TRIO Japan News Letter

1997年6月1日発行 第10号
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海外から見た臓器移植法案の審議

1997年4月25日付 ワシントン・ポスト
1997年5月11日付(日曜版) ニューヨーク・タイムズ

ニュース23での討論を見て 見留幸代

「脳死は人の死か?」Q&A 渡辺直道

新聞記事より(1997年5月7日付産経新聞夕刊)
ファミリー・コーディネーター トリオ・ジャパンの荒波よしさん 移植の悩み相談

家族3人幸せ一杯 黒田珠美

新しい生命の贈りもの -心に残る医療 生命のバトンタッチ- 斉藤 厚一

Family Coordinatorから カウンセリングと家族調整 荒波よし

みんなの広場

第15回トリオ・ジャパン談話会

談話会に参加して 上條 衣織(信州大学第一外科)

ラックス先生歓迎会

アメリカへの旅 若林 明美

お知らせ/[事務局活動日記]/ファミリー・コーディネーター相談件数(1997年1月〜4月)

活動予定 第5回トリオ・ジャパンセミナー/[編集後記]


海外から見た臓器移植法案の審議

1997年4月24日、脳死を人の死とする臓器移植法案が衆議院で可決されました。この過程は海外の人々の目には、どのように映っているのでしょうか。

1997年4月25日付 ワシントン・ポスト

脳死法案が衆議院をあっさりと通過---心・肝移植に道

ワシントン・ポスト外信部 メアリー・ジョーダン

[東京発 4月24日]衆議院は脳死を容認することで、日本における心臓移植を可能にすることを票決した。医師や他の移植を支持する人々は、日本が移植手術に抵抗してきたことで、何千もの人々の命を犠牲にしてきたと言う。支持者曰く「世界の中の技術先進国にとって恥ずかしい状況」の中で、多くの非常に状態の悪い人々が、米国など移植が比較的通例の手術となっている国に渡航してきた。

人々の関心が高まる中で、本日、衆議院は、脳が機能を停止した時点で、死と宣言され得ると票決した。以前は、死と宣言されるためには心臓が停止していなければならず、心移植は不可能であり、肝移植は非常に困難であった。

「我々はこれを目指して長い間頑張ってきた」と青木慎治さんはにこやかに語った。

青木さんは1989年にサンフランシスコで肝移植を受けて、現在は日本で移植者を支える団体を率いている。

まだ参議院で法案が可決されねばならない。移植推進者によると、おそらく大丈夫であろうが、確実ではないと言う。力のある衆議院における最初の投票で可決されたことは、世論における画期的な変化であり、日本の医療に大きな影響をもたらすだろう。

主要国の中で、法律上であれ事実上であれ、脳機能の停止をもって死としていないのは、日本・パキスタン・ポーランドだけである。日本では1968年以来心移植が行われていない。この手術を執刀した日本の外科医は提供者を殺したかどで告発されて、取り調べを受けた。起訴には至らなかったが、捜査が長引いたために、これに続く手術は行われなかった。

死の再定義により、一旦医師が患者の脳が再び機能する見込みがないと判断すると、多くの患者が人工的な生命維持を外されることになるかもしれない。厚生省は毎年8,000人以上の人々が脳死を宣告されると見ている。

「これは臓器移植に扉を開く」と東京にある国立小児病院の心臓専門医、   さんは言う。

百々医師はあまりにも多くの自分の患者が、移植を受けられずに死んでゆくのを見てきた。「今最大の問題はドナーが現れるかどうかだ」と言う。

日本は臓器移植に関しては大半の他の先進国に遅れを取ってきた。それは臓器提供や臓器をもらうことに強い文化的な抵抗があるためである。多くの人々は、人の肉体と魂がつながっていて、臓器を手離すことは、魂の一部を手離すことになると信じている。死者が来世に着く前に身体を「 す」ことに対する根深い信念がある。

普段はリベラルな朝日新聞でさえ、今週の紙面では、議員が伝統的な死の定義に干渉すべきなのかどうかと疑問を呈していて、移植を認める別のやり方があるのではないかと述べている。

「愛する人がまだ脈を打ち、頬に赤みがさしているというのに、あなたはその死を受けいれられますか」と社説で問うている。

参議院の竹村泰子議員は、日本でも心・肝移植を認める時期が来たと決断しているが、「死の瞬間を法律で定義するのには反対です」という。

速やかに大差で今日の法案が通過したことに驚いた人が多い。投票は320対148で、多くの議員が棄権するのではないかと予想されていたにも関わらず、棄権した議員は10%に過ぎなかった。

常に日本で約4,000人の患者が肝・心移植の候補者となり得るのであり、彼らが国会の一員であれば、今日の票決はずっと以前に行われていたはずなのに、と海外で肝臓をもらった移植推進者の青木氏は言う。

しかし、この動きは、物部美佑紀さん(8歳)にとってはあまりにも遅く、今月心移植を待ちながら亡くなった。彼女の例や同様の事例が、法案の通過を助ける強い世論を生み出す大きな力となった。医師が彼女について公表したとき、「心臓移植しか望みがない」ことを伝えたところ、米国で高額な手術を受けるために必要な825,000ドルが寄せられた。

だが、美佑紀さんは到着後間もなく、適合する心臓が見つかる前に亡くなった。美佑紀さんの写真は、多くの新聞に掲載され、何度もテレビ画面に登場し、このおさげの微笑んでいる小さな少女には、自分の国で移植手術を受ける権利があったはずだと信じている多くの人々を悲しませた。

4,000人の医師からなるグループ(移植学会)が新しい死の定義を是認しているが、今のところ、臓器を提供するためには患者本人の同意が必要だ。国際的な医学組織は、移植手術を認めない日本を長い間非難してきた。何故なら、提供される臓器が不足しているために、多くの人が倫理的でないと見ている臓器売買が、第三世界において横行しているからである。

絶望的に状態が悪かったり、透析機に繋がれていることに疲れきってしまった日本人は、インドやフィリピンなどに飛んで、臓器、特に腎臓を買う。貧しい人々の中には、腎臓の片方を投げ出して、彼らにとって莫大な金額を手にすることに同意するものもあるのだ。

いつ死を宣告すべきかという問題は、どの国にとっても簡単な問題ではなかった。1970年代、アメリカは大統領委員会と州裁判所の裁定により、本質的に問題を解決した。

今日では、脳死を法的に定義している州と、そのような法律無しに移植を認めている州がある。世界保健機関(WHO)によれば、39カ国が脳死を死の定義として位置づけており、うち26カ国が法律で定めていて、その他の国は事実上認めている。


1997年5月11日付(日曜版) ニューヨーク・タイムズ

日本では臓器移植がまだ人々を不安にさせる

シェリル・ウッダン

[東京発]肝移植でしか自分の生命は助からないとわかっていたが、久米若奈さんはそれが目前に迫っても、まだ決断出来なかった。

久米さんは丸顔で短い髪のティーンエイジャーだが、彼女もまた、亡くなった人から臓器を取り出すことに対して、多くの日本人が感じている深い不安を抱えていた。

日本で移植を受けることは、事実上不可能であるために、久米さんは渋々オーストラリアに飛んだ。最終的には、彼の地で落ち着いて提供者を待てるようになった。

ある看護婦が提供された臓器のことを「スベシャル・ギフト」と呼んでいて、久米さんはこの考え方に心を動かされたのである。

「突然、これらの臓器はブレゼントだってわかったんです」と久米さんは言う。

今は16歳で、2年前に移植を受けて、現在は日本に戻って元気に暮らしている。

「若かったときは、脳死は死なんだということが、完全には受け入れられなかったんですが、単に分かっていなかっただけなんです」

死の境界を法的に定義した上で、明確に移植を認めるべきか否かという、激烈で苦悶に満ちた討論の中で、日本は身動きが取れなくなっている。この問題は今国会で審議中だが、あまりにもデリケートなので、長年の間で初めて、党議拘束をかけずに各自の意思によって投票することを決めた。

日本は昔ながらのやり方で心拍が停止した時点を死の訪れとしている。しかし、多くの先進国では、脳が機能を停止したら、たとえ心臓がまだ脈打っているとしても、その人は死んだと考えられている。アメリカの法律は州によって異なるが、全ての州が、完全で不可逆な脳機能の停止によって、死を判定出来るとしている。

このおかげで、脳死患者から移植するために、心・肺・肝のような、生命の維持に不可欠な臓器を摘出することが出来る。患者が人工呼吸器の助けを借りて、まだ呼吸しているからこそ、これらの臓器が元気で、移植に使えるのである。

しかし、日本は脳死を死と認めていないので、この方法はとても実現出来ない。移植が完全に禁止されているわけではないので、腎臓や部分肝を含む、生体からの移植はたびたび行われている。しかし、死の実際の瞬間を正確に示す法律が無いので、他の生命の維持に不可欠な臓器については、はっきりとした指針が作れない。これが混乱と恐怖をもたらしている。

交通事故を扱う警察官が、脳死状態の被害者から臓器を取り出しても良いかどうか、医師が家族に尋ねるのを止めさせたことが何度かある。もっと重要なことは、告訴されるのではないかという恐れと、昔ながらの見方では死んでいないかもしれない人から臓器を取り出すことに対する社会的なタブーが、あまりに拡がっていたために、手術を行う医師がほとんどいなかったことである。

結果として、何百もの患者が、ひょっとすると数千人が、日本で臓器移植を受けられずに毎年死んでいる。バージニア州リッチモンドにある、UNOS全米臓器配分ネットワークによると、脳死を容認していることで、もっと多くの臓器が利用出来るアメリカでさえ、約52,000人が待機中だ。昨年は約19,410人の人が移植を受けたという。

日本人患者の中には、一か八か、ドナーが歳を取り過ぎていたり、状態が悪過ぎたりして、アメリカ人には使われないような腎臓などを受け取る人もいる。

多くの患者が海外に行くが、渡航にはお金がかかるし、遅すぎることもある。

物部美佑紀さんは8歳で、募金を頼りに手術を受けるべく、4月に日本からロサンゼルスへと渡ったが、心臓移植を受ける前に亡くなった。

「医師が患者に移植が必要だと伝えるのは、死の宣告をしているようなものです」と太田和夫さんは言う。数多くの生体腎移植を行っている傑出した医師だ。

「患者は日本で移植を受けられないことを知っていますから」

臓器移植を合法化するために、二つの提案がなされている。一方は、脳死を死と認めるが、他方は認めない。脳死を法律で定める方の法案が4月24日、衆議院を通過した。しかし、参議院では、法案を阻止しようとする議員との間で、硬直した論戦に陥っていて、数ヶ月もの審議となるかもしれない。

それでも、日本移植学会は手術の準備を始めていて、200万枚のドナーカードを配って、死んだ時に自分の臓器を提供したいかどうか、印を付けてもらおうとしている。

3月に発表された調査によると、ほぼ50%の日本人が脳死を死とする再定義を認めている。同じ頃の別の調査によると、80%以上が医師は脳死を宣告された人からの臓器移植を進めるべきだと考えており、半分以上の人が自分の臓器を提供すると述べているという。

しかし家族の一員が提供者となることを考えると、疑い深くなる人もいる。

柳田邦男さん(60)は作家で、医療問題を扱った経験から、脳死は死であると信じていた。生命を救う臓器提供を認めるために、このことは重要だと信じていた。

しかし、彼の25歳の息子が4年前に自殺を図り、問題は個人的な次元に移った。彼の息子はいつも自分の臓器を提供したいと言っていたし、彼が病院で脳死を宣告されたとき、父は息子の願いを尊重したいと思った。

青年は人工呼吸器につながれたままで、5日経ってもまだ心臓が脈打っていた。身体は温かく、父が言うには、家族の誰かが話しかけると、時々心拍が速くなり、血圧が上がったという。柳田さんは息子の腎臓を提供することに同意した。

そして、医師が臓器保護液を注入した。柳田さんは言う、「10分経って、息子の心拍が止まるのを見た」

「注入される瞬間、自分の決定を後悔しなかった。でも、痛みが、重みが胸にあった」と言う。

この経験以来、いつ死が起こるのかということに関する考え方が変わり、決定的な瞬間は心臓が止まる時だと信じているという。

さらに、日本では年長者や魂に対して非常に敬意を払うが、魂は死んだ後も何日か肉体に残っていると考えられていため、臓器を得るために身体をばらばらにすることに抵抗のある人が多い。たとえ脳死であっても、まだ脈打っているのならば、本人が提供者になる意思を表明していたとしても、家族が抵抗するのも無理はない。

また、多くの日本人は医療体制に不信を抱いていて、他の人に臓器を提供するために、医師が患者の死を早めることがあるのではないかと恐れている。

従って、死を定義する法律が通過して、移植が公然と認められるようになったとしても、移植手術が社会的に受け入れられるまでには、まだ時間がかかるだろうと多くの人々が言っている。

「患者本人が自分の臓器を提供することに同意していたとしても、現在の日本の文化環境においては、家族の一員が身体にすがりついて泣いているのに、臓器を切り出すことは出来ないだろう」とシステムエンジニアの阪野紘明さん(54)は言う。

阪野さんにとって、問題は急所を突くものである。輸血によるC型肝炎にかかったのは20代のころのことで、今やひどい肝硬変に悩まされている。

新しい肝臓でしか命は助からないと医師に言われて、オレゴン州ポートランドにある病院のウエイティング・リストに載った。しかし、まれな血液型なので、おそらく約2年は待たなければならないだろうと考えている。まだ週に数時間は働ける。

彼は海外に行って治療を受けることを主張したが、日本の医師は手術のために海外に出かけるよう勧めることには躊躇した。

「先生方も、移植それ自体はいいことだと考えているようです。でも、臓器を得るために海外に行くことが問題なのです。私には彼らの道徳的なジレンマがわかります。彼らの考えはこうです。自分の国で手術を受けられないのは不幸だ。しかし、こんなに臓器が貴重な時に、海外へ行って戴くというのもまた、道徳的に正しくないと」

臓器提供の推進者にとって激しい闘いが続く。荒波嘉男さんは、トリオの活動を支えているが、ある晩脅迫電話がかかってきた。男は、「荒波を殺しに行って、死ぬ前に肝臓を取り出してやる。そうすれば、お前が他の人にしたいと思っていることが体験出来るだろう」と言うのだ。

しかし、こんなことでは荒波さんは動じない。彼は1986年に15歳の娘を肝臓移植が受けられないために失ったのだ。

彼を批判する人々の中には、こんなに多くの日本人が納得していないのに、死が脳死で起こると決める権利は政府に無いと言う人もいる。死が近い一人の命の方が、移植を待っている人の命よりも、重要でないなどという、か弱い論拠の上に、政府は立つべきではないとも言う。

「人の生命の重さを決めることは出来ません」と金田誠一さんは言う。彼は国会議員で脳死を認めることに反対する闘いを率いている。「そして、トップダウンで国家が普遍的な定義を押しつけるのは間違いです」(翻訳:若林 正)


ニュース23での討論を見て 見留幸代

ようやく法案が衆議院を通過しましたね。少しだけほっとしています。小柳先生のテレビ番組を可能な限り、ビデオに取って見ていますが、かなりお疲れのご様子で、心配になります。

先日「ニュース23」(TBS)で、小柳先生(東京女子医大)と山口先生(順天堂大)の討論を見ていた会社の者が、「何となく見ていたけど、引き込まれて最後まで見た。自分の最期について、いろいろと考える時期に来ているのかもしれない。それから小柳先生のお話に説得力があって、トップに立つ人は違うと思った。普通は自分の言いたいことだけを言って、他人の意見は受け入れないものなのに、他人も認め、自分の意見をも堂々と述べるところはさすがだと感心した」と申しました。

自分の最期について誰もが考えたときに、これからの臓器移植の進むべき方向が見えてくるのではありませんか。ドナーを増やすためにカードを配るのでは、強制されていると誤解を招くと思います。それよりも、自分のため、家族のためにカードを持って、悔いの無い人生を送りましょうとPRした方が、良い結果につながると確信します。


「脳死は人の死か?」Q&A 渡辺 直道

「脳死を人の死とする」臓器移植法案が衆議院を通過しました。今後参議院においても、「脳死は人の死」か否かについて論議が深められると存じますが、私達患者側に立つ者は、医学的事実として「脳死は人の死」であることを、法律で確認することは、これから日本における脳死体からの移植医療を推進して行く上で、大変重要なことと考えております。

ここにQ&Aの形で、この「脳死」についての私たちの考え方−これは日本を除く世界の考え方でもありますが−を述べたいと思います。

Q:「脳死」の定義は。

A:「全脳機能の不可逆的停止」と定義されます。

 脳の機能が一部生きていて、自発呼吸などが可能で、瞳孔が散大しておらず、対光反射もある植物状態とは全く異なります。

Q:「脳死状態」とはどのような状態ですか。

A:全脳機能が不可逆的に停止していて、人工呼吸器の助けを借りて呼吸し、心臓が拍動している状態です。人工呼吸器を使わなければ、すぐに(1)自発呼吸停止 (2)心拍の停止(3)瞳孔の散大と対光反射の消失 といういわゆる3兆候によって認められる従来の自然死が訪れていたはずです。

Q:そうすると、脳死は人の死と考えて良いのですか。

A:その通りです。脳死は医学的・科学的見地からは、厳然たる人の死であるというのが、世界の医学界の常識です。もし日本で脳死を人の死としなければ、例えばアメリカなら死んだと判定された人が、日本では生きているという不可思議な事になります。

Q:従来通り、ハッキリ目に見える心臓死をもって人の死とすべきで、脳死の概念を受け入れるべきではないとの意見がありますが。

A:医学の発達とともに、心臓死だけでは説明出来ない現象が出てきます。例えば、現在著しい進歩を続けている人工心臓の技術が完成した暁には、生まれ持った心臓が無くなっても、元気に生きているという状態が続くことになるでしょう。

Q:もし、脳死が科学的に人の死だとしても、脳死判定がいい加減であれば、生きている人を死んでいると判定してしまうことになりますね。

A:脳死判定方法は世界的に確立されており、日本では【竹内基準】によっていますが、諸外国で採られている脳死判定方法と比べてほとんど変わりません。6歳末満の子供を除外している点は、諸外国と比べた場合問題がありますが、いずれにしても、生きている人を死んでいると判定することはありません。

Q:現在脳死判定基準は、「全脳機能の不可逆的停止」を確認する【機能死】ですが、「脳細胞が全部死んだ状態」である【器質死】をもって脳死とすべきではないですか。

A:心停止後であっても、しばらくは身体各部の細胞が生きています。【機能死】をもって脳死とするのが世界の医学界の定説です。

Q:現在、救命救急医療で行われるようになった脳低温療法と脳死の関係は。

A:脳低温療法により従来に比べて蘇生限界が脳死に近づきましたが、患者さんが脳死状態から生き返ることはありません。

Q:「脳死を人の死」と法律に規定してしまうと、移植の為に臓器摘出を急ぐあまり、脳低温療法のような救命救急医療における新しい医療技術の進歩を防げるのではありませんか。また、救命救急医は最後まで患者を助けるために力を尽くさなくなるのではありませんか。

A:それは救命救急医を侮辱する意見です(救命救急医の中にもそういうことを言う人がいますが)。救命救急医療に携わる医師と移植に携わる医師は別であり、それぞれに自分の患者を助けるために全力を尽くしているのですから、懸念されているようなことはありません。

Q:「脳死が人の死」であることが科学的事実であるとしても、社会的合意の無いまま「脳死が人の死」であることを法律に規定することは日本人の死生観に馴染まないのではありませんか。

A:諸外国の法律は臓器摘出時などにおける混乱を避けるために、脳死という科学的事実を単に法律で確認しているに過ぎません。ドイツのように、医師の脳死判定に対して、自然死の判定と同じ効力を与えて、法律無しに脳死体からの臓器移植をごく普通の医療として行っている国もあるくらいですから、諸外国において「脳死は人の死」であることは当たり前の事実として認識されています。

 諸外国でも心臓が脈打っている肉親を目前にして、脳死状態の肉親が亡くなったことを納得出来ない遺族はたくさんいます。例えば臓器移植の先進国であるアメリカで、必ずしも臓器提供率が高くないのは、そのような遺族が多いことを物語っていると思われます。

 何も「脳死を人の死」として感情的に受け入れることが出来ない人がいるのは、日本人の死生観が諸外国と比べて特別なわけだからでも何でもありません。万国共通です。

 脳死状態の肉親を目前にして、その死を納得するかしないかは、遺族個人の問題であって、 遺族の自由な感情や判断に委ねられるべきものです。従って、家族の感情や死生観によって、肉親の死(脳死)を受容出来ない人は、臓器の提供を拒めば良いのです。

 本来、法律の条文は諸外国と同様に、脳死は科学的事実であることを確認するだけの意味を付与すれば良いはずなのですが、現在の脳死を巡る論議においては、あたかも個人の死生観を一律に法律で規定するかの如き錯覚に惑わされているように思われます。

Q:「脳死を人の死」と規定してしまうと、脳死判定された時点で医療行為をを打ち切られてしまうのではありませんか。

 また、脳死者に対する医療行為の打ち切りを防ぐために、「脳死判定を拒否する」権利を患者や家族に与えてはどうですか。

A:脳死状態の肉親を目前にして、「肉親の死」を受容出来ない方がいらっしゃるのは当 然のことです。その場合、健康保険適用として医療行為を継続し、遺族に対し「看取りの時間」を提供すれば良いと考えます。

 次の「脳死判定を拒否する」権利を患者や家族に与えるとの意見には反対します。

 例えば、がんになった場合を考えてみればわかる通り、がんの告知をするかどうかは、家族と医師が相談して決めることですが、がんかどうか「診断する」のは、医師の責務です。「脳死判定」をしないということは、医師が「診断しない」というのと同じことです。

 ですから、医師は医療行為の一環として、「患者の死」を科学的に判定する責務があり、 このような医師の基本的な権限を侵すことは、かえって医療不信を増幅する結果となるからです。「中山案」では危惧の念が消えないようであれば、法案に、脳死判定後「医師は遺族に対し、医療継続の意思を確認しなければならない。そして遺族が医療の継続を望むのであれば、医師は医療を継続しなければならない」という趣旨の条文を盛り込めば良いと考えます。

Q:柳田邦男氏は「脳死は人の死である」と規定することは、【死の青田刈り】につながると警告していますが。

A:【死の青田刈り】などでは、決してありません。【命の贈り物】です。もし、【死の青田刈り】であれば、諸外国は皆【死の青田刈り】を行っているのでしょうか。【死の青田刈り】と考えるなら、日本人患者を受け入れてくれる諸外国に大変失礼です。諸外国に対して、非人道的な【死の青田刈り】をしていると非難している日本人が、困った時だけ臓器をもらいに行くことになるわけですから。

 移植医療は、科学的事実として厳然たる死を迎えた人が、死後自分の臓器を病で苦しんでいる人に提供し、その患者さんを救うだけでなく、自分もレシピエントとともに生き続けたいと願うドナーがいて初めて成立する医療であって、まさしく【命の贈り物】なのです。

Q:「脳死を人の死」と規定してしまうと、脳死と判定されたら、遺族は無理やり臓器を提供させられてしまうのではありませんか。

A:そんなことはありません。臓器提供の説明をするのは医師でなくコーディネーターです。コーディネーターは、臓器提供を強制するような言動は一切してはならないことになっています。

それでも、もし医療に対する不信感があり、無理やり臓器提供をさせられてしまうのではないかという不安があるようでしたら、移植学会マニュアル(案)にあるような、公平な第三者による監視機関を設置するなど、透明性のあるシステムを構築すれば良いのです。大切なことは「臓器を提供したい意思」「臓器を提供したくない意思」が確保されるシステムの構築であって、科学的事実の確認として「脳死は人の死である」と法律で規定することには何ら問題がありません。

Q:「脳死を人の死」としない対案も、日本における脳死体からの臓器移植医療の実現に道を開くものであり、どちらの案でも大差ないのではありませんか。

A:いいえ、倫理的には大きく違います。

まず、「脳死を人の死」としないわけですから、ドナーは生きている事になり、臓器を摘出した医師は、殺人を犯した事になります。「脳死を人の死」としないで臓器移植を行っている国は、世界広しと言えど何処にもありません。それは明らかに論理的妥当性が無いからです。

 次に、「脳死を人の死」としないで脳死体からの臓器移植を行うことは、ドナーにとってもレシピエントにとっても大変不幸な結果を招きます。

 ドナー側から見れば、臓器提供を承認した遺族が、「脳死が人の死ではないのならば、故人はまだ生きていたのかも知れない」と考えたら、承諾してしまった事を後悔することになるでしょう。また、レシピエント側から見れば、「ドナーの犠牲によって自分が生きているのかも知れない」と考えるのはとても辛い事です。

 「脳死が人の死」であることに疑問が残るなら、臓器提供を受けたいと考えるキャンディデイト(移植を受ける候補者)はいないのではないでしょうか。キャンディデイトは、「ドナーが死後自分の臓器を提供して、レシピエントの中で生き続けたいと願っている」と信じればこそ、提供された臓器を受け入れる事が出来るのです。

 もし、対案が支持を得てしまったならば、諸外国の常識から全くかけ離れた法案の下で、日本の移植医療がスタートすることになります。このような法案の下で移植医療が定着することは、難しいでしょう。従って、今後も日本の患者が大きな犠牲を払って、アジア諸国も含む諸外国に「移植難民」として渡航せざるを得ない状況が続くのではないかと思われます。しかも、諸外国が「日本の社会は移植医療に偏見を持っている」と見なして、日本からの患者の受け容れを拒否する事態に発展するのではないかと私たちは懸念しています。

Q:イギリスやドイツなどでは、「脳死を人の死」とする法律が無くても移植医療が行われていますから、日本においても法律で「脳死を人の死」とする必要は無いのではありませんか。

A:イギリスやドイツは、法律が無くても科学的事実として「脳死は人の死」であり、医師が脳死判定をすれば、臓器を摘出することには違法性が無いという社会的合意があります。本来、科学的事実である「脳死は人の死」を法律で規定する必要は無いと考えますが、日本では医療不信からの反対論が根強く、法律で明文化しなければ医療現場が混乱し、脳死体からの移植医療の実現は困難になります。また、対案はイギリスやドイツの慣習と比較した場合、「脳死を人の死としない」ことを明文化している点が問題です。

Q:「脳死を人の死」と規定してしまうと、移植医療を必要としているほんの一握りの人々のために、数百の法律を変えなければならず、社会的な混乱を生じるという法律家の意見がありますが。

A:本来、法律は、国民が社会生活を営む上で混乱が生じないように、交通整理をする役割を担っています。科学が進歩し、国民の社会生活が変われば、後追いで法律を見直し、新しい交通整理が必要となることは言うまでもありません。いくら一握りの人々のためとはいえ、脳死問題は科学の進歩によって、科学的事実としての死の概念が変容を迫られたものであり、事は生死の問題であるだけに、なおざりにすべき性質のものではありません。

 既存の死の概念に沿った法体系を修正することを厭うあまり、科学的進歩の結果である脳死の概念を否定するのは、本末転倒と考えます。

私たちは、世界的に確立された科学的事実の確認として、「脳死は人の死」として法案の中で取り扱うことを、強く要望します。「この問題は、日本の問題であり、諸外国の法律や慣習がどうなっていようと関係無い」との反論があるかも知れませんが、日本の患者さんが海外で移植医療を受けるために渡航するという現実がある以上、日本においても移植先進国である諸外国と同じ基準で、移植医療が実現されなければなりません。国際的な横のつながりが必要かつ重要な移植医療において、日本だけが何ら論理的妥当性が無いまま「脳死を人の死」としないことは許されません。

「脳死を人の死」とせずに、諸外国で「命の贈り物」として、正々堂々と行われている脳死体からの移植医療を、日本において何かやましいところのあるような、コソコソと行う医療としてしまうことがないよう願ってやみません。


新聞記事より(1997年5月7日付産経新聞夕刊)

ファミリー・コーディネーター トリオ・ジャパンの荒波よしさん 移植の悩み相談

「ファミリー・コーディネーター」あまり耳慣れない、この仕事を十年来続けている女性がいる。

トリオ・ジャパンの荒波よしさん(52)だ。肝臓移植を待ち切れなかったまな娘の死をきっかけに、同じ境遇の患者や家族に対し、体験に基づく移植のさまざまな情報を提供する。"移植途上国"の日本では「絶望」の二文字が、相談の出発点となる場合が多い。「死ぬか生きるかの瀬戸際で悩む人たちの苦しみを、少しでも取り除きたい」と走り回る。

先月22日夜、荒波さんは埼玉県戸田市のマンションに駆けつけた。

その少し前、女性(40)から電話が入った。「主人は移植をしないと助からないんですが…。どうしたらいいでしょうか」声が震え、動揺しているのがはっきりと分かった。

食卓をはさんで話を聞く。肺の難病で入院中の夫(44)の状態が非常に悪いこと、海外で移植を受けたい気持ちはあるが三人の子供がおり経済的にも難しいこと、悩み出すと子供にあたり自己嫌悪に陥る繰り返し…。初対面にもかかわらず、女性は胸のつかえが取れたかのように、一気にしゃべった。

キャンディデイト(移植を待つ患者)やその家族に、ある種、共通する側面という。身内や近所の人に相談しても、「大変ねえ」「頑張ってね」で終わってしまうことが多い。移植医療が根付いていない現実をここでも感じた。

荒波さん自身、昭和61年、長女の里子さん=当時(15)=を亡くした。難病の胆道閉鎖症で手術を繰り返し、国内での移植を受けようと奔走していた最中だった。ベッドのわきに《お母さん、ありがとう》と赤鉛筆で書かれた走り書きがあった。

長女に移植を受けさせたいとの願いもかなわず、自分を責めたりもした。同時に同じような悩みをもつ人たちのために、そして彼らと一緒に連携して、何かできないかと思った。

「ファミリー・コーディネーター」という造語を生み出し、今、夫の嘉男さん(54)らとともに毎年15〜20組の新しい患者、家族と接する。自身を含めて数々の体験を説明したうえで、相手と一緒に担当医に本人の病状を聞きに行ったり、移植を決断すれば医師を紹介したり、場合によっては募金活動の先頭に立つ。すべて無償だ。

「移植で助かって欲しいという願いは常にある。でも海外となると、病状や経済状態なども相手によって違い、『移植、移植』と私が言ったら相手を逆に苦しめることにもなる。限られた状況で、少しでも後悔をなくしてもらいたいという気持ちの方が強い」

「海外移植成功」といえば、華々しい。でも、荒波さんが相談を受けた患者27人(平成7年10月から1年間)のうち、21〜50歳の6人が他界した現実を見据えた言葉だ。

「議員さんたちが誠実にやってくれた」 4月24日、衆議院で臓器移植法案が可決された瞬間、傍聴席で思わず顔をおおった。

里子さんの死から11年目を迎えた。願いが一歩前進したと思ったら、涙があふれてきた。「移植はドナーとレシピエントがいれば1日でできるのに、和田心臓移植(札幌医大・昭和43年)以来、医師と患者双方の医療不信ゆえに長い年月がかかった。でも、必ずできるようになると信じています」と話す。


家族3人幸せ一杯 黒田 珠美

1996年11月28日木曜日、私は念願の男の子を出産しました。

私は、1971年12月18日に生まれ、生後2ヶ月で胆道閉鎖症と診断されて、手術を受けました。その後は順調に回復し、普通の人と変わりなく生活してきたので、自分がそんな大きな病気をしたという実感は全くありませんでした。ところが、短大を卒業し、就職して1年も経たないうちに、肝硬変になってしまいました。幸い発見が早かったため、肝臓移植をすれば完全に治るという医師の言葉を信じて、1993年2月、移植を受けるためオーストラリアに行き、10月に移植手術を受けました。

それからです、私の人生が変わったのは。肝臓移植を受ける前は、まだ肝硬変の自覚症状は出ていないと思っていたのですが、移植を受けたら術後の回復と共に、どんどん身体が楽になっていくのがわかりました。ほんとに疲れにくくなり、そのおかげで明るく積極的になって、自分に自信が持てるようになりました。いろんな事を前向きに考えるようになったのも、私にとって大きな変化でした。

94年2月(術後3ヶ月)で帰国して間もない4月に今の夫と出会い、1年後の4月に結婚しました。結婚するとき考えたのは、やっぱり子どものことです。万が一私の体調が悪くなって、子どもを持てなかったら夫に申しわけない、と思いました。いくら元気になったとはいえ、出産ともなると、全く健康な人でも大変なことです。先生は大丈夫だと言ってくれましたが、先のことは誰にもわからないし、国内には例が無かったので少し心配になりました。

そこで、海外ではどうなのか、オーストラリアのコーディネーターに手紙を書いて聞いたところ、オーストラリアでは、3人の移植者が五体満足な元気な赤ちゃんを出産しているということだったので、自分の身体を大切にしていれば、きっと子どもが持てるだろうと思いました。そして、万が一の事も含めて、彼が納得してくれたので、95年4月、結婚することが出来ました。

そして、1年後の96年4月に妊娠がわかりました。子どもはとても欲しかったので、とても嬉しかったのですが、ドーッと不安が押し寄せてきました。何故かというと、妊娠の場合、妊婦自身が健康でも、途中何が起こるかわからないし、急に何かあった時、金沢医科大学病院まで行くのは、ちょっと遠いとも思ったからです。でも、そのことは、私が小さい頃からの主治医である小児外科の先生も、産婦人科の先生も、「何か変わったことがあったら、すぐ病院に来てもらえば大丈夫です」とはっきり言って下さったので、すぐに心配なくなり、安心することが出来ました。その証拠に私は妊娠6ヶ月までウエイトレスのアルバイトをしていたのです。

問題は育児です。自分のペースで暮らしている間は体調が良くても、子どものために夜中に何度も起きたりして育児に追われると、私の身体に負担がかかり過ぎるのではないかと心配でした。妊娠中はいろんな人に「生まれてきたら大変よう!今が一番いいときよ」と言われたので、「子育てってそんなに大変なのかなあ」と少し憂鬱になることもありました。

だけど、いつも心配ばかりしているわけではありません。少しの心配を持ちつつ、そのうち「何とかなるさ」と思うようになりました。それは、両方の実家が近くにあるおかげでした。イザとなれば助けてもらえば良いのです。

そうこうしているうちに、あっという間に妊娠8ヶ月を過ぎ、こうなるとさすがに通院するのも大変だし、国内初ということもあって、大事を取って11月1日に入院しました。幸いなことに入院中も何事もなく過ぎたので、とても暇でした。これは本当に有難いことです。

そして、1996年11月28日午前10時、体重2,634gの元気な男の子を出産しました。私の身体にかかる負担を少しでも軽くすませるため、予定日より2週間早く帝王切開で産みました。

前日の夜は緊張して良く眠れなかったのですが、終わってしまうとあっという間でした。といっても、手術中はとても痛くて、赤ちゃんの産声を聞いたときも、感動というよりも「ほっ」として「あー無事に生まれたあ」という感想しかなくて、後で病室に戻って目の前で赤ちゃんを見たときに「かわいー!」と思い、しみじみと嬉しくなりました。

一番心配していた、免疫抑制剤の赤ちゃんへの影響もなく、五体満足の本当に元気な子で、それが何よりも嬉しいことでした。そして、赤ちゃんには、私がいのちをいただいた豪州(オーストラリア)にちなんで「正豪」と名付けました。

肝臓移植を受けて3年、もし移植をしていなかったら、こんなに嬉しいこともなく、今まだ病気と闘っていたことでしょう。本当に移植して良かったです。「結婚して出産して家族みんなで毎日平凡に暮らす」そんなごく当たり前のことが、すごく、すごく幸せに感じられることにとても感謝しています。

さて、出産後5ヶ月経った今、心配していた育児は全く問題無く、正豪は良く飲み良く寝て、夜泣きもしたことがない、とても楽な子どもです。今、体重は8,500gになり、毎日元気にすくすくと育っています。もちろん私も何の問題も無く、家族3人幸せ一杯に暮らしています。


新しい生命の贈りもの

心に残る医療・生命のバトンタッチ

斉藤 厚一

昨年11月28日午前10時23分、石川県金沢市郊外の金沢医科大学病院で1人の男の子が誕生しました。大学病院ではごく当たり前の出来事ですが、この日だけは大勢のマスコミ関係者が押しかけ、NHKで夜のトップニュースとして放映されると共に、共同通信社を通じて世界に送信されました。「肝臓移植の日本人女性が初の出産」と。

私の次女、珠美(当時21)は、胆道閉鎖症から来る肝硬変となり、肝臓移植手術を受けるため、93年2月にオーストラリアはクイーンズランド州ブリスベン市へと向かいました。同行したのは父親の私と長女の美雪の2人。

ブリスベン市のプリンセス・アレキサンドラ病院では、「胆道閉鎖症の子どもが異常無く成人になるとは信じられない」と云われ、また、「日本人ドクターが初めて元気な患者を送って来た」とも云われました。

珠美はCBAの会で元気印の目標でもあり、半年前の短大卒業時の精密検査で異常無しの診断が出た珠美が、まさか移植になろうなどとは、夢にも思いませんでした。 それでも医師の診断が出た以上は、早く対応する事が肝要と、今までの経験から承知していました。そして渡豪して約1ケ月間の検査入院の後、一度は移植不要との診断が出ながらも、2度目のバイオプシーで移植が必要との裁断が出て、ウエイティング・リストに載り、ビーパー(ポケベル)を持っての永い待機生活が始まりました。

この時点では体調も良く、日常生活には何の不自由も無いため、ドクターの勧めもあり、観光やショッピングを楽しんでおりました。しかし、入院中に日本人婦人患者2名が逝去され、お葬式やドナー慰霊祭への参列したこと、また適性や緊急性の相違等からと頭では理解しているとは云え、何ヵ月か遅れて来た同血液型日本人女性2名が先に移植手術を済ませて、先に帰国するなど、プレッシャーが押し寄せ、待機期間7ケ月を過ぎたころにはピークとなり、付き添っている姉が寝た夜中に、泣きながら自宅に電話をかけて来て「もうこのまま帰国したい」と訴えるほどで、渡航しての移植医療の厳しさを身を持って体験しました。

ついに私は9度目の渡豪をし、訴えても無駄とは分かっていながらも、娘の気持ちを考えて、移植チーム外科副部長のドクターに面談しました。ドクターは「私も娘の親として気持ちは良くわかる。もう暫く頑張りなさい、必ずピッタリのドナーが現れるから」 と励ましてくれました。また、珠美には3度のチャンスがあった事も話してくれました。

1週間だけ滞在した私はそのまま帰国。それから何と10日後の93年10月28日、珠美は定期検診の最中に「タマミ、メイビー・トランスプラント・トゥデイ」と内科のドクターに云われて、その数時間後にニコニコ笑いながら手術室に消えました。

現地の日本人ドクターから自宅に電話が入り、今夜にも移植する事になったと云われて、必ず成功するとの保証は無い事など、最後のインフォームド・コンセントがありました。

ICU(集中治療室)に戻ったのは約12時間後の24日早朝で、そのまま翌朝まで眠り、私たち両親が日本から到着した10月25日に麻酔から覚めました。

珠美はオーストラリアの善意と友情により、日本人胆道閉鎖症の成人患者として初めてプリンセス・アレキサンドラ病院で「新しい生命の贈りもの」を受け取りました。術後にはそれなりのトラブルがあったものの、手術の翌日から体中に多数のドレーン・チューブ等をぶら下げたまま、数名のナース等に支えられての歩行訓練が始まり、術後11日目には昼間アパートまで帰宅許可が出て、23日目で退院出来ました。

休日にも休まずに回診してくれるドクター、24時間体制で対応するコーディネーター、ドクターと対等に患者への対応について意見を述べるナース。当たり前の事ですが、病院全体が患者中心に動き、明るく暖かく患者を包んでくれて安心感を与えてくれました。

とにかく国籍や言語を超えた、言わば人類愛による看護を受け、術後3ケ月間のリハビリを終えて、94年1月末、ほぼ1年ぶりに真夏のブリスベンから雪の福井へ帰国しました。

ところで「脳死による肝臓移植手術」と云う大きな事を成し遂げるためには、どれ程多くの方々の温かい指導やご協力、励ましがあったか計り知れません。

「今の珠美さんの顔は彼女本来の顔ではありません。私の娘なら今行きます、すぐ行きませんか」と、適切な判断と自信で、最初にブリスベン行きを勧めて下さった、金沢医科大学小児外科のドクターの皆さん、CBAの会の運営委員や各地の皆さん、会社関係、友人・知人など多くの方々の励ましを忘れることは出来ません。勿論、ドナーを提供して下さったオーストラリア人家族には感謝の言葉しかありません。

全ての方々に「ありがとうございました」と心から感謝のお礼を申し述べました。

また、ブリスベン行きが決まった時の家族会議で、ニュージーランド留学の経験もあり、日頃は大阪で生活している長女の美雪が、「私が行く」と勤めていた英語学校をさっさと辞めて、1年間付き添ってくれたのも嬉しい出来事でした。

外国での待機生活は、言葉や生活習慣の相違から来るストレスやプレッシャーに押しつぶされる毎日です。何と云っても、何時提供されるかわからないドナーを待つストレスは、経験した者にしかわかり難いと思います。それでも、病院が心身共に患者第一に考えてくれたおかげで、どれ程慰められたかわかりません。

国籍に関係無く外国人患者に門戸を開いてくれているオーストラリアの病院に、現在の日本では出来ない脳死ドナーからの「肝臓移植手術」に、一縷の望みを託し、ブリスベンに渡った時の真摯な気持ちを、何時までも忘れず、感謝の気持ちを持ち続けたいと思っております。

何よりも「移植医療」そのものが、人間愛に基づく善意によりのみ成り立っていると思います。全てに感謝の気持ちを持つことが「移植医療」 を成功させる最大のポイントだと思います。

珠美にとっても新しい人生の始まりと云えますが、ジャパニーズ・ハートにオーストラリアン・レバーを合わせ持った珠美は、「新しい生命の贈りもの」と共に、形の見えない大きな大きな「お土産」を持って帰国することが出来ました。

心身共に生まれ変わった珠美は、初めてのセカンド・バースデーを迎えた後、縁あって平成7年4月22日に両親の所属する合唱団の演奏するワグナーの「結婚行進曲」に乗って、地元のカトリック教会でウエディング・ベルを鳴らし、新しい人生を歩み始めました。

新婚旅行は勿論オーストラリア。第2の生命誕生の地ブリスベンでの披露パーティの日は、数年に1度しか無い移植をしない「スペシャル・デー」を設けて、移植チームのドクターがご夫婦で参加して下さったほか、 ナースや現地で知りあった友人等、多くの皆さんがお祝いに駆けつけて下さり、感激に浸ったようです。

珠美は肝臓移植の術後がどうなるかと云う事は一切考えず、全てがプラス思考。現地の既婚ニュージーランド人女性コーディネーターに機会ある毎に結婚や出産の事などを調べてもらうなどしており、とにかく前向きな姿勢には親も驚きました。しかし、此処まで全てが順調に来られたのも、本人の努力が有った事は勿論ですが、夫である典彦との出会いと、その大きな愛情に包まれた事が大きいと思います。オーストラリアに因んで命名された「正豪」誕生に際しては、出産(帝王切開)に合わせて、オーストラリア移植チームの責任者ストロング教授一行もコアラのぬいぐるみを持って来日し、喜んで戴きました。

「オーストラリアで贈られた生命から新しい生命へのバトンタッチ」が、肝移植をされた方や家族の皆さんに少しでも励みになれば、これほど嬉しい事はありません。 誕生時は2,600g程度だった正豪も、80日経過した現在では6kg余りに成長し、お陰様で母子共に元気に過ごしております。(1997年2月14日聖バレンタインデーの日に)


Family Coordinatorから

カウンセリングと家族調整

荒波 よし

移植を希望する夫を持つAさん(24歳)には保育園に通う女児がいる。Aさんは夫に移植を受けさせてあげたいと思いながらも、生活に追われて、医療費のことを考えると、ここ数年揺れ動いてきた。そんなAさんと、夫の両親とはうまく行かず、またこのせいで実家の両親と夫の両親とが反目しあうようになっていた。

夫の病状が進行して行く中で、数年来この家族に関わってきた病院のソーシャルワーカーから、援助して欲しいとの相談を受けた。

○月○日  Aさんと双方の両親に紹介される。自己紹介の後、話し合いとなる。

まず、心臓移植の現況(移植する人の病状・渡航について・移植後の問題)を話した後、それぞれの意見を聞いた。

夫の両親「(Aさんに向かって)息子を助けるために頑張って欲しい。あんたは奥さんなんだから、どんなことをしても助けてあげて」
Aさんの両親「今まで娘がどんなに苦労してきたか。ここへ来てまた何千万という借金を背負わせることは、親としてはさせられない。○○さんのことは切ないが、移植には反対です」

Aさんは何も言えない。双方の親は真っ向から衝突している。ここでAさん一人を別室に呼んで、カウンセリングを開始する。

Aさんの辛い気持ちを受け止めて、これまでこのような状況の中で良く堪えてきたことをねぎらった。Aさんは涙を流しながら、今までの生活や夫の両親とのことを話した。そんな中で、「どんなに辛くとも頑張って、募金活動をしてでも移植で助けたい」「親子3人で前のように暮らしたい」と言い切った。

そこで、募金活動のやり方を話す。

「協力してくれる友人や職場の上司がいるので、すでに相談している」

双方の両親はあてにしない。

子どもをどうするか?

「子どもは一緒に連れて行きたい」

だとしたら、誰か一緒に移植について行ってくれるのか?

「母は仕事を持っているので無理」

それでは連れていけない。

「それなら弟夫婦に預ける」

だが、弟夫婦には小さな子がいて、奥さんは次の子を身ごもっているという。

このような状況で、弟夫婦に子どもを預けるとどうなるのかを説明する。

「どうしたらいいのか」

ここで、児童相談所の説明をする。

「最悪、子どもは児童相談所に預けてでも行く」

待機中に亡くなるようなことがあっても後悔しないか確認する。

「本人が移植を望んでいるから」

以上のようなやり取りの後、双方の両親と再度の話し合いを持つ。

ここでAさんに今決心したことについて話すように促したが、「言って下さい」と言われる。

募金活動をして、移植に行くことを決心した事を伝えた。

「ここで皆様にお願いがあります。何千万という募金活動をこれからやらなければなりません。これは非常に大変なことです。ですから、彼女のすることについて、一切文句や不満を言わないで下さい。確かに彼女はまだ若いです。皆さんの目から見たら、足りないことだらけでしょう。でも、皆さんがして良いのは、喜んであげることだけです」と、Aさんのすることに一切口を挟まないよう約束して欲しいと伝えた。

すると、夫の両親は本当にやってくれるのかと訝しげな眼差しをAさんに向けた。

Aさんの両親は何でこれ以上の苦労を背負いこむのかと言い、本当にこれで良いのかと心配と不安を忍ばせながらも、子どもは心配しなくても私たちが何とか見ると言った。

その後夫は転院して移植の準備をしていたが、残念ながらその最中に亡くなられた。


みんなの広場

前号で予告した通り、会員の皆様からの声を紹介してゆきます。

あなたのコメントをお寄せ下さい。

  • 渡辺直道さんの論文、興味深く読ませていただきました。現在、私の身の回りの人を見ても、死というものを正面から捉えて話題にすることはほとんどありません。特に田舎では、死体に触るなどとはとんでもないことで、臓器提供も解剖も献体も全くもってタブーであることが多いようです。

    でも、自分がどう生きて行くのか考える時、どのように死を迎えるかは当然考えるべきことになってきます。医療を受ける側である私たちの考え方が少しずつ変わることと、医療を自分の手で行う人々が、人の痛みに共感する能力をもっと高めて下さることが大切であると思います。

    最近NHKで取り上げられた、林成之先生による「脳低温療法」関連の記事の中で、林先生自らが、この治療法が脳死を否定するものではなく、臓器移植と共存するものであることを述べておられました。

    いろいろな情報がありすぎて、自分の考えをまとめて行くのは難しいですが、医療が人のためになされるものであることは間違いありません。一方で亡くなる人もあり、他方で生かされる生命もあります。とても完璧とは言えない人間どうし、お互いへの深い思いやりがあればこそ、医療もこれだけ進歩してきたのですから、これからは一人一人がもっと積極的に変わって行かなければならないのかもしれませんね。(鈴木清子)


  • 第15回トリオ・ジャパン談話会

    1997年3月15日(土)、東京六本木のVIVIにて、トリオ・ジャパン談話会が開催されました。

    今回は、当会の副会長で、7年前にアメリカのベイラー移植センターで肝移植を受けて、現在は青山学院大学講師としてご活躍中の野村祐之氏をお招きして、ご自身の体験を元に「レシピエント・コーディネーターの役割」について語っていただきました。

    当日は移植者及び家族、コーディネーター、看護婦、医師、薬剤師など、移植に関わるあらゆる方面の方々に多数ご参加いただき、大変充実した会となりました。九州、信州、京都、東北など、遠方からもお越し下さいまして、ありがとうございました。

     

    野村さんがベイラーに初めて足を踏み入れて、すぐに感じたのは、医師と患者の関係が上下関係ではなく、「病気を治す」パートナーであることでした。医師が移植に関する説明を「同じ立場から説明してくれたのが印象的だった」そうです。

    また、行ってすぐに渡された「移植マニュアル」の充実ぶりに驚かされたそうです。移植前も移植後も、今でも、ちょっと心配なことがあると、これを見れば大抵のことは書かれているといいます。

    さらに、移植チームには医師や看護婦だけでなく、コーディネーター、ソーシャルワーカー、栄養士、チャプレン(牧師)など、様々な分野の専門家が集まっていて、それぞれの専門分野で、患者中心の医療を目指して力を尽くしているそうです。

    今回のお話の中心は「レシピエント・コーディネーター」でした。コーディネーターと一口に言っても、アメリカでは様々な職種に分かれていて、臓器の確保や配分を行う人、患者が住む所を探す人、移植前の世話をする人などに分かれています。

    手術直後から、移植を受けて退院した後もずっと面倒を見てくれるのが、レシピエント・コーディネーターです。退院するときは「試験」までやって、患者さんの自己管理がしっかり出来ているかどうかチェックします。野村さんは択一式の簡単な問題かと思っていたら、全部記述式でちゃんとわかっていないと出来ないものだったとか。

    1人あたり約200人の患者さんを抱えていて、その人がどんな人で、どんな経過を辿り、今の検査データはいくつなのか、常に頭に入っていて、いつ電話をかけてもすぐに分かってくれるそうです。

    「日本はとてもそんなどころじゃない。まだまだこれからだ」というのが、参加された方々共通の感想であったようです。

     


    談話会に参加して 上條 衣織(信州大学第一外科)

    先日は野村さんの貴重な経験をお伺いする機会を作って下さいまして、本当にありがとうございました。また、談話会終了後、実際にコーディネーターの仕事をしていらっしゃる、京大の井山さんをはじめ、いろいろな方々の話も伺うことが出来て、良い面だけでなく、実際に直面している様々な思いなど、私にとってとても考えさせられる時間になりました。

    他の皆さんの話を伺っても、野村さんが移植された病院は非常にコーディネーターや病院のスタッフが充実していることを実感した反面、「日本はまだまだこれからなのだな」というのが正直な感想でした。

    井山さんも、「コーディネーターとはいっても、精神面まで一緒に考えるにはとても時間が足りないのが現状で、それがとても悲しい」とおっしゃっていましたが、これが現実であり、これを考えてゆくにはスタッフだけでなく、一般の方々にも理解し協力してもらうことが大切で、自分たちだけで頑張ろうとしても限界があることを知ったような気がします。

    私の勤務している病棟でも移植を行っています。入院中はいろいろな話をして、うれしいこと、辛いこと、悲しいことなど、共に過ごすことも出来て、いろいろと意見交換をすることが出来ます。しかし、退院してしまえば、外来通院のみで、外来ではやはりゆっくり話を聞くといっても限界があります。病棟に訪ねて来て話をするといっても、立ち話で、患者さんもパタパタ動いている看護婦にゆっくり話も出来ず、なあなあになってしまう場面はたくさんあるのではないかと思います。

    でも、やっぱり退院し、社会に復帰してからの心配な出来事、ショック、不安は、お子さんを連れて帰る家族はもちろん、病院生活から本来の生活に戻ることによって生じる問題など、入院しているときと同じくらい話をする場があったらと思うのではないでしょうか。もちろんそのことは、移植だけにとらわれず、全ての患者さんに言えることだと思うのですが…。

    私も「手術なんてしなければ良かった」と言われたことがあります。何と返事をしたらいいのか、ただ聞くことしか出来ませんでしたが、やはり患者さんが本来の生活に戻ったときに、元気になって良かったと思って欲しいし、辛いことも頑張って乗り越えようとしている強い気持ちを、応援してあげることが出来たらどんなに嬉しいことかと思っています。

    移植法案も様々な意見で揺れていますが、まだまだ始まったばかりで、これからだと思っています。私もどんな形であれ、移植に関わって行けたらと思います。


    ラックス先生歓迎会

    安田 義守

    1997年3月30日、六本木にある国際文化会館で、東京女子医大心臓移植者と家族の会の主催、トリオ・ジャパンの共催で、ラックス先生歓迎会が開かれました。

    第16回日本循環器学会のゲストスピーカーとして、UCLA医療センターのHillel Laks先生が来日されることを知って、Laks先生に感謝の気持ちを伝えて、元気な姿をご覧になって戴きたいと思い、このような会を企画しました。

    ラックス先生挨拶(会の始め)

    荒波さん、安田さん、八田先生、暖かいご歓迎をどうもありがとうごさいました。このように暖かい歓迎会を私のために開いていただいたことに、まず感謝したいと思います。そして、皆さんからのご厚意を大変嬉しく思っています。

    UCLAの移植チームは、日本から来た患者さんに対して、皆さんに充分な医療をしてあげられるように、喜んで努力したいと思っています。移植チームというのは非常に大きなチームですが、もし彼らも私と一緒に日本に来ていれば、ともに喜ぶことが出来たことでしょう。

    移植後、日本に帰られた患者さんのケアをして下さっている八田先生、野々山先生に対して感謝しています。患者に対するケアは非常に注意深く行うことが必要ですが、とても良い成績をあげていることに敬意を表したいと思います。世界中から来る患者さんに対して、同じように喜びとクオリティー・オブ・ライフを分かち合って行きたいと思います。

    日本の国会が新しい脳死に関する法律を早く承認して、移植医療が再開されて、成功するよう願っています。皆さんとともに築き上げてきた友情や、素晴らしい関係を引き続き発展させて、さらに移植の成績が向上するように努めて行きたいと思います。移植法案が認められて、再開出来るといいですね。

    今まで八田先生、百々先生らが一般の飛行機を使って重篤な患者さんを運び、無事手術が成功したということに敬意を表します。日本でも近い将来、移植が成功するよう祈っています。本日はどうもありがとうございました。

    この後、ラックス先生の元で心臓移植を受けた皆さんが、それぞれラックス先生にメッセージを読み上げました。その中から、1995年2月23日に移植を受けた、若林明美さんのメッセージを紹介します。

    彼女のプロフィールは「移植後の肺炎のため、私は耳が不自由になり、現在手話の習得中。でも元気一杯。早く日本でも移植が出来るような法律を作って、たくさんの人を助けて欲しいと思っています」とのことです。

     

    アメリカへの旅 若林 明美

    私の発病は高校1年の時でした。私はこの病気が分かったとき名前も、治らないものだということも知らなかったので、いつ頃退院できるのか、早く学校へ戻らないと進級ができなくなってしまうと言うことくらいしか思っていませんでした。ところが、いつまで経っても退院できないし、学校は中退することになってしまいました。でも病院の先生は「手術をするような病気ではない。ゆっくり治していこう」という以外何もいわなかったので、あのままだったら2年くらいしかいきられないなどとは夢にも思いませんでした。

    アメリカへ行く1月23日はどんよりした曇りの日でした。救急車で羽田空港まで行き、ストレッチャーに乗ったまま飛行機の中に入りました。私はもともと飛行機に乗るのが好きだったし、初めての外国なのと「いってしまえばどうにでもなる」という楽観的な性格で、不安よりもワクワクした気持ちの方が多かったと思う。飛行機の中は、ベッドが作ってあり、病院の食事はほとんど食べられなくなっていた私も、いつもと違う雰囲気で機内食がとてもおいしく感じられました。その後ウトウトと眠っていたら周りが騒がしくなり、ロスについたことがわかりました。

    降りる支度をしていると、突然私に英語で話しかけてくる女の人やたくさんの外国人に囲まれて、アメリカにきたんだなあと思うのと同時に「もう後には戻れない」と思い怖かったです。両親と別れて、瞬く間に救急車に乗せられて病院に着きました。青いかわいい救急車でした。そのとき日本から付き添いの先生が一緒についていてくれて本当に良かったと思いました。病院に着くとストレッチャーからすぐベッドに移されて長い廊下を運ばれて、こんなに広い病院で良く迷わないなあと感心しました。私はアメリカと言えば金髪の人がいっぱいいると思っていたのにとても少ないのでビックリしました。すぐ ICUに入った私のところにいろいろな人がきてくれました。その中で学生ボランティアのノリさんに1番多く私の相手をしてもらいました。ひげを生やしたおじさんのような学生です。

    2月22日の夜、もう寝ているのも疲れるようになった頃やっとドナーがでて手術をすることになりました。ずっと待っていたのにいざできるとなると、とても怖くてたまりませんでした。その時、日本語を話せる中国人の人が手を握っていてくれてとても心強よかったのを覚えています。そして手術を始めるためマスクをかぶせられ「後は寝ていれば終わってしまう」と思っていたら、なかなか麻酔がかからなくてテレビではあんなに簡単に寝てしまうのに現実は違うんだなあと思ったのが最後です。そのあとうまく回復しなくて長い夢を見ました。夢の中で私は毎日アメリカの小児科の子達とパーティをしていたり、船や飛行機で日本に帰る準備をしているのだけれど家族みんながなかなかそろわなくて何回も乗り遅れる夢や日本の友達が会いに来てくれたり、私の足が欲しいという友達に私の足をソーセージのように切り落としてあげた夢を見ました。その後、夢から覚めて歩く練習をするときなかなか歩けなくてあの夢は本当だったのかと心配したこともありました。

    夢から覚めた後しばらくボーとしていたのではっきりといつからかはわかりませんが、「あれ?声がでないなあ」と思い、さらに何の音もしないのに気がつきました。でも不思議と驚くこともなく、今聞こえなくてもすぐに聞こえるようになると思っていました。アメリカの食べ物は最後まで私には合わなかったけれど、ピザはおいしかったです。日本に帰ってきてから、食べたいだけ食べていたので、体重がどんどん増えてしまい、今は少し控えているところです。この間中学の時の友達の家に1泊してきました。売ってしまった私の家も見たかったからです。昔の友達がたくさん集まってくれてクタクタになってしまったけどとても楽しかったです。今度は2泊くらいおいでと言ってくれているのでまたいきたいなと思います。 それからロスでの楽しい思い出もたくさんありました。ディズニーランド、美術館、サンタモニカ、サンディエゴ、それと展望台から見たロスの町のー直線に並んだネオンの夜景はとてもきれいでした。まだいろいろあります。

    来年の夏にはまた外国旅行がしたいと思っています。


    ラックス先生お礼の言葉(会の最後)

    今日は非常に素晴らしい会を本当にありがとうございました。私は、皆さんと深く交流出来たことを忘れることはないと思いますし、感謝しています。

    UCLAのメンバーを代表して述べさせていただくと、メンバー全員が今日ここに来ていれば、私と同じように喜びを分かち合い、楽しい時間を過ごせたことと思います。外科医、内科医、サポートグループなど移植手術のために努力された皆さんに敬意を表したいと思います。

    以前までは、魂の源は心臓にあると言われていました。しかし、現在では人の魂は心にあると信じられています。今日は皆さんの体験談を聞いて、心臓がただ拍動しているということだけでなく、本当に血が通っている心からの言葉を知ることが出来ました。

    これからも、皆さんと一緒に心と魂を分かち合って行きたいと思います。再び皆さんとお会いして、日本ばかりでなく、アメリカでも世界中の移植者で一杯にして、素晴らしいパーティが出来ればいいと思っています。

     

    後日、歓迎会に参加された篠ヶ瀬さんからお手紙を戴きました。

    篠ヶ瀬 祐司(東京新聞)

    前略 先日は盛大かつ心のこもったパーティーに混ぜてもらい、ありがとうございました。部外者を排除しない寛容な運営に感謝いたします。

    今、思い返しても、みなさんの見事な回復ぶり、驚くばかりでした。そして、みなさんが充実した日々を送っていらっしゃることにも強い感動を覚えました。おそらく、多くの読者も私と同じようにシロウトであり、移植を受けた方との接触はほとんどないでしょう。私は、私の驚きや感動をなんとか紙面化しなくては、と考えています。

    またお時間を拝借することもあろうかと思いますが、その折はまたよろしくお願いいたします。 草々


    お知らせ

    ○トリオ・ジャパンのホームぺージのアドレスはhttp://square.umin.ac.jp/trioです。(ちょっと短くなりました)

    ○事務局のメールアドレスは「削除2006/11/01」(ちょっと短くなりました)です。会報に対するご意見、ご要望、ご感想、ご質問など、お気軽にお寄せ下さい。

    ○移植メーリングリストがスタートしました。移植者、医師、看護婦など、移植に関わる人々が立場を超えて自由に情報交換出来る広場です。詳しくは、http://square.umin.ac.jp/trnsplntをご覧の上、参加して下さい。

    ○今号のイラストは若林明美さんに描いていただきました。どうもありがとうございます。皆様からのご感想・ご意見・イラスト・カット・マンガ・写真などのご投稿をお待ちしています。

    ○日本移植者協議会の主催で、第7回全国移植者スポーツ大会を平成9年11月22日(土)、静岡県静岡市草薙運動公園にて開催の予定です。

    ○ワシントン・ポストの記事はトリオの本部から送っていただきました。ニューヨーク・タイムズの記事は海外のメーリングリストで流れていたものを使わせていただきました。

    [事務局活動日記]

    1/18	運営委員会
    1/25	7団体移植推進会議
    2/7	インターネット打ち合わせ
    	移植学会ワーキンググループ(オブザーバーとして)
    	8団体会議
    2/15	役員会
    	定期総会
    2/17	大阪大学病院訪問
    	久留米大学病院訪問
    2/18	東京医科大学八王子医療センター訪問
    2/21	国立甲府病院訪問
    	TOKYO地球市民フェスタ97(Viva Transplantation)参加
    2/22	移植学会ワーキンググループ
    	8団体会議
    3/2	移植学会ワーキンググループ
    3/10	移植学会ワーキンググループ
    3/11	(衆)議院運営委員会 25名に陳情
    3/15	運営委員会
    	第15回トリオ・ジャパン談話会(野村祐之氏講師)
    3/19	(衆)厚生委員会傍聴・陳情
    3/20	移植討論会(移植学会主催)
    	8団体会議
    3/25	(衆)厚生委員会審議傍聴
    3/30	ラックス先生歓迎会
    4/1	(衆)第一議員会館全室訪問陳情
    4/3	(衆)第二議員会館全室訪問陳情
    4/5	青木慎治会長「迷走航路」(新潮社)出版記念会
    	東邦大学病院訪問
    4/8	筑波大学病院訪問
    	(衆)厚生委員会審議 参考人陳述 木内博文氏
    4/13	全国統一行動(銀座)
    4/18	(衆)厚生委員会審議傍聴 小泉厚生大臣列席
    4/21	(衆)第一・第二議員会館全室訪問陳情
    4/22	個人宅訪問
    4/24	(衆)本会議にて審議 採決の結果、中山案可決
    4/28	東邦大学病院訪問
    4/29	運営委員会
    5/1	藤田学園保健衛生大学病院訪問
    5/2	日本医科大学病院訪問
    5/7	(参)陳情
    5/11 個人宅訪問
    5/13	埼玉医科大学病院訪問
    5/15	(参)陳情
    	個人宅訪問
    5/19	(参)本会議趣旨説明傍聴
    5/21	日本移植学会臨時理事会及び記者会見(オブザーバー)

    ☆臓器移植法案審議関連の取材が殺到し、事務局は大わらわでした。

    ファミリー・コーディネーター相談件数(1997年1月〜4月)

    肺移植	3
    心移植	7
    肝移植	10
    腎移植	1
    その他	1
    計	22

    活動予定

    第5回トリオ・ジャパンセミナー

    「やさしさの医療−臓器移植」

    日程 1997年6月28日(土)

    時間 午後1時から5時

    場所 キャピトル東急ホテル

    「竹の間」

    参加費 無料

    プログラム(予定)

    1. 患者からの発言(2名予定)
    2. 移植医からの発言(未定)
    3. パネルディスカッション

    「我が国の現状から移植医療が進展するために」

    パネリスト

    大塚敏文(日本救急医学会)
    勾坂 馨(日本法医学会)
    矢崎義雄(日本循環器学会)
    藤原研司(日本肝臓学会)
    井形昭弘(日本神経学会)
    神野哲夫(日本脳神経外科学会)

    主催 トリオ・ジャパン

    後援 (社)全国腎臓病協議会 日本肝臓病患者団体協議会 全国心臓病の子供を守る会

       胆道閉鎖症の子供を守る会 心移植サポート ニューハートクラブ 日本移植者協議会


    [編集後記]

    ・4月24日、「臓器移植法案」が衆議院を通過しました。実に、脳死臨調の答申以来5年、法案提出以来3年にもわたる紆余曲折を経て、ようやくここまで漕ぎ着けました。しかし、依然として参議院での審議は不透明であり、予断を許しません。また、参議院を通過し、法案が成立したとしても、日本における脳死体からの臓器移植はスタートラインに立ったばかりで、今後取り組まなければならない課題は山積されています。

    ・心臓移植のため渡米されていた物部美佑紀さん(8歳)は、待機中にドナーが現れず、大変残念な結果となってしまいました。心よりご冥福をお祈り申し上げます。しかし、悲しみの中で、ご両親は美佑紀さんの角膜を提供されたとの報道に接し、一筋の光明を見る思いです。美佑紀さんは、二人の人に光を与えて、彼らと共に生き続けることでしょう。

    ・ラックス先生歓迎のレセプションにて、ある医師と歓談していたところ、「このようなパーティを開いてもらえるとは、医師冥利に尽きる」とおっしゃっていました。日本の移植医にもこのような「冥利」を味わう日を迎えていただきたいと思います。

    ・第15回トリオ・ジャパン談話会にて、野村祐之さんの講演を拝聴し、移植医療が定着することは、日本の医療全体の改革に繋がるのだという思いを強くしました。

    [編集後記の後記]

    ・臓器移植法案を巡る情勢は時々刻々と変化しています。衆議院で可決された際には、すぐに参議院でも可決されて、移植が始まるかのような雰囲気がありましたが、この文を書いている5/24現在、参議院では継続審議となる可能性が高いようです。会報を編集する側としては、記事が時代遅れになってしまわないか、頭の痛いところです。


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