トリオ・ジャパン・セミナー第5回(2)

患者及び家族からの発言

総合司会

 次に患者及び家族からの発言に移ります。

 最初に、瑠美子さんにお願いしております。星下さんは御主人を家族性アミロイドーシスという先天性肝疾患で亡くされました。さらにお二人のお子さんも同じ病に冒されておりましたが、幸い、御子息は19952月に、お嬢様は19962月に、それぞれオーストラリアはブリスベンのプリンセス・アレキサンドラ・ホスピタルで肝移植を受け、現在は元気に暮らされているそうです。それでは星下さんお願いいたします。

 

星下瑠美子さん

 はじめまして。私は二人の子供をブリスベンに移植に出したのですが、その時にどのように自分が死と向かい合って過ごしてきたのかというのをちょっとお話ししたいと思います。

家族3人が同じ病に

 ただいまご紹介いただきましたように、私の主人は家族性アミロイドーシスという特定疾患で、平成7年8月8日に亡くなったのですが、この病気はアミロイドという蛋白質が各臓器に沈着して、手足の麻痺と各臓器の機能障害を起こすものでして、今のところ何の治療法もない病気です。もちろん、薬もありません。

 その診断を下された時、主人と私は死の宣告を受けたのと同じでした。この診断を下された時から、私は死と生の狭間の中で生きてまいりました。「あとどれくらい主人との時間が残されているのか。その時間を精一杯大事に生きて行きたい」日々そう思って過ごしておりました。

 ところが、まさかと思ったのですが、今度は息子も主人と同じ病気に罹っていることがわかりました。先生からこの説明を受けた時、私は主人に、「お父さん、貴方の半分も生きていないこの子がどうして」と叫び、主人を叩きました。「私たちは何も悪いことをしていないのに、何故なんだろう」と、本当に目の前が真っ暗になりました。息子はもっと辛かったことでしょう。これから先、ただ死を待つだけの人生をどうやって生きてゆくのか。「この子は自殺をするのではないだろうか」という心配が私の頭の中から消えませんでした。主人にわからないように、お風呂の中で泣くばかりの毎日。そして、ようやくたどり着いたのは、「親の私が泣いてばかりいては、この子を助けることは出来ない」ということでした。

移植という希望と葛藤

 ではどうしたら、私はこの子を助けることが出来るだろうかという時に、主治医の先生と、その先生のお弟子さんの池川先生にお話を聞いたのです。「移植という方法もありますよ」と。それは生体肝移植と脳死肝移植でしたが、主人の病気もありましたし、86歳になる母親もおりますので、私が自分の身体を分けてあげるということが出来なかったものですから、とにかく脳死肝移植に賭けようと思って、先生にお願いして急いで移植に行かせるようにしました。

 「一日でも早い方がいいです。病状が進まないうちに。移植を待つ時間もかかりますし、その間に病状が進んでしまうかもしれませんから。この病気は若いと進行が早いですし」というお話でした。その時、息子は、「お父さん、お父さんが行っておいでよ」と言ったんです。でも、お父さんは「自分はいいから、お前が生きてくれ、お前が助かってくれ」と言ったのです。私は、この二人のやりとりを聞いていて、何とも言いようのない気持ちでした。また、息子は「俺、お父さんの退職金を使って行けないよ」と言いましたが、私は主人に向かって、「親だもんね、この世に送り出した以上、親としての責任だもんね」と申しました。すると、主人もうなずいておりました。

 とにかく主人と年老いた母親を置いては行けませんし、ブリスベンに出発する前日まで息子は働けるぐらいでしたものですから、「息子だけを行かせるようにする」と先生にお願いしました。ブリスベンのドクターは、「本当にもしものことがあったら、何もこちらでは出来ません」ということでしたけれど、私は「このまま日本に居てただ死を待つだけの毎日を過ごさせるよりも、移植に賭けよう。そしてこの子に精一杯親として出来ることをしてあげよう。それでもダメだったら諦めよう」と思って、一人でブリスベンに発たせました。私はいつもプラス思考で、「きっとこの子は助かる」と信じていました。

 本当に運が良かったのか、平成7年1月21日に日本を発って行ったのですが。2月9日に移植になりました。「母さん、移植だよ」と息子から日本に電話がかかって来ました。私は主人に「本当に言葉もわからない国に、私一人で行かなくちゃいけないけど、行けるかな」と言いましたが、「いやお前だったら行けるよ」と主人が言って私を送りだしてくれました。そして向こうに着いて、子供とICU(集中治療室)で面会した時に、筆談でしたが、「お父さんお母さんありがとう」って書いてくれたんです。私は涙を流していることも忘れて、私は「本当にこの子が助かった、本当に良かった」と思ってホッとしました。「この痛み、苦しみからこの子は解放される」「毎日あの子の声を聞く度に、ああ、今日は生きていたなんて、考えなくてすむ」本当に移植出来て良かったと思いました。その後息子は順調に経過しまして、主人の方の容態が悪くなっていったこともあって、少し早めに4月末に帰って来ました。主人は息子の顔を見て安心したようでした。

 主人は同じ年の8月8日に亡くなりました。それまで私も気づかなかったのですが、その頃娘もまた少し体調が悪いということでしたので、「あんたも検査したら」と言いました。検査の結果、やっぱり娘もそうでした。「どうして次から次へ、こんなに苦しく悲しいことが続くのか。神も仏もないのだ」と思いました。それでも、「神様が私ならこれを乗り切れるはずだと考えて、この苦しみを私に下さったのか」とも考えました。

 ですから、主人が亡くなって泣いている暇もなく、「今度はまた娘を助けなくちゃいけないんだ」と奔走しました。私は娘と1歳7か月の孫を連れて、ブリスベンへと発ちました。孫と娘と3人で日本に元気で帰国出来るのか不安でしたが、同時に「絶対助かる」というプラス思考を持っていました。娘も息子も、主人が自分の命と引き替えに助けてくれたんだと思っております。

 これが日本で出来たならば、こんなに沢山のお金を使わなくて良かったんじゃないかしらと、本当に思いました。同じ様な病気の方が周りにいらっしゃいますが、若い娘さんや息子さん、そしてうちの主人みたいな家族をお持ちの方が、泣くような思いで、ただ死ぬだけの病人をただ見守っているという人が本当に多いんです。そういう方のために私は絶対ここで話さなくちゃいけない。日本で早く移植が出来ればいいなと思って、これまで人前でお話ししたことがなかったんですが、人前に出て話す決心をして出てまいりました。私が話さなければならない、これは私の仕事なんだと思いまして。そして、こんなに苦しい家族を持った者が、どうやって生きてきたのかということを是非皆さんに知っていただきたい。

 国民の皆さんに善意からの臓器提供を本当にお願いしたいと思います。私の子供だけが助かればいいというような問題ではないと思っております。もっと若い人が生きなくちゃいけないのに、お金がないばっかりに外国にも行けない、日本でも出来ないという死に方をしなければならない。そういう家族がどのようにして毎日毎日を過ごし、死と見つめ合いながら生きているのかを本当に知っていただきたいと思いました。

 主人がいなくなって悲しいはずなのにどうしても涙が出ない。本当に悲しいはずなのに、本当に涙も出ませんでした。親として、この子たちを助けなくちゃいけない、

がむしゃらに、髪振り乱してこれまで頑張ってまいりました。本当に言葉のわからない国で、どういうふうに私たちが過ごして来なければならなかったのか。主人が「お前だけは助かってくれ、生きていってくれ」といった時のことが、私は今も頭の中で離れないんです。

 こういう子供を持った親御さんや家族の方は、みんなこういう思いで、本当に早く日本で移植が出来るようにと願いを込めて、今まで待っていらした方がたくさんいらっしゃるはずなんです。そういう方々のために、是非日本で移植をやっていただきたいと思います。

コーディネーターの役割

 それから、ここにはおそらくコーディネーターの方もいらっしゃると思います。これから先、日本で始まるとすると、コーディネーターの方もいろんな勉強をなさると思うんですが、少しお話しさせて下さい。

 今から思えばいけないことなんですが、二人もオーストラリアで移植を受けましたものですから、私はコーディネーターの方に「皆さんはどういうふうにお礼をなさって帰られてましたか」とお尋ねしました。すると、そのコーディネーターの方が、「シドニー行きもあるのよね」というふうなことをおっしゃったんです。だから、私の娘は「帰る時だったらいいですね」って言ったんです。その時は特にお返事はありませんでした。

 娘は平成8年2月10日、息子と娘は1年違いで移植が出来たわけなんですが、その後、そのコーディネーターの方が3月末のシドニー行きを持ち出されたので、娘は診察の時に先生にお伺いしました。「先生、シドニーに行っても構いませんか」と。すると、「チューブがついているから絶対ダメだよ」って言われたんです。それでコーディネーターの方に、先生にダメだと言われたことを伝えたら、「そんなの関係ない」ってコーディネーターの方に言われたんです。

 それで、その頃から娘はそのコーディネーターの方に不信感を持ちました。娘は今保健婦をやっておりますが、精神的な支えは先生じゃなくてコーディネーターがするべきじゃないかというふうに思っていたものですから、びっくりしました。コーディネーターがこういうことを言ったのも、私たちがお礼のことを言いだしたからいけなかったのだと後悔しておりますが、精神的な支えをするのもコーディネーターのお仕事じゃないかと思うのです。それなのに、このようなことを持ち出される。さらに、まだチューブが付いていて、薬の副作用でご飯も食べられない状態の娘を「今から食事に行くから、タクシーで街にお出でよ」と引っ張り出す。娘は呼び出されて出ていく。すると食事代はこちら持ち。帰ってきてから、本当にこんなひどいコーディネーターがいるかしらと思いました。滞在中は、この方にお世話になるんだし、言葉がわからないから、言い出せずに、我慢しよう我慢しようと思って戻ってまいりました。帰ってきて、日本のドクターにも相談しましたが、それはいろんな問題を抱えているから言わないでくれというようなことを言われました。これから行く患者さんや、今オーストラリアにいる患者さんのためには絶対良くないことだということを私たちは申し上げたんですが、それを公にして欲しくないということでした。

 でも、オーストラリアに行く患者がどのようにしてお金を作って行かなくちゃいけなかったか。私は主人が公務員として働いた退職金で、娘と息子を助けましたが、家を売ってきた人、土地を売ってきた人、いろんな人がいるわけなんです。その方々の本当に大切なお金をこんなことで使ってはいけないと思ったから、私はこの場で公にしたいと思いました。最初は娘がここに立ってお話しして欲しいということでしたけども、娘が「うちはお母さんが二人もやっているんだから、お母さんが絶対話すべきだ。私は仕事があるから行けないから、お母さんが行って。でもこのことだけは言って来て欲しい」と。治療としては順調に行っております。でも、精神的な面では本当に体に良くありませんでした。精神的な面が本当に検査データにも出てきます。だからこそ、コーデイネーターの方が、日本で勉強されるコーディネーターの方は、そのような患者の精神的な支えになって欲しいと思います。ありがとうございました。

 

総合司会

 星下さん、どうもありがとうございました。コーディネーターといいますと、今まではとかくドナーコーディネーターの方ばかり注目されておりますが、これから日本で移植医療を定着させていく上では、レシピエントサイドに立つコーディネーターが術前術後の患者の精神的な面も含めたケアを行い、お医者さんとの間の橋渡しをする。このような医療システムが必要になってくると思います。

 次に物部多恵子さんにお願いしております。物部さんは皆様もテレビ、新聞等の報道を通じて御存知かと思いますが、お嬢様の美佑紀ちゃんが先天性複合心疾患のために重篤な状態になりまして、アメリカのUCLAに渡りましたが、大変残念なことに心臓移植の待機中の4月15日に、ドナーが現れる前に天国に召されてしまいました。大変残念な結果となってしまいましたが、物部さん御夫妻はアメリカで美佑紀ちゃんの角膜を提供されました。美佑紀ちゃんはアメリカの光を失った少年か少女に光を与えたのです。今回の悲しい出来事の中で、これが唯一の救いであったと感じたのは私だけでしょうか。それでは物部さんお願い致します。

 

物部多恵子さん

 私は、心臓移植のために渡米しましたが間に合わず、4月15日、アメリカはロサンゼルスの地で、8歳という短い生涯を閉じました物部美佑紀の母でございます。こうして皆さんの目の前で話すことについては、本当に自分の中でもいろんな葛藤がありまして、一度はやめようかとも思いましたが、この機会をお借りして、今までの経過、そして家族がどんな思いでこの日を待っていたかということにテーマを絞って、皆様にお話ししたいと思います。よろしくお願いします。

 今日、こうしてセミナーが行われる目的の一つは、移植医、移植外科チームの先生だけでは成功しない、いろんな関係者の協力なしでは絶対にうまく行かない、いいチームワークを作るための会議だと聞いておりました。私どもは経験の中からそのことを実感しております。今回は特に内科の先生の重要性を指摘したいと思います。移植とは、内科の先生の診断と移植を勧めるタイミング、患者の家族に症状を説明し、移植を勧めて同意を得るまでのことだと思って参りました。

移植を待ちながら

 美佑紀が亡くなりましたのは、今年2月10日に移植を受ける決意をしてから63日目、3月29日に渡米し、UCLAメディカルセンターでドナーが現れるのを待ち始めてからわずか18日目のことでした。あまりにも急なことで、私たちはその後御近所の方々に「そんなに悪くなるまで親は気づかなかったの」とか、「お医者様には何と言われたの」とか、毎日のように言われ続けてきました。UCLAメディカルセンターでも、「こんなに悪くなるまでどうして日本で待っていたのか」と言われました。手遅れになるほどまでに美佑紀の心臓は悪くなっていたからです。

 私ども家族でさえ、内科の先生はどうして今まで黙っていたのか、美佑紀の心臓はほとんど回復の見込みがないことを、悪くなって動かなくなることを、どうして黙っていたのかとずっと思っていました。どうして教えてくれなかったか。この疑問は今日この日も続いています。

 皆さんも不思議に思われるでしょうが、美佑紀の心臓の回復の見込みがないことは、私たちは全く知らされていなかったのです。内科の先生からは、今まで、移植の移の字さえも聞いていませんでした。もし美佑紀の本当の容態を教えてくれていたら、移植を勧めてくれていたら、美佑紀はもしかしたら間にあったのではないか、助かったのではないかと思うと無念でなりません。私たちはこういう思いの中で今日まで過ごしてまいりました。その経過を少しお話しさせていただきます。

物部美佑紀さんの経過

 美佑紀は先天性の心臓疾患があり、生後間もなく行われたカテーテル検査で、大動脈の狭窄がかなり強く、心臓にも5mmから7mmという、子供としてはかなり大きな穴が空いていることがわかりました。そのため、世田谷にある国立小児病院で、生後9日目に大動脈の縮窄複合に対処するために肺動脈のバンディング banding(縛って血流を減らす)を行い、さらに体重の増加を待って心臓の穴を塞ぎました。4歳の時には、大動脈弁下狭窄が発症し、再び国立小児病院で手術を受けました。さらに7歳の時、再び大動脈に狭窄が起こり、今度は国立小児病院から東京女子医科大学の今井小児外科教授を紹介されまして、昨年6月に大動脈弁置換術及び左心室流出路拡大術を受けました。

 ところが退院した後、今度は吐き気が出てきたんです。それからは入退院を繰り返すばかりとなりました。東京女子医大の門間先生の外来をずっと受けておりましたので、私は何度か理由を尋ねましたが、「術後の回復に時間がかかりそうだ」と言われるだけでした。不思議なこともありました。昨年の11月には核医学検査を受けたのですが、1ヶ月が経過しても、「何故かカルテが来ていないので結果がわかりません」と教えて下さらないのです。治療も、入院の度にソリター1本点滴するだけです。その間、私は美佑紀の心臓の大きさが次第に大きくなっていくのが気がかりでした。術後7月には62〜65%であったのが、秋から冬にかけて68〜69%まで肥大していたからです。しかし、これについても門間先生は「回復が余り良くない」と言われるだけで、はっきり申し上げますと、不安感が募るばかりでした。

 ある日、主人から「病院をかえてみたらどうだ」という案が出ました。実際、門間先生に相談しまして、地元の昭和大学病院も紹介してもらい、昨年11月から1月頃までは入院しておりました。しかし、昭和大学病院でも、「東京女子医大の門間先生には何と言われているんですか」と、逆に質問されるだけでした。最後には、「また東京女子医大の診察を受けられた方がいいですよ」と強く勧められました。

 こうして年が変わった今年の1月16日、再び東京女子医大を訪れて、初めて小児外科の今井先生の外来を受けました。すると、すぐに席を立たれ、入院手続きの書類を渡されました。「先生、どうして入院しなくてはならないのでしょうか」と質問すると、今井先生は「少し病院で様子を見てみましょう」と言われました。2週間の入院生活では、新しいお薬アカルディを取り入れて治療をやってみましたが、全く回復しているような気配がありませんでした。そして1月28日に退院する際、内科の門間先生は、「生活は普通にしてもいいでしょう。ただ学校は暖かくなる4月にしてはどうですか。回復には3年から5年はかかるでしょう」と、ただそれだけを言われて、緊迫感は全く感じられませんでした。

 ところが退院から2週間も経たない2月10日、美佑紀は朝から吐き気を訴えました。私は国立小児病院の方に連絡を取りました。一つは金銭的な理由から、もう一つは、入退院を繰り返しているのに楽観的な診断をしている東京女子医大の内科の先生に対する不信感からです。こうして国立小児病院で検査を受けることになって、この時初めて循環器内科の  先生にお会いしました。そして2日後の2月12日に、百々先生から「美佑紀ちゃんの心臓は心筋がやられて拡張型心筋症になっています。もはや移植しか方法がないと思います。私の見解では余命1年でしょう」と言われました。その後のカテーテル検査でさらに緊迫した状況が判明し、余命2〜3ヶ月という診断が下されました。

 東京女子医大と180度違う見解に、「何を言っているんだろう百々先生は…」と全く信じたくありませんでした。しかし、まさに百々先生がおっしゃった余命2〜3ヶ月という告知通り、4月15日に美佑紀は亡くなりました。もし、門間先生がちゃんと美佑紀の病状を告げてくれてさえいれば。そういう思いの中で、アメリカでエクモを外す時、「絶対先生を許したくない。美佑紀を帰して。門間先生を殺してやりたい」とずっと思っていました。

 門間先生はこう言っていました。「東京女子医大は患者さんから移植の相談を受けて初めて相談に乗る。こちらからは全く移植を勧めたことがない」と。さらに、「移植は決してバラ色ではない。感染症や合併症との戦いがある。金銭的に負担もかなりかかる。そのバランスの問題である」というふうに聞いていました。

 皆様はどう思われますか。情報が与えられなくて、どうして治療方法の選択が出来るのでしょうか。移植を選ぶとかという以前に、家族が真相を伝えてもらえないという現状をどうお考えになりますか。金銭的な問題は、お医者さんが判断するようなことではないと思います。確かに私たちにはそういうお金は全くありませんでした。娘を助けたいと願う強い意志だけでした。しかし、全国には見ず知らずの他人の子供を助けてあげたいという善意の持ち主の方々が大勢いらっしゃいました。たった2週間の募金活動で、私たちのように1億5千万円も集まったというのは本当に異例だったと思っております。

 門間先生は東京女子医大の心臓移植適応検討委員会の一員でもあるともお聞きしました。私たちの娘が本当に移植に適応しなかったのか、相当の不満が今でも残っております。先生の善意で真相を伝えなかったのであれば、、先生のおっしゃるフィロソフィー(哲学)がずっとこのまま続くのであれば、小さな子供たちは長く生きることが出来るのでしょうか。

 東京女子医大は移植の指定病院ですが、内科と外科との協力がない限り、この移植は絶対に成功しないと思っております。10月より実施されるであろう移植が成功するためには、皆さんの協力がないと絶対に成功しないと思っています。私はこの言葉だけは言うのを止めようと思ったのですが、この場を借りて言います。女子医大で4回目の手術を受けた時に、門間先生が「この子の心臓、もう駄目だもんな」って言ったということを、後になって家族が知った辛さを、皆さんお分かりになりますでしょうか。どうかこのことを皆さんで検討して下さい。よろしくお願いします。少し取り乱してしまって、すみませんでした。ありがとうございました。

総合司会

 辛い経験をされてから、まだ月日が経ってない中で、このような場でお話し下さいまして、ありがとうございました。今のお話にありましたように、移植医だけでは移植医療は出来ない。従いまして、内科医のご理解、あるいは強力な連携、それをシステムとして作っていくということが、これから大切なことではないでしょうか。

 次に、大変照れくさいんですが、私の家内、渡辺を紹介させていただきます。冒頭でも申し上げました通り、私の家内は1995年8月、C型肝炎による肝硬変のため、ドイツの現在のフンボルト大学、私の家内が移植を受けた95年の4月までは、ベルリン自由大学と呼ばれておりましたが、そちらで肝移植を受けました。一時は肝癌が出来て危篤状態になったわけですけど、今ご覧のように大変元気に復活致しました。

 大した話も出来ないとは思いますが、とにかく元気な姿を見ていただきたいということで、今日この場に立たせていただきました。それではよろしくお願いします。

 

渡辺環さん

 渡辺環と申します。ご覧のように、今ではご来場の皆様と同じように、すっかり元気になりまして、どこから見ても2年前にドイツで肝臓移植を受けて来たとは思えないだろうと思うんですが、お陰様で本当に健康体になっております。今日も病院の方に行きまして、診察を受けて来ましたが、GOTやGPT等、肝機能の検査結果もとても良いということで、先生に誉めていただきました。3年前肝臓癌が出来て、肝性脳症まで起きた時のことを思うと、まるで夢のような生活を送っております。週に5日、月曜から金曜まで、10時から15時のパートにも出ています。ついこの間は結婚25周年の旅行で九州にも行くなど、第二の人生を楽しんでおります。

ドイツでの肝移植

 今から2年前の1995年8月16日、奇しくもこの日は私の誕生日だったんですが、ドイツのドナーの方から肝臓をいただくことが出来ました。私にとって言葉で言い表せないくらい嬉しいお誕生日プレゼントでした。移植を受けて一番感動したのは、それまで真っ黄色だった私の爪の色が、本当に見る見るうちにピンク色に変わっていったことです。あれ程だるくて、毎日ごろごろしていた身体が、傷の痛みはあるものの、起き上がってもだるくなくなったのです。その時から私とドナーの方の肝臓は同化し、一体となって私の身体の中で生きはじめました。臓器移植はまさしく大切な命の贈り物だと思います。いただいた肝臓は私の中で、私が死ぬまで一緒に生きていくのです。元気に暮らしていくことが私に肝臓を下さったドナーの方へのお礼だと思っています。

 ドイツでは寛大にも外国人である私に臓器を提供して下さいました。その上、とても親切にして下さいました。肝臓移植病棟の最高責任者で、私の手術を執刀して下さったピーター・ノイハウス先生は、待機リストに登録された日に、私に安心感を与える素晴らしい笑顔で「すぐに手術をやることになるでしょう」と言って下さいました。ベテランの看護婦さんは、「ドイツは日本と食事が違うから大変でしょ」と気を使って下さいました。看護士さんは、私が日本語を教える代わりにドイツ語を教えてくれました。ある看護婦さんは私が彼女の担当でない日も、朝必ず顔を見せて励ましてくれました。

 また、14歳の女の子が誤って毒茸を食べ、緊急入院して来ました。すぐに臓器が手配され、肝移植が行われました。幸いにも女の子は一命を取り留め、私が退院する時は元気になっていました。この時、ドイツでは移植医療がごく当たり前の医療となっていることを実感しました。ある時、同室のドイツ人の患者さんに、「日本は高い医療技術を持っているのに、何で移植をやらないのか」と聞かれましたが、答えることが出来ませんでした。移植という究極の愛の医療が今すぐ日本でも出来るように、そして定着するように心から願っております。

 

総合司会

 次にプログラムにはありませんが、先程安田さんの開会の辞の中に出てまいりました、安田さんのご友人をご紹介したいと思います。

 安田さんのご友人は石井さん、桜井千恵子さんと申しまして、石井さんの奥様で、桜井さんのお嬢様、この方「石井 」さんという方ですが、アメリカのUCLAで心臓移植を受けるために5月の下旬に渡航されました。しかし、大変残念なことにドナーが現れる前にお亡くなりになったそうです。アメリカに行かれる際に、いろいろとお世話になったということで、この席を借りて一言御礼を申し上げたいというお話を石井さん、桜井さんから承っておりますので、よろしくお願いします。それでは、石井さん、桜井さんお願いします。

石井さん

 今回は私の妻芳の移植につきましては、諸先生方、トリオ・ジャパンをはじめ、関係者の皆様方の励ましのお言葉、ご助言、本当にありがとうございました。

 私と芳の結婚後約4ヶ月で、芳は発病してしまいました。それから約1年8ヶ月に及んだ闘病生活では、入退院の繰り返しでした。渡米後は比較的元気で、UCLAの看護婦さんたちと一緒に写真を撮ったりして過ごしておりましたが、突然の心停止から脳死状態に陥り、残念な結果となってしまいました。応援下さった皆様方のご期待に応えられず、芳もさぞかし無念だったことでしょう。

 芳が移植して元気になったら、今まで出来なかったことがしたい。友人を招いてバーベキュー、デパートへの買い物、大好きだった北海道への旅行、そして何年後かには赤ちゃんを産んで親子3人の平凡な家庭を持ちたい。ごく普通の夢、夢ではなく、すぐそこまで来ていることだと思っていただけに残念でなりません。何も欲張ったわけではないのですが、誰もが味わっている幸せを、それさえも叶えられなかったことが残念でなりません。

 でも、最後まで希望を持ち続けて生活出来たことは幸せだったと思っております。希望の中で芳は逝きました。

 告別式に大勢の方々からの御懐抱をいただきました。、皆様からいただいた御香典の中から、ごく一部ではありますが、これからの移植推進運動に使っていただけたら、芳もさぞかし喜んでくれることだろうと思い、ここにトリオ・ジャパンの方に寄付をさせていただきます。

 本当にありがとうございました。

 

安田義守副会長

 青木会長、御答礼をお願い致します。

 

青木慎治会長

 石井さん、桜井さん、本当にありがとうごさいます。これからの移植医療啓発活動のために、大切に使わせていただきます。


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