トリオ・ジャパン会報 第7号 1994年5月25日発行


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シリーズ「私の思い」No2.
「特発性心筋症からの生還 -夫の病と共に闘った妻の心情-」

安田 朝子

私は、緑の山々に囲まれたとても素晴らしい環境で、老後の計画などもしなが
ら、幸せな生活を家族と共に送っていました。そんな矢先、主人が病院で「特
発性心筋症」と診断されました。最初は、軽い気持ちでいましたが、この病気
が難病中の難病であるということを知り、それからは気の重い辛い日々が続き
私も、主人もその病名が信じられず、再度大学病院で診察を受けました。…が
同じ結果となったのです。

私にとっても、家族にとっても一家の大黒柱である主人です。これからの生活
や子供たちの将来を考えると気が狂ってしまいそうでした。そんな私への気遣
いからか主治医は「十年は僕が保証するよ」といいました。その言葉を信じて
闘病生活に入り3年が過ぎました。病状は私の目から見ても明らかに悪くなる
一方で少なくしていた仕事の数も仕事自体を止めざるをえませんでした。主人
の一歩も踏み出せない鍵のかかったような心臓に入退院を余儀なくされ、経済
的にも、精神的にもどんどん追い詰められていきました。

この頃になると主人の体はやせ細り、体力も衰弱の一途をたどるばかりで、ご
飯茶碗さえも落してしまうほどだったことを覚えています。そんな様子から、
死はそう遠くはないと感じられ、思い気って主治医を訪ねました。「見ておわ
かりかと思いますが、特発生心筋症は5年生存すれば長生きなほうです。交通
事故にあわれたと思ってあきらめてください。」と宣告されました。その後、
私はどのようにして自宅に戻ったのか記憶がありません。取り乱していたのだ
と思います。しばらくして、いくらか落ち着きを取り戻した後、短い命であれ
ば悔のない治療を受けさせて上げたいと考え、大学病院への転院を決めました。

大学病院へ移ってからも、主人は心不全となり生死の狭間をさまよっていまし
た。担当医の懸命な治療もあってか一時は回復に向かいましたが、やはり入退
院を繰り返していたのです。主人も自分の死が迫っているのを感じるようになっ
ていったのでしょう、心臓移植のことを真剣に考えるようになりました。「移
植手術を受けてもう一度生きたい」と私に主人は訴えたのです。「トライして
みたら」と私も答えました。その後の部長回診のとき、主人は神に祈るような
気持ちだったのでしょう。「移植が受けたい」と内科部長にいったそうです。
その言葉に、先生は非常に困った表情で病室を後にしたそうです。担当医は、
患者の気持ちを抑えようと思ったのでしょうか、「心臓移植は50歳までです」
といったそうです。主人は、「50を過ぎるものは、死を待つだけなのか」と
食ってかかったそうで、その言葉に担当医は心を動かされたのか、後日主人に
「安田さん、一緒に前向きに考えていきましょう」といってくれたそうです。

難病にかかった主人を見るにつけ、私は自分自身の体半分をもぎとられたよう
な思いをしました。いろいろ相談したいこともありましたが、長い闘病生活で
苦しむ主人にはとても相談できず、どうしていいのかわからないまま、日々は
過ぎていきます。そんな私を暖かく支えて下さったのが、担当医であり、看護
婦さんたちであり、主人の同級生のみなさんでした。娘たちも親を思うこころ
からでしょうか、自分たちにできることを自分なりに精いっぱいやってくれた
と思っています。あるときは学校のシスターに自分の父親のことを話し、ロザ
リオとルルドの泉の水を頂いてきました。その水を飲むと病が治るとことを信
じて一滴づつ飲む主人の姿を見、娘たちも心から応援をしていました。

そんな主人に私は絵を描くことを勧めてみました。今までに絵を描いたことな
どない人でしたが、その絵を通して担当医や看護婦さんたちに励まされ、その
勇気づけに支えられて奇跡的にも点滴の外れる朝を向かえることができました。
この日の朝は、看護婦さんの「やったね」という声と拍手に病室中、溢れてい
たそうです。数日後、悲しいできごとがおきました。同じ病気で一緒に悩み、
苦しんだ仲間の命が消えてしまったのです。主人は、この病気の恐さを再認識
し、一層心臓移植を受けたいと考えるようになりました。その後、担当医、ケー
スワーカーの尽力により、移植手術を受けられることになりました。その準備
のため、東京女子医大へ転院をしたのです。この時ほど、どんな境遇にあって
も最後まであきらめず希望を持ち続けることで必ず道が開けるのだと感じたこ
とはありません。私たち家族全員の夢でもあった心臓移植を大勢の方々の温か
い心に支えられ掌中に収めることができたのです。そんな喜びの一方で、不安
も多くありました。

私たちが移植を考えた当時の認識は、成功率も低く、「雲の上の夢のおはなし」
といったものでした。しかし、大学病院で見せられたデータにはアメリカの病
院の成功率等が載せられていて、認識は大きく変わりました。しかし、認識は
大きく変わったものの、移植治療では家族の決断が大きく関わってきます。そ
の決断で主人の命が大きく左右されるのです。悩み苦しんだ私たちでしたが、
どのような結果に終っても後悔をしない約束を皆でしました。主人も覚悟を決
めた様子で「これからは静かな心で心臓移植に望める」と気力をふりしぼって
いました。主人は、「これまでの命であれば、難病の人々に命を捧げよう、何
かの役には立つだろう」と考えたとき、負っ切れた感じがしたそうです。それ
と同時に死への恐怖も取り除かれていったといいます。

移植への準備も着々と進み、受け入れ先の病院も決まって、一人不安を抱えて
いた頃、女子医大の先生がトリオ・ジャパンを紹介してくださいました。先生
は「世の中にはこんな優しい方もいるのです」と私を励まして下さいました。
私は、トリオの集まりに心を休め、癒すことができ、主人の闘病生活を一緒に
闘ってきたことは、本当によかったことだと思えたのです。

出発の日、多くの方の心からの激励を心に納めて夢と希望と成功の祈りを乗せ
てロスに向けて旅立ちました。はじめての海外で、この先どうなるかの見当も
つかず、頭が真っ白であったことが思い返されます。到着後、河田先生の診療
室に急ぎ診察を受けました。即入院となりました。病状判断会議では移植順位
は一番にランクされました。数日後には心停止となり、「ここまで来たから後
悔はしないよなあ。子供たちを頼むぞ」といって私の手を握るのです。「父さ
んもう一歩よ、頑張ってよ」と励ましました。そんな危機もドクターたちの懸
命な努力により奇跡的に一命を取り留めることができたのです。

3月2日、ドナー出現の知らせがあり、いよいよ主人のトライする日がやって
きたのです。主人は「心臓も資金も全てが滑り込みセーフだ」といいのこして
Vサインしながら手術室に消えていきました。8時間後、面会の許可が出され
ました。喜びと不安がいり混じって混乱しながらも恐る恐るのぞいてみました。
主人の顔は、薄く赤みがさしていて、心電図もしっかりとした波形をうち、胸
のあたりもリズミカルに動いています。そんな様子に「すごい、すごい」と連
発し、「ああ、助かったのだ」と思いました。日本で一人留守を守る娘に連絡
をとり、報告しました。娘の喜ぶ声に移植手術の成功をかみしめ、成功を家族
で喜びあったのでした。10日後退院の日を向かえ、UCLAの病院の中庭で
腰を掛け、久しぶりの外気を満喫し遠くを眺める主人は、今生きているという
こと、その喜びを噛みしめているようでした。居住先でお世話になっている先
生をはじめ、ロスのボランティアに参加する方々に支えられ、50日知覚の静
養も無事に終りをつげ、サンタモニカよ、ドナーよ、ドクターよ、ナースよ、
主人に愛のギフトを本当にありがとうと叫ぶ思いで日本への帰途につきました。

主人が難病の特発性心筋症に侵されたことにより、多くの感動や喜び、人の優
しさ、温かい心、また素晴らしい出会いをたくさん頂きました。この体験は家
族の宝であり、大きな財産になったと思います。私たちが、普通の生活を送っ
ていたら、とても知り得なかったことばかりです。7年間の苦しい闘病生活で
したが、学べることも多くあり、感謝すらしています。娘たちも1回りも2回
りも大きく成長し、将来の夢や希望を頼もしく語る様子を主人と二人で見守っ
ています。拒絶反応の心配は、なんどきも頭から離れませんが、今生きていら
れることに比べたら、本の些細なことに思えます。ドナーへの感謝は、日増し
に大きくなり、主人も「一日でも長く生きて、世の中のために何かお役に立ち
たい」と申しております。

主人は、とてもラッキーな人であったと思います。ついこの間も、移植が海外
のため、思うようにことが進まず、幼い子供を残して旅だってしまった若い母
親の話を耳にし、胸のつまる思いを致しました。助かるはずの命がまた消えた
という事実があり、一日も早く日本での臓器移植治療ができることを望みます。
そして、私たちと同じこの幸せを、多くの方に分け与られる日の近い事を祈っ
てやみません。



<安田義守氏>(家族:妻、娘2人の4人家族)


1987年
特発性拡張型心筋症発症 以後入退院を繰り返しながらの治療が続く。
心不全の治療7回
心臓肥大・心胸比70%・呼吸困難・心臓衰弱・手足浮腫・肝・腎臓機能低下などの症状に対して、ニトロダーム、ニトログリセリン、利尿剤、強心剤など12種に及ぶ薬物療法を行う。
1991年
徐々に悪化。この年、稼業を廃業する。
体重は70kgから53kgに減少し、体力が低下して一日中ベットで過ごす日々を送る。
日常生活も介護が必要。
1992年
T医大八王子病院に転院。
1993年1月
移植を希望して、東京女子医大病院へ転院。
1993年2月17日
心臓移植のため渡米。妻、娘1人同行して、一人は日本に残る(受験のため)。
UCLA病院に入院
1993年3月2日
心臓移植手術を行なう
1993年3月13日
退院
1993年4月10日
帰国
東京女子医大病院に転院
1993年5月10日
退院
以後月2回外来通院中。
社会復帰を果たし、ごく普通の生活をおこなっている。
トリオ・ジャパンの副会長として精力的な活動を行っている。
1994年4月
東京女子医大病院に移植後一年、検査のため入院。