第3回トリオ・ジャパン・セミナー 1994年9月3日開催


トリオ・ジャパン・セミナーのページに戻る


今日の命を救うために

場所:キャピトル東急ホテル「竹の間」

司会(横田和彦氏)  ただいまより第3回トリオ・ジャパンセミナーを開会いたします。
 本日はお忙しい中たくさんの方にお集まりいただきありがとうございました。
 私横田と申しまして、移植外科医として仕事をしております。青木会長の主治医としまして、トリオのお手伝いをさせていただいております。本日お招きしましたスターズル先生にはデンバー、ピッツバーグと移植の手術を教えていただきました、スターズル先生の弟子の一人でもあります。
 本日のテーマは「今日の命を救うために」となっておりますけど、移植医療がなかなか進まない現状の中で、明日ではなく今日の命という切実な問題として今回このテーマを取り上げました。これにつきましては後ほど、青木会長からお話があると思います。
 本日はご来賓として、トーマス・スターズル先生、スターズル先生から移植手術を受けられましたデビット・ヨントーブさん、九州大学から矢永勝彦先生をお招きしております。海外の移植を受けられた方々もいらしていますので後ほどお話いただけると思います。
 さらに後半では「この命を救うために何ができるか」をテーマにシンポジュウムを予定しております、最後までいろいろご討論いただきたいと思います。 終了後にはレセプションもございますのでご懇談もお願いいたします。
 では初めに開会の辞を石井直志副会長にお願いいたします。
 石井さんはフランスで肝臓移植を受けられて、現在早稲田大学でフランス文学の教授をされています。石井さんお願いいたします。

石井直志副会長
 ご紹介にあずかりました石井直志と申します。本日は第三回トリオ・ジャパンセミナーにご出席いただき大変ありがとうございます。
 昨日まで京都で開催されていました国際移植学会が終了いたしました。
 脳死移植が実施されていない日本でこのような大会が開催されたことが一種の皮肉でありますが、トリオでは現在移植治療を望みながら、死んで行くことを運命づけられた、日本の数多くの患者たちの声をどのような形にせよ、聞き届けられるようして行くことを重要な仕事と考えています。
 今日は「今日の命を救うために」と題して、現在の日本で移植を必要とし、移植することによって回復することが可能な患者の方々、私も数年前は同じ立場にいたわけですが、患者の方々をお招きして、患者の命を救うためになにがなされなければならないのか、なにが障害となっているのか、諸外国、特に欧米諸国では十分な医療を施され、社会復帰されている同じ病に日本人はなぜ苦しみ、死んでいかなければならないのか。
 私たちなりに考えてみたいと思います。
 皆様がたの積極的なご発言を期待し開会の辞といたします。
 ありがとうございました。

司会
 ありがとうございました。
 続きまして、トリオ・ジャパン会長青木慎治さんより御挨拶いただきます。青木さんもアメリカ、サンフランシスコで肝臓移植を受けられた方でございます。
 お願いいたします。

青木慎治会長
 皆さんこんにちわ。
 今日はお忙しい中こんなにたくさんお集まりいただきましてありがとうございます。
 今日はたくさんの方をお招きしております。
 先ほどお話がありました、トーマス・スターズル博士、博士より執刀を受けましたデビット・ヨントーブさん、彼は13年前、スターズル先生から肝臓移植を受けて、こんなに元気になって、新婚旅行をかねて日本に来てくださいました。
 おめでとう、デビット。
 それから矢永先生もありがとうございます。
 なお、今日は久米若奈ちゃんと今九州大学で移植を待っていらっしゃる古川さん親子、特に患者であるお嬢ちゃんまできていただいて、なぜお母さんが生体肝移植ができないかというと、6人のお子さんをお持ちなので少しのリスクもおかせない、そうするとどうしても脳死からの肝移植が必要なんです。
 ところが悲しいかな、今、日本ではできない。だから海外に行かなくてはならない、非常に悲しい状態です。
 それから先ほど申しました若奈ちゃんの場合もずうっと待ち続けました。
 そこにいらっしゃる矢永先生もなんどもやろうとなさいました。
 でも、悲しいかな、日本ではドナーの出現もないし、この前の矢永先生が執刀されたNさんという方の場合も、結局いろいろなプレッシャーがかかって本当の意味での脳死からの移植ができない。そうゆう状況のために久米さんのお嬢さんの若奈ちゃんもこの7日にオーストラリアにいって手術を受けざるをえない。
 その忙しい最中わざわざ久米さんも、古川さんもここに来て、何のためにここに来たかマスコミの方もどうぞご理解いただきたいのです。
 子供さんを救うために親がどんなに辛い思いをしているか、それも日本ではかたづけられないという悲しい状況にあります。
 まぁそういう悲しいことだけでもあれですが、海外のトリオの方々も多数ご出席いただきました。この会を経済的にも支えてくださいました藤沢薬品と味の素さん、そのほかご寄付をいただきました方々にお礼を申し上げたいと思います。
 このセミナーを、国際移植学会をやりながらこの日を迎えてくださった関係各位の皆さんに心から感謝申し上げたいと思います。
 悲しいニュースばかりではありません、とっても楽しいニュースと言いますか、今日通訳をしてくださいます、やはりトリオのメンバーであります野村祐之さんご夫婦に子供さんが生まれました。
 彼の場合はダラスで肝臓移植を受けたのですが、本来私も彼もおるはずの無い、あのとき手術を受けられなければとっくに存在しないわけで、存在しなければ子供さんがいないわけですから、それが彼に恵まれた。まぁ天の配剤と言いましょうか、奇跡と言いましょうか、おめでたいトピックスとして、野村さん、おめでとう。
 それから、なぜ矢永先生をお招きしたかと言いますと、確かにNさんの場合74日、見た目には74日しか延命できなかった。しかし、レシピエントから見れば、この74日がたいへん貴重な74日だと思うのです。
 というのは、ひよっとしたら何かチャンスに恵まれる74日であったかも知れない、矢永先生にはいろんなプレッシャーもあったと思います。
 また手術後でも結果的にNさんが亡くなってしまったためにいろんなご苦労があったと思います。私は、九州大学第二外科の杉町教授や矢永先生をたたえたいと思います。
 こうゆう勇気を持って、どうぞ日本の医師たちも矢永先生に続いてやっていただきたいと私は思っております。
 どうも長々喋りましたが、第三回トリオ・ジャパンセミナーに良くおいでくださいました、ありがとうございました。

司会
 ありがとうございました。
 続きまして、スターズル先生からお話をいただきますが、タイトルのところが、「一人の命‥‥」となっていますが、「今日の命‥‥」ということで進めさせていただきます。
 スターズル先生は昨年のこのトリオの会にも来てくださいまして、その時の記録が黄色い表紙の冊子になったものが皆さまの手元にもいっていると思いますが、このときも大変勇気づけられるお言葉をいただいて、一年経ったのですが日本の現状はなかなか進歩が得られない中、今日のシンポジュウムを迎えたわけです。
 スターズル先生につきましては改めてご紹介する必要がないほど有名な方でいらっしゃいますが、簡単にご紹介させたいただきます。
 30年前に世界で初めて肝臓移植を成功させて、大変なご苦労な中で、今日の欧米の臓器移植の分野で常に先頭に立って来られた方でございます。そのご苦労のようすはスターズル先生の自叙伝「The Puzzled People」 日本語訳「ゼロからの出発」に詳しく書かれております。
 ピッツバーグでの移植患者さんの会[トリオ]の生みの親でありまして、医学的な移植の世界だけではなく、移植医療推進のために社会的な活動にも活躍されております。
 本日はトリオ・ジャパンのために、昨日まで京都で開催されました「第15回国際移植学会」に出席され、大変お忙しくお疲れの中を、わざわざこの会のためにおいでくださいました。
 欧米では移植医療が日常の医療になっている中で、臨床面では特にドナーの不足が大きな問題となっています。
 解決の次のステップとしては異種移植、動物からの移植というようなことが大きなテーマとなっています。
 スターズル先生はヒヒから人への肝臓移植を昨年行なったり、この分野でもパイオニアとして第一線で活躍されております。
 ではスターズル先生からご挨拶をいただきます。通訳はいまご紹介がありました野村祐之さんにしていただきます。


スターズル先生
 ただ今はご親切なご紹介ありがとうございます。
 日本で脳死移植が行なわれていないのに「世界移植会議」が行なわれたのは一種の皮肉ととる向きもあるかも知れませんが、現実に日本の医師たちが、科学者たちが世界の移植のために行なってきた功績には多大なものがありまして、たとえばこの移植医の世界会議にしましても、アメリカについで会員数の多いのは日本であります。
 今1900名程の会員のうち約 600名が日本人でありまして、数だけみても大変な貢献をしています。ここ20年間の日本の医師たちの貢献には素晴らしいものがあります。
 ただ脳死が日本の社会で認められていないということで、脳死からの移植ということでは世界から遅れをとっているかも知れませんが、他の方面の移植では大変進んでいる、特に腎臓ですとか、あるいは肝臓移植に関しましても、部分生体肝移植という分野を世界の最先端で切り開いているのは日本の医師たちであります。
 「脳死移植法」ということが問題となっておりますので、脳死移植法について申しますと『アメリカでは法律は現実の後追いをする』、現実にいろいろなことが起きて、それを社会としてどう受け入れていくかということで法律ができていく訳で私もそう理解しておりましたが、伺うところによりますと、日本の社会ではどうも違う方法で、むしろ小数のエキスパートの専門家たちが先ず法律を作って、法律のレールができると、レールに従って人々が動き出すという、アメリカとは逆の形をとっているような気がいたします。
 これは社会の違いですのでどちらが良い、悪いの問題ではありません。
 今私がいったことが本当だとすれば、いったん「脳死移植法」が日本で確立されれば、一夜にして体制が整い、医師の質も数も高いのですから、瞬くうちに移植医療が一般の医療として受け入れられていくのではないかと思います。
 日本の社会は大変安全で、市民を保護することに関心が高く、整合性があり秩序を正しく保つのが上手な社会でありますから、「脳死移植法」によって青信号が点ずれば、秩序正しく行なわれ、先ほど青木さんのお話にあったようなことはなくなっていくと思います。
 今も申しましたが、日本が移植医療に注いでいるエネルギーは長年に渡って大変なものがあります。
 残念なことに日本国内では本当に花開いていない、実を結ぶところまでいっていない、ところがこの「脳死移植法」が通り、実りの秋がこの国に来れば、いわゆる頭脳流失という問題は止まると思います。
 過去20年間、男性、女性の研究者たちが海外に出ていって、戻ろうとしても実際に戻る場所がないために海外に留まるという大変残念な、この国にとって残念な頭脳流失が起こっているわけです。アメリカにおいても、移植の最先端にいる医師たちというのは、何十人ではきかない、もしかすると何百人という日本人医師が担っているかも知れません。
 世界的にも移植医の数、質的にも日本人が占めているにも係わらず、日本の社会では行なわれていない。このことは札幌医大時代の和田教授のときから癒えていないのかも知れません。
 昨日まで京都で世界会議がありました。そこでは最新の移植についていろいろ討論されたわけですが、大きくいって三つのポイントについてご紹介したいと思います。
 第一番目には新しい薬についてです、次々に新しい薬が開発され、研究されるプロセスにあるわけですが、特にアメリカ、カナダ、日本、その他の政府が公式に使用を認めたプログラフという商品名で呼ばれていますが、例のFK-506があります。
 ヨーロッパの各研究所での使用結果などを持ち寄って、いろんな建設的な議論がなされました。これから数年間は、新薬、この薬を巡って、どういう効果があるのか議論される時代に入ったと思います。
 私が知っている範囲で、他の免疫抑制剤で、拒絶反応を起こした患者さんのうち、FK-506に変えることにより75%ぐらいが救われています。これは肝臓だけでなく、腎臓、心臓など他の移植にも著効をみせている。これからは大変期待が持てると思います。 今までだったら諦めざるをえなかった人達が救われることになり、生存権に直に係わっている素晴らしい薬ですが、生きる死ぬまで行かなくても、クォリティ・オブ・ライフ、生活の質という面でも大変インパクトを与えております。
 特にお子さんや女性に関してですが、FK-506を使用することでステロイド、プレドニゾロン、を服用しなくて済む、従ってステロイドによる副作用を心配しなくて済む、お子さんの成長、あるいは女性なら美容上の問題という副作用で苦しまなくて済みます。このことが生活の質を高める一面があるかと思います。
 先ほども言いましたが、このFK-506という薬は日本の科学者が発見した薬で、東京から60Km位の筑波山の麓の土の中から発見されました。新薬、特にFK-506をめぐるトピックスがありました。
 二番目のトピックスにあげあられるのは、移植された臓器又は移植片がレシピエントの中でどうように受入れられていくかとういう問題です。
 これは2年半前に行なわれた「世界会議」のときには全然知られていなかったことです。
 今日わかってきていることは、移植されたものとレシピエントのからだの間で別々に存在するのではなく、特に白血球がお互いに入り混じって、例えば、ドナーの白血球がレシピエントのからだの中をめぐり歩いて、レシピエントのからだの一部になっていくということであります。
 隣にいる野村さんが肝臓移植をして以来、ドナーの名前も、年齢性別もわからないかも知れませんが、ドナーの白血球も生きて、彼のあっちこっちの細胞の中に存在をしているのです。
 もし、女性が移植を受け、化粧をするとき口紅をつけるとすると、自分の唇に触っているようですが、象徴的な意味でドナーとキスをしているのかも知れないのです。
 このことは科学的な事実ではありますが、学問ということを超えて精神的なこと、心にまでインパクトを与える一面があるとおもいます。
 このように、移植片とレシピエントの関係がうまくいくようであれば、将来、免疫抑制剤を使用しなくても、移植ができるようになるかもしれません。
 移植後5年、10年と経つうちに上手に免役抑制剤を外していくことができるかも知れないことを示唆するものです。
 三番目には、異種間の移植ということです。
 異種ということは人間どうしではなく、他の動物、例えば豚の臓器を人間に移植するということです。
 このことは、研究をしてはいますが、私の印象としましては、実用とするまでにはかなり長い時間が必要だと思います。ですから、異種移植が可能だから、もうドナーや臓器提供を募集する必要がなくなるということは全くありません。むしろ今以上に臓器提供のお願いをしていくことが重要です。
 異種移植は近い将来に於て可能でしょうが、近未来の話なのです。
 この三点が今回の「世界会議」で受けた移植に関するトピックスあります。 最後に、トリオというこの集まり、移植をした患者さんの集まりは私にとって特別のものであります。
 肝臓移植だけでなく、あらゆるタイプの移植を含む、数的には腎臓移植が一番多くなると思いますが、この方々は単に移植手術を受けただけでなく、元気にしているだけでなく、大変勇気のある方々たちであるということです。
 これは移植に限りませんが、大きな病気をする、命懸けのような大病をする、そのようなときは気弱になって諦めてしまう、という気持ちになりがちなものです。
 そこで勇気を奮い起こして、病気と積極的に闘っていくということに非常に感銘を受けるものです。病気と闘い、克服し、社会に戻っていく。病気との闘いに勝ったという経験の持ち主の方々の集まりですから、普通の方々の集まり以上に素晴らしい集まりであるということは、むしろ当然のことです。
 私もこのようなトリオの集まりにまたこうして出席し、お話できることを大変嬉しく思っています。
 どうもありがとうございました。


司会
 どうもありがとうございました。
 非常に、印象深いお話をいただきました。
 日本の脳死に関する、「脳死移植法」が早く成立することを望むわけです。
 「脳死移植法」が成立することで青信号だとおっしゃっていただきました。この青信号を早く渡りたい、「赤信号皆で渡れば恐くない」と言いますが、まだ誰も渡らなかったわけです。
 この赤信号が赤から黄色に変わりつつあるというのが現状でしょうか。
 日本の移植が進んでいく上で、スターズル先生には、非常に示唆に富む、勇気づけられるお言葉をいただいたと思います。
 スターズル先生は非常にお忙しくて、この後のシンポジュウム途中でお帰りなることになっております。
 特にスターズル先生にご質問、ぜひこのことをお聞きしたいという方がいらっしゃいましたらお受けしたいと思いますがいかがでしょうか。非常に勇気づけられる先生のお言葉で皆さん納得されたのかとは思いますが…。
 ございませんようなので、スターズル先生ありがとうございました。
 続きまして、スターズル先生から肝臓移植を受けられました、患者さんで、デビット・ヨントーブさんをご紹介いたします。
 ヨントーブさんに関しましては、受付に本がおいてありましたが「The Gift of Life」、「贈られたいのち」と翻訳されておりますが、今日お配りいたしましたパンフレットの中に、「贈られたいのち」の冒頭にスターズル先生から、やはり非常に勇気づけられる紹介の言葉が掲載されております。この本では、移植に成功し、社会復帰されたところまで書かれておりますが、それから13年が経っております。
 今回、結婚され、新婚旅行を兼ねて日本にこられました。ではヨントーブさんにお話をうかがいたいと思います。
 初めにビデオテープをご覧にただいてから、ヨントーブさんのお話をお聞きします。
  また、入り口の横にパネルが展示してあります。先ほどの本にも紹介されてありますが、彼の子供の頃からの記録です、お帰りがけにご覧いただけたらと思います。
 ではビデオをお願いします。
 音声がありませんので、ご説明をお願いできますか。


デビット・ヨントーブ氏
 これは私が移植手術を受けました、2か月後と6か月後に撮影したものです、どのような経過だったかご覧いただけるかと思います。
  ………………
 (あなたのご兄弟のようですが。)
 (私ですよ。)
 これは2か月後です。
  ………………
 6か月が経ちました。
  ………………
 これで終わりです。


司会
 このビデオはちょうど13年前、肝臓移植を受けられた後、リハビリを真剣にやられて社会復帰していく途中だと思います。
 本の中にもリハビリの苦労が書かれております。その中で奇跡の生還と言いますか、復活と言いますか、社会復帰をされ、大学を卒業され、社会人となり、結婚もされたわけです。
 ではヨントーブさんにお話をしていただきましょう。


デビット・ヨントーブ氏
 今ご覧いただきましたビデオは、今から13年前、肝臓移植を受けた直後のものです。
 1981年の春のことに話を戻したいと思います。私はクラスの級長の選挙に立候補しておりまして、選出されるばかりになっていました。
 また新聞配達の仕事もしていました。サッカー、バスケットボール、フットボール、水泳など色々なスポーツもしていました。
 私は3月23日にバー・ミツバー、ユダヤ人の成人式のための準備もすすめていました。12歳になったらユダヤ人なら誰でも望むことですし、見事にこなしたいと思っていました。
 ところが私はとんでもないショックを受けました、未来の生活の仕方、生き方、自分自身が突然崩れてしまうような経験をしました。
 3月になってどうも体の調子が悪いことに気がつきました。
 学校から帰って母にちょっと体のぐあいが悪いことを言いました。
 「お母さん、鏡を見るとちょっと目が黄色いんだけれど。」
 母はかかりつけのお医者さんに診察の予約をとってくれました。
 お医者さんの待合室で待っている間に母に、「お母さん、お医者さんが、人が病気になっても、死ななくてすむような薬を見つけてくれるといいね。」
 母は冗談まじりに、「永遠に生きるなんて、誰がしたいかしら。」「僕だったら永遠に生きたいよ。」
 でもその時にはあと6ケ月で命をとられてしまうかも知れないなんて思いもしませんでした。
 お医者さんはその時は肝炎であるといい、1ケ月ぐらい静養すれば回復するだろうと診断しました。
 2週間もすると、静養にあきてしまい、早く元のような生活に戻りたいと落ち着きをなくしました。
 母が、担当医にそのことを話すと、だんだんと普通の生活に戻していいだろうと言いました。
 その週にサッカーをして怪我をし、アスピリンを飲んだら、体がものすごく衰弱してしまいました。
 あわてて両親が病院につれていくとウイルソン病だと診断しました。
 ウイルソン病というのは遺伝的なもので、体の中から銅を取り除く酵素が肝臓に欠落している病気です。
 このため、銅が体に蓄積され肝臓で処理されないため、体のほかの部分、脳や目にも悪影響を及ぼして、最後に神経系の破壊に繋がっていきます。肝臓に蓄積された銅が肝臓を壊します。
 この病気に対する治療方法はありません。
 その後2ケ月間は入退院の繰り返しでした。
 8月の3週目に、母が呼ばれ、もはや肝臓移植しか助かる道はないと告げられました。
 母はとにかく本人に聞いてみなくてはと言いました。
 母が私の部屋に来て「デビッド。ピッツバーグにいって肝臓移植を受けてみない。」と言いました。
 「ピッツバーグですって、ピッツバーグになにがあるか知ってる。」と目を輝かせていいました。私が興奮していったもので、母はびっくりしながら、「なにがあるか知らないわ。」
 「ピッツバーグスティラーズだよ、僕の一番好きなフットボールのチームがいるんだよ。」
 昔、ベーブルースが病気の子供を病院に見舞ったという美談を聞いていましたので、ピッツバーグにいったらスティラーズの選手がお見舞いに来てくれるかも知れないと思いました。
 「そうだといいわね。ところで移植はどう思うの」「病気なんて、病気になるほどいやだよ。良くなることがあるなら何でもするよ」
 「パンクをしたタイヤを交換するほど簡単なことではないけれど、あなたに合う肝臓が見つかれば、必ず良くなるわ。」
 8月28日、ピッツバーグの国際空港に到着しました。
 このことは母の友達が貸してくれたテープレコーダーに録音しておきました。
 それからは、今日は何日である、今日はどんなことをしたとか、録音する形の日記をつけました。
 「僕が助かるためには、誰か亡くならなければならないのに、僕を助けてくださいなんてお祈りできないよ。」
 「でも誰が生き誰が死ぬかは人間の英知を超えたことで、デビッドが移植を受けても受けなくても、人は運命に従わなくてはならないのよ」と母がいいました。先生が病室に来て、「デビッド、きみのために何かしてあげられることはあるかい。」「ええ、スティラーズに逢いたいです」こればかりいっていました。
 ついにその夢が実現したのです。9月13日に看護婦さんが、あなたに逢いたいという人が来ているんだけれどと言いました。
 後から185cmぐらいある大男が入ってきて、「やぁ、デビッド。僕はピッツバーグスティラーズのタイトエンドをやっているランディー・グロスマンだよ。」と言いました。
 出入り口に移植前と後の写真が展示してありますので後でご覧下さい。
 9月15日頃先生にいつになったら僕に合う肝臓が見つかるのですかと聞きました。
 先生は僕をしっかりと抱きよせ、「こっちに来てごらん、デビッド。僕達は今一生懸命に努力をしている。肝臓が現われしだい、きみに一番いいようにするから。約束するよ。」とささやくように言いました。
 その晩、母が、「もし移植が成功したら、なにが一番したい。」と聞きました。
 「飛行機の操縦を勉強したい。」
 「移植が成功したら、お友達に飛行機を持っている人がいるから、乗せてもらって空を飛びましょう。」と約束してくれました。
 そんな中でも、日にちがどんどん立って行き、私はどんどん弱っていきました。
 これからお話することは、僕自身は覚えていないのですが、後にお医者さんや友達から聞かされたことです。
 9月の19日になって、1981年のことですが、腎臓が機能を失ってしまいました。3日後に昏睡状態に陥りました。
 9月20日に肝臓の提供者が表われ、手術の準備が整いましたが、到着してみると、その肝臓は私には小さすぎたので、3歳の男の子に移植されました。
 9月22日にまた別の提供者が現われました。このときも手術の準備がされましたが、提供された肝臓が肝炎に患っていることがわかり断念せざるをえませんでした。
 9月25日金曜日のことでしたが、私の命もこの週末が最後になるかも知れないとのことで、家族、兄弟姉妹を全てを病院に呼ぶように言われました。
 翌日に肝臓移植を受けることができました。その時の体重は30kg無いぐらいでした。
 過去1か月半というものは食事はいっさい喉を通りませんでした。みんなはあと何時間ももたないだろうと感じていました。
 私の父はこの後のことを話すのがものすごく好きなのです。
 家族や友人みんなは、控室のような部屋で待機して夜を過ごしました。父が目を覚ますと、スターズル先生が目の前に立っていました。
 移植のためには12から14時間かかると以前聞かされていましたが、時計を見ると8時間しかたっていませんでした。少し時間が短すぎるので、てっきり手術は失敗し、デビットは手術台の上で死んでしまったものと思いました。
 スターズル先生は、「デビットの場合は時間的に余裕がないので、最大限の努力をして短時間で済ませるようにしました。彼の新しい肝臓は見事に働いているし、悪かった腎臓もどんどん機能を回復しています。」
 私にとって9月26日というのは人生の大きな転換期となりました。
 術後の3ケ月間はどんどん回復し、おしゃべりをしたり、歩き回ったりできるようになりました。しかし、移植前のことはすっかり忘れてしまい、体が思うように動かすことができずに、ストレスを感じることもありましたし、時には本当に良くなるのだろうかと疑ったこともありました。
 11月後半になって、移植病院から、リハビリ専門の病院に転院しました。
 退院する前日にピッツバーグの新聞社がインタビューをし、写真を撮ってくれました。
 リハビリテェーションの病院についたときテレビのインタビューに答えました。
 インタビュアーが、「なにが一番したいか」と尋ねました。
 「前のように元気に遊べるようになりたい」と答えました。
 移植によって自分の体が以前とはまったくちがっていること、元気になっていることに気がつきませんでした。
 12月に入ると、「じゅうぶんに元気だから、ためしに2週間ほど自宅に帰ってごらんなさい」と言われました。
 もし、全てが調子良いようであれば、そのまま退院し、1年後に検査をすれば良いということでした。
 1982年の6月に新しい学期が始まりました。
 1981年の3月23日にユダヤ教の成人式であるバー・ミツバーのお祝いをできなかったものですから、翌年の82年の3月19日にちゃんとすますことができました。
 6月18日に母の友達が私を飛行機に乗せてくれました。
 以後私の病気との闘いはずうっと続いています。私はパイロットになりたいと思い続けていました。しかし、全米航空局は私が肝臓移植者であることで、パイロットの免許を出すことにたいへん躊躇していました。
 航空局を納得させるために13〜14人もの医者に検査をしてもらい、少なくとも、医学的には飛行機を操縦することに何の問題も無いことの証明を出してもらわなければなりませんでした。
 89年の12月27日に航空局から、「ヨントーブさんですか? いろいろな医学的資料をお送りくださいましてありがとうございました。あなたの航空免許は2週間ぐらいでお手元に届くと思います。」
 「ありがとう。」と私は返事をしました。
 1990年6月6日に私は初めて、単独飛行をなしとげました。
 1991年10月23日に、その後いろいろな努力を重ねた結果、自家用機の正式な免許を取得することができました。
 1993年6月12日に西ミシガン大学の科学課程を卒業いたしました。今私はコンピューターのエンジニアとして働いています。
 そして、今年1994年の7月9日にサラと結婚しました。
 肝臓移植によって人生が変わるという、私にとって、とてもいい経験することができたと思います。人は誰でも一生懸命に努力をすれば不可能ということはないんだと思います。
 私は一度死と向かい合って、闘いを克服することができました。
 もう一度、今度は私自身の臓器を提供するという方法で、私の死をやり込めてやろうと考えています。
 最後に、ロバート・アンタスティーという人の詩があるのですが、まさに私の臓器移植に対する気持ちを大変よく表わしていますので、ここに持ってきています。
 『私を忘れないで』
 生と死であふれかえる病院で、私の体が白いシーツの上によこたわる日が来るだろう。
 その瞬間、医師は私の脳がその機能をやめ、志なかばにして私の命が燃えつきたと宣告するだろう。
 そんな時が訪れたら、機械の力を借りて、私の体を無理やり生かすのはやめてくれ。
 そして、「死の床にいる」と言わないでくれ。
 その代わり、「いのちの床にいる」と呼んでくれ。
 他の人々が、人生をまっとうできるように、私の体を役立ててくれ。
 日の出を、赤ん坊の顔を、そして女性の愛情に満ちた眼差しを見たことのない人に、私の目をあげてくれ。
 私の心臓をあげてくれ。
 その心臓のために、明けても暮れても苦痛にさいなまれている人に。
 私の血を、交通事故で大破した車から助けあげられた、十代の青年にあげてくれ。
 自分の孫の遊ぶ姿が見られるように、私の腎臓を機械に頼らなければ生きられない人にあげてくれ。
 私の体から骨、ありとあらゆる筋肉、繊維、神経をとってくれ。
 そして、足の悪い子を歩けるようにする治療法を見つけてくれ。
 私の脳のすみずみを調べてくれ。
 必要とあらば、私の細胞をとり培養してくれ。 いつか口の聞けない少年が大声を出し、耳が聞こえない少女が窓にあたる雨音の調べを聞くことができるように。
 そして、あとに残ったものを焼いて、その灰を風の中にバラ撒いてくれ。花が育つように。
 もし、何か埋葬するというのなら、私の誤ち、弱さ、同じ人間に対する偏見を葬ってくれ。
 私のことを思い出すなら、あなたを必要とする誰かに対する優しい仕草や言葉とともに思い出してほしい。
 もし私が頼んだようにしてくれたら、私は永遠に生きつづけるだろう。
 (『イギリスにおける移植医療の夜明けーベン・ハードウイック物語ー』エスター・ランジェン/ショーン・ウッドワード著・前田祐子監訳、はる書房)
 どうもありがとうございました。今日ここに来れたことをとてもうれしく思います。


司会
 どうもありがとうございました。
 移植後13年ですか。しかし移植患者さんとはとても見えない、パイロットとして、コンピューターのエンジニアとして活躍している姿を拝見して、移植医療の素晴らしさを改めて考えさせられるところです。
 ここで、新婚旅行を兼ねて京都、東京にいらしたということで、奥様のサラ・ヨントーブさんをご紹介します。おめでとうございます。
 どうもありがとうございました。
 だいぶ時間も過ぎていますが、本日は、海外の移植者の方々もおいでになっていますので、木村さん、いらっしゃいましたら、ご紹介くださいますか。
木村春江氏 国際移植学会のときに「世界の移植者の集い」という企画をいたしまして、たくさんの外国の移植者の方がおみえくださいました。
 今日ここにおみえになっていらっしゃる方のお名前と経歴を簡単にご紹介いたします。
 ジル・ギルモアさんです、オーストラリアで1986年の8月に肝臓移植をうけれらました、8年と8日目です。
 今、クイーンズランド、リバートランスプラントサービスのクリニカルコーディネーターとして活躍されています。
 ワーウィック・ダンカンさんです。やはりオーストラリアからおみえになりました。1989年の10月に肝臓移植を受けられました。オーストラリアの移植者スポーツ大会の会長さんでもいらっしゃいます。ありがとうございます。
 アイルランドからおいでになりました、マキシー・スカーリーさん、腎臓移植を受けられて19年になられます。移植者スポーツ大会を通じて私と連絡を取っております。
 ウイリア厶・バビンクさんです、オランダからみえられまして、1983年に心臓移植をうけれらて、ヨーロッパでは心臓移植者としては一番長い生存記録を更新中です。
 カール・ウィテッカーさん、イギリスからみえました。この方も1983年に心臓移植を受けらて、もう10年になります。カールさんも世界移植者スポーツ大会では数々の金メダルをとっているスプリンターです。
 たぶん最後になりますが、スティーブ・ショーンさんです、この方は1990年に心臓と肺の移植を受けられました、今現在4年半になります。ご自分自身の心臓はほかの子供さんに提供なさった、ドミノという移植なのです。ですから、レシピエントでありドナーでもあるのです。
 私たちはドナーになりえます、それからレシピエントになるかもしれません、だれもがレシピエントにもドナーにもなりえることを、皆さん是非わかっていただきたいと思います。


司会
 ご紹介ありがとうございました。今回、海外からもたくさんの方が参加されました。
 移植者のスポーツ大会というのもおこなわれていまして、日本からも参加しています。いつの日か日本でも、世界移植者スポーツ大会を開きたいということで、木村さんが運動していらっしゃいます。
 三日前、ビバ・トランスプランティションという集まりがあり、今ご紹介いただいた方々も参加され、オーストラリアで肝臓移植受けた子供たちなどと楽しい集いとして、移植万歳として絵を描き、音楽を聴いて、お互いに交流を深めると言う、楽しい、有意義な会が開かれましたした。
 移植を受けたということであっても、いろんな活躍ができ、それを世界的な場で交流ができるという有意義な会がありました。
ここで、厚生省のほうから、移植医療を担当していらっしゃる、方々がいらっしゃっておりますので、ちょっとご挨拶いただければと思います。
 よろしいでしょうか、突然で申し訳ありませんが。


薄井康紀 厚生省臓器移植対策室長
 厚生省で臓器移植を担当しております薄井でございます。
 今日はお話を聞かしていただくということで参らせていただきまして、先程、スターズル先生、ヨントーブさんのお話をうかがわせていただきました。
 また、移植を受けられた皆様方のご紹介を伺い、非常にお元気そうなので…。
 我が国では臓器移植の問題は長い間議論をなされておりまして、皆さんご案内のとおりですが、今年の4月に議員立法というかたちで議案が国会に出ております。
 継続審議ということになっております。
 これから国会でのご議論ということでございまして、この問題に関しましては非常に多くのご意見があることはご案内の通りでございますが、移植医療というのは臓器の提供があってはじめてなされる医療ですから、そういう意味では国民の理解を得ながら、この問題を進めていかなければならないということで、法案を提出するにあたっても、十分に議論したいということが提出者の皆さんのお考えだと、私ども傍にいたものとしても聞いておりますところでございます。
 私ども厚生省といたしましても、これは厚生省の見解というよりも私個人の気持ちではありますが、今日のお話を聞きますと早く国会で、国民の理解を得ながら十分議論ができて、我が国でルールができていくことが期待されているのではないかと思っているところでございます。
 これからご議論が進む中で、いろいろなご議論がある中で、移植を待っている方、あるいは移植を受けられた方々が、移植というのはこういうものなのだと世の中に訴えかけていただくということは非常に意味があるのではないかと思っております。私どもも移植ネットワークとかいろいろの所で勉強していきたいと思っておりますけれど、これからもよろしくお願いいたします。
 簡単ではございますけれど。


司会
 どうもありがとうございました。
 続きまして緒方さんお願いいたします。

緒方氏(厚生省臓器移植対策室)
 法案は国会で審議されるわけですけれど、私どもとしましては一日でも早く、日本で脳死からの移植が実現する日を心待ちにしているということは、皆様とまったく同じだと思います。
 室長が必要なことはみな申し上げましたので、私はこれだけを申させていただきまして、今後も皆様と一緒にやっていきたいと思います。
 どうぞよろしくお願いいたします。


司会
 どうもありがとうございました。
 移植法案が早く国会を通過しますように、よろしくお願いいたします。
 では、続きまして、九州大学第二外科の矢永勝彦先生をご紹介いたします。
 先生はピッツバーグで、スターズル先生のもと、たくさんの肝臓移植を実際に手懸けてこられまして、その経験を基に、昨年九州大学において肝臓移植を手懸けられました。
 報道で、大変ご苦労された様子が伝わってきておるわけですが、その辺のことも含めて、スライドを使ってお話いただけるのではないかと思います。
 皆様のお手元に配布されておりますプリントの中に書かれていますように、トリオ・ジャパンの青木会長が、移植を受けられた方に、手術直前にお会いしております。
 本当にぎりぎりの、「今日に命、明日の命」というぎりぎりのところで、長年の思いでありました脳死移植のチャンスに恵まれたわけですが、その辺のところを、矢永先生にお話していだき、日本のこれからの移植についてのお話もいただけると思います。
 矢永先生よろしくお願いいたします。


矢永勝彦氏
 横田先生どうもありがとうございました。私、九州大学におります矢永と申します。 私とトリオ・ジャパンとの繋がりは、移植を待っている患者さんを登録した時点からになります。3年2ケ月前になりますが、その頃から、青木会長、荒波さん達が、移植を待っているけれど、日本ではいつ臓器が出るかわからないと非常に不安定な立場におかれた患者さん達を、精神面でいろいろなかたちでサポートされていることから、おつきあいをさせていただいております。
 先程ご紹介にもありましたように、実際に移植の3日前に青木会長がお会いになられました。
 その患者さんについて簡単にご説明させていただきたいと思います。
 ではスライドをお願いします。
 これは私どもの移植患者の待機リストでございます。
 今までに11名登録いたして、左から3つ目ですか、これでもわかりますが、若い方もおられます。一番若い方は12才で、先程お話がありましたが、久米さんで、来週の金曜日にオーストラリアに渡航される予定でおります。
 当然ではありますけれど、移植の登録をして、待っていて移植を受けられなければ、患者さんは亡くなってしまいます。
 残念ながら、ご覧の通り4人の患者さんを亡くしました。中には渡米をして移植を受けられた方もおられます。
 一番最初に登録をされた方は、半年間移植を待たれましたが、ドナーが出ませんでしたので、渡米をして移植を受けられ、今でも元気にしておられます。
 二番目に登録された方が、今回移植を受けられ方でございますが、2年3ケ月間待たれまして、余命が1ケ月という状況で移植となりました。
 それから、もう1名はアメリカに行かれ、移植を待っている状況でございます。
 今11名ですが、来週もう1名登録されます。
 従いまして、若奈さんがいなくなると3人ということで、各血液型の方が1人づつという形になります。
 次のスライドお願いします。
 このように移植を待つけれど、なかなかドナーがでない。
 登録をするからには、登録したからには日本で移植をするという契約関係と私たちは考えておりますので、予後、余命ということをきちんと告知をして登録していただいております。
 従いまして、なかなかドナーがでない、なんとかならないかということで、青木会長など、トリオ・ジャパンの方々のご協力も得まして、九大では患者家族の会が発足いたしました。
 おとなしくじっとドナーを待っている患者さんが集まることによって、なんとかドナーを確保できないかといった努力を、患者さん達、その家族の方達が集まってしておりました。
 次ぎお願いします。
 今回移植をいたしました患者さんですが、50才のA型の男性の患者さんです。C型の肝硬変で癌も合併しておられました。
 登録するさいには、当然癌もありますよと告知してあります。それから、いろんな肝臓の病気がありまして、結局19年来の肝疾患歴があります。そして、46才の時まったく働けなくなっている、その後4年間その状況が続いたということです。
 肝臓移植の評価をいたしましたときに癌が見つかりましたので、それに対する治療をしたうえで、患者さんには登録をしていただいております。
 しかし、癌が再発するのではないかと不安を抱えながらずっと待ち続けたわけです。
 次お願いたします。
 これはお腹のCTですけれども。このところに癌が見つかりました。2cmの大きさでございました。
 はい次お願いします。
 これは血管造影なのですけれども、普通脾臓というのは手のこぶし大きさくらいで100gあるかないかくらいのですが、ご覧のとおりこの方の脾臓はお化けみたいに大きくなって、しかも、肝臓は肝硬変で極端に小さくなって、肝硬変が極めて進行した状態でした。
 次お願いします。
 患者さんは入院された後いろんな合併症を起こされました。一昨年の3月には消化管出血、去年に入ってからは、黄疸がだんだん強くなりまして、肝細胞癌再発をしたり、あるいは多発化、他の場所にも出てきたりという状況になりました。
 それから肝性脳症が悪化いたしまして、移植の前2ケ月ぐらいは腸が動かなくなって、中心静脈栄養という点滴をしなければいけなかったり、あるいは、10月には腎臓の機能障害をきたして透析直前という状態に追い込まれていました。
 次お願いします。
 これは登録をしたときと移植直前の肝機能の比較ですが、ご覧のように1987年の7月に登録しましたときには、黄疸もありますし、肝機能的には移植の適応がある、しかしまだ腎臓の機能は痛んでいないという状況にありました。
 しかしながら、2年3ケ月の待機の間に、ご覧のように黄疸は強くなる、コレステロールなんかは殆ど無くなってしまう、それから凝固因子が作れない、腎機能もこういった形で透析直前という状態まで悪化しておられました。
 次お願いします。
 そういった状況で真剣に、みんなで、患者さんとご家族にどういうふう移植ができなくなる、あるいはできなくなったと説明しようかと、どうやって納得していただこうかと話しておりました。
 その時臓器の提供者の連絡をいただきました。53才の、喘息発作から脳死になられた方です。脳死になられて、ご家族に主治医から臓器提供について打診があったと聞いておりますが、臓器の提供について確認を得たということでございました。
 当初連絡を受けましたときには脳死での提供ということでございました。
 大阪大学の先生方が仲介の労をとっていただましたが、その後大阪府のほうから、心停止でないと臓器の提供はできないと、いうことがわかりました。
 非常に判断の苦しいところもあったのですけれども、患者さんがこのように末期的であったこと、心臓が止まった後ならという状況、あるいは血液型が違うドナーなど、いくつかの悪条件についてご家族にもお話してありました。
 このような悪条件を知った上でも是非移植にチャレンジしたい、こういう成功率の低い移植でも是非受けたいという希望を強く持っておられました。勿論だからしたというわけではありませけれども、私たちも、いろんな、血漿交換ですとか、移植後の免疫抑制といったことで、リスクは高いけれど、これだったらうまく行く確率は低いけれどもゼロではないということで、患者さん達と一緒にやろう、がんばろうということで移植に取り組みました。
 心臓が止まった後で、心臓、肝臓、腎臓、角膜、あるいは皮膚等の組織が提供されました。で、私どもは、肝臓を飛行機で持って帰って、移植をいたしました。
 次お願いします。
 心停止ドナーからの肝臓移植ということに関してはスウェーデンで前例があります。スウェーデンは日本と似たような脳死の問題がありまして、外国からは脳死の肝臓は輸入できるけれども、しかし自分の国のドナーからは心臓が止まった後でないと提供できないという状況でございまして、エリクソンという方が特殊な方法で取り出した。
 これはスターズル先生が考案された肝臓の摘出方法なのですが、この方法で取り出せば、脳死の患者から取り出した肝臓と比べても、そう成績が悪くない結果が得られような移植ができるということが報告されています。
 私がピッツバーグ大学におりました頃、7人とある程度数は少ないのですけれども、心停止後の肝臓移植をして、71%の成功との比較的良好な結果がでております。
 私が日本に帰りますときも、脳死の問題があるということで、スターズル先生から、心停止からこういった方法で取り出すというのも、日本で移植の問題を打開するには良い方法ではないかとご示唆をいただいておりました。
 勿論今回の移植のように血液型がA型とB型という場合には移植の成功率が極めて低い、私が日本に帰りました後いろいろご連絡を取りましたとき、血液型の違う移植は勧めないと、輸血のできる血液型であればいいけれども、輸血のできない血液型の組合せはしないほうがいいという教えをいただいておりました。
 結果としてスターズル先生の教えに背いて、残念ながら患者さんは救えなかったというのが現状でございます。
 次お願いします。
 これが肝臓でございます。
 今回の移植ではこれが本当の意味での主役だと思います。
 この肝臓が提供していただけなければ移植ができない、それから、今後の日本での移植に関しても臓器の提供をしていただけなければ、せっかく予後を告知して、登録をしても、状態が悪くなり、そして絶望の中で死んでいってしまう、かえって患者さんに悪いことしかできないということになってしまいます。
 次お願いします。
 血液型の違う移植でございます。
 輸血のできない組合せの場合にはご覧のように生着率、成功率が低いのが実情です。19〜42%が成功いたします。
 その理由として、いろんな理由がございますが、患者さんの状況が、血液型が違うような移植でも行なわなくてわならないほど悪い。あるいは拒絶反応の問題、そういったことがございます。
 ただ子供とO型のレシピエントの場合には比較的良好とのことがわかっております。
 欧米におきましては、今、血液型のあった肝臓を移植したいのですが、良い肝臓を待っておれば死んでしまうというときに、ブリッジとして、一時的避難として血液型の違う肝臓を植える。うまく行けばいいし、うまく行かなければ肝臓を入れ替えるという考えが成り立つのですが、日本では残念ながら現状ではできません。悲しい現実でございます。
 肝臓移植でございますけれども、16時間かかりました。手術前にB型に対する抗体が高こうございましたので血漿交換をいたしまして、その後移植に臨みました。
 お腹の所見ですけれども、肝硬変が非常に進んでおりまして、血が固まりにくい、門脈圧が高くて肝臓の摘出がやはり困難でございました。
 ただ、肝臓癌は、幸い肝臓の中に留まっておりまして、外には拡がっておりませんでした。
 移植の手技自体は、スターズル先生の教え通り、ピッツバーグの方式で行ないました。
 次お願いします。
 これが模式図になります。悪い肝臓を全部とって、同じところに植えるという方法でございまして、門脈が一部詰まっておりましたので、門脈はこの辺で縫いました。
 次お願いします。
 これが患者さんの肝臓です。ご覧のように非常に肝硬変の強い肝臓、550gでございます。癌は合計5個ありました。ただ、一つ一つ、こういった癌、こういった癌があったのですが、各々別個の癌ができておりまして、血管の中まで癌がたどりついておりませんでしたので、癌の手術としては再発のしにくい、癌の根治的手術になっていたと考えられます。
 次お願いします。
 手術は16時間かかりました。出血もだいぶしました。ただ3万cc出血をしたのですが、6割方は肝臓に血液を流してからの出血でした。ということはどういうことかと申しますと、肝臓というのは血液が流れてくると凝固因子を作るのですが、やはり心停止のドナー、それから、移植の患者さんの悪条件ということで、結果として血流を再開した後、血が止まらないという状況で6割方出血量が増えてしまいました。
 肝臓の状態がもっと良ければ、出血の量とか、手術の時間ももっと短くてすんだと考えております。
 次お願いします。
 これは非常に専門的なことになってしまいますが、肝臓がちゃんと働いたかどうかということですが、先程申しましたが、非常に時間はかかりましたが、お腹を閉じるときにはケトン体といいまして、この黄色い線で示しております、非常に良好になってきておりまして、心臓が止まった後からの肝臓だからといって、良く働かなかったとはいえません。働くのにやはり時間がかかった、その間に出血等の問題があったというふうにご理解いただければ良いかと思います。
 スライドお願いします。
 この方は、血液型がAとBという非常に適合性の悪い組合せでありましたし、それからT細胞のクロスマッチ検査も強陽性でしたので、免疫学的に非常に悪い組合せとなりました。したがいまして、免疫抑制に関してはかなり強い免疫抑制剤を使っております。
 手術した後の経過ですけれども、一時期には、黄色は黄疸なのですけれども、ビリルビンが下がってきて、GPT、GOTといった数値も下がってきました。腎臓の機能も一時期改善いたしましたけれども、この辺から黄疸が進行してまいりました。この進行に関しては、血液型の違うことによるアイソアグリチニンという坑Bの抗体が上がってきたとうことで、拒絶反応には液性と細胞性とあるのですが、液性の拒絶反応が進行してまいりました。
 次お願いします。
 これは胆汁です。ドナーの胆汁で、移植をしたあとでは、2日目、4日目、7日目と比較的良い胆汁が出ております。ただそれから2日間の間のこれからこれに変わってしまいまして、やはり拒絶反応が急速に進行したという問題がございます。
 次お願いします。
 これは手術した後の患者さんの全経過です。
 専門的なことばっかりになってしまいますけれども、結果として感染症を起こすと拒絶反応が非常に進行するという、普通の場合と逆の経過をたどりまして、舵取りが非常にむずかしゅうございました。
 いろんな治療をいたしましたが、結果としまして手術後73日の後にお亡くなりになりました。
 次お願いします。
 黄疸が進行すると胆道系の合併症があるのではないかと、我々移植医は考えなくてはいけないのですけれども、それから、血液型不適合のときには胆道系の問題が起きやすいのですけれども、この方の場合にはご覧のように問題はありませんでした。
 最終的には、移植後の71日目に、胸水を抜きましたけれど、その時に、副側血行路を傷つけまして血胸を起こしまして、それを契機としまして残念ながらお亡くなりになりました。
 次お願いします。
 今回の移植の特記事項ですけれども、ドナーリスクが非常に高かったということ、患者さんは多臓器の障害があったということ、マッチングの問題です。液性の拒絶という透明人間から攻撃されているような拒絶をコントロールしなくてはいけない状況に追い込まれたと言いますか、そういう移植しかできなかったということが問題になろうかと思います。
 スライドお願いします。
 この患者さんの医療費です。人の命をお金で評価できないということもあるのですが、非常に大切な点だと思います。
 これから先の日本の移植医療の進展、定着ということに関しては大切な点だと思います。
 移植待機中の、移植前の費用ですが、月平均61万円かかっております。肝臓移植を受けて後に、保健で全部算定いたしますと 4,850万円かかっております 。総額といたしましては 6,500万円、月平均にい たしますと 217万円ということになります。
 これをどのように考えるかということは人によって取り方が違うと思いますが、この患者さんに関して、登録をしてから2年3ケ月間待ったということは、その間の待機中の医療費、それから移植をしたけれども、移植の際のいろいろな合併症を結果として起こした、そしてそれを治療しなければならなかったという問題があって、医療費が非常に高額になったものです。
 ただし、見方を変えますと、アメリカでは、UNOSのデーターをとりますと、肝臓移植の登録をしてから移植を受けれらるまでが53日と聞いております。そう考えますと、待機中の、移植待ちの医療費、移植自体もより良い条件で行なえるといったことで、移植の費用も節約できるのです。
 従って患者さんは移植施設で登録をするけれども、移植をするのはいつになるかわからない、あるいは末期的状況になってやっと肝臓が見つかる、そのような移植をするということは、今の日本にとっても決してプラスになっていないと思います。このことは強調できたらと思います。
 ではライトをお願いいたします。
 今回の移植ですけれども、今のような要領の悪いプレゼンテーションで申し訳ないのですが、見方はいろいろあると思います。移植をこんな悪条件でなぜしたのかという方もおられると思います。私どもも悪条件と知りながら、移植をいたしました。
 移植をしなかったらと考えてみますと、登録中の患者さんの死亡が一人増えて、移植の登録はしても患者さんはどんどん死んでいく中で、脳死の法制化が進んで行くということが考えられたかと思います。しかし、患者さん、ご家族は無念な思いで亡くなっていく状況をきたしていたと思います。
 今回移植をいたしまして、いろんなご批判を受けましたが、またいろんな暖かいご支援もいただきました。
 トリオ・ジャパンの皆さんは勿論ですけれども、例えば、福岡でクリスマスパーティーをしまして、その時チャリティーコンサートをしまして、そのお金を寄付してくださいました。
 小学生のお子さんですけれども、自分の貯金をはたいて、何か使ってくださいと寄付をしてくださいました方もおられました。
 それから、ドナーのお母さんですけれども、時々九州大学にお電話をいただきまして、「どうですか?」と病状をお聞きになられました。毎日仏壇に、息子の肝臓が良く働いて、患者さんを救えますようにと拝んでおりますというふうなことをおっしゃておられました。
 このような経験は、移植をしなければ得られなかった、貴重な体験をさせていただいたと思っております。
 この患者さんが私たちに残してくれたものは何かと実は昨日考えておったのですが、多くのことがあると思います。
 私どもの移植施設の学生さん、看護学生さん、医学生、それからスタッフ、そういう方々に移植を待っている人がいるんだと、非常にいい強い形でプレゼンテーションできたと思っておりますし、私たちもこの患者さんを見てなんとかドナーを確保しなくてはと、ドナー病院をまわるなど非常に励みになったということがありました。
 移植自体につきまして、学内におきましてだけではありますが、移植の準備自体には問題が無かったということ。
 移植後にいろんな問題が起きましたので、それを一つ一つ解決する間に、今後の移植でどんな合併症がおきても対処できる自信がついたと言えると思います。
 今後のことについていえば、今回の移植の後にも、臓器の保存液ですとか、そのようなことに予算がついたりして、今後も移植が続けられるというところがポジティブな面としてあげられると思います。
 時間が無くなりなしたのでこれで報告を終わりたいと思います。
 どうもありがとうございました。


司会
 どうもありがとうございました。
 日本の脳死法が通っていない現状の中で厳しい選択をされ、私自身、医者の立場からみても、70余日間も生存を得たと言う、なみなみならない非常に立派な成績であると思います。
 また、結果は残念でしたけれども、次に残すもの、今おしゃいましたが次に残すもの、その貴重な経験を、次の移植で成功させていただきたいと思います。
 どうもありがとうございました。だいぶ時間も過ぎてしまいましたが、ここで前半を終了して、5分ほど休憩をとりたいと思います。


司会
 第2部を始めます。シンポジュウ厶ということで、初めに各々の方から発言をしていただき、後でディスカッションしていきたいと思います。
 初めに移植を待っておられる患者さんの家族、および患者さんからの発言ということです。
 今回のテーマは「今日の命を」です。患者さんの切実な声を直接この場で訴えたいと、会長からのご希望がありました。
 実際に移植を待っておられる方からの切実な声を社会的にもアピールしていけたらということがテーマの一つです。
 今日、お二方きていただきまして、またメッセージをお二方からいただいております。移植医療を本当に切望されている、生の声を聞けたらというふうに思います。
 初めに、久米富之様、ご紹介いたします。
 先ほど矢永先生からもお話がありましたように、久米若奈さんのお父さんです。
 若奈さんが長い間肝臓移植を待って、日本での移植を希望されておりましたが、どうしても日本で待つのも限界ということで、オーストラリアに渡るチャンスを得られて、9月7日に行く準備をされております。
 今回の国際移植学会のときに、オーストラリアのドクターが九州で直接若奈さんを診察しまして、早く来いといっていただけたということで、お父様を始め、ご本人が大変喜んでおられたということを聞いております。
 では久米様お願いいたします。

久米富之氏
 初めまして、私九州からまいりました。
 現在胆道閉鎖症の子供を守る会の役員を仰せつかって、やっております。
 また我が子供、久米若奈、久米春奈と双子でございまして、私と妻は身体障害者でございます。今まで我が子供の病気を思い、なんとか一日一日を長く生かしていくために、いろいろと運動をしてまいりました。
 私のように身体障害者で外から見られる病気ならば、皆様から支えられることも多いだろうと思います。でも内部障害を持って、健常者の人達に理解を持ってもらうためには、本当に苦しい病だなと、よく私家内と私たちみたいに身体障害者であれば良かったねと、何度涙を流したことがあったか。
 そのためにも我が子供とともにこの肝臓病で、家でよこになっておられる人達を見て、なんとか国内で脳死移植ができないだろうかと、どうしたら皆様に理解してもらえるだろうかと、本当に悩みました。苦しみました。
 我が子供3歳の時に、腸瘻を出しておりましたが、その腸瘻が閉じられたときに、「この腸瘻を中に入れて閉じたら、悪くなっても開けられませんよ」と言われたとき、我が子供が3歳のときには移植ということがまだ話題になっておりませんでした。
 胆道閉鎖症という病気の資料もございませんでした。
 本当に肝臓の病というのは、一日一日重い病気だなと。
 2年前に我が子供が胆管炎を起こし、肝不全状態になり、子供病院から市民病院、九大へ、市民病院でもう移植しかないといわれ、九大に行ってインフォームドコンセントまで受けました。
 ドナーを提供していただけるというお話で、肝臓をいただけると家族で喜んでいたところ、肝臓はあげないと言われたということでした。
 そのあくる日はちょうど小学校の入学式でございました。
 その時にマスコミの医療担当の記者さんになんとか全国放送していただけないだろうかと、ドナー提供してくださる方はいないだろうか、わたくし訴えますから。
 我が子供助けてください、これは親の勝手と言われても、なんとかこの若奈の命を伸ばしてもらうために、ドナー提供を呼びかけました。
 本当にあたたかいお手紙、お電話もいっぱいいただきました。
 これだけ提供しようという人達がおられるのに、なぜ日本で脳死からの移植がすすまんだろうかと。
 厚生大臣が変わる度に、一つ一つ言い方が違って、その厚生大臣の人達が今まで何をしていたか、悔しくてなりません。
 法制化を言い出してから何人亡くなっていったでしょうか。
 さっきの矢永先生のお話ではございませんけれども、あのNさんという人と、本当に何回肩を抱いてともに泣いたでしょうか。それは内の子供も知っています。
 私はもうがんばるしかないと。そのために移植して帰ってこられて、元気になっている人がおられるから会ってみるかと、それでこのトリオの青木会長にわざわざ九州にまできていただいて、会っていただきました。
 それは、ドナーを待っておられる方々は喜ばれました。
 こんなに元気になるならば、私は外国に行く。本当に皆さん必死でした。それならばここで肝臓移植を待つ患者家族の会を作ろうじゃないか、呼びかけてみようじゃないかと。
 私は福岡天神で、青木さん、荒波さんのご協力をいただいて、天神に立って、どうか脳死からの移植にご理解をいただけるように、訴え、呼びかけいたしました。
 ビラも作りました。そのビラを見て捨てる人はいませんでした。それが私は悔しいです。
 このNさんは残念にも亡くなりました。Nさんの死を絶対に無駄にしてはいけないと思います。我が子供のことでまた呼びかけをしなくてはいけない。今度はお金を募金してください。
 この場をお借りいたしまして、我が子供のことではございますけれど、今度9月7日、8時15分の飛行機でオーストラリアに行きますけれど、無念でなりません。
 私は日本で国内で脳死から移植をと。
 私どもには金はございません。障害者が子供二人、生活をしていくのは並大抵のことではありません。
 できるだけ皆様にご迷惑をかけんように、我が家のことは家でやっていこうと必死で考えぬいて来ましたが、しかし今回は本当に移植って何だろうと、肝臓病って何だろうと。
 皆様に我が子供のことでお金をください。
 我が子供を外国にやってくださいと、本当に辛いです。
 「あぁあの人は募金で外国に移植に行った。」と安易な気持ちで私もいましたけれども、実際に自分がやってみて、またこの後何人も皆様にご迷惑をけなくてはいけないのか。
 日本で移植ができるのなら、外国の病院の移植をされる方々が、日本にきて移植ができる病院を作っていただけないかなと、そこまでわたくし考えました。
 私はこの前のここのセミナーで、スターズル先生のお話の中に、アメリカでここまで移植ができるようになったのは、医者も刑務所に入って勉強した医者も何人もいるぞと。
 私はよく思います。医者は人を治す人ではないかと。
 いろいろ移植に関して中傷的な発言をする人達が多くいます。
 本当に我が家を見に来ていただきたいです。
 ノンフィクション作家とかいって、本当に移植を受けたNさんのことを知っているのか。私はその本を叩き付けて泣きました。
 どうかこの日本でドナー提供していただけるように、もっともっと運動をしていかなくてはいけないかなと、ここにお集まりの皆様、我が子供も外国に行きますけれども、この肝臓病で苦しむ人達をどうか助けていただきたいと思います。
 本当にお話はうまくできませんでしたけれど、ここでお話させていただいたことに感謝します。ありがとうございました。


司会
 ありがとうございました。
 続きまして古川静代さんをご紹介いたします。古川さんはお嬢さんの苑紀さんが胆道閉鎖症で、移植を希望され、待っておられる方で、お子様もたくさんいらっしゃるということで、いろいろなご事情がおありですけれども、移植を待つ、また病気のお子さんを持つ母親としてのお気持ちをお話いただけると思います。

古川静代氏
 初めまして。福岡から来ました古川です。
 こちらで荒波さんに抱かれているのが苑紀と言います。6人兄弟の4番目です。生まれて2ケ月目で胆道閉鎖症といわれ、2度の手術を受けましたけれど、結果は良くありませんでした。
 助ける方法として肝移植しかないと知りましたけれど、海外にいっての肝移植は経済的にも、家庭の状況などでとても行けるわけがありません。でも肝移植をしてあげなくては確実にこの子は死んでしまいます。
 と思うと何も考えたくない、いっそこの子と一緒に死のうと何度思ったかわかりません。でもそれはできないことでした。それは他にも子供がいたからです。その子供たちのことを考えると死ぬことは許されません。
 この子に何をしてあげたら、この子は生まれて良かったと思ってくれるだろうかと、悩み、苦しんできました。
 そんな時、日本で初めて生体部分肝移植がされました。結果は良くありませんでしたが、私たちには希望が見えてきたように思えました。
 でも生体部分肝移植は一度しかチャンスがありません。もし手術がうまくいかなかったら、この子は死んでしまいます。
 でも脳死の方から善意の提供があって、脳死が人の死と認められたら、脳死からの肝移植ができるようになって、生きるチャンスが増します。
 日本にはこの子と同じ病気で生きるチャンスを欲しがっている子供がたくさんいます。
 どうか助けてあげてください。お願いします。今日この場所にこの子をつれて出席したのは、今の私にはこの子を助けてあげることができないかも知れないからです。
 現在生活が苦しくて、お金もない私たちには生体部分肝移植も、海外にいって肝移植もしてあげることができません。
 親として、この子を自分の足で走らせてあげたい。学校にも行かしてあげたい。また外でもおもいっきり遊ばせてあげたいのです。そしてこの子の喜ぶ顔が見たいのです。
 今日この場所に来れば、何か光が見つかるのではないかとの思いで参加をしました。
 私たちと同じように海外に行くことができなくて、思い悩み、苦しみながら、一日も早く国内での脳死からの肝移植ができるのを待っている人達がいます。
 私も許されるならこの子を助けるために、生きるチャンスの多い脳死からの肝移植を受けさせてください。
 どうかこの子を助けてください、お願いいたします。


司会
 切実な訴えでございます。
 続きまして、この会場にご出席いただけないけれども、ご自分のお気持ちを訴えたいとのことで会のほうへお手紙をいただいております。
 石松美代子さん、17歳のお子さん、忠久さんがやはり胆道閉鎖症で移植を待っておられます。
 もうおひと方、生体腎移植でお子さんに腎臓を移植された方で、そのお子様を亡くされた岡本庄平さん、お二人からメッセージをいただいております。
 荒波さんからご紹介いただきます。
荒波よし氏
 事務局の荒波でございます。
 実はこの会があるということをご連絡申し上げましたら、北九州にお住まいの石松美代子さんが、お子様が今大変重篤な状況にありますけれども参加したい、ですが今お子様の傍を離れると不安定な状態になるということで、お手紙をいただきましたので、僭越ながら読まさせていただきます。
 「子供は8月で18歳になりました。誕生日の今日もベッドでよこになり、痛みと闘っています。
 元気に走りまわることも、水遊びすることもなく、小さいときから入退院を繰り返してきました。健康な子供の何分の一遊び、学ぶことができましたでしょう。
 今、ちょうど高校野球の季節で、毎日真っ黒に日焼けし、がんばっている子供たちの顔がテレビに写しだされています。ある子供はグランドで選手として、またある子供たちはスタンドで応援として、精一杯の青春を謳歌しています。
 若者です。やりたいことがいっぱいあるでしょう。何にでもチャレンジしたい情熱もあるでしょう。
 元気な子供たちの半分でも良い、一度でも良い自分の将来に希望を持たせ、夢を見させてあげたいと思います。
 ベッドの上の唯一楽しみはFー1のテレビを見ることです。七夕の短冊にも、セナに逢いたい、中島さんに逢いたいと書き続けました。そしていつの日か本当のFー1を観、セナの走りを直接観たい、それが希望でした。
 いつの日かと目標に一生懸命頑張ってきました。しかしセナが亡くなった今、希望が小さく縮みかけています。
 一生懸命がんばっていたその間にも、肝硬変はどんどん進行していたのです。
 だんだん調子も悪くなり、気持ちに張りもなくなりかけてきています。
 肝硬変で肝臓で処理されないアンモニアのためか、痛み止めに使う注射のためか意識がはっきりせず、うつろなときもあります。
 また本人は薬のために中毒症状が出て変になったときは、心臓を止めてくれと、涙を溜めて哀願します。
 親としてそんな子供の顔を見るのは耐えられません。
 移植を受けて元気になられる子供さんを見る度に心が揺れます。もう少し小さい子供だったら生体部分肝移植もできたでしょう。もう少し小さい子だったらと何度その思いになりましたことか。
 18歳は大き過ぎます。
 もう少し早くそのような治療法が許され、実施されていたら。
 主人のいない生活の中で移植のために海外へ、これは遠い夢物語です。
 莫大な費用がかかります。もしお借りできたとしても、返す当てなどありません。
 もし国内であったら、国内でできるのであったら少し希望がつなげます。
 でもそんなに待てません。いつ肝不全でいってしまうかわからない恐怖の生活です。
 話しは変わりますが、私も脳死状態の患者のご家族の気持ちは十分にわかります。
 実は主人もそうだったからです。
 どんな状態でも良い、そこにあなたがいるだけで気持ちが安らぎます。たとえ話せなくても、じっと顔を見ているだけで、逢いたいときにいつでも逢いに来れるから。
 子供たちのためにも本当にそう思いました。脳波に少しでも変化があれば、意識が回復するのではと看護婦さんを呼び、走り、看護婦さんに詰め寄り、脳波計を見つめて一喜一憂しました。それから心臓が停止するまでの一カ月。
 あなたの魂はどこへいったのでしょうか。
 本当はどうして欲しかったのでしょうか。
 そんな状態でも良い、顔を見ていたい、そう思ったのは残されるもののエゴイズムだったのでしょうか。そう思ったりもします。
 あの日主人は子供に向かって『御免ね』と言いました。その言葉を最後に残し脳死状態になりました。今思い出しても、あの『御免ね』の一言、いったい何を言いたかったのだろう。何に対してだったのだろうか。
 親としてじっと見つめることしかやってやれないことに対してだったのでしょうか。
 主人が最後に話せた言葉のためにも、この子を助けてやりたいと思います。
 そして、いつの日かあのセナの走る鈴鹿の地に立たせてやりたいと思いながら、子供と一緒にセナのビデオを見ています。
 本日は是非出席させていただき、一歩でも先に光を見つけたいと思っていましたが、先週より、吐血、下血が続き、現在重篤の状態ですので、今子供の傍を離れることができません。
 そこで気持ちを手紙に託しますので、書面で出席させてください。
 よろしくお願いいたします。 石松美代子」以上です。


司会
 ありがとうございました。
 岡本さんからのメッセージもございますか。

 荒波氏
 もうおひと方、岡本庄平さんと申されまして、3歳で腎臓障害のお子様が、実はこの春先にお父さんからの生体腎移植を受けて、お子様は数日後に亡くなりました。
 お父さんである岡本さんから大変熱いメッセージが届いております。
 今ここでご紹介するには時間が足りません。
 従いまして、最初と最後だけ読ませていただきたいと思います。
 あとはなんらかの方法で報告させたいただきますのでご了承ください。
「第3回トリオ・ジャパンセミナーの開催を心から祝福すると同時に、海外から参加の皆様に感謝の意を表したいと思います。
 ありがとうございます、そしてご苦労様です。このことは同様に国内の方にも云いたいと思います。
 できることなら貴会場に馳せ参じ、いろんな意見を述べ、交流を深めたいのですが、仕事が多忙でいけなくて本当に残念です。
 私は心の底から、ドクタースターズルにお会いしたと思っていたので、本当に残念です。
     (中略)
 どうか皆さん元気になってください。
 移植者が元気になることが社会を大きく変えることになるのです。
 21世紀は移植の時代です。もうすぐそこまで来ています。頑張ってください。
   神戸 岡本庄平

司会
 どうもありがとうございました。
 だいぶお時間も経ちました。スターズル先生のお時間が残り少なくなってきました。ディスカッションをスターズル先生を交えて十分に行ないたかったのですが。
 先ほどの九州大学の症例を含めて、一言コメントをいただけたらと思います。


スターズル先生
 先ほどの九州大学のケースですけれども、肝臓のことについて様々な批判があったということですが、そのドナーの腎臓はどうなったのでしょうか。

矢永氏
 腎臓は、普通に提供され、他の方に移植されました。

スターズル先生
 1968年の心臓移植と似たところがあります。
 その心臓移植の際にも非常に批判があって、問題になりましたが、今回の肝臓移植に関して、どのような批判があって、どのようなことが問題とされたのですか。

矢永氏
 大きく分けて二つの批判をもらいました。一つは移植医からの批判でした。
 具体的には非常に悪条件ばっかりの移植をなぜしたのか。成功率の低い移植をやったら、日本の移植に水を掛ける結果になるのではないかということで、このような条件での移植を行なったことへの非難を受けました。
 もう一方は、一般の方からの批判ですけれど、ドナー病院で臓器の摘出の際に、心臓の止まる前に、臓器の保存液を流して、それにより、結果として心臓を止めたのではないかというふうな非難を受けました。
 この件に関してはドナー病院の院長先生が、記者会見の席で、時間の推移についての説明で若干の混乱があったことと、提供の数日後に中国に出張されましたので、コンタクトが取れなかったことで問題が起きたと思います。

スターズル先生
 血液型の違いについて、批判の対象にはならなかったのでしょうか。

矢永氏
 お医者さんの中からその批判もありました。

スターズル先生
 68年と同じような批判だと思います。
 矢永先生を支持し、矢永先生の行なわれたことは正しいと思われる方は手を挙げてください。(会場で参加者が挙手)
 批判がある場合に、批判をその通りに受け取るのではなく、その背後に何があるかを考えてみなくてはいけません。
 批判の本質はどこにあるのかということです。そうすると、血液型のことにしろ、お医者さん同志の批判というのがありましたが、もしこのような条件であったら、かなり移植には厳しい症例だと思います。私も行なわなかったかも知れません。
 しかし他に治療方法が無いときには当然やらざるをえないことがあります。それも全てを含めて、批判というのは、専門家が専門知識をもってすべき批判であって、一般の人にはどっちが良かったのか判断のつき難い問題であると同時に、専門家の中では、専門家同志の嫉妬や横槍もあって、特に今の日本の移植のように、まるでオリンピックの100Mの選手がスタートラインに並んだような状況では、誰かが何かを始めようとすれば、その意図がなんであっても足を引っぱられたり、批判されたりすることがあります。
 そのような現実はあるわけですが、そのことをここで討論しても意味があることではありません。基本的に、矢永先生が行なわれたことは、先ほどの正直な報告を拝見する限り、先生の選択に間違いはなかったし、そうせざるをえなかったと思いますし、矢永先生に罪はないと言えます。
 むしろ問題なのは、今回の移植をやったことの何が良かったのか。
 このことで、先生が有名になる、お金が儲かるという話ではまったく無いわけですから、人道的見地からなさっている、その誠意にかけて、これだけのリスクをおっているわけです。
 ではその結果なにがもたらされたかと言いますと、患者の命が救われるであろうこと、あるいは患者の命を永らえることができるだろうということです。一番のポイントはそれが患者のためになっかどうかということです。
 従って、患者のためになっかどうかについて、医者や看護婦といった医療関係者が発言するのは、ちょっと筋が違うのではないでしょうか。むしろ、発言するとしたら、このトリオのような患者の集まりなのではないでしょうか。
 患者の立場、患者の声を代表する立場にいる人達ではないのでしょうか。
 ですから、トリオのようなところがもっともっと厳しい目で、医療の現場を観察して、それについて、建設的に、批判的に発言していく必要があると思います。
 ある場合にはお医者さんの応援団となって支えていかなくてはならないかも知れませんが、時にはお医者さんと対決して、厳しく批判しながら、それが本当に患者のためになっているかどうかを観察する必要があります。医療サイドと患者サイドがともに手を携えていく必要があります。
 今日本で移植を受けている人が少ないというかも知れませんが、 2,000人の人がいろいろなかたちで移植を受けているとすれば、その人達が声をあげていけば、1万人の医療従事者が声をあげるよりも、よほど大きな力となるのではないでしょうか。
 現に、矢永先生ご自身、この患者さんの為になさっており、この74日間というのは、夜床に就いて寝るとき、その患者さんのことを心配し、うまく行かなかったことを悩み。目が覚めると、先ず患者さんのことを心配し、患者さんに何がしてあげられるかを思い悩んだことでしょう。まわりが何を言おうと、矢永先生ご自身が十分責任をお果たしになったと思います。
 むしろ、こうした先生のご努力をまわりが押し潰してしまうようなことが、結果として全ての人にとって何の益にもならないことになってしまう恐れがあります。
 ですから、医療をうける側の患者さん達がもっと力をあわせて、医学的専門家の立場ではなく、患者の立場で何が必要なのか、何をしてほしいのか、そのための誰を支持するのか、何を批判するのか、はっきりとした力強い態度をもつべきだと思います。
 これは大変複雑な問題でして、オーストラリアの方もいらしていますが、日本の問題だけでなく、最初の移植機関ができ、二番目の機関ができるときには、なんのかのといろいろなやっかいな問題がありました。また、臓器をどのように分配するかという問題でオーストラリアでもだいぶゴタゴタしました。
 このことは、一般の人達に「いったに何が起こっているか」と混乱させてしまう結果となります。 ジャーナリストの人達も興味深い記事にしようとの意志が働いています。 一番真剣なのは、いのちの関わっている患者さん達なのですから、患者さんの集まりが純粋に、命懸けで関わっているとういことは確実に言えます。


司会
 スターズル先生本日はありがとうございました。残念ながらお時間がなくなりました。どうぞご退席ください。
スターズル先生
 私を追い出すのですね。
 (会場、笑い。参加者立ち上がり拍手でお送りする。スターズル先生退席)

司会
 スターズル先生にはもっともっとお話を伺いたかったのですが、残念です。
 今スターズル先生のお話で、社会的と申しますか、矢永先生の手術に対する、ドクター側からの批判、社会的な批判。それについて、日本で心臓移植をやったときの批判と同じではないかとご指摘されたわけですが。
 本日、和田先生がご出席していただいております。和田先生から辛口の言葉を一言いただけたらと思いますが。

和田寿郎氏
 東京女子医科大学を7年前に定年退職し、現在は有楽町の和田記念心臓肺研究所に勤めております和田でございます。
 実は30年来の友人のスターズル教授が只今帰られるという事を全く知りませんで、スターズル先生がおられるときに私がお話できれば良かったのにと戸惑っている次第です。
 ところで私は、今から27年前、4分の1世紀以上昔のことになりますが、当時世界で30人目、またあの手術の時点では世界で2番目に長生きした宮崎信夫さんの心臓移植を担当したものであります。
 このトリオ・ジャパンの会に以前ちょっとお伺いしたとき、こういった集まりが、皆様と日本のお医者さん達とで持てないものかとかねがね考えていたところでございました。
 いろんな事が報道されますので問題をわかりやすくするために、私は最も関心の深い心臓移植を中心にお話をしたいと思います。その訳は、心臓は人の心の臓器というふうに長い間考えられて来た臓器でありますから、心臓移植を良く理解すれば他の臓器移植にまつわる問題が理解されやすいと考えるからであります。
 人の心臓を他の方の心臓と取り替えると言う事は私ども札幌の心臓移植の前の年、約9ケ月前にケープタウンのバーナード教授によって行なわれておりますが、その2年前にはアメリカでチンパンジーの心臓を人間に入れております。
 心臓の病気を外科で治す歴史は、今世紀の初めからいろいろ行なわれ、最近では心臓の中を目で見ながら弁を取り替えるという事も当たり前に行なわれるようになり、豚や牛の心臓の弁を人間の弁と取り替えることも広く行なわれております。これは心臓の病気は一部分が悪い場合はそれを取り替えるという研究が進んだためで、当然のことながら心臓全体が悪い場合は心臓そのものを健康なものと取り替えるという研究は世界各国で1940年、今から50年ほど前から続けられてきたわけでありまして、その結果今日では既にもう数千人を越える方々が心臓移植の恩恵を受けております。今日のこの会には、心臓移植を受けて新しい心臓で元気になって結婚をされお子さんができた方もいらっしゃっております。
 その方々に先ずおめでとうと申し上げます。
 人間の心臓や肝臓の移植では、皆様もご存じのように脳死の問題が基本になりますが、なぜ日本では27年も経つのに、そしてアジアでも移植が行なわれるようになっているのに、日本では医者の間で脳死という事の意見が一致しないまま今日に至っております。
 手術の手技から見ますと肝臓移植のほうがずっと難しいのであります。その肝臓移植に一生をかけて取り組んでこられたのが先ほど帰られたスターズル先生です。
 私が心臓を移植した昭和43年、1968年は手術の後の拒絶反応を押えるために新しいリンパ球血清がアメリカでできたばかりであったのですが、スターズル先生やハーバード大学の故ハーケン先生等友人が協力してくれましてアメリカ中を探してそれを集めて札幌まで飛行機で緊急に送ってくれたのであります。
 スターズルのスターは奇麗なお星様、ズルは鶴なので私は彼に星鶴さんというニックネームをつけているのです。勿論、脳死臓器移植全般に広く貢献しておられる方で肝臓だけの脳死が問題ではないのです。
 ところでトリオ・ジャパンという皆様の会は、一言でいいますと、日本で脳死臓器移植ができないから外国へいって移植を受けて帰ってきた方々を中心に、日本でも一日でも早く心臓、肝臓、すい臓、肺移植ができるように、アジアでも台湾やタイ、韓国で行なわれているこの21世紀の恩恵が日本でも受けられるように、日本の社会、またある意味では日本の医者も啓蒙するといった基本的に暖かい人間の自然の心でまとまって臓器移植を推進するように、外国の同じような集まりと協力しながら世の中に貢献しておられる方々の集まりというふうに私は考えております。
 話は戻りますが心臓移植が初めて行なわれた1967年の年末、世界では人間の心臓を取り替える、これは大変なとんでもないことをするという反響が起こりました。
 しかし私を初めバーナードや彼と一緒に研究生活を送った、ミネソタ大学のシャムウェイ教授やリリハイ教授等、(当時は皆若かったのですが)同じ教室で心臓移植の基本的研究に従事していたものは、そしてまた欧米の心臓外科のトップの人たちは多くの心臓病を手術で治せるようになったけれど、心臓全体がいたんだものは取り替えるしか方法がないと知っておりましたので、それぞれの立場でいつの日か移植をするという考えを潜在的に持っておりましたので、バーナードの手術を機会に私を含めて当時の若手の第一線の心臓外科医達は相次いで世界の各国で心臓移植を開始したのでありました。
 しかし拒絶反応に対する薬剤の発展がなかったために手術後早く亡くなる方が多いことかわかるとともに、せっかく心臓を頂いた方に申し訳ないといういわゆるドナーとの人間関係で、心臓移植の手術を始めた医師達が批判をされ次々告発、告訴、また一度だけでなく何回も訴えられるという事が起こるようになりまして、数年のうちにほとんど心臓移植は止まってしまったのでございます。
 そういう結果がわかってくる前の初期の時代は、先程申し上げましたように外科医達が次々とこの移植手術に参加したのでありますが、日本では私以外はこの手術を手掛けることがなかったのであります。
 宮崎さんが手術後83日目になくなられてしばらくして、大阪の漢方医や評論家の人たちから殺人罪として告発を受けました。何回も審議を受けた後、3年かかって高等検察庁から不起訴の決定を得たのでありますが、その間に国内では心臓移植乃至は脳死移植という事を批判的に見る考えが起こってきたのでありました。
 臓器移植に関係する基礎医学の人達が、なぜ早く亡くなる方と長く生きられる方があるのかという問題を解決するために、いろいろな研究を重ねてサイクロスポリンという薬が見出され、その薬をかろうじて心臓移植を続けていたスタンフォード大学のシャムウェイ(ミネソタ大学での私の仲間ですが)がこの新しい薬を用い、また組織適合性の研究がいっそう進んで、これらを用いると手術が安全に行なわれるという事がわかるとともに、欧米だけでなくオーストラリアやアジアの台湾などでも、どんどん今日行なわれるようになって来たのであります。
 振り返ってみますとこのようにして欧米やアジアで心臓移植が再開されるようになった1970年、今から25年も前になりますが、その頃からマスコミもそれまでの批判的な意見から、今度は元気になった患者さんの活動状態の報告、例えばボストンマラソンに参加したとか、自転車でアメリカを横断したとか、また結婚して子供さんを生んだとか、心臓移植は21世紀に向けての新しい治療というムードに変わってきて、今日では先程申し上げましたように、移植も普通の手術の一つになってきているのであります。
 ところが日本では、私どもの移植に対する告発があった1968年から10年も後に行なわれた筑波大学での肝臓脳死移植、それに続いて行なわれた脳死臓器移植の外科医達が、次々と今度は医師免許証を持った医師達によって、法的手段で殺人罪として告発されるという世界で例を見ないことが起こったのであります。
 幸いなことにこれら告発されたお医者さん達は(私の場合は不起訴になりましたが)どなたも罪というふうにはされておりません。
 しかしこのことは日本の臓器移植を行なおうとするお医者さん達を精神的に萎縮させてしまって、例えば腎臓は二つありますから、脳死に関係ない腎臓移植までもその数が減るというふうになってしまったのであります。
 この27年間諸外国では最初の良くない手術の結果で、途絶えていた脳死臓器移植が肝臓も腎臓も勿論心臓もサイクロスポリンの出現によって、そしてまた新しい薬剤の研究によってどんどん再開され、全世界で移植は先程申し上げた通り普通の手術というところまで到達し、今では手術そのものよりもドナーの方が不足でこれをどうしたら良いかと、別のグループの研究者がドナーが現われるまでの時間を稼ぐために人工的な臓器、例えば人工肝臓、人工腎臓というのを繋ぎに使うという研究、臨床を次々としている時代に入っております。
 この27年間、日本では臓器移植を始めるのに必要なドナーの生きている間の(生前の)署名入りのドナーカードの準備、また救命救急医療及びそれらに関係するお医者さんとの問題、緊急に臓器移植を受ける患者さんをセンターに運ぶといったジェット機またはヘリコプターの問題、ドナーのプライバシーの保護、それよりもなによりも医師免許証を持った医師の間での脳死臓器移植についての同意即ちインフォームド・コンセントが全く作られていないままで来ていることは、国として考えなければいけない重大なことだと思っております。
 国会で脳死臓器移植の法律を作るという事は、法律ができれば移植ができるという事は、考えてみますとこうした脳死臓器移植再開の基本的な整備、準備ができないままでのスタートは日本の将来の医療に必ずや問題を残し、医療の本質をこの安易な法律を通すことによって見逃すという事になる危険を孕んでいると言えると思います。 ここ暫く脳死臓器移植は行なわれておりません。手術をする医者がいろいろ言われることを恐れて外国へ患者さんを送っているのもそのことを裏づけております。脳死に全く関係のない腎臓移植ですら近年著しく少なくなってきているのをどう説明したら良いのでしょうか。
 近頃臓器移植に関係するお医者さんはドナーが現われなのでということをよくいうようでありますが、医者の間でドナーを見つける努力、協力をすることがないからだというふうにも言えると思うのであります。
 話は変わりますが、ここにいらっしゃる矢永先生は、スターズル先生のところで右腕として活躍され日本に帰ってこられた方です。先日大内厚生大臣が臓器移植は慎重にやって良いのではないかと発言されています。
 矢永先生は告発されてもなにも心配のないことはおわかりのことと思います。あなたがお役に立てると思う患者さんがおられたら肝臓移植をされたらいかがでしょうか。スターズル先生の心で次々とおやりになったらいかがでしょう。スターズル先生が肝臓移植を始めた頃は全くきちがい扱いされたことはご存じでしょう。彼がまだコロラド大学にいたときのことです。
 日本ではドナーがいないと言いますが、札幌の心臓移植のときの記録をご覧ください。数百人の方が自分が死んだらドナーになりたいと申し出ております。80才の方もおりました。この25年の間に消えるようになくなってしまったのは何のせいでしょうか。
 ドナーは私に言わせれば人間愛として潜在的にいると考えております。
 国を問わず人間に共通する人間愛によって脳死臓器移植が諸外国で広く行なわれ、その恩恵を受けた患者さんは毎日のように増えております。しかしドナーと手術を受ける患者さんの間を取り持つことは医者でなければならないのであります。
 この27年、この点が諸外国と日本で異なってきてはいなかったかとつくづく考える者の一人です。医師の心を身に付けてこられた若い世代に矢永先生がこの27年の歩みを背負う代表者の一人としてやってくだされば、今は既に何万人もの日本人医者がこの壁を破る者の味方になってくれる時代であると信じます。法律の制定ではありません。もし私が若かったら何としてでも脳死臓器移植を再開させたい気持ちで一杯です。このままでは患者さんがかわいそうです。
 長い間ご清聴をありがとうございました。
 なお皆様が良く理解できるようにという気持ちで、表現の仕方や言葉遣いが適当でなかったところが幾つかあったかと存じますが、私の臓器移植の再開を願う一心のためであったことと善意で解釈していただくことをお願い致します。
 ありがとうございました。


司会
 どうもありがとうございました。いろいろ、勇気づけられるお言葉をいただきました。
 だいぶ時間も過ぎておりますので、進めさせていただきます。
 布施優子さん。日本テレビのディレクターをされておられます。移植のほうの番組を担当して、現在ちょっと外れておられるようですが、報道の立場、移植の患者さんを報道する立場から、お感じになったことなどを含めてお話いただけたらと思います。
 お願いします。

布施優子氏
 ありがとうございます。
 日本テレビの報道の仕事をしております、布施と申します。
 私が臓器移植の問題と初めて関わったのは、1987年に厚生省の記者クラブの担当になりましたときでした。
 その頃、いわゆる竹内基準という脳死の判定基準は出ていたのですが、日本で脳死を前提にした臓器移植は、今退席をされましたが、和田先生以外まったく無いという状態でした。
 引き継ぎを受けた際、これからは臓器移植が大きな問題となるから、是非それを一生懸命やるようにといわれました。
 これは大変なことになったと思ったのですが、ひとまず、1988年、私が担当になった次の年ですね、日本医師会の生命倫理委員会が報告書を出すから、それがゴーサインになるのではないかといわれました。
 これはまた困ったということで、ゴーサインが出れば、今度は心臓移植や肝臓移植が行なわれるのではないかと言われていました。
 それでいろいろ勉強したわけですけれど、その日本医師会の報告書が出ましても、結局それは社会的同意とはいえないという声が出ました。
 でゴーサインとはなりませんでした。
 その後、今度は脳死臨調ですとか、自民党の調査会ですとか、いろんな人達が、脳死と臓器移植をどうするかということで動くんですが、今度こそがゴーサインだ、今度こそゴーサインだといわれながら、これがなかなかゴーサインにならないんですね。
 とういうところで、今回国会に出されている、臓器移植法案はやっとゴーサインになるのではないかなと言われているわけですが。
 私の考えは、今度の臓器移植法案を、本当の意味で日本に臓器移植を定着させるためのゴーサインとするためには、やはり、拙速な議論ですとか、早く通すだとか、政治の取引に使われるようなことがあってはいけないのではないでしょうか。
 これまでに、いくつもの、いくつものゴーサインというのがあったのに、先に進める切っ掛けにならなかったのは、きちんとした議論がなされなかったり、情報が出されなかったり、脳死臨調というのは非公開の形で結局行なわれていたわけですが、そのようなことが尾を引いているわけですね。
 実は私1991年でしたか、ピッツバーグで行なわれましたトリオの会を取材いたしました。
 移植を受けられた方がごく普通に集まっていらっしゃって、自転車のサイクリングレースを開いたり、健康な人がどの人で、まあ、健康な家族の方もいっぱい来ていらっしゃっているのですが、どの方が移植を受けた方で、どの方のお子さんで、奥さんでとわからないくらいにみんな普通に楽しんでいるのですね。
 それを見て、臓器移植は日本でもきちんとやっていかなくてはいけないと強く感じました。
 そこで、記者として、メディアとして何ができるかということですけれど。
 メディアとしては情報をきちんとパブリックに出していくことです。メディアの役目としても、今まではセンセーショナリズムに走りすぎるとか、興味本位に行き過ぎるですとか、スターズル先生がおっしゃっていたように何か一つルーズエンドを見つけるとわぁと喰らいついていく。
 それはまぁ、私もまったくそれはないとはいえませんが、なるべく自分が中立的立場で、判断をして行くための材料を放送して行くことが必要なのではないかと思っています。
 非常に抽象的な話になってしまいましたが、長くなっても行けませんのでひとまずここで終わります。


司会
 どうもありがとうございました。続きまして、やはりメディアのほうから、益田俊彦様。
 福岡、FBS放送からおいでくださいました。益田様は久米若奈さんの病気、移植を希望されていることを長年に渡り取材を続けていらっしゃると聞いております。
 そのへんのことを含めてお話いただけたらと思います。
 お願いいたします。

益田俊彦氏
 今日、久米さんもご出席なので、私もこの席にお招きいただいたのだと思います。
 6年前から久米若奈さんの取材を続けさせていただいております。
 5年前に、「空白の21年」というドキュメンタリーを作りました。久米若奈さんと、今お帰りになりました和田寿郎博士を中心に、当時はまだ和田移植の後遺症、要するに「空白の21年」というのはなぜ日本では移植が再開されないのか、ということを考えるドキュメンタリーでした。
 当時はまだ和田移植の後遺症だという声がずいぶん出ておりましたので、ならば和田先生に直に会ってみようじゃないかということで、それこそ21年ぶりに、和田先生をテレビの画面に引っ張り出してしまったのですが、先生にご協力いただいて、そのような番組を作りました。
 翌年は、それの続編として、これもまた、もうお帰りになりましたけれど、ピッツバーグにお伺いして、スターズル先生と、それから向こうで活躍する日本人の医師、藤堂先生や、岩月先生、岩木先生、村瀬先生などを中心に、日本の優秀な移植医が、なぜ日本で移植をできずにアメリカで移植をしているのかという現状も取り混ぜて、1時間のドキュメンタリー番組を作りました。
 私は医学的な知識無しで、ゼロからの取材でしたので、いまでも勉強しながら、ああでもない、こうでもないとやってまして、今日みたいな皆様が聞きにこられている席でいったい何がお話できるのかとずうっと考えておりました。
 患者さんに長く接してきた立場から言わせていただきますと、あまりにも我々マスコミも含めまして、患者さんを混乱させる情報やアドバイス、そして批判というものがあまりにも多すぎるのではないかと。
 このへんは、マスコミの一人の人間として、非常に反省しておりまして、福岡では、地方の民放としては、割と早い時点で移植の取材をすることができましたので、私達報道部のデスクも移植に対する知識をある程度身に付けまして、この間の矢永先生がされた心停止後の肝臓移植についても、何もかも報道するというのではなく、なるべく見ている方に混乱が無いような放送のしかたをしてきたつもりです。
 あの心停止後の移植の報道については、匿名にしなかったり、親族の顔を出したり出さなかったりと、かなり同じマスコミでも取り扱う基準が違うということが、一部の新聞に特集されたりしておりましたが、私どもでは、匿名に、音声も変えて放送する姿勢を貫き通すことができたのは、早い時期から移植に取り組むことができたからではないかと思っております。
 患者さんに接して、本当に情報の混乱というのは、もし言わせていただくならば、例えばA病院に行けばああ言われ、B病院に行けばこう言われ、同じ九大でも外科と小児外科では言われることが違う、そこで患者さんは誰の言うことを信ずればいいのか、そのような話をよく聞きます。
 どうか、私どもマスコミも勉強しながらやっております。
 そういったところを矢永先生とも飲みながら話たりするのですが、病院側も、協力体制を、フレンドシップをよろしくとお話しております。
 前回の心停止後の移植ですが、私は患者さんが生き延びられることを望むとともに、どのくらい第二外科と、まわりのスタッフの方々がうまくやっておられるのかと注目して視ておりましたが、一部足並みが乱れた部分があったようですが、私の予想以上に九大の中で、うまくあの患者さんを救うための、ベストな医療がなされたと思っております。以上です。


司会
 ありがとうございました。
 では続きまして、木内博文さん。
 心臓移植を受けてこのように元気にされております。
 詳しくはご本人さんからですが、ヨントーブさんに負けず、大変な思い、死ぬか生きるかという状況の中からこのように生還されたという方です。お話をうかがいたいと思います。

木内博文氏
 皆様初めまして、私は昨年の7月26日、アメリカ、カルフォルニアで、カルフォルニア大学で心臓移植を受けてまいりました、木内と申します。
 昨年に7月移植を受けるまで、発病してから3年後に移植を受けたのですが、その間いろいろ考えることもありました。
 発病する以前、移植ということはまったく知らなかったし、そんなことに興味もなかったし、自分は健康なんだと信じていました。
 病気になって初めて、自分が移植が必要だと思ったときに、慌てて資料を集めました。新聞だとか、雑誌だとか、移植とは何なのだか知りたくて、雑誌を漁って調べました。
 そうこうしているうちに、脳死臨調が答申を出したか何かで、脳死は人の死と認めてもいいと言うふうに回答を出したときだったのです。
 僕、はっきり言って喜びました。これで自分も助かると。確かその時には5年後には危ないよと言われていましたが、これで5年の間には日本でも脳死移植が行なわれて、心臓移植も頻繁に行なわれるようになっていて、自分も国内で心臓移植を受けることができて、元気になれるだろうと楽観視していました。
 ですが、答申が出てからなぜか遅々として進まず、法律は成立しないで、自分の病気も予断を許さない状態になってきて、いよいよもって切迫した状況になってきて、僕自身としては、はっきり言って諦めていました。
 もう、しかたがないやと、国内でできないのだし、海外に行くのは夢のような話だし、それよりも何よりも報道とかそういったものを見たり聞いたりしていて、どうにも何となく移植を受けてもすっきりしない。移植を受けることを嬉々として承諾できない。 それは何かと言うと、やっぱり、ドナーになる人がひとり確実に死なないと、僕が生きていけないということに凄くわだかまりがあって、病院の先生から、「移植を受けなくてはならない状況になったが考えないか」といわれたときに、正直に言って断わってもかまわないですかと聞きました。
 それは先ほどのような経緯があってのことなのですが。それも無下に断わるのもなんなので、しばらく考えさせてくださいということで、断わろうと、やんわりと断わろうと思っていたのです。そのときかかっていた病院では、具体的に移植ということには成らないので、違う病院を紹介するから、そこでならいろいろと教えてもらえるということで病院を紹介されました。
 そちらの病院で初めて移植医療の実体に触れたというか、日本での最先端の部分に触れさせてもらって、そこで報道で言われている部分と何か違うぞ、と感じはじめました。
 報道で言われている部分とか、何となく自分が教育されていった部分とは、何となくこれはまずいぞ、これはまずいぞと言われているような感じがしていました。
 自分も諦めなくてはいけないと教育されていたのですが、その病院に来てはじめて、いやそうじゃないと思えるようになってきました。
 そこで初めて移植をお願いしますと言ったのですが、経緯と言うのは、考え方なのですが、それまではどうしても移植を受けなくてはならない患者で、ドナーになる人から臓器をいただく、それしか考えられなかったのですね。
 僕の場合心臓ですから、確実に誰か死ななければならない。そのことしか考えられなくて、凄く心苦しかったのですね。凄くいけないことをするように思っていたのです。
 ですが、移植コーディネーターの方から、移植コーディネーターの持たれているドナーカードを見せられまして、その移植コーディネーターの方がおっしゃたのですが、それは腎臓のカードだったのですが、自分も死後ドナーになって誰かを助ける、そのことに自分は満足していると言われたのです。
 その時僕思ったのですが、それまで自分がドナーになると言うことをまったく考えたことがなかったのです。
 そのとき自分もかなり苦しい状態になっていました、もうそろそろ死にそうな状態だったのですが、自分の死後のことも考えなくてはいけない状態で、自分の死後どうしようと思ったのです。
 自分の死んだ後、この体をドナーとして使ってもらって、自分は嫌かなあって思ったのです。
 でも、全然いやじゃない。まして、自分と同じように病気で苦しんでいる人が、僕から腎臓をもらったり、肝臓をもらったりして元気になるのだったら、ありがたい。なんとかして提供したいぐらいの気持ちになれたのです。
 そのとき初めて、移植に対するわだかまりが取れて、あっ移植お願いします、移植受けたいですと初めてそのコーディネーターの方にお願いできたのです。
 そう考えることができるようになるまでしばらくかかりました、やっぱり。
 だから、今日本の現状で普通の人はこう思っていると思うのです。
 確かに移植をして助かるのはわかるのだけれど、何かわからないけど、何がいけないのか知れないけど、何か問題がある。その問題がなんだかわかんないけど、報道が、マスコミが、みんなが、まわりの人達が何となくあれは問題があると疑問に思っている。
 やっぱり僕もそう思っていたのです。でも、そんな問題なんてはっきりいって無かったのです。それは考え方の問題だったから、その人がいいと言えばそれでいいですよ。ドナーになることをいいと言ってくれたんだから。それを遠慮なく受けちゃっていいです。喜んで受けなくはいけないんです。
 僕もそのように考えるようにして、今こうやって元気でいられて、毎日、毎日朝起きて、今日も生きられたなぁと言うか、元気だなぁーと思って、時々ふっとドナーの方にありがたいなと思います。毎日毎日生きているのです。
 ここに参加している、健康な方々、レシピエントでない方々にお願いしたいのですけれども、真剣に自分がドナーになりたいのか、なりたくないのか、なってもいいのか、いけないのか、よく考えていただきたいのです。一人一人がよく考えて、しっかりとした答えを持っていただけることが、こらからの移植医療を支えていくのだと思います。
 医療の側がどうのこうのって、難しい話をいろいろ今までしてくれましたけれど、お医者さんと言うのは、僕はサービス業のようなものだと思っています。
 ですから、助けてくださいという患者さんがいたら、全力を尽くして助けてくれるのが、僕はお医者さんだと思っていますから、だから、患者さんはちゃんとお医者さんに頼むことが大切だと思っています。
 移植医療と他の医療と何が違うのかと言うと、やっぱりドネーションの問題なのです。
 ドナーがでなければ、いくら患者さんが叫んでも、お医者さんがやろうとしても、一向に前には進まないのです。だからどうか、お家に帰ってから、ご家族の方、近所の方と、こういう話を聞いたんだけど自分はこう思うけれど、あなたはどう思うかと問いかけてみてください。
 一人でも多くの方が、ドナーになることを承諾してくれれば、法律なんて関係無い、みんなの気持ちの中でゴーサインが出てくれば、そういったものが自然にもりあがってくるものだと思います。そうじゃないと、たとえ法律ができたとしても、まったく移植医療は先に進まないし、法律ができても蜘蛛の巣がかかってしまうと思います。
 ですからどうか、レシピエントの方でもかまいません、健康な方でもかまわない、今生きている皆さんにお願いします、自分がドナーになりたいのか、なりたくないのか意志確認をしておいてもらいたいと思います。
 それを誰かに言っておいてもらいたいと思います。
 あんまり難しい話はできないので、自分の気持ちもまだまとまらない部分が多いのですが、いったい何ができるのか自分でもわかりませんがこのくらいで終わります。


司会
 ありがとうございました。移植を受けれられた方の率直な気持ちを表わしていただきました。
 一応だいたいのメンバーにお話いただきましたが、先ほどからずうっと通訳をしていただいております、野村さん。
 やはり肝臓移植を受けられて、先ほどお子さんもできたと言うお話もあったのですが、先日いろいろ話してをいまして、野村さん自身、移植を受ける前、それから受けた後、現在と言うことでの、非常にエモーショナルな意味での、気持ちの変化、それから、移植医療を単なる移植技術の成功だけではない、新しいものの考え方も必要なのではないかと、二人で話したことがあります。
 せっかくですから、通訳だけではなく、少しお話をうかがえたらと思います。

野村祐之氏
 今日ここにいらしている方だけでなく、今日ここに生きていると言うことに感謝したいと思います。個人的なことをお話するのは大変お恥ずかしいのですが、恥もなく、勝手に潛越ですがお話させていただきます。
 先ほど、ちょっと遅れてまいったのですけれども、私の連れ合い、義理の母とそれから、生まれて今日で13日目になる赤ん坊がきておりますので、ちょっと紹介させていただきます。
 前に出てくれますか。
 私は今から5年前には、まったく元気なつもりでいたのですが、夏過ぎた頃で、今年は夏ばてが凄い、中年になるというのはこういうことかと思っていたのですが、病気になるということは生まれてからずうっと無かったものですから、体がどんな状態なのだか思っていなかったのです。
 その秋に倒れまして、その時には肝硬変の末期だったというので、ほとんど自覚症状が無いまま、日本ではこの命はもう終わりだということになりました。
 その時はまだ、私の連れ合いとは結婚していませんでした。私はもう死ぬつもりでいました。まわりのほうが移植が可能ならば、是非それにかけてみろということでしたが、それでも私はその気はありませんでした。
 まわりにいた人、直接の親や彼女も含めて、本人がもうちょっと頑張ればと言う気持ちを残して亡くなるよりは、「あぁ、私達はやれるだけのことはしてやれたね。」
 はっきり言って、成田まで行って、飛行機で向こうまで着ける自信が無かったのです。飛行機の中でとんでもない亡くなり方するよりも、こちらで少しでも安らかに、少しでも友達に囲まれながら過ごしたほうがいいと思っていたのです。
 ところが、もう少し本人が動いてくれればという気持ちをまわりに残して亡くなるよりは、例えば車に乗って成田に向かう高速道路で渋滞に捕まって、そこで吐血をすれば、救急車も何も来ない。お医者さんも来てもらえない状態で亡くなっていくことになるけれども、それでもまわりは、「できるだけのことはしてやれたね。」
 「あれ以上はしょうがなかったかも知れない。」その気持ちが残せると思って、そのことが全然動けない私の最後の恩返しだと思いました。
 彼女とは、私は非常に引け目があったのですが、彼女の希望もあって、ベッドの上でアメリカに発つ前に結婚式をしました。
 結婚式をして何日目にこの人は未亡人になるのかなぁと私は思っていたのですが、それと同時に現実的には、法律的に繋がってないと他人同志ですから、私がもし無意識になったとき、あるいは遺体になったときに、それをどうするかということに、結婚していれば発言権があるというようなこともあったので、ものすごい葛藤があったのですが、結局は、彼女の強い強い信念もあって、希望もあって結婚することにしました。
 話を飛ばしますけれども、その後でも子供ということは大問題です。
 これから先どうなるかわからないけれども、しかし彼女の強い希望もあったけれども、命は一つでは生きていない。私自分のだけの努力で生きているのではない、まわりとの関わりの中での命なのだと、移植のあとで、理屈じゃない、腹の底から感じたのです。
 ですから、スターズル先生が、ドナーとレシピエントの細胞が混ざりあう、医学的にはどのようなことだかかわかりせんけれども、とっても強い直感でそれがあるわけですが。
 それを肩に触られて言われた、背筋が寒くなるような思いがしました。
 医学的な科学的な見地から、それをおっしゃられたといことです。
 考えてみれば、私たちは一人でいるのではない、父親と母親がいる、その愛の結果今ここにいる。二つの命が一つになって誰もがここにいるのです。
 そして、今ここで日本語を喋れている、英語を喋れているということは、友達の、家族との関わり出会いの中からであるわけです。
 特にレシピエントの場合には、今のこの命というのはドナーとの出会いがある。
 例えば、我々は空気を吸っているのでも、酸素を吸っていると教わりますが、そうであり違うということに気が付いたのです。
 ではその酸素はどこから来ているかというと、植物が命懸けで一生懸命に生み出している、だから、呼吸をすることを通して、私たちと植物も命の交換をしているわけです。
 移植を通して、生とし生けるものすべて支えあっているのだと。だけれども、現代の社会の中でずたずたに切り裂かれ、個人だけがばらばらになり、寂しさだけでなく、人間は他の動物と違う、植物と違う、そういうかたちで環境破壊まで起こしてしまっている。
 地球の全ての命が助け合う、支えあうことなくしては、新しい未来は開けない。
 とすれば、移植を本気で受け止めて、その優しさに根差した医療を現実にすることが、もしかすると、これから人類がどう生きるか、全ての生きとし生けるものが地球でどうやっていけばいいのか、ヒントを含んでいるような、ものすごい内容を含んでいるのではないだろうか。 真剣に受け止めたとき未来がある。
 また個人的なことに戻って、最後に戻ってしまいますけれども、私自身はフルのスピードで走っていたけれども、あるときものすごい倒れかたをしてしまったわけです。突然に。
 そこでリレーで言えば、もうバトンは手から離れて、そこで終わってしまったと思う。そのとき気が付いたら、誰かが助けて、うしろから「おまえもう一回頑張ってみろ。」
 気が付いたら手にリレーのバトンが二本ある。勿論一つは私自身のものであり、もう一つはドナーを通しての二本のバトンを持って走って、それで大丈夫。 走っていく中で、驚くほど元気で走れるということに気が付きました。
 新しい命に恵まれたとき、私は次の世代にこのバトンを渡したのだと言う、不思議な実感がしたのです。
 13日前に生まれて、移植の会議ですぐに京都にすっ飛んでいってしまって、まだ名前がついていませんで、明日までに名前をつけないとえらいことになるので、いいお知恵があったら、女の子の名前ですが是非よろしくお願いします。
 どうもありがとうございました。


司会
 非常にいいお話で、これでまとめのお話としたいところなのですが。
 移植で患者さんが命を永らえて、立派に生活される、生きていく、それが一つの大きな目的であり、私たちも勇気づけられることでもありますけれど、移植ということを通じて今のお話にように、命と命の繋がり、今のお話の中に移植の哲学が、地球の将来に渡るような、そういう深いものを持っているお話だと思います。
 だいぶ時間もきているのですが、会場のほうから、ご質問なり、ご意見なり、先にいただいて、多少ディスカッションできるかと思います。
 ご発言いただけますでしょうか。
 今青木さんからご指名がありましたけれども、青木さんの主治医に一人でおられる井原先生、一言お願いします。

井原氏
 井原と言います。
 たまたま、前にいました病院で青木さんが吐血で担ぎ込まれてきまして、それが縁で、僕が直接移植をしたわけではないのですが、半年間は朝昼晩かなりきつい思いをしたのですけれども、青木さんが移植されて、もう5年過ぎまして、こう元気でいらして、こういうお顔で活躍しておられるのを拝見いたしますと、非常にいい仕事させてもらって、また非常にいい機会を持たせてもらったと、ある意味では青木さんに感謝をしております。
 移植も最近マスコミのほうでは下火になっていまして、マスコミの方には失礼かも知れませんが。センセイショナルにワッと騒いで、あとのフォローがあんまりないというか、もう少し、中立普遍とおっしゃていましたけれど、あるものにはもう少し積極的に関与して、一つ、教育というか、プロパガンダというか、もっと積極的態度を示していただいたほうがいいのではないかと思います。ただ普遍不等ではなく、もう少し積極的に発言していただいたほうがいいのではないでしょうか。急なご指名だったので、このへんで。

司会
 どうもありがとうございました。

外人A
 二つありますけど、一つ目はメデア関係の質問なのですが、日本の出版というのは、本当に自由に、検閲などされずに行なわれているのでしょうか。それとも、基本的なガイダンスにのっとたものしか出てこないのでしょうか。
 もう一つは、世界会議が京都で行なわれ、意味深いものだったと思いますが、私が知る限りではそれがほとんど報道されていない。報道しないという意図の裏には何があるのでしょうか。

司会
 それでは、布施さんからお答えいただけますか。

布施氏
 日本に報道の自由というのはあります。
 それから、移植会議なのですけれど、私は注意してみていたせいもあるのですが、新聞、テレビは、初日と初日の前ですね、前触れ的な報道はありました。
 しかし、会議が始まってしまいますと確かに報道は少なくなりました。
 その理由としては、私の個人的考えなのですが、一つはまだ日本で脳死下の移植が無いということで、そういった大きな発表がなかったことにあるのではないかと思いました。簡単ですが。

司会
 ほかに、どなたかございませんか。
 質問、ご意見ございませんか。どうぞ。

ジユリー・ギルモア氏
 私の名前はジュリー・ギルモアです。私自身も移植を受けました。私は今、オーストラリアのクイーズランドの臓器移植サービスセンターでレシピエントコーディネーターをします。
 そこに日本でできなくて、移植のために日本の方がお見えになりますが、非常に残念なことで、お気の毒なことだと思います。
 大変な費用がかかること、移植というのはとても大変なことで、精神的にも、家族や友達が支えてくれることが必要なのですが、そういった意味でも、いろいろな困難を克服して、わざわざ外国で移植を受けなくてはならないのは大変だろうと思います。
 日本人の患者を支えるためのコーディネイターもおりますが、その方のお子さんもオーストラリアで移植を受けられたという経験を基になさっています。
 オーストラリアでも、このように努力をしているのですが、そのようなことを見るにつけて、日本で脳死からの提供があり、早くできるようになればと、私も遠くから願っています。

司会
 ありがとうございました。
 他にどなたか。矢永先生どうぞ。

矢永氏
 先ほど、スターズル先生から言われた言葉の中で、非常に同感だと思ったことについてお話させていただきたいと思います。
 移植医が前に出て、ドナーがでないから、患者さんが移植を待ちながら死んでいくのだと、私たちも何回も言い続けてきています。
 それから、私たちがそれをいうことが、かえってプラスではなくて、むしろやりたいからおこっているのだとか、いろんな批判を受ける結果になります。
 移植を日本で推進させる、あるいは定着させるには今の時期プラスになっていないとお思います。それでは、みんなじっと法律ができるのを待つのかというと、それでは、先ほどの繰り返しになりますが、待っている患者さんが亡くなっていってしまうことになります。
 是非、移植を受けて、生を享受しておられる、このままでは死に切れないと思って、チャレンジし、うまく行って、第二の人生をエンジョイされている方達が、是非もっと積極的に、もっとと言いますか今でも積極的にしていただいているのですが、より頑張っていただければと思います。
 私がいろんな移植を受ける、移植を待つ患者さんを診ていて思うのは、移植を受けるということは、ある意味で我ままだと思います。
 自分が与えられた臓器が寿命で余命が決まっていくという状況、そしてそれに満足できない、それで我ままをするのであれば、その我ままをした後に、第二の人生で、人のために貢献できるというか、我ままの後に人のためになることをして、結局は社会にとってプラスになってくれることを考えてほしいと思います。
 今の日本で移植医療を推進するには、皆さんが頑張っていただくということが一番だと思います。

司会
 今回はトリオのほうから移植を待っている方がこういう場に出て話してほしい。移植を希望される方々の積極的なお話を伺いたかったのですが、なかなかこういう場でご自分のことを発言しにくいと言われたのが現実なのです。
 そういう意味からも、移植を受けて元気になった、その方達が発言していくというこは、非常に重要な意味を持っているのではないかと思います。ほかに、どうぞ。

発言者(女性)
 全国心臓病の子供を守る会という会の会員になっておりまして、今年の冬に移植部会をその中で発足させております。
 先ほど竹内基準のお話がありましたが、その基準が出たときにも、同じ部会を設けたのですが、なかなか世の中の状況ですとか、会の中での問題ですとかありまして、進みませんでした。
 ところが今回はものすごく期待をしておりまして、今日はこのような会に参加させていただいて、本当に良かったなと思っております。マスコミの方もいらしておりますので、是非お願いしたいのですが、今年の7月に朝日新聞だったと思いますが、移植反対の意見広告が2回ほど載ったのを私は記憶しております。
 先の移植学会のことも、あまり報道はされなかったのですけれども、反対メンバーがビラを配ったという報道だけが私の目に付きました。
 そういうことがありまして、反対の方達の行動だけがでてきております。
 一番問題になっているのは、反対の内容が本当に科学的にあっていて反対をしているのなら、それは考え方の問題と言えると思っているのですが。その意見広告の中では、先ほど木内さんがおっしゃっていた移植に対する考え方というのを、本当に辛らつな言葉で捕えながら、人の死を待つのかという形で、一点理由が述べられていたかと思います。それから、移植対象となるドナーは40歳くらいしかいないのだから、決してドナーは出てこないのだというようなことがでていました。
 医学も進歩して、いろいろ変化していると聞いておりますので、事実はだいぶ変わってきているということと、移植患者、実際に受けた木内さんのような方の、思いというのがもう少しきれいに報道される中で、あのような観念的反対ができない状態を、もう少し建設的な反対が出していけるような状況が、報道の中で造り出せていってくれればいいなと思っています。
 私どもの会の会員は約5,000家族で成り立っています。
 先天性の心臓病の子供たちが多いものですから、即移植対象者にはならないのですけれども、近年医学の進歩で、感染症などをクリヤーしながら生き続けておりますと、もう手術のしようがなくて、やはり移植しかないという子供たちがでてきております。
 初めて会員の実態調査をしましたら、不十分ながらも43名の者が、移植と先生のほうからいわれている実態をつかんでおります。
 そのようなことを考えますと、今日明日の人たちではないのですが、是非とも今日本で再開しながら、私たちの子供の時代には、移植医療が確立していたらという、ずうずうしい考えを持っているのですけれど。
 その一つの歩みとして報道のほうで、事実をもっともっと広めていただけることをお願いしたいと思います。私たちも、患者団体として頑張っていけたらと思っております。

司会
 ありがとうございました。
 もう時間ですのでそろそろ閉会にいたしますけれど。ではどうぞ。

青木会長
 今のご発言なのですが、二つあると思うのですが、一つは、そういう反対派の方々に、正面だって、例えばトリオだとか、お宅とか、日本移植者協議会とかがですね、また対抗して意見広告を出すという方法も一つ。それから、今あなたがご指摘になったようにあの中身は本当に問題にするに足らない、失礼ですが。
 僕は反対意見結構だと思うのです。民主主義ですから。だけれども、我々レシピエントから言わせると、あれは根拠が非常に薄い、薬の問題でも、私達は薬を飲んでますがちゃんと生きてますし、何の問題もないわけで。
 ですから、あのようなことに正面だって反対するのも一つだけれども、無視する、どうぞと、おっしゃりたいことはいってください、しかし根拠が薄いから、私たちはそんなことには反応しませんというのも一つのアゲインストだと思うのです。
 私どもも真剣に討論しました、お金を集めて意見広告も出したいとは思いましたが、この際大人になろうと、同じレベルにはなるまいということで、あえて意見広告は出しませんでした。
 それが答えだという意味です。

司会
 最後にこれだけはという方がいらっしゃいましたら。
 いかがでしょうか。
 おいでになりませんようですので。今日はたいへんお忙しい中おいでくださいまして、また演者の皆様方ありがとうございました。まだまだ、ディスカッションしたいことはあるかと思いますが、最後にまとめとして、言わせていただきますと、矢永先生の教室でも、コーディネーターの方が活躍しております。
 そこからいただいたお手紙、キューピーレターのなかに書かれた言葉を、まとめの言葉にしたいと思います。
 移植を待って、オーストラリアで移植を受けられた患者さんのお母さんの言葉なのですが、「絶望の中で死を待つより、希望の中で死を待ちたい。」希望の中で死を待ちたいという気持ちでオーストラリアに渡って無事移植に成功しました。
 希望の中で死を待つのではなく、生を、生きることを待ちたいと、希望をもって生きることを待ちたいと、これが移植の成功だと思います。
 日本も早く、希望をもって移植を待てる国になってほしいと思います。
 これを結論にしたいと思います。
 本日は長時間に渡りまして、ありがとうございました。

荒波事務局長
 外国からおいでくださいました皆様ありがとうございました。
 横田先生、総合司会ありがとうございました。シンポジストの皆様ありがとうございました。4時間に渡る講演に最後までご参加くださいましてありがとうございました、この後レセプションがございますので、是非ご参加ください。