TRIO Japan News Letter

1999年6月1日発行 第13号
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支部便り (1)

 磯田 省三

 私は普段、レシピエントであるということを秘密にはしていませんが、病院へ行くときだけは別です。私は内科で診てもらっているので、辺りで診察を待っている人々は、当然肝臓の悪い方が大半なのです。特に、処置室に入ったときなどは、たくさんの人々が点滴をしているわけで、「あの方は脳症が出ているな」とか「あの人はC型」などと思ってしまい、口が重くなってしまいます。

 つい先日、私の隣で診察を待っている人が、その隣の人としゃべっているのが耳に入ってきました。

「この前先生から移植のこと言われたんやけど、断ってん」
「へえ」
「莫大な金がかかるしな、成功するかどうかわからへんし、
 仮に成功しても病院と縁切れへん。仕事もまともに出来へんと思うわ」
「そやな。失敗したらその場で死ぬんやし、拒否反応も怖いしな」

 私はいたたまれなくなって、

「あのー、失礼ですけど、私移植者な人ですが、移植のこと説明しましょか」

と言ってしまいました。

 すると、彼はまるで不審者でも見るような目で「い、いや、結構です。もう断りましたので」と言われてしまい、もうそれ以上は言えませんでした。

 先生から言われたということは、彼には移植できる可能性があったはずです。もっとさりげない話から入っていれば、彼にうまく説明できて、彼の人生が変わったかもしれないと悔やまれてなりません。

 しかし、このことを考えているうちに、日本で脳死移植が進まない理由が、この出来事に集約されているように思えてきました。肝臓病の彼ですらそう思っているように、一般市民の間でコンセンサスがとれていないと思うのです。さらに、医学界におけるコンセンサスもとれてないのではという疑問が湧いてきました。

<市民間のコンセンサス>

 一般の人々の移植に対するイメージでは、成功率は50%以下と思われています。これはマスコミにも大いに責任があるのですが、ニュースになるのは特殊な難しい移植か、カンパによる移植なわけです。前者は当然成功率が低く、また後者は(私は肝移植のことしかわかりませんが)、余命一年となってから移植OKになり、それからカンパを募り、目処が立ってようやく海外へ行くことが多く、しかもその場合外国人ですから待機時間が長く、ドナーを待ちきれず亡くなることがままあるわけです。この場合、移植の失敗ではないのですが、ニュースを見る側からすれば印象としては「失敗」になってしまいます。さらに成功のニュースよりも、失敗で亡くなったニュースの方がインパクトが強いのも仕方ありません。

 また、移植後レシピエントがどんな生活をしているかということについて、一般人のイメージは、厳しい制限の下で拒絶反応に怯えながらの生活で、極端な人は延命処置に近いものと思っています。前述の人もそうでしたが、私の知人達も、私がハードなスポーツをしたり、夜遊びをするのに驚くのです。移植は成功率が80%以上で、術後健常人と変わらぬ生活ができることを知ってもらうことは、大変重要だと思います。

 さらに、日本での脳死肝移植については、「ウイルス性肝硬変は除く」に近い、優先順位の問題があります。1997年に法律が出来た時点では、B型はほとんど再発しない方法が確立され、C型も再発するものの抑えられるようになっていました。しかし、今の優先順位は7年以上前の認識のままなのです。肝臓病では圧倒的に多いウイルス性肝硬変でも、移植できる可能性が大いにあることがわかれば、民意はもっと盛り上がるはずなのです。

<医学界のコンセンサス>

 医学界というのは、政府に対し大きな力を持っていたはずです。政府に対し働きかけているのが移植医だけに思えるのは、私の間違いでしょうか。特に、内科医が移植に対し消極的であるのは不思議でなりません。肝臓病や腎臓病の患者はほとんど内科で診てもらっているはずです。そして、内科医は移植医よりもはるかに多いのです。内科医の間でコンセンサスが得られていれば、政府に対し大きな力となり、あんなに腰の引けた法律にはならなかったと思うのです。

 もし、ドナーが現れ出したときに、開業医も含む内科医が、移植を意識して診療にあたり、時期をみて移植病院に送り、移植後レシピエントを引き取って診療できるのでしょうか。今のままでは数少ない移植認定施設に縁故のある病院や患者のみ移植の恩恵を受け、その他の患者は移植にたどりつけないままになってしまうでしょう。つまり、機会均等ではないのです。たとえ、移植が受けられたとしても、大病院の近くへ引っ越さなければならないことも考えられます。

 

 我々は移植が進まない理由を、腰の引けた法律によるドナーの出ない体制のせいだと考えて、この体制を改善することや、意思表示カードの普及や意思表示の方法ばかりに気を取られています。もちろん、これが直接的な原因ですが、この腰の引けた法律になってしまった根本原因を見据え、それを正すことが遠回りのようでいて実は一番近い道なのではないでしょうか。

(いそだ しょうぞう・関西支部長・独にて肝移植)


脳死臓器移植第一例目に寄せて

青木 慎治

 その日、空は大荒れであった。機体は右へ左へ大きく主翼を傾け、高知市上空を旋回する。

 ついこのあいだ、脳死からのドナー情報で湧いた移植医療第一号の発信地としてふさわしい出迎えなのかもしれない。

 高知新聞社主催で、いわば市の政治経済の舵取りを果たす七十余名のリーダーたちの集いでの講演を依頼された。

 出迎えを受けて市内に入る。

「高知赤十字病院は会場への途中でしょうか」

 私は第一番にこの病院のたたずまいを見てみたいと思った。

 テレビ報道でしばしば拝見した建物がまもなく見え、私たちは内部にいれていただいた。てんやわんやの舞台裏を垣間見る思いであった。

 日頃、脳死移植の第一号はどこから出るのか、これは心の中であれこれ可能性を考えていたものだ。

 それが高知とは意外であった。しかし、考えてみれば、坂本龍馬、武市半平太、岩崎弥太郎、近いところでは吉田茂の岳父、牧の伸顕など、幾多の革新的人士を生み出した高知こそ、一九九九年、待ちに待った完全なドナーカードを持たれたドナーの発生地にふさわしいのかもしれない。

 あれだけの騒ぎの中で、最後まで「愛の贈り物」を実行するお気持ちを持続されたご遺族の方々に支えられ、日本中の六名のレシピエントに福音を授けられた、あの「いごっそ(土佐弁で強固な意志を持った人の意)」ぶりは、この土地柄にして成立し得たのかもしれない。

 「今は移植医療について、自己の経験から…」

 講演を進めて行く一時間半は瞬く間に過ぎた。

 会場の熱気は演者の私にも伝わり、放っておくと、いつまでもしゃべり続けかねないほど乗っていたし、終了後の質問も活発であった。

 一昨日講演から帰り、今、会報のための原稿を書きながら、第二、第三の移植手術は、どのような「お国柄」に支えられ、「命の贈り物」のスピリットの発露は、どのような背景から育まれるのであろうかと、思いを馳せる…。

 私自身の体験からも、待ってはならぬ、他者の死であるが故の矛盾。心の相剋。しかし、死なくして新たな生のあり得ない、移植医療の宿命は容易なことでは解明のつく問題ではない。

 正面から素直にこの苦しみを甘受しながら、やがて他者の死によらない、人工臓器の出現にかすかな期待を持ち続けながら、当面、今日の生命を救うため、私たちはめげずこの道を進まなければならないだろう。

1999年4月9日

(あおき しんじ/トリオ・ジャパン会長)


新聞記事から

<時代の風>「提供する自由を」妨げるな

曽野 綾子

(1999年3月7日付毎日新聞)

 高知市の高知赤十字病院で脳死の状態になった40代の女性が、初めて脳死状態からの移植手術の臓器提供者になったケースは多くのことを考えさせた。

 脳死段階での臓器提供は、あくまで個人の生き方の選択を示すものであるはずであった。

 臓器移植の基本は、受けたい人と贈りたい人との間だけで行えばいいことなのである。あげたくない人と受けたくない人には、全くかかわりのないことで済むはずのものである。

 現代医学が、脳死をもって死とすることに、科学的判断や事実の累積からほとんどの医師が反対していない以上、その行為は非常識なとてつもないものではなく、人間の避けられない運命に対する一つの解釈の現れとも考えられる。「脳死は人の死ではない」と主張するのも自由なのだが、私の知人の看護婦のように、「脳死状態で数日すると、鼻の穴などから腐敗臭がしてきますから、だれにでも脳が死んでいることはわかると思いますけど」と言う人もいるのである。

 これだけ脳死段階からの臓器移植が遅れたのは、自分が臓器を提供しないだけでなく、他人の提供も妨げる人たちがいたからである。

 このことを思う度に、ワープロと文学の関係を思う。今でも「ワープロなどで文学が書けるわけがない」という人がいる。こういう人は決まってワープロを使えない人なのである。原則は、だれでも、自分の好きな文房具を使って小説を書けばいい、ということだろう。自分がワープロを使えないからといって、ワープロで書く文学はすべてまがいものだというものではない。同じように臓器をあげないのは自由なのだが、提供したいと願う人の心を踏みにじることは越権なのである。

 

 私は昔、脳死臨調のメンバーの一人だった。中で「臓器を取られる」という表現を聞いた時、はっとした。臓器を「取られる」のは弱者で、それは「損をすること」「泣きを見ること」だと考える方も、私の気持ちからははるかに遠いものであった。私のような者は「取られる」どころか「さしあげさせて頂く」と思っていたからだった。私の母が献眼をした時から、私たち家族が彼女の死を明るく感じられるようになったのは、まさに聖書にある「受けるより与える方が幸いである」という逆説の持つ重さを実感したからだった。

 この問題は決して複雑ではない。「取られる」と感じる人からは、まかり間違っても臓器を取ることがないようにすればいい。同様に「取られる派」も「さしあげさせて頂く派」の自由をじゃましないことだが、脳死臨調では、はっきりと妨げられたのである。私の印象の中では、少なくともそういう記憶と印象が残っている。反対派のために、今までどれだけ多くの人が命を落として来たかしれないのだ。

 諸外国では、既に移植は日常的なことだという。心臓移植は世界で年間4,000例。日本人で海外で手術を受けた人の生存例は、移植から2年で98%、5年で78%。脳死からの肝臓移植は世界で年間約6,000例。海外で行われた脳死からの日本人の肝臓移植は、1年生存率が73%、5年生存率が62%だという。

 受ける方も、提供する方も、こうした事実の背後には「生きる」とは何かという自分なりの定義、個人の哲学、一人だけのささやかな希望、独自の美学に基づいた選択の自由があるはずだ。

 もちろん自由と言っても、医学的判断に基づいた常識の範囲内であるべきだということは当然である。しかし生物学的に生きていても、今の自分ではない自分なら、それは生きていることにならない、と夫も私も実は秘かに思っている。今の自分が理想だということではない。今の偏った自分が自分なのである。だから脳死の判定が出れば臓器を提供したい、と私たちは思い続けて来たが、年齢の制限を受けそうな年になってしまった。それなのに夫はまだ「僕は年に似合わず元気で内臓もどこも悪くないから、交渉次第で何とか使ってもらえるかもしれない」と闇(やみ)商人のような期待を残している。

 

 今度、何よりも目を覆うほどのしつこさで無礼を極めたのが、NHKであった。NHKには、人間の悲しさを理解する力があるのだろうか。地震のニュース並みに「繰り返します」と三度も続けて同じ内容を読み上げ「では高知から中継でお伝えします」と飛行機の墜落事故並みのけたたましさだった。

 一人の人が今、亡くなろうとしているのに、と私は心の中で反抗的につぶやいていた。その方は、家族にとって愛された娘、大切な妻、とりすがって泣きたいほどのいとしい母であったかもしれない。大切な人の突然の死を前にして、家族はその悲しい事実に生きた意味を付加したいと願い、看病に疲れ果てた中で、世間の雑音と闘った。しかしマスコミはまさにハイエナのようにその死に群がった。

 今後すべての病院の構内には、マスコミの立ち入りは禁止すべきだ。情報公開のためには院内に一部屋もうけ、そこから定時、または臨時に、病院側がデータを静かに流すだけにしたらいい。代表質問があればテレビの画面から受ける。あれだけの人数の報道陣が「現場」につめかけて騒ぐ必要などこの時代に全くないだろう。

 臓器を提供された方に、私は一人感謝を捧(ささ)げている。あの騒ぎに耐えた家族の方たちの勇気にも、何よりも深い尊敬を抱いている。

 移植の結果がどうであろうと、それは一つの考えられる可能性であり段階だ。すばらしかったのは、その意図と行為そのものである。

 いつか質(たち)の悪いマスコミのだれかが臓器提供の問題に関して質問を投げかけた。

 「移植を受けた人が元気になって、詐欺や泥棒を働いたらどうするのですか」

 これは恐ろしい質問だ。詐欺や泥棒を働く可能性のある人なら、生かされなくていいという発想がはっきりと存在しているのである。

 

<脳死移植を考える>合法的行為に異常な報道

養老孟司

(3月17日付毎日新聞)

 臓器提供は個人の合法的な行為だ。それがあんなに大きく報道されたのはおかしい。僕が切符を買ってJRに乗ったのを、新聞の一面に書くようなものだ。

 海外で心臓移植を受けた日本人は40人以上いるのに、なぜそのドナー(臓器提供者)について何も言わず、今度の話だけ大きくなったのか。それはドナーが日本人だったからだ。臓器移植についての異常な報道には、日本人が共有する村落共同体の意識が関係している。

 単一民族、単一国家の幻想に支えられた日本人にとって共同体とは世間だ。世間には暗黙のルールがある。死とは世間から出ていくことで、脳死はそのときのルールの変更を迫った。 脳死議論を聞いて「なぜ無関係な人に発言する権利があるのか」と思っていたが、共同体のルール変更は全員の了解が前提となっている。だから、医師が勝手に決めていいのか、俺にもひとこと言わせろ、という感情が生まれたのだ。

 移植は特殊な緊急避難的医療にすぎない。それなのにメディアの見出しが不当に大きくなったのも、共同体のルールにひっかかると思われたからだ。しかも、自分たちが昔ながらの村落共同体のルールに従っていることに気付いていない。

 生死の判断を医者に任せろというと、パターナリズム(父権主義)と批判されるが、医療の現場は修羅場だ。かつて人工呼吸器が東大や周辺病院を含めて7台しかない時代があった。そこに8人目が来たらどうするか。医者はどの患者の呼吸器を抜くか、即座に判断する以外にない。

 村落共同体の論理を助長しているのが、サラリーマンが国民の7割を占める現状だ。結果的に日本中が世間である会社に迷惑をかけないという論理で動くようになり、プロフェッショナルがいなくなった。報道陣が病院の中を携帯電話持って走り回ったのも、病院や患者さんの迷惑よりも、自分が属する共同体のルールが重要だったからだ。

 僕は死には3種類あると言ってきた。死体に置き換えて考えるとよく分かる。自分の死体は経験的には存在しない。僕たちが普通死体と呼ぶのは第三者の死体だ。二人称の死体はただの死体ではない。だから二人称の死については臓器提供に家族の同意を求めるというように、特別に規定せざるをえない。

 二人称の死に直面した人にとって、移植は救いにもなる。自分の子供の体の一部が他の子供の中で生きていると考られるからだ。

 僕は臓器移植は禁止するものではないと初めから思っている。「私は移植は受けない」という人がいるが、法律は何かを強制しているわけではないので、言うまでもない。そういう人は、現在の自分の判断が未来永劫(えいごう)変わらないと思っている。だ

ががんだって告知されれば意見は変わる。真剣に考えれば意見は変わるものなのだ。

ようろう・たけし
解剖学者。北里大教授。東京大名誉教授。『唯脳論』『考えるヒト』など多数の著作がある。脳や身体をめぐる独創的な論考、エッセーに定評がある。

第19回トリオ・ジャパン談話会

「オーストラリアの移植事情」

 1999年3月11日(木)、第19回トリオ・ジャパン談話会が電通生協会館にて開催されました。講師にオーストラリア・ブリスベンの主任移植コーディネーター、グレッグ・アームストロングさんをお迎えして、オーストラリアの移植事情についてお伺いしました。

 当日はオーストラリアで移植を受けられた方々はもちろんのこと、コーディネーターやコーディネーターを目指している方、移植者、家族など多くの方々が参加して、なごやかに議論が進みました。

 

  オーストラリアという国は、どのくらいの大きさがあるかご存じでしょうか。こうしてアメリカの地図と重ねてみるとわかりますように、皆さんが想像されている以上に広い国なのです。しかし、ほとんどが砂漠や山脈地帯ですから、大陸の中でも人が住める場所は一部の沿岸部に限られていますから、人口はわずか1840万人です。ただ、先ほども申し上げましたように、「広い国」ですから、たとえばブリスベン−シドニー間は約1000キロも離れていますので、航空機などを利用しつつ、移植のための連絡が円滑に行えるよう努力しています。

 

 オーストラリアの臓器移植法の要旨は、(1)脳死段階での提供を認めること (2)本人または家族の同意に基づいて、臓器提供を行うこと。(3)臓器売買の禁止の三点です。日本とは違って、本人の同意が書面でなされる必要はありません。

 各臓器のはじまった年代を振り返ってみましょう。まず、腎臓が1960年代、心臓・肝臓・肺・心肺が1980年代、膵臓が1990年代です。膵臓の移植も成果を上げてはいるのですが、数はまだ非常に少ないです。

 

 オーストラリアの健康保険のシステムには、公的保険と民間保険の2種類があります。公的保険については、収入の1.5%を保険料として納めます。民間保険は、公的保険でまかなわれる以上の医療を受けたい人が加入するもので、私立病院などに関係しています。臓器移植については、公立病院で行われるようになっていますので、収入や保険によって待遇に差が生じることはありません。臓器移植に関わる全ての費用は、ドナー側もレシピエント側も全てが公的保険でまかなわれます。もちろん、通訳・手術代・術後管理など全ての費用です。だから、オーストラリア人の場合、臓器移植が必要になっても、自己負担はありません。

 臓器の配分について説明します。腎臓移植の場合には、コンピュータに登録されている待機者のリストから、HLA(白血球の型)が適合する2名が選択されます。レシピエントには、HLA検査に加えて、PRA (Panel Reactive Antibody パネル反応抗体検査:事前にレシピエントの血清と様々な抗原を反応させて、抗体反応の強さを調べること。結果は%で示される)も行っています。HLA・PRA・待機時間をもとに順位が決定されます。

 腎臓以外の心臓や肝臓については、ドナーが発生すると、まずはドナーが発生した州のセンターで待機していた患者から候補者を選定します。その州に適当な待機患者がいない 場合にのみ、他の州へ運びます。他の州に運ぶ場合であっても、臓器の摘出を行うのは、ドナーが発生した州の移植センターの医師が行います。日本はわざわざ移植施設の医師が摘出に行くようですね。

 この方法の良い点は、臓器の阻血時間が短くできること、システムやルールがシンプルでコンピュータなど不要であること、一番患者の状態をよく知っている医師が柔軟に判断できることです。肝臓の場合ですと、オーストラリアには移植センターは5施設しかありませんから、センター間の意志疎通もスムースです。

 コーディネーターの役割は、ドナー発生の連絡を受けて、臓器提供できる状態かを判断し、ドナー家族に臓器提供について説明し、移植センターの医師と相談してレシピエントを確定、そして臓器摘出・保存・搬送、ドナー病院および家族のサポートと、多岐にわたります。

 近年、臓器提供者の数の増加は横這いになっています。欧米に比べると100万人当たりの臓器提供率は低いのですが、提供者の75%が多臓器の提供であるということは、世界に誇れる点です。特に、肺の利用率は最も高くなっています。ちなみに、100万人当たりの臓器提供率はUNOS(アメリカ)が22人、UKTSSA(イギリス)が15人、オーストラリアが11人で、一人当たりの提供臓器数はアメリカが3.8、イギリスが2.3、オーストラリアが4.6ですから、100万人当たりの臓器提供数はそれぞれ83、34、50となります。

 オーストラリアでの世論調査によれば、自分自身が臓器提供をしたいと考えている人が72%、自分はともかく故人に提供の意思があった場合賛成する人が94%、現場での臓器提供率が80%でした。提供後の感想では、「提供してよかった」というものが、圧倒的です。逆に、臓器提供をしたくない理由としては、1996年の調査では、医療不信と特定の臓器のみ提供したいとするものがありました。

 

 オーストラリアでは、日本とは全く状況が違って、一般的には brain dead だから、「脳が死んでるんでしょ。じゃあ死んでいるのは当たり前よね」といった感じで、日本のように判定基準がどうこうといった細かい議論はほとんどありません。医師会が責任をもって基準を定めていますし、複数の医師で判定しますから、全く問題ありません。日本の第一例目で問題になった「平坦脳波」については、オーストラリアの場合、基準の中に入っていません。ノイズを拾うこともありますし、それほど重要な指標ではないからです。もし、いい加減なことをしていれば、病院内ですぐに噂になってしまうでしょうし、本当に問題があったとすれば、医療の不正を裁くのは裁判所の仕事です。日本ではマスコミが騒いでいるようですが、裁くのはメディアの仕事ではありません。

 どのような人がどのようにして移植コーディネーターになるかというと、「なりたい人が頭角を顕わして、地位を勝ち取る」というだけのことで、必要な人数もそう多くはないですし、養成する必要もありません。私自身は、移植病棟での「やりがいはあるけれど、ただそれだけの仕事」から抜け出して、移植に関わって何かやりたいということで、州政府と交渉して今の地位を勝ち取りました。これから若くてやりたい人がなろうと思っても、需要と供給の関係もあるからとても難しいでしょう。

 日本のコーディネーターへの注文とすれば、やはり臓器提供の多い外国で修行することでしょう。やはり現場で、on the job training で学ぶのが一番です。もちろん、私自身、手に入るものは全て読んで勉強しましたけれど。ある意味では、日本のコーディネーターはオーストラリアよりもはるかに進んでいるんですよ。制度的には、資格もあって公的に認められているのですから。しかし、中身はどうでしょうか。今後、一層努力してほしいと思います。

(講演と質疑応答をもとに編集者が再構成)


みんなの広場

父のこと

安田 悦子

 10年にも及ぶ闘病生活から、最先端の技術である移植手術によって再び生命を贈られて、第二の人生を歩んでいた父が、東京女子医大の個室でみんなに見守られて安らかな眠りについた。彼にとって、この5年間はいったいどのようなものであったのか、娘の私にも計り知れないが、人生の中で最も充実していた日々であったろうと想像している。父が亡くなったとはまだあまり実感が湧かない。正直、まだ入院しているのだろうと思うことさえある。

 曙橋の駅から商店街をぬけて10分歩く。そして病棟の3階に上がり、個室をノックすると父がいる。そんな日々があたりまえになって、私はいくつ年を重ねたのだろう。苦しい思いも苦い経験も、家族で乗り越えてきた。思い返せば、父とともに一緒に闘ったことが私をとても大きく成長させてくれて、今があるのだと感じる。だからこそ、これからの人生では、父のように苦しむ人を支えられるようでありたいと思う。

 そんな思いを胸に抱いて、密かに私は前の会社を辞めた。会社が合わなかったのではない。父の時、私は家族として見守ることしかできなかった。医療現場で役に立つ仕事をしたかった。そうすることで、医師や看護婦のように直接的ではないが、間接的に役に立とうと考えたのだ。現在は新しい会社で仕事をはじめたが、いろいろとあって違う経験を積むことになった。しかし、この延長線が役に立てる仕事へと続いていることを信じて仕事をしている。

 今回のセミナーはスライド係として参加した。南先生の講演のスライドだ。毎回、こういう会があると、必ず私にこの役目が回ってくるが、真剣に講義が聴けるので、結構楽しくやっている。南先生は、外科医として、医者として、患者に出来ることをわかりやすくお話して下さった。時には激しく、時には穏やかに話される真摯な態度の先生を見て、このような先生が日本にたくさんいたならば、医師への不信など抱く患者は少なくなるだろうにと思った。移植医療にはたくさんの超えられない壁があり、1年経った今も、移植を海外に依存している現実がある。そんな今、やはり考えてしまうことがある。

 先日テレビで移植手術に臨む女の子のドキュメントを見た。内容は、移植が必要で、募金活動もして、アメリカで手術を受けることができてよかったね、という話だった。見終わったあと、妙に腹が立った。苦しんでいる家族、それを助けるボランティア。ここまではよかった。移植をすればその子が助かるという文句も気にならなかった。しかし、忘れてほしくなかった。ドナーの存在を。番組を隈無く見たつもりだった。でも、当事者がドナーの存在について考え悩んだことについては、一言も触れていなかった。あるいは、考えなかったのかもしれない。そうは思いたくはないが、その女の子が助かるということは、一方でかけがえのない一つの生命が終わったということでもある。生命のリレーをしたことに感謝し、これから彼女がどう生きてゆくのか、家族が考えるべきだろうと私は思う。そうでなければ、「お金で生命を買った」と、言われても仕方がないのではないだろうか。移植医療はもっと尊いものであると私は思う。

 ドナーになった人はそんなに事を重大に考えていなかったかもしれない。私はもういらないし、使ってもらえるならどうぞ、と。しかし、移植を受けた人みんなが考えてきたと思う。私が助かるということは、誰かが死ぬということだなと。自分は死にたくない。でも、誰かの犠牲の上に自分の生があるのだとしたら、それをどう受けとめればいいのか、必ず悩んだことだろうと思う。私の父もそう悩んでいた。でも、ドナーに感謝しつつ、ドナーの分まで精一杯楽しく生きることが、生命をリレーした責任である、と考え直した。家族もそれを受けとめた。このように、家族も一緒に考えることで、移植する人は救われこるのだ。そういう葛藤が表現されないで終わった番組は、人々に何の感動も残さないのではないか、と私には思えた。

 移植を受ける時や受けたあとに、どんなことを考えるべきなのか、どういう行動したらよいのか、そうしたことを考えるべきであって、単に「移植が出来てよかったね」と喜んでいるだけでは済まなくなってきているように思う。

(やすだ えつこ・故安田義守前副会長の娘)

勇気付けられた沖縄の旅

樋口 健太郎

 10月25日、沖縄のシンポジウム「臓器移植はいま」に母と一緒に参加させて頂きました。これまでに、トリオジャパンの荒波さんのお話や雑誌などから、沖縄の皆さんがとても活発に活動されている事は見聞きしておりましたが、当日会場に行き、「本当にその通りだな」と思いました。私は心臓移植体験者として参加させていただきましたが、皆さんがとても温かく迎えて下さって感激しました。

 会が始まり、主催者の挨拶の後に精神科医の春木先生の講演がありました。「日本人はなぜ臓器提供を死後でも嫌い躊躇するのか」というタイトルで、精神科医の立場からのお話でした。折角昨年、臓器移植法が施行されたのに、いまだ脳死下での移植は1件もないのは、臓器提供に結びつくまでの厳しすぎる基準もあるかもしれませんが、それだけではなく、日本人の神仏に対する考え方も大きな要因ではないか、というような内容でした。私も日本にいたなら、もう3〜4年前に死んでしまっていたと思います。アメリカに行けたから 助かることができて、現在に至っている訳です。ちょっと複雑な気持ちがしました。

 春木先生のお話の後はパネラーの発表でした。私が一番始めでした。私は人前で話をする事にはあまり慣れていないので、原稿を読ませていただきました。今までも新聞や雑誌にも載った内容ですが、発病・入院・手術を決意するまで・渡米・手術前後・帰国・現在に至るまでを端的にまとめて発表しました。

 私の後に、母も母親としての気持ちを5分くらいにまとめて話しました。小学校に勤めていた母は、私が病気になったことで「先生の代わりはたくさんいるけれど、母親は自分しかいない」と決心し勤めを辞めたことなど、時々声をつまらせながら話していました。私も始めて聞いた事もあり、大変だったんだなと改めて思い知らされました。

 私たちの次は腎臓移植をして12年目という沖縄の宮城さんのお話でした。毎日走って体を鍛えており、マラソン大会にも出て活躍されているという事でした。宮城さんはご兄弟の方からの生体腎移植ということですが、提供された方も元気で問題はないという事でした。私と臓器は違いますが、同じ移植者として、12年目にして仕事も運動も活発にこなしている方とお会いできて、とても勇気付けられた気がします。

 私は手術前、手術を受けるかどうか迷い悩んでいた時、アメリカから元気で帰って来た人を見て、「手術を受けて元気になりたい」と決意することができました。だから、今度は私が迷っている人達に少しでも励ましてあげられるようにと、病院に会いに行ったり、成田に見送りに行ったりしています。ご家族の方も「うちの子も健太郎さんのようにきっとなれる」と気持ちが明るくなるようです。

 そんな私ですが、沖縄に来るまでは何となく気持ちが晴れませんでした。それというのも、私たち東京女子医大の心臓移植者の第1号であり、一番年上で仲間をまとめてくれていた安田さんが8月にお亡くなりになられたからです。私は男の中では一番年下ということもあり、安田さんにはとても可愛がってもらいました。安田さんが入院している間は、私も学校の帰りに何度も寄って、その度に私のこれからの仕事の事などを聞いてもらったり、アドバイスを頂いたりして、病院によるのが楽しみでした。その安田さんがお亡くなりになられ、私もがっかりしていた時に荒波さんから「安田さんの代わりに沖縄に行ってくれないか」というお話がありました。

 安田さんは2年前に沖縄に行かれていて、「沖縄の皆さんはとても親切だし、臓器移植に対する関心もとても高かった。また行きたいな。栽さんにもまた会いたいな。」とよく話しておりました。私は安田さんの代理にはならないかもしれないけれど、何か役に立つことがあればと思い、行かせていただきました。そして、その沖縄で、宮城さんや他にも10年以上経って元気に活躍されている方にお会いできました。「私はまだ3年しか経っていない、これから頑張らなくちゃ」と思いました。

 会の最後にミニコンサートがありました。出演者は5人でその中に東田盛さんご夫婦が声楽で出演されており、特に奥様の優子さんは白いドレスを着て、きれいな声で、とても魅力のある人でした。コンサートの終わりの挨拶で、リーダーでもあるご主人の東田盛さんが「僕の奥さんも人工透析を13年もやっています」と話されました。私は信じられない気持ちでした。だんだんすごいな、すばらしいなと感動がこみあげてきました。現在人工透析をされている方があまりにも多いので驚きましたが、その方々もあの東田盛優子さんのすばらしい歌声を聞いたら、どんなにか勇気づけられることだろうかと思いました。

 夜も沖縄の皆さんの仲間に入れていただき楽しい夕食をいただきました。

 翌日、沖縄へ来て3日目も、私たちの出迎えから市内の観光まで、全ての面倒を見ていただいた栽さんとお父様に名所・旧跡を案内して頂きました。「ひめゆりの塔」では、テレビや本などでも何度も見たことがありましたが、実際に資料館に入り、あの写真を見てショックを受けました。あまりにも多くの元気な若い人達が死んでしまった戦争の惨さ、凄まじさを、今になって肌で感じ取りました。そしてつくづく、今の時代にいられて良かったと思いました。私の命を助けるために大勢の人が協力してくれましたし、日本とアメリカとが協力しあって私を助けてくれて、私は幸せだなと思いました。

 今回、沖縄に行って何かお役に立てばと思っておりましたが、私の方が皆さんの温かい歓迎を受け、すばらしい活動に感動し、そして勇気づけられた数日間でした。貴重な体験をさせていただきましたことに感謝致しております。

(ひぐち けんたろう・心移植者)


第6回トリオ・ジャパンセミナー

「支えあう医療−臓器移植」

 10月24(土)、電通生協会館(駒込)にて、第6回トリオ・ジャパンセミナーが開催されました。参加者の皆さんから寄せられたご感想を紹介します。

 

トリオ・ジャパンセミナーに参加して

第6回トリオ・ジャパンセミナーに参加させていただきました。基調講演の南先生の率直なお話は、大変勉強になりました。また、ディスカッションでは、あまり知られていない募金の大変さなどを伺うことができてよかったと思います。中でも海外での移植を希望されている方をサポートされた支援会の代表の方が話された「ご家族と関わりをもつまでは、移植のことなど考えたこともなかった」という言葉がとても印象に残りました。

というのも、私も以前は看護婦をしておりましたが、透析勤務になるまで、移植という言葉は知っていても、実際どのようなものかはほとんど知らなかったからです。実際に透析の大変さを目の当たりにしたり、移植を受けて元気になられた方にお会いしたりして、自分の目で見て、自分の耳で話を聞いて、今まで知らなかった情報を得てはじめて、移植のことを考えはじめたからです。たぶん、医療従事者を含めて、多くの方が以前の私と同じだと思います。

私は現在は主婦であり、いずれは母親になると思います。その時、もしかしたら自分の子どもにも起こり得ることかもしれません。私や私の夫や家族が病気になり、同じ立場になるかもしれません。また、逆に提供者の立場にもなるかもしれません。もっと、多くの人達が他人事としてではなく、自分にも起こり得ることとして、身近なこととして考えていかなくてはいけないし、そうなればいいと思います。大切なのは、まず自分がどうしたいのかを考えること、臓器提供にYesでもNoでもどちらでもいいから、正しい情報を得た上で、自分がどうしたいのかを考えることではないでしょうか?

そのためにも、もっと解りやすい情報正しい情報身近に手に入る環境を作っていかなくてはならないと思います。今後もこういうセミナーや講演などを通して、多くの方々に移植のことを考えていただく機会が増えるよう願っています。

また、今回お話を伺って、提供を受ける側の患者さんの精神的なケアの重要性を医療従事者として改めて感じました。今回お話には出なかったのですが、海外に行かれて、言葉も習慣も違う異国の地での生活は、精神的にも肉体的にも日本で手術を受けることの何倍も何十倍も大変だったのではないのでしょうか? マスコミを通じて私たちが見聞きすることは、移植を受けに行かれる時や帰国される時、結果のみが多い気がします。そういうお話も今後伺える機会があればいいと思います。

私も微力ですが、今回のことや意思表示カードのことを友人や知人に話をして、移植についてもっと身近に考えていただけるよう、小さなボランティアをはじめています。

(池田 美和・主婦)

 

 私は今回初めてトリオ・ジャパンのセミナーに参加させていただきました。現在、私は大学で生命倫理について勉強しています。そして、将来は移植コーディネーターになりたいと思っています。その中で、移植医療についても様々な立場の方々のご意見を聞かせていただいたり、論文を読んだりする機会がありますが、今回は初めて移植を受ける患者さん方のお話を聞かせていただきました。

 臓器移植法が施行されて1年が経ちました。その間移植医療について、様々な立場の方々の間で論議が重ねられていますし、マスメディアを通じて移植についての話題がよく取り上げられています。様々な立場の方々が、移植医療について賛成・反対を含めて様々な意見を述べられていますが、本来、移植医療を語る上で中心となるべき患者さん側のお話はなかなか耳にすることがありません。そういった意味で、今回移植を必要とされている方、そして移植によって救われた方のお話を伺う機会に恵まれたことは、今後私が移植について考えてゆく上で、非常に学ぶことが多かったように思います。

 今回、お話を伺って一番感じたことは、未だに移植医療に対する様々な議論があり、移植については個人の意見として各々の考えがあることとは思いますが、その中でも移植を待ちながら亡くなってゆく患者さんがいるということ、移植でしか助からない患者さんがいるということは変わらない事実であるということです。移植医療というのは、本来移植でしか助からない患者さん達を救うために行われる医療ですが、日本における移植医療についての論議は何故かその患者さんから離れたところで行われてしまっているような気がします。一番考えなければならないはずのドナー・レシピエントを含めた患者さんの立場からの議論がなされていないように感じます。

 その結果、一般の人々の間では、法律施行後1年以上経っても移植医療に対する理解が深まらず、「いつ自分に移植が降りかかるかもしれない」という問題意識が浸透しないという事態を招いているような気がしてなりません。私自身、移植医療について勉強しながら自分で考えてゆくなかで、そういった患者さんの立場から移植について考えてゆくということがこれまではあまりなかったように思います。

 移植を受けて元気になられた方々の姿を見て、これが移植医療の持つ本来の意味なんだと感じました。私自身は、ドナーになるかどうかという選択は、あくまでも個人の意志を尊重すべきであると思っています。しかし、臓器提供について個々人が考えてゆくなかで、移植医療に関する正しい知識を身につけ、臓器提供によって救われる患者さんがいるという事実を念頭に選択できるような情報提供の仕方が必要であることを、今回のセミナーを通して感じました。

 移植医療が本当の意味で患者さんを救う医療となってゆくように願っています。

(鈴木 志保・東海大学文学部3年)

 


別れの季節

編集後記に代えて

 

 本号の発行まで、ずいぶん長いお休みをいただいてしまい、誠に申し訳ありませんでした。おわびに変えて、少々長い編集後記を書かせていただくことにします。

 前号を発行した後、4月11日に渡米し、6月19日にマイアミ大学で再移植を受けてから、まだ1年も経っていません。にも関わらず、もう何十年も経ったかのような感じがしています。9 月26日に帰国した当初は、成田空港にいる日本人の多さに驚き、久しぶりに帰ってきた「自宅」ながら、今ここにいることも、目の前に家があることも、どこか現実のこととは信じられず、何だか世の中にヴェールがかかっているように感じられたのものです。しかし、私が戻ってこれることを信じて疑わずに待っていてくれた皆さんが、以前と何も変わらぬ様子で温かく迎えて下さって、帰国直後から、シンポジウムに出かけたり、オーケストラの演奏会に出たりと、普通の生活に戻れたことで、ようやく「普通の生活が出来る」ということが実感として持てるようになり、大変だったことや辛かったことは「昔話」となり、うれしかったことや楽しかったことが「思い出」として残りました。

 「再移植」ということは、1996年1月31日に移植後、1996年11月に具合が悪くなった頃から、どこかにその可能性が潜んでいることがわかっていましたが、やはり実際その時が来てみると、予想以上に辛いものでした。最初の移植前は、もう10年も病気でしたから疲れやすいのも当たり前でしたが、移植後一度「疲れない」状態を知ってしまいましたから、かえって「疲れやすさ」を強く感じました。また、今回の方がかゆみがひどかったので、渡米後はかゆくて眠れない上に、ひっかいて身体中傷だらけになりました。5月中旬からは、ビリルビンも30近くなり、明日が心配な日々が続きました。

 それでも、募金が順調で、お金の心配をさほどしなくて良かったのは、本当にありがたいことでした。再移植ということになり、募金をしていただくことを決断したころは、いったい誰にどうやってお願いするのか、そしてどのように行うのか、さらに本当に集まるのか、不安ばかりでした。1年ばかりトリオ・ジャパンのお手伝いをしていて、渡航移植の大変さの一端には触れていたものの、聞くこととやることの間には、大きな隔たりがあり、実際に経験してみないとわからないことばかりでした。

 ところが、その不安も、3月22日に記者会見をして、いざ募金が始まってみると、一日一日と軽くなってきました。協力してくれた友人や知人、そして見知らぬ多くの方々が、自分が逆の立場であったら果たしてそれほどのことが出来るだろうか、私自身がそれ程のことをしていただくのに値するのだろうかと考え込んでしまうほど、本当に一生懸命やって下さって、順調に募金が進んだからです。募金の方法についても、専用のメーリングリストでの話し合いの中で様々なアイデアが出されて、思いもかけなかったようなことが、次々に現実のものとなってゆきました。また、関わって下さった方々が、「大変だったけれども、はじめてこんな経験ができた」と逆に喜んで下さったことにも、驚きました。

 移植手術までの待ち時間は、現地の先生が予想されていたよりも長く、本当に移植が受けられるのか心配な状態でした。それでも、移植を受けた後は、10日で退院という驚くべき順調さでした。実際には、この10 日間というのは、言葉では書き尽くせないほど大変だったのですが、これはまた別の機会にしましょう。

 私がこうして皆さんのおかげで元気になった一方で、私が帰国してからの数ヶ月間は、悲しい知らせが続きました。海外で移植が受けられたにも関わらず、移植後がんであることがわかって、移植後一度だけだんなさんと北海道に旅行したあと、私も通っている病院に入院していて亡くなったAさん。となりのベッドにいるのは、これから移植という人でした。Aさんはカーテンを閉めて、ひっそりと暮らしていました。ずっと前から、「お互いに元気になったら、カラオケに行こうね」と言われていたのに、結局はそのチャンスはありませんでした。そして、この方のことを紹介されたBさんも、既にこの世にはいません。

 そして、このニュースレターのイラストを描いて下さっていた明美ちゃんも、私の帰国後「また会報を出しましょうね」というメールをいただいていたにも関わらず、突然亡くなってしまいました。「そろそろ会報を出さなければいけないし、イラストも頼もう」と思っていた矢先の出来事でした。募金のときにもお手紙をいただいていたことも思い出します。

 また、Cさんは私と同じように再移植になりました。最初の移植を受けたのも、ほぼ同じ頃です。厳しい状態ながら再移植が出来たということで、心配しながらも、元気になれるものと信じて疑っていませんでした。しかし、お正月に悲しい知らせが届きました。本当に戻らないのだということが、なかなか実感できませんでした。やることが手につかない日々がしばらく続きました。ある日、ふと電車に乗っていたら、再移植前、入院中ながらもまだ元気だったCさんと楽しく電話で楽しく話したときの様子を思い出して、もうあの時間は戻ってこないのだと実感しました。

 よく、「辛いことを経験しているから、強いね」と言う方がいますが、こうした経験を重ねれば重ねるほど、どれだけ私がもろく弱いものか痛感します。でも、逆に、こうした経験の中で、人と人とが支えあって生きることの大切さを実感しています。

 マイアミでの移植後のICUで、同室だったおばあさんは脳死でした。看護婦さんは、勤務時間が大幅に過ぎているにも関わらず、最期まで付き添っていました。主治医や移植医がやってきてばたばたしている一方で、その看護婦さんはゆるやかな時間の中で、その方の死を看取っていました。「脳死が一般化すると、機械的に移植に持って行かれる」というのは、マスコミが勝手に描き出した幻想です。脳死は脳死であって、それ以上でも以下でもないことを正しく認識することが、かえって近代医療の現場に失われていたものを取り戻すのではないかと思います。

(若林 正)