トリオ・ジャパン会報 第6号 1994年3月25日発行


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「移植者として」

日本移植者協議会 大久保通方

 日本移植者協議会は、発足当時からトリオ・ジャパンと協力し日本における臓器移植の推進に努力しております。しかしながら私たちの努力と希望とは裏腹に、臓器移植は3年前の状況とかわっておりません。それどころか腎臓移植は減少しているくらいです。
 もう読者の方々も耳にタコができるくらいお聞きでしょうが「どうすれば臓器移植が推進するのか?」これが長い間の命題となっております。
 未だに臓器移植法は制定されておりませんが、遅くとも今年中には制定されるでしょう。しかし、それで終わりでなくそこから始まるわけですから、やはりみんなで「どうすれば臓器移植が進むか?」を考えなければなりません。様々の方法が考えられますし、人それぞれの立場があり、立場の違いによっても方法論は違っていると思います。
 私たち移植者は、移植医療のすばらしさを身を持って体現しているわけですから、先ず私たちが社会に対し移植者の存在を知らしめなくてはなりません。私たちの周りは移植関係の人も多く、移植に理解ある多くの人たちと接しておりますので、つい社会では移植が当然のように受け入れられていると錯覚しがちです。一般の人には移植はあまり考えたことのない、遠い存在でしかありません。それを念頭に置いて考えないと、大きな間違いを犯すのではないのでしょうか。では一体今後どうするべきなのでしょうか。
 移植医療は他の医療と大きく異なり、患者側のみでは成り立ちません。必ず提供者という協力者を必要とします。今までその協力者の多くは患者の家族でしたが今後は家族以外が大多数とならなければなりません。
 現在日本には、約6000人の腎臓移植者と約100人の肝臓移植者、数十人の心臓移植者がいますが、その人たちの存在が一般に認知されているとは言い難い状況です。やはり先ほど云いましたが、先ず移植者の存在を広く知らせ、その存在を通じ移植医療が一般の人にとって身近なものとすることが必要です。一人一人の移植者が移植者であることを自覚し社会に対し積極的に関わって生きていく必要があります。確かに現実に移植者に対する偏見は存在します。
 先ず社会に対し移植者としての存在を宣言しなければ何も始まりません。偏見には団結し、社会及び関係機関に訴えていけば良いのです。胸を張って移植者といえる社会を作っていかなければなりません。このため、日本移植者協議会では移植者スポーツ大会を毎年開催し、世界移植者スポーツ大会に参加し、又日本誘致も進めています。
 恐らく日本の一般の方々は、腎臓に限らず、心臓や肝臓移植を受けた人たちが、100mを11秒台で駆け抜け、1500mを4分そこそこで走り、100mをバタフライで泳ぎ切ることを信じられるでしょうか。2年に一度、世界中の移植者100人が集まり、信じられない光景が繰り広げられます。
 移植を受ければ一般の方と変わらぬ生活が送れるのです。死からの生還だけでなく、新しい生命が蘇るのです。これは移植者自信も自覚する必要があります。もちろん体調と相談しなければなりませんが、体調さえ良ければやはり蘇った「いのち」に感謝し、その「いのち」を思い切り満喫して欲しいと思います。
 元気に生きることが移植を受けたものとしての務めではないでしょうか。
 もう一つ、社会の中で移植者として生きていくことを支えるために移植者会があります。一人ではできないことを多数の人が協力することにより実現可能にしていくのです。日本移植者協議会では結成以来2年間活動の中心を組織拡充に努めてきましたが、今後はより積極的に外に向かって運動を展開していきます。
 今までは国会誓願以外あまり行っておりませんでしたが、関係機関の働きかけも、積極的に行っていきます。その先駆けとして現在は臓器移植法案の内容に関して厚生省及び国会議員への働きかけを行っております。
 これは私たちの力だけでは実現しませんし、また、1年や2年で実現できることではありませんが、教育の問題があります。
 日本における生体腎移植は米国の人口比の半分にも達していません。
 米国では腎臓移植のほぼ4分の1が生体腎で、その数は2500〜3000です。同じ比率で日本でも行われているとすれば年間1200〜1500の生体腎移植が行われているはずです。
 しかし現状は年間500程です。死体腎だけでなく、生体腎も日本では少ないのです。これはもう日本人の本質が移植に向かないのかもしれません。生体腎といえどもこれは無償の愛の行為です。そうでなければ提供を受けることはできません。
 親であろうと、兄弟であろうと自分心を犠牲にして、愛情から提供を申し入れるわけです。
 本質的にはその気持ちは純粋な無償の愛の行為でなくてはならないんです。そして肉親に対する愛情が隣人愛とつながり、人類愛へとつながっていくのです。この無償の愛が無いことが生体腎移植にも死体腎移植にも関わってくるのです。
 骨髄移植もドナーが集まらず苦労していますが、骨髄バンクができる前は、「〇〇さんを救う会」という会が各地にでき、少なからず患者を救いました。骨髄バンク設立に際しこれらの方々に登録をお願いすると、殆ど断られたそうです。「〇〇町の〇〇さんのためなら協力するが、見ず知らずの人のためには提供を拒否する」これが村社会日本の現状です。
 愛とは無償の行為であり、愛が肉親愛から隣人愛そして人類愛へとつながることを自覚して初めて移植医療が日本に根付くと思います。
 そして、このことを実現するには教育しかないと思います。まず子供たちから始めなくてはなりません。もちろん大人の人にも訴えていく必要がありますが、未来社会のために、21世紀のためにも今すぐ子供たちに教育をしていかなくてはなりません。
 どうぞみなさまのお力をお貸しください。
 いつか日本が大きく変わることを祈りましょう。それまで元気に生き、この目で確かめたいと思います。


シリーズ 「私の思い」No.1「腎臓移植を受けて」

金子恭介

 早いもので腎臓移植を受けて4年になろうとしている。
 腎臓に異常があると診断を受けたのは17年前だった。その日からいつかは腎不全となり透析が必要になることは理解していたが、どこか他人事であり遠い話としか思えなかった。
 食事制限も始まり、徐々に慢性腎炎が進行する中、自分の病気に対する認識の甘さから、腎臓の終末を早めてしまったことは今更ながらに恥ずかしくも残念である。
 腎炎を患っている方に、「自分は調子がいいから」「医者がまだ大丈夫と言っているから」と過信している向きを感ずることがある。
 自分もそうだったが日頃は医者の指示に注意を払い、それなりに我慢をして生活をしているが、何かの拍子に「これ位は大丈夫だろう」と過ちを犯してしまい、結果取り返しのつかないことになってしまう事があることを忘れないで欲しいと思う。
 透析機につながれてから反省しても遅いのだから。
 私の場合は、38℃ほど発熱していたのを、医者に相談もせず勝手に解熱剤を使用して仕事で地方に行き、3日間同じような事を続けた。4日目には激しい嘔吐、心臓も苦しくなり、5日目には緊急入院となった。
 翌6日目には無尿となり、始めて人工透析導入の可能性を指摘された。
 シャントを作る時間的余裕もなく、肩口から挿管しての透析となったがそれでもなお信じ難いものがあった。
 透析機を目の前にして、透析そのものへの不安、聞いていた不均衡症候群への恐怖、透析生活が未来永劫続くことになるかもしれない不安と絶望感、離脱への一縷の望み、複雑な思いが錯綜する中、緊張しながら初めての透析を受けた。
 いま振り返ってみると、透析導入期の心境は、未来への絶望感、すべてへの不安、離脱への希望、生きるために仕方ないという諦めと妥協、今日に至らしめた自分への悔悟の念などが入り乱れ、多くの情報を理解し、冷静に物事を判断できる状態ではなかった。透析機に血液が流れるところは何とも言えず、機械が故障したら、もし間違いがあったらとか不安と緊張のしっぱなしであった。そんなとき、担当の看護婦が、機械のシステムや機械の安全性などを説明し、安心させ、落ち着かせることを第一にしてくれたことはありがたいことであった。
 2回、3回と透析を重ねていくうち、不均衡症候群に悩まされながら、機械に頼らなくては生きていけない、まるでサイボーグにでもなったような、人間ではなくなったような感覚に陥り、気が滅入ってしまい唯生きているに過ぎない存在と虚無的になりつつあった。 残り15年良くて20年機械に繋がれながら生きて行くだけの人生と勝手に決め込んでいるとき、看護婦に「もし残り15年の命と思うならその15年を大事に生きたら」と云われたことが、いたずらに励まされるより印象的で、生きることの意味を考えさせられた。
 一時期離脱の可能性にも希望を持ったが、叶わず、このまま機械透析を続けるか、CAPDにするか、移植を希望するか選択をせまられた。
 腎臓に異常が見つかってからこの日まで、腎臓移植と云うことを一度も考えてみたことがなかった。
 移植にも生体腎移植と死体腎移植があること、機械透析とCAPDの違いや説明を受けいずれにするか迷ったが、いまの時点で移植を希望することは生体腎を希望することになり、家族の誰かに腎臓提供を迫ることになる。
 私としては健康な体を傷つけてまで腎臓を貰いたいとは思えず透析を選んだ。
 透析も不均衡症候群がつらいこと、拘束時間が長いこと、食事制限、水分制限がきついこと、仕事柄出張が多いことなどから機械透析ではなく、CAPDに決めた。
 CAPD導入後は体調も良く、諸制限からも解放され、精神的にも安定を取り戻した。何より、自分の命を機械に任せるのでは無く、自分で管理できることが『生きている』事を実感させてくれ、命を取り戻した感じがあった。
 実際に CAPDを自分で管理して行くには多くの問題があった。
 先ず自宅では、ある程度衛生管理ができるバック交換用の部屋の確保、必要な機材や透析液1ヶ月分を保管する場所、感染を防ぐために必要な条件を確保することなど、ハード、ソフトあらゆる面に問題があった。
 特に感染に対する恐怖から、ほこりに対し必要以上に神経質になり、隣の部屋で子供が遊んでいることさえ気になった。
 いざ仕事に復帰する段になると、どこでバック交換を行うか、一回2kg、1日4回、計8kg*日にち分をどう運ぶか、液の保温は、手洗いは、衛生管理は、廃液の処理は、等々理解はしていたつもりでも実際にこれらの問題はかなりの障害となった。試行錯誤の結果、車をワゴン車にし、車内でバック交換をできるようにすることで解決はついたが、新たに車外から覗かれないための工夫や、炎天下の車内は高温状態となるがバック交換中はカークーラーが使用できない、エンジン停止時の液保温の確保など問題が出てきた。
 様々な問題があったが、それなりに解決し、幸い大事に至るトラブルもなく順調に推移してきた。
 移植後家族に「CAPDをやっているときは神経質で、何時もピリピリしていた、腎臓移植ができてほんとうに良かった」と云われ、自覚していなかったが、唯々失敗を恐れ、機械透析に戻ることを恐れていたこと、周りを見る余裕も、精神的余裕もなかったことに当時は気が付かなかった。
 体調も良く順調であったとはいえ、透析液の交換ができずにいると、アンモニア臭がしたり、だるくもなってきたりと、問題が全くないわけでもなかったがCAPDを選択したことを後悔したことは一度もなく、現状に満足していた。
 「あなたに適合するかもしれない腎臓が出そうですが、移植を希望しますか?」1990年7月14日12時30分、CAPDのケアーをしてくださっていた医師より電話が入った。
 一瞬の迷いがあったが、ともかく受腎の意志があることを告げると、すぐにT大学病院へ行くことを指示された。不謹慎ではあるが、他にも候補者がおり、自分が選定されるとは思っておらず、今後のために「呼び出し」を経験しておくのも良いだろうくらいんほつもりであった。
 レシピエントに決まったことが知らされ、入院を指示され、手術準備のため各科を受診してもなお、他人事に感じていた。
 ドナーから腎臓の摘出が終わり、最終的に移植がOKとなり、手術時間が決定されても半信半疑と云うか、本当にこのまま移植を受けて良いのだろうかとの思いが強まるのと、今更あとへは引き返せない思いとが錯綜し、中途半端な精神状態のままストレッチャーで手術室に搬送された。
 電話を貰ってから54時間後のことだった。
 約6時間にわたる手術が終わり、述語の検査が終了して病室に戻ったのが明け方4時頃だったろうか、麻酔から醒めかかったとき、多くの医療スタッフの中に以前の病院の主治医をみとめ深い感動を覚え、ありがたさと申し訳なさが入り混じりながらも、とても気持ちが安らいだ。又、夕方から夜明けまで一睡もせず、手術が無事終わるのを待っていてくれた家族が笑顔で病室にに来たとき、感謝の念とともに安堵感が生まれた。
 「移植後13分で尿が出たのでCAPDも抜管しました。死体腎ではこんなに早く尿が出ることは珍しいことです、よほど良い状態の腎臓だったのですね。」と執刀医に告げられた。
 不覚ながらこのとき初めてドナーがいること、ドナーの死により自分が救われたこと、提供された腎臓が自分の体内にあり生きて働いていること、ドナーにも家族があることなど思い至った。
 次第に覚醒してくると、自分に他人の腎臓が入っており機能していること、もとの持ち主はすでにおらずその腎臓で自分が生きていること、自分の体が組み替えられ人造人間の様で、自分がまともな人間でなくなってしまったような錯覚に陥ったりし、又、一人の死により自分が救われたある種の後ろめたさ、自分が選ばれたことにより自分よりもっと切実に移植を希望している方々が後に回されたのではないか、自分のために誰か苦しんでいるのではないか、様々なことが思い浮かび、いわく言い難い状態であった。
 ただ傷の痛さで自分を慰めているようなところがあった。
 移植直後は一つの終わりであり新たな出発でもある、不安定な時期であり移植できた喜びと、うわさに聞いていた拒絶反応への過敏な恐怖感、免疫抑制剤そのものへの拒否感、免疫抑制剤による副作用への恐怖感、透析には戻りたくないとの思い、今後の不安なども入り混じり精神的に非常に不安定になっていた。
 術語1週間、1ヶ月とたち、恐れていた急性拒絶もなく順調に回復し、空腹感と戦いながらも、移植とはこんなものかと軽く見るようになってきたようであった。
 確かに、感染予防のマスクもしていたし、手洗いウガイも頻繁に行った。水分もできるだけ多く接種し尿を薄くするようにも心がけてはいたが、勝手なものでおかれた境遇に慣れてしまうと、ものの考え方が自己中心的になり、手術後の初心を忘れてしまう。
 病棟内安静の許可が出ると早く病院内に、次は外出許可をとついつい先を急ぎ、「そんなに急ぎなさんな、これからのことを考えて無理はしないように」と注意されると、「患者の気持ちが分かっていない、無理なんかしたいのではなく、自分がここまで回復したことを何かの形で実感したいだけなのだ」と屁理屈をこね、移植した体にとって今何が一番必要なのかを考えなくなってしまう。
 結果、肺炎を起こし酸素吸入を受けることになり、自らの愚かさを思い知らされる羽目になった。
 移植もでき、副作用にもさほど悩まされず、ある程度精神的にも落ち着きができて、ふつうの生活もできるようになった。腎臓病が見つかってから移植し退院、今日に至るまでのことを反省も含めて考えてみると。
 腎臓移植が成功したとは言え、自分の腎臓をもっと大切にしていれば良かったとしばしば反省する。移植医療は病気治療の一般的な手段だといってみてもやはり自分以外の臓器を受け入れなくてはならないと云う、異常な状態であることには間違いない。慢性腎炎と診断されたときに腎臓と腎臓病についてもっと知識を得、対処すれば良かったと思う。
 自分が救われたことへの恩返しというか、自己満足のためかよく分からないが、このトリオ・ジャパンの一員としていただき、移植医療に関わっている方、移植希望の方、同家族の方、ドナー家族の方、生体ドナーの方等多くの方々にお話を伺う機会を得て多くのことを考えさせられた。
 移植医療を希望する患者の多くが、情報に敏感であること、又様々な知識を持っていることを知らされた。残念だが知識の範囲にとどまり、知識を生かして移植を受けるために自分の体調や生活に役立たせていないケースも多いこと。特に、嗜好品の自制に関しては、酒、煙草など移植の際良くないことはわかっていても「これくらいは」とか「移植が決まったらやめる」「なかなかやめられない」といった声を聞く。個人の自由といってしまえばそれまでだが、生体にしろ、死体腎ににしろ、誰かに腎臓を提供して戴いていることをもっと真剣に受け止めるべきだと思ってしまう。
 移植を成功させ、元気を取り戻すのは患者自身の問題だが、受腎するという社会的責任もあることをもっと強く認識していただきたいと願う。
 一人一人の移植患者(希望者も含めて)、家族の行動がこれからの移植医療の発展に大きく影響を与えることを認識していただきたい。
 自戒を込めて老婆心ながら。
 末筆ながら、私に腎臓を提供してくださいましたドナーの冥福をお祈りし、ご家族に心からのお礼を申し上げます。又、移植に変わってくださいました多くの関係者のみなさまと私の家族にも御礼申し上げます。