

 

小児がんの告知例と非告知例の比較

 

以前、北里の大学病院で仕事をしていた先生が、たまたま私のところに来まして、北里大学では小児がんの告知は一切行っていないとおっしゃいました。私のところでは行っている。同時期の、告知した小児患者さんと、告知してない小児患者さんとで、どのような違いがあるか調べてみようということになりました。

このリサーチは、北里大学病院の小児科の協力も得て、調べたものです。告知された人、されていない人が半分ぐらいずつ。だから、化学療法中の人と、終わった人が半分ぐらいずつです。

どんなことをしたかと言うと、これはバウムテストと言い、木を描いてもらうものです。木の描き方によって心理学的な状態を分類できるというふうに言われています。そこで、エネルギーの高さと適応度の高さで分類してみたんです。そうすると、非告知群は、化学療法中も化学療法後もともに適応度が比較的低いんです。エネルギーは、化学療法が終わった後ちょっと上がるんですが、適応度が悪いままエネルギーが上がっていくというようなことが、この30例足らずの中でわかりました。

一方、告知群ではですね、適応度もエネルギーも、化学療法中であっても比較的高くて、終わった後はもっといい状態になるということがわかりました。やはり、子どもにも、きちんと告知をして治療に取り組んでもらえるよう告知すべきだろうということが、だいたい見当がつきました。

 

ターミナルケア――これまでと立場を変えた医療のはじまり

 

さて、これからは少し暗い話になりますが、治らない子どもたちをどういうふうに診るかというお話です。

ぼくは、化学療法が専門で、治すほうをメインにずっとやってきました。でも、治せない病気もあるんです。私は、科学がどんなに進歩しても、人間の力にはやっぱり限界があるというふうに考えています。医学は進歩すべきです。どんどん進歩しないといけない。でも、治せる病気には限りがあるだろうと。治らない人たちをどう診てあげるか。これも、医学の1つの非常に大事な領域だというふうに思います。

「やれるだけのことはやってみました。お子さんのがんを根だやしにする方法はないと思います」というセリフは、医療側がもう何もやるつもりはないと言っているのと同じことなのでしょうか。このパンフレットは、小児がんの研究基金の研究費を使ってつくったターミナルケアについてのパンフレットです。

このパンフレットは言っています。「そうではなくて、今までとは立場を変えた医療を始めるのだ」と。痛くなくて、苦しくなくて、残された時間をよりよい時間にするための医療で、私たちはこれをターミナルケアとか、緩和医療とかいうふうに呼ぶ、と書いています。ひたすら治そうとする医療よりも、もっとデリケートで、もっと手間のかかる医療です。ターミナルケアは、決して見放すことではありません。

ターミナルケアというのは、病期のどこら辺から始めるかが、非常に大事になりますし、それから、コミュニケーションを十分に取ることが大事です。それから痛くないようにする。バランス感覚も大事です。規則、治療、在宅などを、良好なバランス感覚をもって、今何をすべきかということを考える。家族へのサポートも非常に重要です。

 

3日前」のディズニーランド

 

このスライドの真中にいる女の子はもう治らない段階の白血病です。お姉ちゃんとお母さんと3人で遠足に行ったときの写真です。こんなふうなニコニコできるような状況に持って行って、いい時間をつくってあげれば、小児がんの場合は、まだまだ一緒に過ごす時間がだいぶあるんです。

 この子は、白血病になって10歳で告知されています。この子と、さっきの子がほとんど同じぐらいの時期なんですが、告知されてから、卵巣の再発をしまして、治療がうまく終わったなと思ったら、1年ほどして今度は骨髄に再発をいたしまして、東海大学で骨髄移植をやってもらったんです。これもうまく行って、1年ほどして、また骨髄に再発をしまして、インターフェロン、インターロイキンによる治療を一生懸命やって、エキスペリメンタルな(実験段階の)治療もしたんですが、結局はうまくいかない。そこで、じゃあ、もうお家で苦しくない程度の治療をしながらいようということで、暮らしていた女の子です。

これが亡くなる3日前ぐらいの写真なんですが、ディズニーランドに行って楽しくしている写真です。

 

在宅ターミナル――いちばん美味しかった餃子

 

私のところでは、在宅のターミナルといい、在宅で最期まで診るということをやっています。この10歳の男の子は、その一番最初の例です。1990年、9年前の患者さんでした。肺がんで、珍しいんですが、腎臓と脾臓と脳とに転移がありまして、入院はもう絶対イヤだと言うんです。ちょうどその頃、在宅のターミナルについて研究しようということで、研究費が出ましたので、その研究費を使って、アルバイトの看護婦さんに手伝ってもらって診つづけた症例でした。

在宅ターミナルを始めてみると、おうちでお父さんとお母さんが非常に上手に看取ることができる。やっぱり、一番大事なのは、受け容れると言うか、受容することですね。死に至るのだということを、患者さんが受けとめて感じる感じ方と、医療者が積極的な治療を施すのはここでおしまいと決めるものが、非常に近ければ、全然違和感なく、非常に幸福な状態で、日常のご飯を食べる、お風呂に入る、寝る、などの日常生活とあんまり変わらない静けさの中で、子どもは天国に行くことができます。これは、どうしてかと言うと、医者の決める「認知」の時間と、患者さんが感じる感じ方がピッタリ合うからなんです。移植医療を日本で進める場合でも、そこら辺が今後のとても大事な点になるんではないかと私は思います。

このお母さんは、自分が食事の世話をしたりするところのすぐ後ろにベッドを置いて、いつも男の子と話ができるような状況にして、20日余りを自宅で過ごしました。その間、山の上のマンションのお宅へ何回か往診に行ったんですが、あるとき学校の先生も来てくれていました。その学校の先生と私が一緒になって、お母さんが作った食事をごちそうになったことがありました。餃子でした。学校の先生もぼくも大食漢なものですから、パクパク食べました。その子はそのとき調子悪かったんです。もちろんターミナルですから、そんなにたくさん食べられるわけはないけれど、「今日はぼくはいらないから、みんなあげる」と言いました。そういうところで残すのが「大人」なんでしょうけれど、私と学校の先生とでみんな食っちゃったんですね。

後でお母さんから聞いた話ですが、その夜は、お父さんがたまたま、会社から呼ばれていなかったんです。この子が夜中の2時ぐらいに起きて、「餃子が食べたい」と言い出した。私と学校の先生が、1つ残らず食っちゃったもんですからもうありません。中に詰めるものだけは冷蔵庫の中に残してあったんですが、皮がありません。
 そこで、お母さんは小麦粉を練って餃子の皮をつくりました。どうせそうたくさんは食べられないからと、2つ作った。その2つの餃子を、この子はすごくおいしそうに食べて、「今まで食べた餃子の中で一番おいしかった」と言ってくれたと、お母さんが話してくれました。このようなことができる状況があれば、お母さんやお父さんは十分に余裕を持って送ることができます。

 

家族のケア

 

後は、家族のケア。実際亡くなる場合に、周りに置かれる人たちのケアも、医療者がやらなければいけないことの1つです。子どもを亡くす親はもちろんですが、親だけじゃなくて、きょうだいもとても大事な対象になります。
 この子は、1972年生まれで、1995年に亡くなっていますから、23歳のときです。21ぐらいで病気になって、大学病院でいろいろ治療されたんですが、いろいろなところに転移しているし、ということで、結局もうダメかもしれないと、うちの病院にターミナルをやってくれということで送られてきました。だけど、実際、診てみるとですね、後腹膜に1個大きな腫瘍があるだけで、他のところには何もないんです。だから、ひょっとしたら、この後腹膜をきちんと取って、もう1回化学療法をやれば、どうにか行けるもしれないから頑張ってみないかと、本人に相談を致しました。本人も「やってみる」と言いましたので、3回ほど治療をしたんですが、結局肺に転移が来まして、最期は自宅で亡くなることになりました。

これがその女の子です。亡くなるときには、先ほど言ったように、痛くないように痛くないように、という約束をしていたんで、家に行きましたら、「もうそろそろくたびれたし、酸素を嗅ぐのもいやだ。もう頑張りたくないから、そろそろ行かせて欲しい」と言うんです。行かせるわけにはいかないですから、「じゃあ、酸素を少し減らそうか」というようなことを言いながら、知り合いのチャプレンを呼びました。
 この子が「みんなが頑張ってね、一緒にいたいからって言ってくれるのは、とてもうれしいけれど、もうダメ」だと言うのを聞いて、そのチャプレンは「もういいよ」って言ったんです。酸素は嗅ぎたくない。酸素を嗅がないで、少しずつうとうとさせておいて欲しいということで、うとうとしながら、その日のうちに亡くなりました。この子の場合は、お母さんがそばにいて、お兄ちゃんもそばにいましたが、お父さんだけが単身赴任でシベリアにいたんです。シベリアにいるお父さんと、うとうとする前に1回電話で話をするから、ということで、電話でお父さんに「先に行くから」というようなことをきちんと言いました。お父さんだけは、この一連のプロセスに参加してないわけですから、非常にパニックになりました。電話の向こうでパニックになっているのがよくわかった。お母さんが電話に出て、ぼくが出て。お父さんも半分は覚悟していたんだと思うのですが、この子ともう1回さよならをして、その日のうちにこの子は亡くなりました。

 

『わすれられないおくりもの』――残されるきょうだいへ

 

この写真の、この小さな子は脳炎で亡くなりました。お兄ちゃんとお姉ちゃんにどういうふうに、この子が亡くなるということを受け容れさせたらいいかということで、相談を受けたケースです。

そのときに使ったのが絵本です。小児科医はもう使えるものはみんな使って、子どもにわかってもらおうとします。これはアナグマが主人公の『わすれられないおくりもの[6]』という題の絵本です。このアナグマは年を取って、もう自分はダメだろうと思っているんです。その年の冬ごもりのときに、暖炉の前で温まっているうちに、もうそろそろかもしれないとお手紙を書いてみんなにさよならをします。

その後で夢を見て、ダメだった足が大丈夫になって、どんどん走っているうちにフワッと浮き上がって、アナグマは天国に行っちゃう。

そして、いなくなったアナグマのことを皆が考えて、とても辛い冬を過ごすのですが、次の年の春、皆で集まってアナグマの話をします。モグラは、アナグマからこんな切り紙細工を習ったという話をしますし、ウサギもこんなふうに習ったんだよと言います。キツネはネクタイの結び方を教えてもらったし、というような話をするんです。

こういう話をしたら、あんな小さい子どもたちでも、ちゃんとわかってくれたんです。だから、子どもが亡くなること、ひょっとしたらそういう子たちはドナーとしてリクルートされる人たちかもしれませんが、そういうような人たちが亡くなるというとき、周りの状況がどういうものかというようなことを、みんながよく考える必要があると思います。

「ひと」を診る医療

 

私は医者ですし、リサーチもしてきましたし、元々痛くないように、苦しくないようにするのが医学だと思って医学部を目指しましたけれど、リサーチをしているうちに、相手にするものが細胞とかDNAとかそっちのほうに移っていきました。そうしていくうちに、人間の存在が非常に希薄な感じになってくるんですね。当然、死の存在も薄くなってくる。そういう頃にこういう仕事を始めたものですから、人の生命に対して余計強いインパクトを受けた気がしています。

人間から少し離れてしまった医療に対して、一般の人たちが非常に大きな不安を持っていることは、とても大きな問題なんではないかと思います。「脳死」は、ターミナルケアに当たる人たち、死を扱う人たちにとっても、非常に重要な課題だったはずなのに、いつのまにか日本では、移植とだけ結びつけて話がされている状況になっています。これは、我が国における少し大きな問題の一つではないかと思います。

ご静聴ありがとうございました。

 

総合司会

 

細谷先生、どうもありがとうございました。

 

次にお話しいただきますのは、野村(ゆう)()さんです。野村さんは、今から約10年ほど前に、アメリカのベイラー大学メディカルセンターにおいて、脳死肝移植を受けておられます。現在、青山学院大学および青山学院女子短期大学の講師をされております。また、トリオ・ジャパンの副会長でもあります。本日は、「ともに活きる命−臓器提供の心」と題しまして、お話をいただけることとなっております。それでは、野村さん、よろしくお願いいたします。

 

講演4 ともに活きる命――臓器提供者の心

 

野村 祐之(青山学院大学・青山学院女子短期大学講師)

 

個人的なことになりますけれども、私には5歳の娘がおります。今、お二人の先生のお話の中に出てきたいくつかの症例やたくさんの出来事と、自分の子どもとが重なりました。ここで涙を流すと次のお役目ができないと思いながら、胸がいっぱいでお話を伺っておりました。

今日は、3人のご専門のお医者さんから、それぞれ大変人間的な心のこもったお話が伺えて、本当に良かったと思っております。こういう言い方は大変失礼で、患者の側の偏見も半分はあるのだと思いますが、病院で何時間も何時間も待った結果、診療時間は短く、目と目を見合わせることもほとんどなく、一瞬だけお目にかかる先生もいます。プロとしてありがたい存在ではあるんですが、人間として長い期間出会っていながらも、なかなかもう一つその方の存在感と触れ合うことがない。そんな気持ちを持ったこともありました。今日は、初めてお目にかかった先生ばかりなのに、もう前々から存じ上げているような、心にふれるお話を伺いました。そういう意味で、ちょっと言葉は失礼かもしれませんけれども、いい意味で忌憚のない、正直なお話を聞かせていただき、それだけでも、今、胸がいっぱいです。

幼い子どもたちに、お医者さんにも治せないことがある、医学に限界がある、科学が手の届かない世界がある、ということを、どう正直に伝えるか。今、細谷先生のお話を伺いながら、あそこまで心を砕いていらっしゃるのは、大変なことだと思いました。

 

 

 

唯一確実なこと「誰もがいつかは死ぬ」

 

確かに、生きている我々に唯一確実なことがあるとすれば、それは、いつか死ぬということであります。今日のお話にもありましたように、お医者さんは患者の命を救うために、本当に身を粉にして、最善を尽くしてくださっているわけですが、中には残念ながら手が届かない患者もいる。もちろん、そのおかげで生命を取りとめる患者もいる。元気を取り戻す子どもたちがいる。もし、この方たちがその後未来永劫生きるのであれば、その努力は本当にやりがいがあるかもしれない。しかし、にこにこと元気に退院していった人が最後にどうなるかと言えば、死ぬわけであります。
 救急車で運ばれてきた患者さんに対して、もし何もせずに残酷にも手を出さずに見つめていればどうなるか。死ぬのであります。最善を尽くしてあらゆる努力をした結果、どうなるか。結局は死ぬのであります。では、いったい医学の努力、私たちの生きる努力というのは何なのか。こういうことにすら、問いが戻ってきてしまいます。

これから申し上げることは、うっかり相手構わず話すと大変誤解の元となるかもしれません。私がアメリカにいたとき、大変仲良くなった友だちがいます。その方はユダヤ人でありましたが、広島のこと、ホロコースト(ユダヤ人の大量虐殺)のことを、あるとき語り合う機会がありました。2人とも、どうしても納得がいかない、何故あんなことにならなきゃいけなかったのか。最後に、夜中になって彼がぽつりと言ったのは、「あのユダヤ人たちは、あんなひどい目にあわなくても結局は死んだんだよね。だから、ヒットラーが大量虐殺をしたからといって、死ぬ人の数が増えたわけじゃないんだよね」と言ったんです。

もし、彼がユダヤ人でないならば、許せない発言だったと思います。しかし、彼がホロコーストを深く受けとめて、最後に、かといって、必ずしもそれは自暴自棄になって語るのではなくて、ぽつりと、熱い思いを込めてそう言った。それは、私たちに、死んではいけない、生きることが大事なのだ、ということを知らしめたのだと思います。

じゃあ、何が大事なのか。どうせ死ぬんじゃないか。だとしたら、どう死ぬか。そして、どう生きるかということがとても大切なことになってくるんだと思います。

そう考えれば、ああした残酷な、ユダヤ人たちに与えられた死というのは、どう死ぬかということにおいて、最も受け容れられる死ではない。最善を尽くされて、最期を迎えて、どう死ぬか。そこに、ご本人を、あるいは家族の方々を納得させるものがあるんじゃないか。最後たどり着くのは、今、申しました、その「納得」ということなんだと思います。

インフォームド・コンセント。いろいろ説明はしてくださいます。理解はできる。本当に上手に説明してくださると、素人なりに何となくわかるような気はする。あきらめはつく。しかし、最後のところで「納得」という境地に達してないときには、後で、「いや、そうおっしゃったけれど違ったんじゃないか」「いや、こっちの聞き違いだったんだろうか」そして、もっとひどい場合には「いや、もしやお医者さんの側にちょっとミスがあったんじゃないか」と疑心暗鬼になり、限りなく思いは巡るわけであります。

しかし、お医者さんと患者に良好な関係が築けていて、患者が納得の境地に達しているときに納得が得られる。もちろん、患者に医学のことがそう簡単に理解できるんだったらば、お医者さんが、それこそあれだけの医学教育を受ける必要はないわけで、だから、私たちがたまたま肝臓の病気になったからと言って、肝臓のことがそんなにわかるはずがない。しかし、そのお医者さんの誠意、努力を通して、こちらが受けとめたときに、全部頭で理解できたから納得ということではなくて、そんなことをポンと越えて、「納得」というところに行き着く。たとえば、それが自分の子どもだったら、「本当に先生、良くしてくださいました。こういう残念な結果にはなったけれど、本当にありがたいと思います。むしろ、この子ども解剖していただけるんだったら、どうか解剖していただきたい。その中から、先生が何か新しいことをつかみとってほしい。そして次の患者さんに、それを活かしてほしい」と思える。家族とお医者さんとが心を1つにする、そういった境地にも達するんだと思います。

私の勝手なまとめ方かもしれませんが、今日の先生方、お一人お一人がそれぞれ、どう相手を理解するか、あるいは理解させるかではなくて、そうした運命を共に受けとめ、担って、「納得」の境地において、生命を、そして死をもわかちあう。そういった方向に向けられていたような気が致します。

 

9年半前の私

 

今日は、特に移植の問題を中心にしたカンファレンスですが、今から9年半前の今日というのは、私に拒絶反応が出てから2日目でした。どの免疫抑制剤も効かず、一応再移植のための準備をはじめようということになった頃でした。再移植と言っても、次の臓器の提供がそうすぐにはあるはずがないですから、1週間ぐらい先のこととなるだろうと。ですから、お医者さんは、拒絶反応から救う努力と同時進行で再移植のための準備を始めているといった状態でありました。しかし、おかげさまで、再移植をすることなく、その後拒絶反応から救われまして、もうあと半年で10年目になります。

私が病気になったのは40歳の初めです。突然倒れてしまった。それまで何の自覚症状もありませんでした。日本の今の平均寿命は男性も女性も80歳前後ですから、ちょうど道半ば。マラソンで言えば折り返し地点というところで倒れた。しかし、倒れたって平気だよ、パッパッと泥を払ってまだ走るんだからと、そのつもりでいたら、お医者さんから、「あなたの生命はここまで」と告げられました。「どうして?」納得がいかない。しかし、じたばたしてみても、それを受け容れざるを得なかったと思います。

ところが、その後、はじめは全く予期せぬことでしたけれども、移植手術を受けられる機会に恵まれ、拒絶反応なども経験しましたが、生かされた。さっきのマラソンの例で言えば、ふと気が付いたら、もう1度レースの場に戻されて、もう1回頑張ってみろと言われている。手にバトンまで握っている。よく見ればバトンを2本握っている。ここから新しく再出発してみろ、と走らされている気持ちでありました。もう、これはメダル云々ではなくて、しっかりとバトンを2本握って、必ず走り切ってゴールするということが一番の意味になりました。今現在、そういう気持ちを持って走っております。

先ほど申しましたように、私の娘は5歳になったところです。移植後の10年間のちょうど半分ぐらいで、子どもが生まれているんです。その新しい生命が授けられたというニュースを聞いたときには、そのバトンを次の世代に手渡したという、何とも不思議な安堵の気持ちがありました。

 

ともに生きる

 

不思議な気持ちの第1番目は、手術をした後、集中治療室で目が覚めたときに、「ともに生命が生きている」もちろん、形としては「臓器をいただいた」という表現をするんですが、全く新しく生きている、一緒に生きている、という実感でありました。青木さんのおっしゃっていた感じ方とは、また少し違う感じ方かもしれませんが、私の場合は、生まれながらの自分というのが、ストーンとどこかになくなってしまったような、ある衝撃に襲われました。

私は誰なのか。それが混乱してわからなくなってしまった。横文字で言うのは気が引けるんですが、自分が誰かというのをアイデンティティと申します。このごろは日本でもカタカナ書きで使われているので、ご存知の言葉だと思います。私は誰か。自己紹介をするときには、自分のアイデンティティを紹介するわけです。ところが残念なことに、それでも信用してくれなかったりして、証拠を出せというわけですね。そういうときには、IDカードになるようなものを出す。IDっていうのはアイデンティティですね。ほら、この通り、私はここに勤めています。ここの学生ですと。その「私は誰か」というのが、アイデンティティです。これはラテン語由来で、英語でもないわけです。

手術後、私は誰かというときの「私」がわからなくなった。そういう意味で、アイデンティティのアイがですね、スポーンとなくなったような気がした。じゃあ、お化けみたいにふわふわしているかというと、強烈な存在感がお腹の底から湧いてくるという感じでした。ですから、生命の実感、こんなに強いものはない。そのときは、「一緒にね」という感じなんです。それだから、英語で、アメリカの病院でしたから、「我々」は”we”ですので、「アイデンティティ」は失われたけれども、今この新しい命は「ウイデンティティ」に支えられてこうして息づいている。「一緒にね、一緒にね、一緒にね」というささやきが聞こえてくるような感じなんですね。それが、青木さんもおっしゃっていた、アイデンティティからウイデンティティに変わったということ、「ともに生きる命に活かされた」ということなんです。

じゃあ、生まれながらのぼくはどこに行ってしまったかと思ったんですが、いろいろゴチャゴチャする気持ちを整理してみますと、死んだと思ったんです。じゃあ、どこで死んだのか。手術室で肝臓を取り出したときです。肝臓もぎりぎりになっていて、移植だということで、手術室に呼ばれて肝臓が摘出されたときに、生まれながらの私は生命を終わったと思います。人間は肝臓なしには存在することができませんから、99分ダメな肝臓ではありましたけれども、摘出されたときに完全にそれで、私の人生というのは1つ終わっている。あえて言えば、「肝死」をしたということであります。

それよりも、いささか時を早くしてもう1つの命が死を迎えていた。その方の場合は、肝臓ではなくて、脳が死に至って脳死をした。脳死の死と、肝死の死。2つの死がいわば出会って、新しい生命として生まれたという実感であります。今共に生きている。肝臓は、こういう言い方で言葉にすると生々しくてぞっとしないんですが、今も、ここに生き続けているのであります。ですから、ドナーの方は、過去の人ではありません。その方、という存在はないかもしれませんが、その方の肝臓と言うか、DNAは今ここでともに息づいている。それと同時に、今から9年半前に、一個の人間としては、生涯を終えたはずの野村祐之という存在が、今、ここにいる。ともにここに、皆さんの前にいる。ほんとうなら地上ではお会いできるはずのない方々の前で、こうして今、ともにいる。この強烈な実感。理屈で言うと、なにか言葉を弄しているようにも感じてしまうのですが、もっとドスンとこう。こう言うともっと変ですが、肝っ玉の実感と言いますか、そういった感じがあります。ともに、生きているという実感であります。

 

 臓器提供者――移植の主役

 

ともに生きていると言いましても、こうやっておしゃべりを申し上げているのは、片方の移植を受けた側であります。しかし、考えてみますと、移植の一番のヒーロー、ヒロインは、臓器提供者ではないかと思います。

これは、ちょっと言葉のあやになるかもしれませんが、あえて表面的に考えてみます。移植という言葉は、きっと元々、園芸とか農業の用語だと思います。ここに植わっている植物をこのお庭から、今度は別のところに鉢に植え替える。メインは、庭とか畑ではなくて、この植物であります。とすれば、臓器移植のメインは何かと言えば、ドナーの側なんじゃないかという気がします。

それから、現実の場合でもですね、たとえば、ドナーが今年のはじめに立て続けに4例出たわけですけれども、一番の注目は当然のことながらそこに集まります。しかし、その点で、ここで不満を申すのもあれかと思いますが、日本での報道のあり方はどうにかならないものか。多くの方がお感じになったと思います。テレビカメラがあそこまで立ち入ることが情報公開でしょうか。あれで何が公開されたのか。ちょっと失礼な言い方をすれば、あれはやっぱり、メディアの野次馬根性と言いますか、それこそ瓦版の時代の熊さん、八っつあん、「てえへんだ、てえへんだ」、「どうした、どうした、見せろい、見せろい、見せろい」、それで見てどうなるんだ、というレベルの部分がかなりあったと思います。

じゃあ、情報は隠すべきか? 私はそうは思っていません。しかし、本当の意味での情報公開は、今回のあの形とは違うという気がして仕方がないわけです。ですから、あれを「情報公開とプライバシーの問題」というテーマで新聞が報道したのは、ちょっと都合が良過ぎるんじゃないか、という気がしています。

臓器提供など必ずしも必要のないこと、しなければしないでどうということはないわけです。臓器提供は全く善意で、あえて提供をなさる。もちろん金銭的な見返りはありませんし、表彰されるわけでもありません。お礼状は来るかもしれませんけれども、せいぜい、それだけのことだと思います。家族にドナーが出たからといって、今度、同じその家族の中で、臓器移植が必要な方が出た場合には優先権が与えられるというようなこともありません。これぐらいはあってもいいんじゃないかと思うのですが、それも現実にはありません。他の患者と同じように長い待機をするわけですから、臓器提供しても見返りは何もない。

なのに、じゃあ、何故、臓器提供をするのか。それは、自分ではあずかりしらないところで、どこかの誰かの命、風前の灯火になっている命が生かされるからです。そのことを信じ、そのことを願い、その愛の気持ちのゆえに、行われる。ですから、これは、よく言われることですが、改めて言い直しても言い過ぎではないと思います。臓器移植は、本当の意味で、無償の愛、自分に振り返るのではない、どこかの知らない人のためにという、その愛に支えられた医療です。そうであるならば、それをこの社会がしっかりシステムとして、組織として支えていかなければいけないのではないでしょうか。そのシステムの流れの中で、当然、情報公開も問われなくてはならない。

 

遺族の立場

 

それから、同時に、亡くなる方にはご家族がいらっしゃいます。死を一番身近に、一番深く受けとめるのはご家族であります。だとしたら、今、ここで亡くなる方、あるいは亡くなった方に関する事柄に対しては、家族に一番の発言権があっていい。家族というのは、その人の死を自らのことと引き受けて、残りの人生をあれで良かったんだろうか、ああしてやれて良かったね、ああいう思い出もあったね、こういうことがあれば良かったね、と、最期の日まで担い、運んでいくのは家族であります。

ところが、現実の臓器移植法の規定によりますと、家族には何の発言権も、積極的に発言することも許されていないわけです。本人が臓器提供の意思を書面で残したということが、大前提であります。唯一家族に許される、家族が独自に発言できるのは、ご本人が希望しているにも関わらず、「いやだ、提供したくない」というときだけです。家族の独自な判断の余地は、この本人の意思に反する”NO”だけです。これは、どう考えても、さみしいこと、おかしいことなんじゃないかと思います。

それからもう1つ、本人が書面を残せるのも15歳未満という年齢制限がありますから、たとえば、私の5歳の子が、何かの事故で脳死になった場合、誰が望んでも臓器の提供ができない。つまり、「臓器提供の権利」が、日本では十分に与えられてないと思います。

一番愛する人の運命をともに担う、死をともに受けとめるのは家族であるということが、もっと社会のシステムとして、優しさのシステムとして保証されなければいけないのではないか。これから、臓器移植法を見直すときに、1つの大きなポイントになるのではないかと、私自身は思います。

 

アメリカでは本人の意思表示は「参考資料」

 

アメリカで、臓器提供のコーディネーターにお目にかかって、いろいろ話を伺ったことがあります。アメリカの場合は、日本と違って最終的に決めるのは家族です。いや、ドナーカードっていうのがあったぞ。いや、車の免許証にサインする場所があるという話を聞いたぞ、と思われる方がおありかもしれません。しかし、それらは、それによって臓器提供が決められるのではなくて、家族が判断するための「参考資料」なんです。家族が判断するときのためのはっきりとした判断材料になるわけです。

ですから、脳死した家族の臓器提供にYesNoかは、最後には、残された家族に最終決定権があるのです。州によって多少違うのかもしれませんが、私がテキサスで伺った話では次のようなプロセスでした。脳死判定が出されると、コーディネーターに連絡が行く。コーディネーターの方はすぐ飛んできて、ご家族に会います。そのときに、「臓器提供をなさいませんか」という言い方をしてはいけません。「臓器提供はなさいませんね」と言ってもいけないんです。何がいけないか。「なさいませんか」と勧めてはいけない。「なさいませんね」と先を読んで「しませんね」に誘導してもいけない。素直に「なさいますか」と、ニュートラルに聞かなくてはいけないのだそうです。それから、家族は、YesNoと返事をするわけです。

これは、ある意味ではオフレコかと思うのですが、その方がおっしゃるには、質問をしなくても、部屋に入って家族に会ったときに、だいたい答えはわかると。どういうことかと言いますと、家族何人かいる中で、1人でも疑問を持つ人がいたら、答はNoになるわけです。いくら熱心な方がいても、家族としての意見が合いませんから、たった1人でもNoがあれば、返事はNoです。もっと妙な場合には、脳死になられた方との関係ではなくて、たとえば、こっちの夫婦なり、姑とお嫁さんか知りませんが、「あんたがYesなら、私はNo」「あんたがNoなら、私はYes」なんてことがないこともない。「私の夫ですから、ぜひ提供したい」という声と、「私の息子だからいやだ」というような妙な人間関係で、Noとなってしまうこともあるそうです。

じゃあ、どういう場合にYesかというと、家族全員が一致したときです。こういう問題は、そんなとっさのときに、改めて初めて考えて意見がすっとまとまるような問題ではない。ということは、その家族が普段からそういうことを話題にしている。普段からそのことについて話し合っていなくても、お互いの気持ちがよく通じていて、お互いがよく愛し合う関係で、理解し合っているときには、すっとそこでまとまる。ですから、その部屋に入って、家族にお目にかかったときの家族の雰囲気で、だいたいその答えの見当はつくとおっしゃっていました。

ですから、家族の(そん)(たく)で決めるとすると、あれやこれやといろんな可能性があるのかもしれませんが、そこまで疑ってかかったときに、いったい、その人、あるいはその人の家族関係というのは、何だろうかということも疑問になってくるとは思います。

 

アメリカも「全員賛成」ではない

 

じゃあ、アメリカが全部、みんなが賛成してやっているかというと、そうではありません。反対をしている人たち、あるいはなかなか臓器提供が進まないグループの人たちがいます。これも、いい加減な言い方をすると誤解を招くんですが、事実関係として申しますと、少数民族、あるいは黒人の間では、臓器提供の数が圧倒的に少ないということでした。

私が伺ったケースに、臓器移植手術を受けた黒人の看護婦さんの話がありました。ご自分が肝臓移植をお受けになってから、臓器移植に大いに目覚め、そこで気がつきましたら、同じ人種である黒人の間では、臓器提供の数がものすごく低い。しかし、肝臓病になって移植を必要とする数は同じだと。だったら、私のこれからの使命は、看護婦ではなくて、コーディネーターになって、特に黒人に臓器提供を呼びかけることだと。そういう方にお目にかかりました。

じゃあ、何故、黒人のドナーは少ないのか。いろいろ話を伺ってみると、1つには単純素朴な宗教観です。キリスト教なら全員臓器提供に積極的かというと、決してそういうものじゃないんですね。むしろ、キリスト教の単純素朴な考えの中に、終末のときに、イエス・キリストがもう一度来て、全ての人を復活させ裁かれた上で、正しい人は天国に復活して呼び入れられる。復活させられたときに身体の一部がなくなってちゃまずいんじゃないかというわけで、これはある意味では信仰的な理由です。

それから、もう1つの理由は、少なくともアメリカの場合は、臓器提供をする人たちと、受けた教育のレベルが見事に平行しているのだそうです。教育程度が高いほど積極的に臓器提供するということが現実にある。もちろん、臓器提供は人間として本能的にすることではありませんから、学校に行って教わり、考えるチャンスがないとなかなか理解ができないことです。アメリカの場合は、アメリカと言うより、テキサスの場合と限った方がいいのですが、小学校、中学校、高校で、サイエンス、科学、生物の授業の中で臓器提供を考える。そういう学校に行くチャンスがない子どもたちの中には、臓器提供など思いつかないということもあるわけです。

その方と話しあっているうちに、3つめの理由が出てきました。黒人の間には医療不信がある。医療不信がある人の間では、臓器提供があんまり進んでいないということですね。じゃあ、何故、白人と黒人と違うのか。私自身は、ハーレムの教会でしばらく生活していましたので、実はよくわかるんです。アメリカでは、日本だったらはんこを押すような場合にサインをしますが、サインの欄に×印を付ける人たちがいます。自分の名前の変わりに×をつける。何故、名前じゃなくて×を付けるか。自分の名前を書くのが得意じゃないからです。アメリカでは字を書くのが得意じゃない人に関しては、×印がサインの代わりということになっています。書くのが得意じゃないだけじゃなくて、読むのも得意じゃありません。たとえば、ある年齢の子どもを持つ全ての親宛てに「子どもたちの検診を無料で行います、どうぞいらっしゃい」というような手紙が来ます。それがせっかくポストに入っていても、それを読んでそれに答えなければ何もならない。黒人の親は、きっと、「白人の間では子どもたちがあんなにいいケアを受けているのに、私たち黒人は流行りの病気があると、すぐみんなが(かか)って子どもたちも大変な思いをする」。皮肉にもこういう意味で、医療不信がある。「だったら、私たちがわざわざそんな臓器提供なんて頑張ってする必要ないよね」という結論に至りがちだというのです。その裏には、貧困の問題があるわけです。ですから、黒人の人たちが白人と同じように臓器を提供してもらうためには、黒人の教育的、社会的、この世での生活の充実が必要でしょう。今現在の毎日の暮らしの厳しさゆえの苦しさが、きっとああいう宗教的な理解にもつながってくるだろうと。ですから、黒人の地位を向上させることが、臓器提供にもつながるほど、大事なんだ、と。

日本と状況は違うのですが、皮肉にも、ある意味では共通する点があるのではないかと思っています。日本では、全く別の理由だと思いますが、残念ながらある種の医療不信は拭い切れないものがあります。

まず、教育という切り口で見れば、移植についての教育はほとんどなきに等しいわけですから、無理からぬことです。

それから、あるいは、もしかすると、宗教的なと言うか、死生観による躊躇があるかもしれません。しかし、これは、今、申しましたように、日本だから、アメリカだからということよりも、私自身、宗教学をちょっとかじった人間として言えば、「これこれは日本の宗教的な感情として云々」と言われている理由のほとんどは、決して日本独自の感情ではない。むしろ、人間の素朴な感情です。ですから、これも本質的な問題ではないと思います。

 

臓器提供――社会とつながるということ

 

今から4年ぐらい前、テレビのアメリカのニュース番組を見ていて、偶然聞いたニュースがあります。ある家族が病院を訴えたっていうんです。よくあることです、アメリカでは。しかし、訴えた内容というのが、愛する家族が脳死になったのに、病院が臓器提供をするかどうかと訊いてくれなかった。そのため、臓器提供をするチャンスをみすみす失ってしまった。臓器提供のチャンスを奪われたので、病院を訴えるという話でした。訴えるのが一番いい方法かどうかは私にはわかりません。

ある意味で皮肉に言えば、一番理想的な臓器提供と言うのは、若くて、元気な方、朝にこにこして出ていった方が、家族が病院から呼び出されて行ってみると脳死だったという状態です。その死は、とても普通に受け容れられない、とても理不尽な、とても説明のつかない死であります。しかし、かといって命が取り戻せるわけではない。その中で、にもかかわらず、その死を閉じたものとして、あるいは過去のものとしてしまうのではなくて、開かれた死、あるいは、死がその人を社会から断絶するものではなく、社会とつながるものとするための、1つの選択肢が臓器提供であります。

ですから、そういう意味で、死は悲しかったが、懐かしい、暖かい、優しい思い出として胸に抱きたい。その人の死をいつまでも、ある意味では現在進行形にしておきたい。というのは、臓器提供を受けて、救われた誰かの生命がどこかで、今も輝き続けているのですから。そのことに慰められたい。そのことに心の優しさ、安堵の思いを抱きたい。その方の死を懐かしみたい。そういう意味で言いますと、臓器提供されることによって、死亡した日が新しい命の誕生の日になる。

日本語には命日という言葉があります。これは誕生日ではなく、亡くなった日のことです。しかし、臓器提供されて、新しい命の火が灯ったとき、文字通り、命日は「命の日」になります。ともに、新しい生命を大切に受けとめながら生きていく。深い意味でともに喜びを持って生きていく。そういう優しい社会、優しさに満ちた互いを助け合う社会であったらな、と思います。それが単に個人の善意だけではなくて、社会の仕組みとしてしっかり支えて行く。そのことに、臓器医療の持つ、広い社会的なもう1つの意味があるのではないかと思います。

それを具体的に支えて行くのが「臓器移植法」という法律であります。私たちがあと1年のうちに、臓器移植法をどのように見直していくか。患者の側、あるいは医療の側、法律の側、そしてさらに臓器提供をする側から、もう1度「ともに活きる」というテーマを中心に、生命を考えてみたいと思います。

どうもご静聴ありがとうございました。

 

総合司会

 

野村さん、ありがとうございました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

第2部 パネルディスカッション

我が国で移植医療が根づくために

生きることと、死ぬこと

学ぶことと、育つこと

いやすことと、みとること

 

パネリスト:黒川清;南和友;細谷亮太;野村祐之

コーディネーター:若林正

 

総合司会

 

それでは、第2部を始めさせていただきます。第2部は、今までご講演いただいた先生方によるパネルディスカッションとさせていただきます。テーマは、「我が国で移植が根づくために」でございます。ディスカッションの司会は、トリオ・ジャパン運営委員の若林正さんにお願いしております。

簡単ですが、若林さんのご紹介をさせていただきます。961月に東大病院での第1例目として、生体肝移植を受けられました。その後、96年末ごろより体調の変化が生じはじめ、984月に渡米し、6月にマイアミ大学病院にて脳死肝移植を受けられました。現在は、東京大学大学院に在籍されております。それでは、これより若林さんにマイクをお渡ししますので、よろしくお願いいたします。

 

若林 正(トリオ・ジャパン)

 

はじめまして。若林と申します。ご紹介いただきましてありがとうございます。今ご紹介いただきましたように、961月に生体肝移植を受けまして、その後再移植になりまして、昨年98619日マイアミ大学で脳死肝移植を受けています。帰国したのが926日ですから、ちょうど1年と1ヶ月ほど経ったということになります。私がここにいるということは、母から提供してもらったということ、それに加えて、アメリカでどなたかが亡くなって、私に肝臓が移植されて、だから、私がここにいるという、非常に貴重な機会なわけです。

たまたまそれは私だったわけですが、この会場にいらっしゃる皆さん自身も、もしかすると、そうなっていたかもしれません。たとえば、がんによる死が日本人の死因の第1位となっても、あまり身近なこととして感じられないのではないかと存じますが、今この会場にいらっしゃる方のうち、3分の1の方ががんで亡くなると考えていただければ、自分自身の問題として捉えることができるように思います。

今日のテーマは、「我が国で移植医療が根づくには」ですが、移植に関する議論は、日本初の心臓移植が行われて以来、あるいは「臓器移植法」の成立過程において、いろいろな議論がされてきたわけですが、ほとんどが法律、ルールをどうするかという問題であって、子どもの生命とはどういうことか、提供するご家族はどのような気持ちで、どのようなサポートが必要なのか、という本当に本質的な問題は語られることなく、ただ、ルールをどうするか、あるいは、細かい数字をどうするかという数字の話でしかなかったように思います。

今日は、患者である野村さんも含めまして、4人の先生方に大変貴重なお話をいただきました。今申し上げたことを元にディスカッションを進めていただきたいと思いますので、よろしくお願いします。

テーマとして、「生きることと、死ぬこと。学ぶことと、育つこと。いやすことと、みとること」と、南先生曰く、「文学的な」タイトルを掲げておりますが、先ほど細谷先生がおっしゃいましたように、医学に携わるということは、「人間の人生に携わっていく」ということですから、人間の存在を考えることを抜きにしては、やはり「ひと」に対するケアという視点が欠けてしまい、人を物として治療していくという関係になってしまいます。

 

日本の医学教育

 

ところで、何故、日本では、これほどまでに臓器移植が始まらなかったかについてですが、私に1つ思い当たるのは、医師の間でも、移植について理解している人が非常に少ないということでした。私は、高校生のときに肝臓が悪いということがわかりました。それから肝移植を受けるまでに10年ほどあったのですが、それまで関わった先生は、移植について何も知らず、移植についてお話をされたこともありませんでした。これが日本の現状です。
 一方、アメリカでは1980年代から優れた薬が開発されて、移植が日常の医療になってきました。こうした現状を、お医者さんは知らないという状態にあるというのはどういうことなんでしょうか。そうしたお医者さんを育ててきた医学教育とは、どういうものだったんでしょうか。

ここで、黒川先生、南先生、細谷先生に、ご自分が受けられた医学教育、そして現在、皆さんが指導者として後輩を指導しているときにどうのようなことを考えながら、実際どのようなやり方でこれからの学生を育てていっているかということについて、お一人ずつ、お話しいただければと思います。黒川先生からお願いします。

 

黒川

 

これは、お医者さんでも何でもそうですけれども、全ての人、自分の職業、あるいは周りを囲む社会の評価は、自分の実体験からしか出てきません。いくらものの本を読んでも、こういう仕事については実際に自分が経験しないとわからないというのが本当だと思います。

さて、そこで、日本のお医者さんですが、先ほど言いましたように、どこかの大学病院の医局に属しているということは、それが目標だとしても、そこに行くためにはそこの大学の医学部に入るというところだけが、唯一オープンなコンペティション(競争)をする場所です。そこに入るのに失敗し、別の大学の医学部に入ることもありますが、多くの人は自分が入った大学のどこかの医局に入るわけです。これは明治19年の帝国大学令以来、そういうしきたりで、日本は常に成長を遂げていたので、皆が何の齟齬(そご)も感じなかったということです。

さて、「プロ」とはいったい何か。これは、肩書きに関わらず、自分の仕事ができる人であります。しかし、今までの日本では、そういう必要がなかったし、そういう人たちを育てて来なかったということになります。つまり、日本のシステムでは、それでいいのだと皆思っていたわけですが、実は、このような国際化の時代になって、私がさっき言ったように、交通と情報の手段によって世界中の人と交流するようになると、実は、いろんなことがバレてきてしまったということでありまして、その典型的な例が銀行であり、行政であり、政治であり、医者であり、医療であるということであります。

さて、そこでどうしたらいいかということでありますが、日本のお医者さんは、たくさんアメリカに留学した人がいます。だけど、大部分は研究に行っているだけです。「2〜3年行っている」というのは、ある研究室にいて、それを見てきた、自分で経験しただけの話で、臨床の修練に行った人など、まず、ここ20年、ほとんどいません。60年代まではいました。そうすると、自分が知っているアメリカというのは、アメリカでやっている研究の、あるシステムの中に入っているだけです。しかも、その研究室に行っているということは、あくまでも自分が属している医局の人事、あるいは医局の教授、あるいは日本というムラ社会のお臍が切れないまま行っているだけの話で、2年か3年行って帰ってくるという人たちであります。つまり、海で泳いだことがあると行っても、実は浮き輪につながって、浮き輪に紐が付いていて、岸辺にちゃんと結びつけられているという人ばかりです。そんな人に本当のことがわかると思います? わかるはずないじゃないですか。そういう人たちが揃って、日本の「プロ」を育ててきたのが、20世紀の日本であります。

21世紀に、日本が本当に国際社会のパートナーとして、それぞれの職業でプロフェッショナルとして、肩書きがなくても勝負できる人を作りたければ、もっと混ざらなくちゃいけないというのが、実は、アメリカのシステムの素晴らしいところだということを言っているわけです。日本のシステムは明治以来、帝国大学を頂点とする官尊民卑のストラクチャができていて、その中でどこに属するかということが日本人の目的、あるいは価値観になっていたということです。そこに行くには、入試だけが唯一の開かれた門であり、後は、どっぷりそこの「ムラ」に属しているというだけの話です。最近、日本のシステムが非常にグチャグチャしているのではないかというのが私の感じです。

 

若林

 

南先生、特にドイツでは、どういうシステムで医者を育てるのかについても含めながら、ご説明いただけますか。

 

 

ドイツの医学制度をご存知の方は、あまりないだろうと思います。私たちが医学部に入りました頃には、非常にドイツ通が多くて、アメリカは少なかったわけですが、今は完全に逆転されております。ドイツの医学制度の特徴というのは、何故医者になりたいのかということを、非常に考えた上で医者になってくる。私は長くドイツにおりまして、たまたま日本に帰ってきて医学部で講義などをすると、非常に思うことですが、講義に出てくる人数は100人とか150人いてもいいのに、実際に講義に出てきているのは10人とか15人。ドイツで講義しますと、99%出ています。
 やっぱり、そこで、何故医者になりたいのかという思想が日本の若い者にはない。ただ、入試に受かったからとか、自分は一般的な勉強はできたから、あるいは親が医者になれと言うから、そういう人が非常に多くて、医学部にさえ入ってしまえば、これはもう医者になっても当然のような、そういうような錯覚を起こしているわけですね。ですから、これはもう、典型的に言えることは、医学部に入ってからの意欲が、日本の学生とドイツの学生では全然違う。先ほど、細谷先生の話にもありましたように、もうプロフェッショナルになるための意志が明らかに違っている。
 日本の場合ですと、医学部を卒業して、どこかの医局に籍を置きますと、自分は、もう心臓外科医だとか、内科医だとか、小児科医だというふうに、自分で言い聞かせているわけです。そんな簡単にそういう専門医になれるわけではないのにです。ですから、やはり、それなりの専門的な卒業研修を受けないといけないわけですけれども、そのへん、日本では非常にあいまいになっていると。ただ心臓外科の医局に入局すれば、「私は心臓外科医です」と言っているわけです。そういうことは、向こうでは絶対にあり得ないわけです。やはり、ドイツは専門医制度というものをきちっと昔から作っています。そういうもののない日本では、たとえば、車のライセンスのない人が車を運転するのと同じようなことですね。車を運転できるけれども、ライセンスがないわけです。何か事故が起こった場合には、これは必ず問われる。そういう意味で、医者に限らず、職業というものの意識を高めて、専門家として仕事をまっとうしていくと、そういう意味で、医者もそういう気持ちで医者になっていかなくてはいけない、というように思います。

 

若林

 

細谷先生は、日本で長いことおられて、さらにアメリカにも留学されて、両方の事情をご存知だと思いますが。

 

細谷

 

先ほど、黒川先生がおっしゃったように、ぼくがアメリカへ行く直前ぐらいに、臨床のトレーニングの試験が強烈に難しくなり、私も何回も落ちたんです。アジアは、結構皆さん、英語の教科書を使って勉強しているものですから受かるんです。日本人は2,000人で3人ぐらいしか受からなかった。たまたま何回か落ちた後に、フロック(まぐれあたり)か、幸せなことに受かりまして、アメリカに行けたのです。先ほどのお話を聞いていると、私は個人的には非常に幸せな日本の学生生活を送ったんだと思います。
 最初の2年は、ぼくらの頃はまだ教養部と言いまして、全く医学のことは勉強せずに、万葉集などを勉強させてもらっていたんです。後の4年で医学の勉強を一応したのですが、臨床と言ってもチョコチョコだけでした。そこで、卒業してから、医局には入らずに、今もいる聖路加病院に入りまして、そこで、4年間インターン風のレジデントをしながら、アメリカの試験を受けるために一生懸命勉強しておりまして、非常に、個人的には良かったのかなと思いながら自己満足をしておりました。

今の日本の医学教育の中で、黒川先生が先ほどおっしゃったように、ちょっとまずいと思うのは、小学生のときから一生懸命勉強させられている人が医学部に来るみたいなんです。中学校も、高校も、もう一生懸命勉強して、大学に入って、あとはゆっくりしようと思ったけれど、仕方がないから勉強して医者になっているというような人たちがいて、いろんな幅広い感覚を持たずに、そうなってしまう人が結構たくさんいるのだと思います。覚えなきゃならないことがいっぱいになってきているので、先ほどおっしゃったように、少し時間を長くするとか、それから、卒業してからのトレーニングの時間をもう少し長くするとかしないと、なかなかアメリカの医者とか、ドイツでいろんなことをゆっくりやっている人たちのような医者をたくさん作るのは難しいのかなあと思ったりもしますが、それでも、頑張っている人はたくさんいるわけで、個人の資質にもよるんだろうと思います。

それから、医局の問題。私は元々、外科医になりたいと思っていましたが、黒川先生がさっきおっしゃってましたように、カラオケと飲み屋で勧誘されるのです。私はビールのアレルギーがあり、酒が弱いんだと誤解してしまったために、外科に行くと殺されてしまうと思って、外科を止めて小児科医になった者です。でも、小児科医になって良かったなと、今は思っています。

教育は、もちろん、とても大事なことですが、それぞれの人の何故医者になりたいかというあたりがとても大事なことだと思います。

 

若林

 

私は、東大の理科2類に入ったんですが、理科2類は理科3類という医学部専門のコースと一緒のクラスなんです。そこに来ている人たちは、中には自分は医者になりたいと来る人もいるのですが、「日本で一番偏差値が高いから」という理由で来ている人がかなりいました。実際、医学部に行く人の選択の理由にそれが多いこと、医学部を卒業してから入局する医局を決める際に、飲み会に誘って、「来い」と言われて、あの先生は好きとか嫌いという理由で決めている現状を何とか変えていかなきゃならないと思います。

今、先生方のお話を聞いていますと、医学という自分の専門だけでなく、幅広い分野にわたる教養、いろいろなものの見方が必要だと思われるのですが、野村さんの目でご覧になって、現在の医学教育はどうあるべきだとお考えですか。

 

野村

 

今日、お話を伺いながら、やっぱり、そうだったかという思いです。そうではないかと疑っていたのですが、実際の現場の方から言われると、やっぱりそうだったかと思う反面、がくっとする気持ちもあるわけです。何となく思っていたことを、今との関連でお話します。

物事はピンからキリですから、一般的にお話ししていることをご理解いただくとして、一つには日本のお医者さんはかなりの数を存じ上げています。いろんな細かいことを質問したり、伺ったりする機会もありましたし、アメリカでは、特にインフォームド・コンセントの世界ですから、それなしには話が進まないという経験もしました。その経験から言わせてもらうと、日本のお医者さんは良くも悪くも職人さん、腕に磨きをかけた職人さんだというイメージがあります。

 

アメリカの医者は哲学者

 

それに対して、アメリカのお医者さんは、良い悪いではなく、科学者としての自負があるように思います。ほんとうに優れた科学者かどうかは別として、自分は科学者なんだという自負があります。では、科学者とは何かと言うと、物を客観的に理性的に、分析的に見る、そしてそれを、客観的、理性的、分析的に伝える。そういう役割を持った人間だという意識が、共通してあるように思いました。
 さらに、お話をしていくと、哲学者である。つまり、ご自分の人生哲学を持っていらっしゃる。あるいは、何故医者になったかが茶飲み話にも出てくるでしょうし、それから、生命とは何かという話。そうなると、インフォームド・コンセント、職人さんなら、検査の数値を、はい、これです、と正確に渡すのが職人さんかもしれないし、そこで、人生というか、自分自身の生き方、命、死に対する考えに根ざして語りかけてくるというのが、哲学的なあり方かもしれません。そういう意味での違いを感じていました。

それから、留学されて、アメリカの様子を知っている先生方は多いはずなのに、と思いながら、「日本の先生いらしているよ」というと、回診のとき、後ろの方で、「あ、先生どうも」と言うだけで、回ってくるだけ。患者として私から見ると、せっかく先生、ここにいらっしゃるんだから、ラボの様子と手術室の中と、回診の様子だけじゃなくて、患者が124時間、どんなふうに感じて生活し、それを看護婦さんが、栄養士が、あるいはカウンセラーが、ソーシャルワーカーがどんなふうに受けとめているか、あるいは患者同士のサポートグループという、いろんな悩みを家族も含めて話し合う場。あるいは、どこかに行った時も、「家族の方は待っててください」じゃなくて、「どうして外にいるんですか、一緒に入ってください」という形で、結局、病いというものは、痛むのは患者かもしれないけれど、病むのは家族全員だ。一人の患者が出たのに、けろっとしている家族というのは、その家族自体が病んでいるのかもしれません。病気は家族全体の問題として受けとめるという、そういったシステムを、せっかく留学していらっしゃるんだったら、見ていっていただきたいなと、何回も思いました。

私は、医学校ではありませんが、30年前アメリカの学校に行きました。聖書の勉強などをしていました。面白いコースがありまして、たとえば、死の問題を扱うコース。私は、聖書の勉強などをしていたので、当然、そういうコースがある。そこに医学校の人たちが半分はいました。死とは何か。生きるとは何か。生命とは何か。死後に天国はあるのか。というような問題を、神学校の学生は、はあ、はあと思っているんですが、医学校の学生は本気で聞いているというようなことがありました。それに刺激されたやりとりもありました。もう一つは、生命倫理、医療倫理の授業もありました。アメリカですから、極めて具体的なんです。たとえば、集中治療室にベッドが3つ空いている。だけども、集中治療室に入れなければ命が危ない患者が8人いる。さあ、この8人から3人をどう選ぶか。これを6人ずつぐらいのグループで話合うわけです。6人のグループの中には、神学校の学生もいれば、経営学部の学生もいるし、医学部の学生もいるし、法律の学生もいる。患者さんの背景が書いてあるのを見て、経営学部の学生は、「生活保護を受けている貧しい人を外そう。お金持ちの方から入れよう」なんてことを平気で言うわけです。それに対して、神学校の学生は「とんでもない。貧しいか豊かかを問題にしてはいけない」。医学校の学生は、「ICUったって、本当に必要なのが8人じゃないから、緊急度の高いのから入れて、ちょっと良くなったら出して、次に大変なのを入れていけばどうにかなるんじゃないか」看護学部の学生が、「私の担当した患者だったら、納得いくまで、絶対ICUから出さない。お医者さんの都合で出たり入ったりはさせない。私の責任は、担当の患者の生命を守ることだから」。

というようなことで、そういう授業を1回でも医学校の中でしていると、卒業して現場に行ったときに、看護婦さんはどう考えるのか、あるいは精神的にはどうなのか、あるいは病院の運営側とも話し合ってみようとか。実際にコミュニケーションができるようになるためには、1度、こういった宿題がどこかでなされていないと、現場に行ったときには、なかなかできないのではないかと思うのです。

また、そういう外とのコミュニケーションだけでなく、自分の頭の中に、モデルがあって対話をするということも、医学校の授業のあり方で、日本でもできるのではないかと思います。

これは、名前は出しませんけれども、ある東京の医学校で呼ばれまして、体験談ということで、生命のことを一緒に考える、その後で、最後の10分で感想文を書いてもらっています。初めて行ったときには、感想文を読んでいても意味がわからなかったんです。

たとえば、そこの3年生の人ですが、「今日、学校に入って、初めて生命ということを考えた。医者になる以上、生命ということを真剣に考えることは、つくづく必要だと思った」というような感想。それから、「生と死は、医者にとっては大変重要な問題だから、こういった授業は1年生のときからやるべきだ」とか。

初めは意味がわからなかったんです。それで、担当の先生に伺いましたら、「それは、たぶん、正直にその通りだろう」と。ぼくの授業、1年でたった1回です。それに出てくれなければ、その学生は、医学校で、生命、生と死を授業としては一度も受けずに卒業してしまうのかもしれない。私にはその大学だけが例外だとは思えません。職人さんを育てるにはそれでいいかもしれないけれど、人間としての医師を育てるのは、こんなことでいいのかなと思いました。

 

若林

 

野村さんがおっしゃっていたように、実際、医学部でも教育改革は始まっていまして、カナダのマクマスター大学とか、ハーバード大学を初めとして、日本でも、黒川先生などが中心になって、医学部のカリキュラムを実践的にするという取り組みがなされているんですが、これについて、黒川先生、説明していただけますでしょうか。

 

ムラ社会日本

 

黒川

 

ぼくら3人とも、お医者さんの悪口を言っちゃって申し訳ない。何故かと言うと、聞いている側がお医者さんじゃないので、誤解をされるとまずいと思うので、一言言わせていただきたいんですが、これは、医者に限ったことじゃないんです。

明治維新から日本はずっとそうなんです。最近いろいろ本を読んでいると、明治時代じゃなくて徳川幕府の時代から、日本人のメンタリティは、何も変わっていません。常にお上にお願いします、というスタイルで、民主主義なんかないわけですから、仕方がないのです。それでは何故かと言うと、何故医者だけじゃなくて皆がそうかと言いますと、今日お出での方の皆さんは、会社に勤めておられる方が多いと思います。だんだん出世していきますが、どうやって出世すると思います? 若いときは直属の上司に気に入られることが一番大事です。失敗は許されないんです。何故かと言うと、途中で辞めてよそに行けないからです。何故かと言うと、常に経済成長しているから、それで大した間違いはなかったんです。偉くなって、たまたま取締役になったとします。取締役会で侃侃(かんかん)諤諤(がくがく)の議論があると思います? 社長が、この案件はどう思うかねと聞いたとき、みんな、社長はイエスかノーか、どっちなのかなということを一生懸命考えているはずです。つまり、社長の気に入ったことを言わないとまずい、ということが、まず、一番先に出てきているんです。つまり、そういう社会だったんです。みんな、人のせいにしているんです。

だから、最近の銀行の事件、見てご覧なさい。あの頭取たちの情けなさ。あれは、ゴマすって頭取になっただけの話で、侃侃諤諤やった人は、とっくにどこかに飛ばされています、ということでしょう。文科系では、東大の文1に入るのが一番いいとなって、法学部へ行って、そこで一番成績のいい人はどこへ行きます? 大蔵省でしょ。なんで? 一番成績のいい人たちが官僚になりたいなんていう国は異常ですよ。そんな国がよそにあると思います? しかも、それは単なる試験でしょ。しかも、何かクリエイティブなことをやる試験じゃなくて、法律の試験でしょ。今まで書いてあることを一生懸命覚えていればいいんだから。こういう社会は異常です。それがうまくいっていたのが、日本の20世紀だったんです。もうこれからはうまくいかない、ということで、みんな焦っているんじゃないですか。私は医者を弁護するつもりはないけれど、それぞれのプロはそういう気概で行けということです。

その一番いい例は何か。野茂は、日本のプロ野球で一番トップに行きました。13000万円ぐらいの給料もらったけれど、私の夢はそうじゃないんだって言って、辞めちゃったわけですね。そしたら何が起こりました? みんな、「あいつはムラの掟を破った」って言って、成田にも見送りに行きませんでした。
 10万ドルでようやっと拾ってもらいました。それで投げ出したら、彼は向こうでエキサイティングなピッチングをしたから、テレビで映し出しました。ニュースになりました。それで野茂の出るゲームをみんなテレビで映すようになりました。そしたら、「メジャーリーグって、ずいぶんエキサイティングじゃないの。日本と違うね」ということが、みんなにわかるようになったじゃないですか。
 それで、結構行けるかもしらんということで、長谷川が行き、吉井が行き、伊良部が行き、それなりにやると、そのテレビをまた映す。そうすると、それまでいろんな野球評論家が「メジャーリーグはこうだ、ああだ」と偉そうなことを言っていて、みんな、そんなもんかなあと思っていたけれど、67年前、日本シリーズの優勝チームとアメリカのチャンピオンが、世界のチャンピオンリーグ、つまり「ワールドシリーズ」をやろうかなんて話をやっていたの覚えています? もう今、そんなの全然出てこない。あれは、野茂が行って、実際、みんなが見たからです。これは勝てるはずがない、ということは、誰にでも見え見えじゃないですか。それが、「プロ」なんです。
 日本は、今まで「プロ」はなく、「会社」しかなかったんです。今までできてきた枠の中で、どうやって失敗をしないで偉くなっていくかというのが、日本の成功を肩書きで判断していたというだけの話です。

だから、医学教育は、私は外から見ていて、東海大学が一番アメリカ的な教育を導入するのに前向きだし、少しずつでもやっているから、ここ以外にはまずないなあということは、思っていたんです。たまたまそんな話が来たから、喜んで、行かせていただいたんです。
 たとえば、5年生は12人ぐらい、半年アメリカの学校に行っています。それから、今、新しいクラークシップ、アメリカの医学教育の臨床教育を入れていますけれども、みんな経験がないわけです。口では言っているけれども、教える方が経験ないんだから。今、若いお医者さんを、4人チームで1週間、実体験でアメリカのクラークシップに入れてます。今日からも行っていますけれども、実際に体験してきた人を、今増やしている。1週間行っただけで、彼らはものすごくエキサイティングだと言って帰ってきます。何が違うの?というようなことを実体験しないと、みんな、理屈で話しているだけ。だから、まずくなると、何言うと思います? 今、金融のスキャンダルでもそうでしょ。モラル・ハザード。それから、アカウンタビリティ。インフォームド・コンセント。なんでみんなカタカナなんです? それは、今まで、日本の会社では、たとえば監査役なんてあったって、監査なんかしてません。あれは社長になれなかった人が、社長の思し召しで、たまたまなっただけの話です。そういう人が、会社のことを本当にチェックするはずがないんだけれども、それでボロが出ないで経済成長があったから、済んでいたというだけの話。今の金融みたいに、ガチャガチャと突然、グローバルな世界に入ってきたとたんにボロが出はじめた。それを言い繕うために、モラル・ハザードだとか、いろんなカタカナを取り込んできて、いかにも、これからこんなのが大事だ、と言っているんです。じゃあ、今まで、モラル・ハザードってなかったわけ? なかったということでしょうね。まあ、そういうことなんです。

 

若林

 

大変厳しいお話を伺いました。今までの日本の教育というのは、基本的に知識を詰め込めばいいという教育で、実践するとか、経験するということを大切にしてこなかった。そうしたものがなければ、実際にやることはできないのですが、医学部に入っても4年間ひたすら机に座って、先生のお話を聞いて、右から左へと流れてゆく。
 実際に患者さんを目の前にしてみれば、生理学、解剖学、基礎医学は本当に重要な意味を持っていることはわかるはずなのに、それに気づく前に先に教えてしまって、後から必要だなあと思っても、既に時遅しなわけです。

そうした中で、実習を増やすことが必要なのではないかと思いますが、今の大学の中でも、先生が教える権利と言うか、「教える利権」もありますから、なかなかそれを変えていけないという現状があるのではないでしょうか。

 

チーム医療

 

ところで、移植医療は、お医者さんが1人いればできるという医療ではなくて、看護婦さん、カウンセラー、コーディネーター、様々な職種の人達が関わります。移植を受ける患者は、移植しか助かる道がないという、もうターミナル、今にも死にそうな人たちなわけです。それなのに、そのことが忘れられて、移植を受けられるのだからいいじゃないかという感じで受けとめられている現状があると思います。

ドイツの場合、チーム医療が確実に行われているんだと思いますし、また、そこで、大変な状況の中の患者さんに関わっていく医療スタッフは、かなりの負担を強いられていることになると思うのですが、そういう方々の精神的なサポートも含めて、ドイツでのチームとしての医療はどのように行われているか、南先生、よろしくお願いします。

 

 

確かに、私のところで、毎週2例から3例の移植をやっております。心臓移植、肺移植をやっておりますけれども、その中で我々のチームというのは、外科医が7人、他にICUを担当する者が、これは24時間制ですから、そのICUの中に10人の医者がおります。みんなが一生懸命になってやってくれます。そして、また移植病棟、そこにも10人の医者が24時間制で詰めています。そして、非常に大切なのが、やはりコーディネーターであります。コーディネーターが2人おりまして、24時間交代で、ずっと詰めています。それにプラス看護婦さん、サイコロジストと言われる、臨床心理士なんかを含めますと、ざっと30人、40人という人が一緒になって、1つの移植医療に努めているんです。

 

若林

 

何人ぐらいの患者に対して、そのような方がいらっしゃるんですか。

 

 

そのへんの数は出しにくいと思うんですが。年間にだいたい100人の移植患者が出ます。それに対して、今言ったような数の医者なり、看護婦なり、コーディネーター、そして、待ち時間の間に待てなくなって、人工心臓を着けなければいけないというケースもありますから、それに対する、人工心臓のためのコーディネーターと、ホームケアのスタッフ、これはもう全体で、40人は必要だというような具合です。

ですから、それぞれの人たちが、皆、プロフェッショナルな意識を持って努めているので、たとえば、私が心臓移植をする場合、術前の検査の状態はどうなっているだろうかとか、術後のフォローアップはうまくいっているのかというような細々したことを、それほど自分だけで気をつけなくても、みんなに任せられる。コーディネーターはコーディネーターできちっとしたデータを持ってきてくれるというまさしく「チームワーク」なわけです。そういうものを作っていかない限り、日本でも移植がはじまりましたけれども、まだまだ、日本の移植も、はしりで、これからまだまだやっていかなくちゃいけないことはたくさんあると思います。

 

日本の医師の専門性の中身

 

そういう意味で、先ほど、教育ということで言いそびれましたが、たとえば、私どものところには、23年という期間、日本人の先生が研修に来ますが、そういう先生方が日本に帰った場合、どういう格好になっているかということを一つお話ししておきたいと思います。アメリカの話も出ましたし、ドイツに限るわけではないですが、日本人のドクターで臨床経験を十分積んで帰った人が、日本に帰ると、皆つぶされてしまいます。それは、結局、日本では臨床に重きを置く医療がなされていないからです。
 職人肌のドクター云々という話が出ましたが、私の目から見れば、逆に日本の医者には、まだプロフェッショナルとしての、職人肌的なところがない。本を書いて、ペーパー(論文)を書いて、学会に出ていい顔していれば、あの人は偉い先生だと見てもらえるような、医学社会なんです。

現実に、専門医というタイトルはどこでもらえるのかというと、日本の場合は、学会からもらえるわけです。ということは、ペーパーを1つでも書いておけばおくほど、専門医になる可能性は出てくるわけです。そのようなことは、ドイツでは一切あり得ません。ペーパーは、最後の最後についてくるもので、まずは臨床医として、たとえば、心臓外科医であれば、何百人の心臓を切ってきたと。そして、どれだけの数の患者さんを治療してきたかという経験があれば、初めて専門医になる試験を受ける資格が出てくるわけです。
 資格試験の諮問委員会のメンバー構成は、日本のように学会のメンバーだけでなくて、厚生省から、地方の医師会から、それから大学の「プロフェッサー[7]」という人物5人で構成されたところで、試験を受けるわけです。そこでもらえる肩書きには厚生省も入っていますから、国が責任を持って出すものです。日本の医師の国家試験は、国が認知しますが、ドイツの専門医試験もそれと同じような重きを持っているわけです。
 このように日本の卒業研修を作っておかないと、たとえば、諸外国でいろんなことを勉強してきた人が、日本に帰ってきた場合、その人は、周りにそういった目がない、基盤がないところで、すぐ潰されてしまうのです。帰ってきて、12年と、そこの病院でのデータを使って、ペーパーを書いておけば、教授に、「まあまあ、お前頑張ってるな」と覚えも目出度いのですが、2年経ち3年経つと、もう種が切れてくる。ということになると、外に飛ばされる。このようなことを繰り返している以上、いつまでたっても、日本の医療が良くなるはずがないわけです。

 

若林

 

ありがとうございました。南先生のお話を聞いていて、日本では、医師免許を取ると、内科でも外科でも皮膚科でも、何科を標榜してもいいという制度になっています。しかもさらに、医師免許取得後、普通は2年間医局に入って研修するわけですが、それすら、大学紛争時代以来、3割の人が受けないで、いきなりお医者さんになっていて、実際に患者さんを診る、たとえば、開業医のお父さんのクリニックで。研修も受けないで患者さんを診ているという現状があります。それを、どうしてお医者さんたちは許しているのか、本当に不思議に思うのですが。

日本の専門医制度は、学会で書類の形式を満たせば認定される。あるいは、論文の数で認定される。発表すれば、学会に出席すれば認められるというのが現状です。実績を、臨床能力を評価していくことが必要だと思います。

 

先ほど野村さんから、医者には科学者としての面と、哲学者としての面があると伺いました。そして、お医者さんに求められる能力の1つとして、共感すること。つまり、自分が上に立って、同情をかけるのではなくて、患者さんの心に下りて、共感しながら、かつ、科学者として適切な治療を行うということが必要です。ただ、「患者さんが可哀想」と見ているだけでも治療はできないわけです。

特に、細谷先生のように子どもを相手にしている場合は、子どもは、ちゃんと自分のことを説明できません。ご両親もパニックに陥っているような状況で、大変厳しい先天性の疾患とか、小児がんや白血病にかかっているわけです。先生は、患者さん、ご両親、ごきょうだいに、どう接しておられるのか。さらに、後輩の先生方をどのように教育されているのか。細谷先生にお伺いしたいと思います。

 

細谷

 

1人ではとてもできません。チームがないと、簡単に潰れてしまいます。医師のバーンアウト(燃えつき症候群)が、特に、小児がんの領域では多いと言われていまして、個人の性格の問題もありますが、一番大切なのは、チーム、自分がやっていて困ったときに相談する人がたくさんいて、「みんなでやっている」という意識を持たないと、なかなか続けていくのは難しい。それは、患者さん側にとっても、1人の医者にずっと診てもらうということよりも、看護婦さんはじめ、ケースワーカー、カウンセラー、サイコロジスト、栄養士さん、保母さんというような人たちと話をするということが非常に重要なことだと思います。

日本では、バーンアウトを考えようという学会はないのですが、国際小児がん学会ではときどきあり、サイコロジーのセクションで、バーンアウトのガイドラインをつくるといったシンポジウムがあります。先日出て、とても興味深いと思ったのは、ボスがどのぐらい理解を示すかなんです。一番上にいる人が、臨床的なちゃんとした医療をきちんと認めるという立場を取らないと、下にいる人はやっぱり潰れてしまうということがあります。ですから、黒川先生のような先生が医学部長をなさっていれば大丈夫なんです。ところが、そうじゃなくて、一番上が、どのぐらいしっかりするかということが、その下で育つ者にとっては、とても大事なことだと思います。

 

日本の医療に改革をもたらすもの

 

若林

 

ということは、トップの人が意識を改革しなくてはならないわけですよね。ところが、現在の大学の医局では、トップの人の意向で次のトップが決まるのが現状です。とすると、意識改革どころか、トップの顔は変わっても、同じ状態ということになるわけです。つまり、臨床に関心のない、ペーパーを書けばいい、研究の方で業績を上げればいいと考える先生。あるいは、ブランド大学、東大とか、京大とかで、名前を売っていこう。それで通ってしまっている先生。そうした先生の意識を変えていくためには、どのようなことが必要なんでしょうか。アメリカの事情に詳しい黒川先生、ドイツの事情に詳しい南先生、いかがでしょうか。

 

黒川

 

それは、無理ですね(会場笑)。

いや、何故かと言うと、国立大学は国のものだから、今まで潰してないということが1点あります。

たとえば、金融でも何が大騒ぎになったかと言うと、大蔵省が常に助けて「潰さない」と言っていた。だけど、山一證券が突然潰れた。あれで本気になったわけです。
 だから、そういうことがない限り、やっぱり日本は何も変わりません。山一証券のケースでも、経営者の責任で、下の人たちはわかっていたけれども、何も言えないわけじゃないですか。大学も同じですよ。トップが変わらないと言うけれど、トップになるためには、ゴマをすってきているわけだから、変わるはずがない。トップをよそから連れてきてポッと入れるなんてことは、この国ではありっこないです。その点で、東海大学はすごいなと、私は感謝しているんですが(会場笑)。それが、不思議だと私は思っていますが。もっとも、東大が、私のように外国に15年いた人を呼び戻してくれたということ自体、実は、びっくりしたのですが。

そういうことでみると、ものすごく頭が良くて、可愛いのがたくさんたくさんいるのですが、それが、卒業して5、6年すると、タダ以下の人になって輝かないなと、私は教育者として、これは犯罪的だと強く感じました。アメリカで教えていると楽しいです。そういう話がないのは残念だなと思ったので、いろいろトライしたのですが。

だから、どこかつぶれるという、天地がひっくり返るようなことがあるのはすごく大事です。日本長期信用銀行が潰れましたね。やっぱり、そういうことで、いよいよこれは大変だとなって、本気に取り組むんじゃないですか。それがない限り、日本人は変わらない。民主主義だとか何とか言ってますが、さっき言ったがんの告知でもそうですが、ぼくは4,500人を対象にがん告知に関するアンケート調査をしました。その結果は、発表もしていますが、日本人の皆さんは、インフォームしろしろと言うわりに、自分ががんの場合告知してくださいという人は80%で、20%の人はやっぱりイヤなんですよ。

アメリカの場合、ぼくがアメリカに行った当時は、まず家族に話をしていましたが、今は変わっています。本人に言います。もちろん、告知のタイミングははかりますが、まずは本人に言うのです。家族と話をしたり、どういう人かな、どういう宗教的な背景か、どういう家庭かということを把握して、あるタイミングで、本人に先に話をします。一方、日本では、必ず家族に先に言います。日本では、本人も、自己責任とか何とか言っている割には、自立してないんです。家族が、「うちのお父ちゃんはそんなこと聞かされたらどうなるか。先生、言って下さいよ」と、こうなっちゃうわけですからね。いざとなると、何も自分でも決められなくて、常に人のせいにするというのが、今までの日本のあり方です。日本には市民はいなくて、村人しかいないと思っておりますが、いかがでしょうか。

 

 

厳しいお話ですね。たしかに、黒川先生の銀行の話と同じだと思うんですが、やはり、日本の大学、国公立病院でダメなところは潰していく、というようなことをしないと、日本の医療は良くならない。

それから、お金がないと病院は経営できないわけですから、それをしようと思えば、全面的な、保健医療のシステムを変えていかなくてはならない。欧米と日本の違い、根本的なのは、日本は出来高制。たとえば、心臓の手術をして、それがうまくいかないで再手術する。再手術するから抗生物質はたくさんいる。ICU1週間もいなくてはいけない。また挿管する、肺炎を起こす、云々。どんどん、お金がかかるわけです。あっという間に1000万円ぐらいかかってしまいます。日本の病院経営では、その方が助かるわけです。それぞれのコストに対するマージンが入ってきますから、たとえばICUに長くいればいるほど、薬は使えば使うほど、それぞれのマージンが病院に入りますから、病院に200万円なら200万円入ってくると。これが日本のシステムです。これを出来高制と言います。

ドイツのシステムは、定額制です。たとえば心臓の手術はもう300万円と決まっているわけです。その手術がうまくいけば良い。合併症を起こそうが起こすまいが、300万円以上のお金は入ってきません。少しでも、良い手術をして、1日でも早くICUから出して、1日でも早く退院させれば、これは病院としては儲かるわけです。200万円しかかからなければ、100万円が病院の利益です。しかし、下手な手術をして、どんどん抗生物質を出したりしていると、あっという間に500万円かかる。200万円の赤字です。そういう経済観念が、向こうの病院には必ずあるわけです。

つまり、チーフが臨床家として一番優れた者である。そのチーフを求めて患者が寄ってくるんだと。そういう思想があるものですから、たとえば、教授の席が空くとか、部長の席が空くという場合は、臨床がよくできる人を選ぶことが、病院の経営の負担を少なくするというか、経営上の選択です。ここに、日本の病院の経営のあり方、むしろ、保険医療のあり方でしょうか、との違いがはっきり出ていると思います。

 

黒川

 

日本の皆さんは、何を求めているんですか。日本はG7の国々の中で、医療費は7.5%で一番低いんです。しかし、6人に1人が65歳以上で、老齢化はイタリアと並んで一番進んでいるんです。それなのに医療費が低いなんてことは、自慢にもならないと私は言っているんです。

たとえば、30兆の医療費のうち、政府が出しているのは8兆です。残りは保険と自費です。8兆なんてたいしたことないような気がするんですが。それじゃあ、日本は何にお金を使っているんだと思います? 日本の総労働人口の10.5%が建築・土木に従事しています。製薬、介護、サービス、全て含めた健康関連産業が5.5%。いいですか。さて、アメリカはどれくらいだと思います? 先進国で土木・建築・建設関係が労働人口の10%なんて突出しているのは日本だけ。何故ですか? それは、公共事業費全体で70兆あり、これはGDP16%ですが、そのうち30兆は国の投資です。建設国債その他。だから、日本中をコンクリート化しようとしているんですよ。飛行場造ったり、ダムをいまだに造ったりしてるんだから。まだ200もダムを造る計画があるんですよ。35年前からの持ち越しが。役人はいったん決めたことを途中でやめられないんですよ。建設国債どんどん出すから、今、どうなっていると思います? 国の借金はGDP120%。先進国で突出してでかいです。なんで? 

だから、私、この間、経団連の講演で言いましたし、また書いてもいますが、アメリカでは、総労働人口に占める建設関係の割合は6%、健康関連産業が11%です。だから、日本人は、これから、介護とか、いろんな意味で言うとバイオテクノロジーを入れて、健康関連産業に、やっぱり、本当のニーズがあるのだと思うんです。だから、私は、GDPのうち、こういう産業が、今の7〜8%、今、介護だってせいぜい4兆ですから、1%しかありませんから、10年後には15%ぐらいを目指すべきだと考えているんです。その「真水」で増えた分は、できるだけ規制をなくして、マーケットに任せた方が、質が良くて安いものができます。そうすることによって、国内需要が増えます。それでもちろん、雇用も増えます。で、建設・土木関係の雇用、そこで吸収できます。という話をしているんですが、難しい。何故?

それは建築土木はすごい選挙の集金マシーンになっているからです。みんな日本人はそれでハッピーだったんです。だから、「村人」なんです。これから、皆さんもっと声を大にしてですね、健康関連産業、介護に、国の金を使えと。ただ、やり方にはあんまり行政は口を出すな、というのが一番大事なことです(会場から拍手)

 

少子高齢化――未来への問い

 

若林

 

今のお話の中で、医療費がアメリカと比べて、GDP比で約半分。そして、日本では少子高齢化の社会ということで、子どもが少なくなって、お年寄りが増えている。この現状の中で小児科、あるいは小児救急というのは非常に危険な状態にあると思うんですが、この辺について、細谷先生、お話していただけますでしょうか。

 

細谷

 

医療費が安い、というようなことはもう先ほど、黒川先生がおっしゃいましたけれど、たとえば骨髄穿刺とか、腰椎穿刺という、骨髄や髄腔に針を刺して血を抜くという手技がありますが、あれはもう昔からやられているために、日本でやると、私たちの技術料としては1,800円ぐらいなんですね。アメリカでボーンマロー(骨髄穿刺)とかスパイナル(腰椎穿刺)をやると、日本円にしてだいたい5〜6万円ぐらい。だから20倍とか、そういう差があるんです。それで、日本の医者は、ただで働いている医者が大学病院にいっぱいいるんですね。だから、大学病院はそれでやれているという状況があるために、国もそれで安心をしてきてしまっているというような状況があります。
 やはり、医療っていうのは結構お金のかかるものです。生命を大事にするっていうことについてはですね、本当にお金がかかるものだということを、ある程度認識しないといけないんですね。先ほど、南先生が300万円かかるところを200万円で済ませたら100万円、病院に入るからというようなことをおっしゃいましたけど、日本の場合は出来高払いじゃなくて、たとえば、決まった定額になったとしても、たぶん、今のままで行ったら、必死になってやっていい医療をしても赤字になるぐらいの低額しか国は認めようとしていないですね。特に、小児科は手がかかって、人件費と場所が必要です。学校が必要だったり、プレイルームっていう遊び場が必要だったりするわけで、そういうような場所はお金を生み出さないわけですから、私立の病院では小児科はずっとお荷物になって、できるだけ切りたいというようなことになっています。

それからきついものですから、小児科医になる者がいない。先ほど言いましたように、間違って小児科になる者はいてもですね、小児科医になろうっていう人はどんどん増えているわけではないんですね。損な状況できついことになっていますから。

でも、先ほどから、黒川先生も社会が悪いというようなことをおっしゃっていますけれど、悪い社会を作っているのは、私たち自身なわけですから。黒川先生は、そうはおっしゃらないで、一生懸命変えようとしていらっしゃる。やっぱり、一人ずつが何とか小さい力でも変えようとする意識というようなものが、非常に大事なんだというふうに思います。

少子化はもう厚生省もあきらめて、少子化は少子化でいいと言って、外からの労働力を入れるようにしたとかいうような噂が聞こえて来たりしてですね、小児科医としては、本当にいいのかなと思いますが。子どもが大事にされて、子どもを育てるということが、親にとって非常に大きな喜びであるような社会になったら、そんなに少子化がどんどん進むはずはないと思うんですね。そこのところが、なかなかうまくいかないんですが。でも、皆さんにも、社会を構成している人員の1人としてですね、ある程度、力を少しずつでも尽くしていただきたいというふうに思います。

 

若林

 

先生がおっしゃってくださいましたように、私たちも実はただ医療を受ける側というのではなくて、医療を作っているのも、また私たちであるわけですね。たとえば、移植について、あるいは救命救急について、生命について考える機会、私たちにあるでしょうか。たとえば、ここにいらっしゃっている皆さんは、目の前にいる人がたとえば道端で倒れていたとした場合に、パッと助けて、人工呼吸をしてということができるでしょうか。

諸外国では学校教育の中でもやっていて、多くの人が身につけていることですが、日本では最近ようやく運転免許を取るときに一応やる程度ですね。とても「身についている」とまでは言えない。一方、ちゃんと教えれば心肺蘇生法は小学校3年生でもできるという報告もあるのです。いくらお医者さんが頑張っても、心肺停止後4分以内に心肺蘇生を開始しなければ脳はダメージを受けてしまうわけですから、私たちもまた、やはり救急医療の一番底のところを支えられるように準備しておかなければならないと思います。そうでなければ、本来助かるはずの人が亡くなったり、あるいは脳死になったりしてゆくのです。
 こうしたことを踏まえながら、野村さんの方から、移植を受けた立場として、そして一般市民として、一言お願いします。

 

野村

 

移植とは別かもしれませんが、私の連れ合いが妊娠をしていて、出産をして、それから夫婦でですね、子どもを抱きながら半年間、これちょっと、冷静に見ていたわけですけれども、電車の中でシルバーシートの前に立っていても、席を代わってもらったのは3回だけでした。ですから、誰かがパッと手が出るどころじゃなくて、目の前にそういう人がいても、目をつぶってしまうというのが、残念ながら日本の現状にあると思います。
 今、時間がないので、そのことと短絡的に結びつけちゃいますが、いや、結びつかないかもしれませんけれども、臓器提供をどうするかっていうことも、実はつながっている。それは、いわゆる脳死の臓器提供までいかなくても、たとえば、どうしてこれだけ日本で腎臓移植がもう30年ぐらい行われているのに、実際の症例がこんなに少ないのか。どうして、角膜が必要な人が一生待っても結局は、提供が受けられなくて亡くなってゆく方がいるのか。アメリカだったら、2〜3週間ですぐやれます。つまり、角膜や腎臓でも、ちゃんと宿題ができていかなかったし、生きるっていうことが何なのかっていう宿題もできていなかった。ある意味では、黒川先生がおっしゃっていたように、「お上からの棚ぼた」を皆待っていたものだから、自分で立ち上がってぼた餅を作るという訓練が全然されていなかったのかもしれない。

そこへ、突然ですね、意思表示カードを突きつけられたときには、私が私の生命のことを決断しなきゃいけないという。あまりに唐突だったんだと思います。しかし、やってこなかった宿題、ここで本当に、正面に据えられて、ある意味では日本の人たちにとって、いいチャンスでもあるのかな。実際に移植が必要な人というのは、何十万人に1人だと思いますが、この移植医療の皮肉なところと言うか深いところは、全ての人が、たとえば意思表示カードに直面するという可能性はあるわけですから、そこで自分の死ということを、もう1回考えるものすごいいいチャンスだと思います。

今まで、これだけ自然のこととして、生まれるときから電気がついていますけれども、テレビ見ながら缶ビール冷やして飲んでというあらゆることが人工になって、人間が作り上げながらも、何となく、どこか日本人の間では、死というのは自然まかせにしたい。そこは目をつぶっておいて、なるようにならせたい。それは、ものすごいとんでもない甘えなんだと思います。もう、ここまで文明にどっぷり漬かっている我々は、死をも自然任せにはできない。もしするとしても、それも1つの選択肢としての「自然」まかせになるわけですから、そういう意味で、「ドナーカード」とも言われていますが、厳密には意思表示カードです。「私は、臓器提供しません」という言い方も当然そこに含まれているわけですから、自分の死を考えるいいチャンスだと思います。

ある意味では、アメリカでも、日本じゃこうだと愚痴ると、「いや、20年前、30年、アメリカでもそうだった。お医者さんが偉くて言うこと聞くばかりで、薬のことも知らなかった」。ですから、アメリカですら、自然に昔からああなんじゃなくて、ここ30年で努力をして、みんなで変えたんだと思います。そのキーワードは簡単に言ってしまったら、「それが患者のためになるんだろうか」といったところで、今の看護婦さんたち、お医者さんたちも、ちょうど小学生のように、「これって、本当に患者のためになるの?」と問うて欲しい。

たとえば、廊下に段ボールの箱が出ている。「患者のためになるか?」です。もし患者がひっかかって困るんだったら、片づけよう。それぐらいに単純素朴なことも含めて、「それって患者のためになるんだろうか、どうなんだろうか?」というのが、あらゆるところで、アメリカのシステムを再点検する1つの簡単なキーワードになっていた。それが、大きく変われた1つのきっかけだと思います。

今までの日本は、お話にありました通り、経済の問題も出てきたわけですが、経済効率っていうことでやり過ぎていた。それはただ、お金儲けっていうことじゃなくても、医療でも何でも、教育でも、経済効率良くと、下手すると、経済効率良くするためなら、プルトニウムもバケツで混ぜて突っ込んだ方が経済効率がいいんだと。

今また、バブルがへたっちゃったんで、中には、またあわよくば、また経済効率良く立ち戻ろうと思っている人がいるかもしれないけれども、私に勝手に言わせていただければ、今こそ、日本は、「生命効率」っていうことを土台にして、果たして、これが「生命効率」がいいのかどうか。たとえば、原発の問題にしても、医療にしても、これが一番生命効率がいいのか。そうだとしたら、そのために、どれだけ経済効率良くその生命効率を生かしていくのかという、逆転の発想をしなくちゃいけないのだと思います。

現に22世紀の地球がどうかっていうこと。そろそろもうぼくは21世紀はあきらめていますんで、22世紀を考えた方がいいと思います。それは、どういうことかって言いますと、細谷先生がお助けになっているそのお子さんが運良く長生きして、きんさんぎんさんの年になったときには、世界は22世紀なんです。だから、既に22世紀を生きる人たちが、小さい人たちが私たちの周りにいる。彼らを育てている以上、彼らをいろんなときに面倒を見ている以上、我々は22世紀に責任を持たなきゃいけない。21世紀の半ばにはもうエネルギーがなくなるでしょう。人口爆発あるでしょう。それを無責任に言って、私は先にさようなら、じゃあ済ませられないんだと思います。ですから、22世紀を本当に「生命輝く時」としてのビジョンを持って、そのためには21世紀の半ばまでにはどうしておかなきゃいけないか。そのためには、21世紀の初めにはどうしておかなきゃいけないか。そのためには、今日、我々の生き方がどうしていかなきゃいけないかという、大風呂敷を広げ過ぎのようだけれども、そのことが問われている。そういう意味では、移植というのは、あらゆる先端医療の要素、死生観、生命の問題までからまっているので、これは、個別、移植の人たちだけの問題ではなくて、もっと深い地球の未来の問いかけを、ものすごく豊かに含んでいる問題に、我々が今出会って、それがちょうど「いのちを見つめる」という、まさにこういうテーマが出てきた所以だと思います。

 

我が国で移植医療が根づくために

 

若林

 

移植医療というのは、「今何ができるか」ということです。確かに移植医療にはかなり厳しい面もあります。感染症、拒絶反応、ドナーを必要とする。確かに人工臓器の可能性もあるんですが、やはり、今できる最善の医療として、臓器移植というのは、私が今ここにいたり、野村さんがいて、野村さんのお子さんがいたりするように、大きな力を持っているわけです。
 こうした現状の中で、11人が自分の責任を持って考えていくこと、そして、意思表示カードが示しているように、意思表示カードというのは、本人の自己決定権を一応尊重するようでありながらも、家族が最終的な決定権を握っている。かといって、本人の決定がないと、家族が提供したいと言ってもできないわけですから、家族を信用しているわけでもない。ここで、家族とは何かというのが、実は問われているんですが、それが問われないまま、何となく、意思表示カードができて、臓器移植法ができて、もう2年が過ぎてしまいました。果たして、家族というのは信用できるのか。あるいは信用できないのか。皆さんも考えて見て下さい。幸せな家庭もありますが、幸せじゃないいろいろな家庭の事情もありますから、そうしたときに、本人の意思が認められないというのは、いったいどういうことなのか。よく考えていただきたいと思います。

時間の関係でいくつか質問があったのにお答えできないものもあり、申し訳ございません。ちょっと簡単に短く答えられるのだけ、答えておくと、「ドミノ移植は、これから発展していくのか」という質問ですが、ドミノ移植というのは、FAPという特殊な肝臓の病気のみで、心臓で行われるドミノ移植は最近ではほとんど行われていませんので、その主流になるということはないと思います。

細谷先生のお話の中に出てきた、バウムテストの中の適用度というのは、その子が自分の現状をどのくらい受け容れられていて、納得できているかということを示しています。

それでは、情報公開をどうしていったらいいかという質問、ボランティアをどう導入したらいいか。あるいは先生の病院では、ボランティアを受け容れているかという質問。こうしたことに多少触れながら、日本で移植が根づくためにということも考えながら、今何ができるか。そして何を目指していくべきかについて、各先生方から一言ずつ、最後にお話していただきたいと思います。黒川先生からよろしくお願いします。

 

黒川

 

21世紀の中ごろまでにはおそらく移植は必要なくなるということを私は希望しています。ジェネティック・エンジニアリング(遺伝子工学)でいろいろマニピュレイト(遺伝子操作)したブタとか、いろんなものができています。その他に臓器の再生もできています。たとえば、骨髄細胞から、自分の心筋をつくることができますから、おそらく、心筋にそういうのを注射するということも可能になって、おそらく、あと50年すれば相当いろんなことが可能になります。

だけど、覚えておいて下さい。必ず生まれた人は死にますから。どういう人生で、どういう死に方をしたいかということを考えて下さい。

今の移植でやれることはですね、今、先生方がおっしゃったようにいろんなマンパワーがいるんです。ネットワークもそうです。たくさんマンパワーいります。だけど、日本でマンパワーと言って、何を考えるかというと、「常にフルタイムでそこで雇われている人」っていう発想になっちゃうんですよ。だから、お金がペイしないって言うけど、ボランティアでもいいし、パートタイムでもいい。パートタイマーになると、今度はですね、年金の問題で非常にそれがやりにくくて、週2日来る人は、フルタイムで働いている人の40%っていうような給料にならない。日本の今までの雇用は、皆フルタイム・終身雇用で来ていてですね、パートタイマーに非常に不利になっていたというのが、日本の年金制度を含めて、極めて社会構造が悪くなっている。

ボランティアとか給与体系とか、雇用関係、今までとは違ったものをどんどん作っていかないといけません。年金はですね、ドイツと日本がようやっと49年経ってはじめて、お互いに年金を継続するという条約が、去年かな、成ったんですが、たとえば南先生みたいにずっとドイツに勤めているとですね、ドイツの年金ありますよね。日本に来たときには、それが続くようになっています。だけど、私のようにアメリカに15年いた人は、日本に持ってきたときには、それは続きません。日本で新たに始めるんです。同じところに20年働かなくちゃいけないので、私みたいに動いている人は非常に損するようになっています。

もし、日本に外国人が来て15年働いて帰ったとします。自分の給料から年金が引かれています。だけど、「引かれているから、15年経ったのは返してくれ」と言っても、絶対返してくれません。じゃあ、私が、65歳になったときに、15年分だけのは払ってくださいって言っても、それもできません。国はいくら取っても、自分の給料から引かれているにもかかわらず、20年勤めないと駄目だという詐欺みたいになっているんですね。

というのは、終身雇用っていうことを建前にしてやってきたからこういうことになるわけで、これは今から国際化の時代で、日本の制度は「詐欺みたいだ」ということで非常に問題になります。このことは行政にも言っていますが。「わかっています。ドイツとは49年交渉しています」って、ようやっと去年済んだんですが。そういうことも整備して、働く環境をもっと良くして、パートタイムでも、途中でいろんな仕事を変わるっていうことを、これから社会整備をする必要があります。そうしないと。

もう1つ大事なこと、先生おっしゃったけど、女性の社会的な地位が低過ぎる。こんな先進国で、日本が際立って低いです。だから少子化になっちゃうんです。女性は、これから結婚すると、ツーペイがワンペイになっちゃって、男性が元気がないからそうなると思うんですけど、女性の力をこれから生かさない限り、日本の将来は危ういなと、私は思っています。(拍手)

 

 

 

 

 

日本で移植医療が根づくためにどういうことをすべきかと、どういうことをやっていかなくちゃいけないかということですけども、まず、私が思いますのは、一般の国民の方々もですね、やはり、移植、死についての考え方から始まって、ドナーとはどういうものか。その辺の理解度がまだまだ少ない。私がドイツにおりまして、感じますのは、テレビを見てますと、ほとんど毎日のように、こういう座談会がテレビで映されるわけです。そういうこと、日本では全然ないわけです。移植をやろうとやっているのは、移植医が一生懸命科学的なデータを出して云々とやっているだけで、一般の人たちが置き去りにされている。それが、過去20年間、30年間だった。そういうことをしていたんじゃ、日本では、決して移植医療というのは根づかない。

だから、移植医療というのは、先ほど司会者も言われたように、ドナーがあって、レシピエントがあって、ドナーの家族があり、そして医療従事者があるからできる医療なわけです。そこを頭に入れて、もっともっとボランティア活動と言いますか、そういうものに力を入れてですね、移植というものは、こういうものだ、本当の移植とはこういうものだ、というそのへんの土台の動きを、働きをしていかなくちゃいけない。ということが1つ。

もう一つは、先ほど、私言いましたように、保険医療の問題から始まって、いわゆる健康保険制度というものを変えていかなくちゃいけない。出来高払いで、悪い医療をすればするほど、病院がお金が儲かると。そういうような医療体制をつくっておくということは、結局、ボスになる人も、悪い治療をしていたほうがいいということですから、そこにのほほんと居れるわけです。ドイツやアメリカなんかでおりますと、そういうボスはいません。そんなボスは首になります。というのは、病院傾きますから。

そういうことのきちっとできるような医療システムづくりをしていかなくちゃいけない。そういう2点を挙げたい。

 

細谷

 

ぼくは、違った視点から、結局、移植医療が根づくためには、ドナーのリクルートということが、とても必要。そのためには、医者が医療に対する信頼をもうちょっときちっと得なければいけないと思う。

さっきお話にあったように、あげる方が、新聞、マスコミがワーッと来て、大変な思いであげなければいけないというようなことになっているのは、一般の大衆の、「医者は何をするんだろうか」みたいな感じの不安というのが、一つ根底にあるように思いますので、それをなくすためには、医療に対する信頼感を、学生の時代からきちっと教育をして勝ち得なければいけない。そのためには、やはり人間を扱っているんだということを自覚させないといけない。
 私も、ときどき医学部の医学概論とかですね、そういう講演会で話をするときには、一応意識して、医者になろうとしている人達に、人間を扱っている仕事なんだというようなことをきちっと植え込みたいと思っています。医療自体が、文化の1つだという意識を、医者側、医療者側が持たないといけないと思います。

 

 

 

 

若林

 

医療側も、医療を受ける側も、細谷先生が最後にスライドで示されていた「医学の限界」をしっかりと認識した上で話をしていかないと、ただ、医療不信医療不信とマスコミが騒いでいるのに乗るのもおかしなことですよね。

最初の脳死の移植のときに、プライバシーの保護と情報公開は対立するものだと、新聞もテレビも、コメンテイターも皆言ってました。私は、そうではなくて、本来、両立させなくてはいけないものであって、対立するはずのものではないと思うのです。だけど、そのことを書いた新聞はありませんでした。むしろ、対立するのだから、自分たちがやったことは正しいんだと常に自己弁護していたように思いました。

 

野村

 

これから具体的にっていうことで言うと、先ほどの繰り返しになりますけど、黒人のコーディネーターから伺ったこと。大変意義あると思います。教育ということと、医療不信を払拭するということ。死生観をしっかり持つ。

ですけども、ある意味で私は悲観していないのです。いくつかの徴候を見ますと、一つには阪神の大地震以来、ボランティアが抽象概念から非常に具体的になって、多くの方が関心を持っています。究極のボランティアは、臓器提供。他の人のために、見返りを求めずにやろうという雰囲気、意識は、実は日本の中に満ち満ちていると思います。具体的には、20代の女性のアンケートで見てみますと、8割が臓器提供をしてもいい。サインするつもりだとありました。これは、ある意味で、ショッキングにすごい数字だと思います。

最近では、テレビで教育ということにもなるかもしれませんが、必ずしも信用できないんで、少なくとも、私の様子が、以前NHKスペシャルで放映されたときに、ある人が「見た」と言い、「私はホラー映画とか好きです。だから見ちゃった」と言う。臓器移植がある意味では「ホラー映画」的なイメージで来ているということもなくもない。

ところが、そうじゃなくて、深い人間のドラマとしてテレビなどが取り上げてくれれば、賛成反対を超えて、深い人間ドラマとして、大きな問いかけになる。別におすすめではないですが、この拡大コピー。今夜、テレビ朝日で、「青い鳥シンドローム」という臓器移植を巡るドラマが始まるそうです。

新聞の別のところには、日本のではありませんが「ハーツHearts」という臓器移植をテーマにしたイギリスの映画が来る。こういうのは、少なくとも、真摯に受けとめて、それがテーマとして皆さんがそれぞれ自分なりに考えていくきっかけになるといいなと思います。

こういうのはまずいよねっていうのは、この前の5例目にならなかった耳の鼓膜が破れていたケースです。メディアがもう少し慎重にならないといけないと思うし。

その同じメディアが私たちに、これから深く受けとめる糧も与えてくれる。「機は熟している」という気持ちです。

 

若林

 

大変厳しい話が多かったですね。実際、最近でも、首の骨が折れた学生が臓器移植の意思表示カードを持っていたのに、脳幹反射のテストができないから臓器提供ができなかったケースがありました。

黒川先生は大変だと思いますが、委員会では、そうした失礼ながら、次元の低いところでの論議ばかりで、本質的なお話がなされるところまで、社会が成熟していないという残念な状況があります。しかし、一方で、日本の中でも、臓器移植が行われたことを契機として、確実に臓器移植に対する理解は高まってきていると思います。

私は、去年募金をしていただいてアメリカに行ったわけです。始める前はほんとに不安で、果たしてこんなことしていいのか、だいたい集まるのだろうか。不安でした。実際始めて見ると、恐ろしいほど、自分が逆の立場だったら、他の人のために、募金をこれだけ一生懸命だろうかと思うほど協力していただきました。

トリオ・ジャパンで、実際、海外で移植を受ける方の募金に関わっていても、それは強く感じています。会場に今日集まってくださった皆様のように、あるいはここで壇上においでの先生方のように、日本の現状を変えようと努力している方がこれだけたくさんいて、手を尽くして頑張っている現状。21世紀を迎えるわけですけれども、皆さん、11人が命を見つめること。そして、医療を変えて行く。皆さんも、私も、医療に参加しているという意識を持つことによって、医療は必ず変わっていくものと思っています。

たった30年前、40年前、移植は夢物語でした。心臓や肝臓の移植ができるようになったっていうのも、1980年代ですから、わずかまだ20数年のことです。先ほど、黒川先生がおっしゃったように、50年後には、「昔は移植なんて残酷なことをしていた」という話になるかもしれません。

しかし、今できることをしなければ、亡くなっていく方がたくさんいます。それを変えて行くのは皆さんの力。1年後に法改正がある予定であり、今年度中には、子どもの脳死判定基準もまとまるということになっています。それを支えて行くのも皆さん、私たちです。こうしたことを改めて考える機会をつくってくださった4人の先生方、本日はどうもありがとうございました。

総合司会にマイクを戻します。

 

総合司会

 

皆様、本日は、長時間ご列席いただきありがとうございました。本日、ご講演くださった、黒川先生、南先生、細谷先生、野村さん、司会の若林さん、ありがとうございました。今一度暖かい拍手をお願いします。

 

最後に、トリオ・ジャパン関西支部長の磯田省三より、閉会の辞を述べさせていただきまして、本セミナーを閉会させていただきます。

 

 


閉会の辞

 

磯田 省三(トリオ・ジャパン関西支部長)

 

関西支部の磯田でございます。私も1993年にドイツで脳死肝移植を受けました。本日はたくさんお集まりいただきまして、誠にありがとうございます。長時間にわたりましたが、最後まで熱心にお聞きいただきました。また、4人の先生方から涙の出るような話もありましたし、日本の組織の現状を鋭くえぐるお話もありました。非常にディスカッションも盛り上がりまして、充実したセミナーになったと思います。

ただ、移植の方はと言いますと、ご存知のように、今の日本の悪い部分を象徴するかのような法律の下で、中途半端な歪んだ法律の下で、超スローなスタートを切ってしまいました。今年1年でも、まだ4例。とうてい10例はいかないだろうという状況であります。ただ、1例目の2月の移植のときに、いろんな問題を引きずり出しながらも、盛り上がりましたので、「移植」という言葉だけは日本で一人歩きしております。

「将来は私も移植したい」という人が必ずたくさん出てきているはずですが、このままで行きますと、宝くじを当てるような確率になってしまいます。「移植させてもらえれば、私も元気になれるのに」という無念の気持ちを残しながら、残念なことになってしまうということも、多々考えられます。これは考えようによっては、法律以前よりももっと厳しい状態と言えるかと思います。これから、3年目の見直しにあたりまして、トリオ・ジャパンとしても、移植医療が円滑に進むように働きかけねばなりません。それは、やっぱり、「数は力」と申しますので、皆さんのご支援、ご協力がぜひ必要になってまいりますので、これからもひとつ、以前にも増してご協力のほどをよろしくお願いしまして、閉会の辞といたします。どうもありがとうございました。

先生方に、もう一度盛大な拍手を送っていただきたいと思います。ありがとうございました。


第7回トリオ・ジャパンセミナーの感想から

 

(このセミナーをどこで知りましたか)

 

病院宛のFAXの掲示板で偶然知りました。

 

(あなたにとって本日のセミナーで一番心に残るものは何でしたか)

 

当院の小児科でも、年間12例の脳死患者を経験します(厚生省暫定脳死基準案でみて)。私自身も、脳死と臨床的に判断された子どもが、かなりの長期生存をすることを経験しました。脳死と臨床的に判定されたお子さんには、おかあさんおとうさんと最期の時間を、家族ルームの個室をつかって行っています(挿管している患児のすぐそばで、同じベッドでお母さんが、ときに両親が過ごします)。急性脳症で脳死状態に早期になってしまったお子さんと、突然の激烈な速度での様態の変化と転機に絶望にうちひしがれるご両親が、挿管してもなお、ともに過ごせる機会をつくる中で、他の長期入院の子どもたちの親と触れ合いながら、徐々に心を打ち解けて本人の状態を受容して行く過程は、本人とすごす時間、脳死の状態でもなおともに生活できる時間がもてるということが、両親と本人への癒しと受容の時間となっていることを強く感じます。

小児の脳死は脊髄反射がかなり残る症例が多く、脳死でもなお、かなり動きます。お風呂に入れたり、手足をさわったりすると、まるで伸びをするかのように動くのです。脳死判定で最初に見たときはかなり驚きましたが、何例か体験するうちに、それは家族への本人のささやかなプレゼントというか、ともに最後の生活を送る中で、確実に心臓の鼓動がいずれ止まるのをわかっていてもなお、両親に本人であることをアピールするかのように私には見えることがあります。

脳死は、臓器移植への一つのプロセスであるかもしれませんが、現場の医療には、特に子どもの医療ではそういう脳死もあるということ、ターミナルケアへの転換という中での、家族の受容へのプロセスの大事な出発点としての脳死があることを理解して頂きたいと願います。

今回のセミナーでは細谷先生のお話が一番心に残りました。ターミナルの中で、本人が死を受容し、そして家族が受容していく過程、本人への告知。一つ一つ、先生のご経験された症例のお話は、私も涙なしでは聞けませんでした。

脳死という死が果たして何なのか、残念ですが私もまだ数例しか経験したことがありません。人間は経験を通してしか、成長できません。脳死という死を経験されて、死してなお「生きている」愛する人を目の前にして、その死とどう立ち向かえばいいかという大きな命題に対する答えを、私たち、そして私たちの文化は、まだはっきりと経験していないように思います。

人が死に、それを受容していく過程と文化があるように、本当に臓器移植を根づかせるためには、臓器移植に行かない脳死というものをもっと大切にしていく必要があるように思います。移植のときだけ脳死、後は心臓死というのはあまりに都合よい考えだと思います。脳死は人間が、まだ本人の心臓の鼓動がある中で、家族や周りの人間がその死と立ち向かい、受容できるチャンスなのです。移植に行かない脳死、そういう脳死をもっともっと大切に考えてほしいと思います。

 

(トリオ・ジャパンにご要望がありましたらお聞かせください)

 

今回の議論の中では、残念ですがドナー側の御家族、周囲のかたがた、医療者が経験する脳死という過程について議論がありませんでした。一番痛みを伴う、本当に生命を見つめる側に立ち、痛みを伴いつつ、尊い奉仕をされた方たちの経験について、もっと勉強できれば幸いです。移植をしてほしい患者さんは沢山います。移植をしようとする医療設備も沢山あります。

存在しないのは、移植という文化(つまり臓器を提供しようという文化)と、移植の前提となっている脳死という文化です。それは経験していき、人々の心に根づかなければ育たない文化と思います。是非またそういう視点もふくめて、「いのちを見つめる」というテーマで行っていただきたいと願います。

今回の企画をされた皆さまの御尽力に心から感謝します。

 (土浦協同病院小児科 戸谷剛)

 

 

戸谷剛先生には貴重なご意見を電子メールにていただきましてありがとうございました。改めて御礼申しあげますとともに、本冊子の刊行が大幅に遅れましたことをお詫び申しあげます。

(編者)



[1] 忖度 ここでは家族が本人の気持ちを推量すること

[2] シャント 人工透析を行うためには、1分間に約200mlという大量の血液を体外に出して戻すということが必要となる。そのためには血流量の多い動脈に針を刺さなくてはならないが、動脈は皮膚から深いところにあるため、毎回の透析のために針を刺すのは困難である。そこで、手術によって動脈と静脈をつなぐ「シャント」を作成して、容易に針が刺せるようにする。

[3] EBM(エビデンス・ベースト・メディスン) 「証拠に基づく医療」科学的統計的に信頼性の裏づけがとれた医療。

[4] UNOS(United Network for Organ Sharing: 全米臓器ネットワーク) http://www.unos.org/

[5] 小さい町では「どこの誰が入院した」などということはすぐに噂になる。さらに、重い病気で遠くの病院に行ったということになれば、誰もが知っていることだろう。とすれば、本人に告知をしなければ、町の人の方が病気のことを知っているということになりかねない。これが「いろいろな話が入ると難しくなる」ということ。

[6] スーザン・バーレイ『わすれられないおくりもの』評論社

[7] ドイツのプロフェッサーは「大学教授資格」