貝の見る夢 〜内なる想い
今日も一日、講義とESP訓練に明け暮れて、へとへとだった。
だから、疲れが見せた幻かと思った。
もしくは、願望が見せるイメージだろうと。
身動ぎでもしようものなら途端にかき消えてしまう気がして、ジョミーはドアを開けたまま、ずいぶんぼんやりとしていた。
船窓に広がるのは、果てしない雲の海である。
シャングリラは雲海に身を潜めているから、他の景色は望めない。
だが多量な水分を含んだ雨雲と違って、白く薄い雲は存外陽の光を通す。
室内は、意外に明るかった。
窓から差し込む薄日に、マントが微かに透けていた。
その細い肢体が、朧ながらに窺える。
簡単に手折れそうでいて、その実内包する力は非常に強い。
どこか儚げな雰囲気を纏っているのは、先まで臥せっていた所為か。
目前の光景をしかと記憶に止めるべく、ジョミーは目を細めた。
会いたくて、でも会えない人。
幻でもなんでもいい。
こうして手の届く範囲に彼の姿を認められるだけで、ジョミーはとても幸せだった。
知らず口元に微笑が浮かぶ。
不意に、彼の身体が僅かに揺らいで、ジョミーははっと息を飲んだ。
消えてしまうのかと危ぶんだが、そうではなかった。
至極ゆったりとした動作で、彼は振り返ったのだった。
優しい笑みを湛えた面が、まっすぐにジョミーへと向けられる。
ブルーは小首を傾げると、口を開いた。
「ジョミー、ずいぶん遅かったね」
「え……本物っ?」
思わず口をついて出た言葉に、ブルーはきょとんとした表情を浮かべた。
だがすぐに相好を崩すと、軽やかな足取りで、未だドア口に佇むジョミーの元へと近寄ってくる。
「思念じゃないよ」
そう言って、右手を差し伸べられた。
ふわりと頭を撫でられる。
ブルーはジョミーの言葉を、勘違いしたらしかった。
だがジョミーに、それを訂正する余裕はない。
頭頂部を、瞬間通り過ぎていった彼の感触に、気を取られていたからだ。
「……勝手に入って、すまない」
申し訳なさそうな面持ちのブルーに、ジョミーは慌ててかぶりを振った。
彼がほっと吐息をもらすのに、笑みを浮かべる。
胸が締めつけられるような思いに、どうしてだか涙ぐみそうになって、ジョミーは顔を逸らすとドアを閉めた。
簡素な室内に、椅子はひとつきりだった。
それを寝台の前に設えて、ジョミーはブルーに腰かけてもらった。
自身は寝台に腰を下ろす。
なんとなく気恥ずかしくて、彼の正面を避けてしまった。
身体半分だけ、横にずれた格好である。
でもブルーの面はジョミーをつぶさに追っていて、あまり意味がなかった。
「えっと……どうかされたんですか?」
ジョミーは目を伏せながら言った。
ブルーの紅玉色の瞳はなにもかもを見透かしているようで、ジョミーを居た堪れない心地にさせる。
慎重に、慎重に防御をかけて、気持ちを読まれないようにした。
もちろん、許可なく相手の心を読むことは、ミュウの間でも嫌われている。
余程の事態でない限りありえない。
でも、今がそうじゃないだなんて、どうしてジョミーが判断出来よう。
本来ならば会えないはずの彼が目の前にいる。
それがすでに、余程の事態に思われた。
「いや、どうしているかと思ってね」
だがブルーの口振りは、どこまでも軽かった。
ふふと微笑んだ気配さえ覚えて、ジョミーは思わず視線を上げる。
途端に彼の面が視界を占めた。
僅かに細められた瞳の、慈しむようなまなざしに、ジョミーの頬はなぜか火照る。
二人の距離は、ほんの歩幅一歩分である。
手を伸ばせば、簡単にその存在を捕えられる距離だ。
会いたくてたまらなかった人が、そんな位置にいる。
けれどもジョミーには、とても遠く感じられた。
こうして会うべきでないと、考えている所為だろうか。
そう、本来二人は会うべきではないのだ。
それなのに、どうしてジョミーはブルーの訪問を受け入れてしまったのだろう。
彼の突然の訪問に驚き、正常な判断を失っていたとしか思えない。
まずはこの訪いが、長老たちの許可の上かどうかを、確認するべきだった。
そうして何事か事情があるならば、極力時間をかけずに用件を済ませる。
そうでないのなら、即刻寝台に戻って休んでもらう。
それが最善の対処だったに違いない。
けれどもジョミーは、こうしてブルーと相対している。
特に用件のなさそうな素振りから、長老たちには黙っての行いだろう。
だとすると彼は、ESPを使ってここまで来たのだと思われる。
極力力を使わぬよう、医師に忠告されているにも係わらずだ。
ESPをもってしての治療は初めてのことだから、たとえ一時快復したように見えても、その状態が維持されるのかどうかは分からない。
それが医局の見解であった。
ジョミーも、その通りだと思う。
前例のないことには、慎重に慎重を重ねて応じなければならない。
先にどんな事態が待ち受けているのか、全く予想がつかないからだ。
そういった事々を、ブルーは承知しているのだろうか。
不意に、あの日の光景が脳裏をよぎり、ジョミーは息を飲んだ。
青白い顔。生気の感じられない身体。
後少しで失われそうになっていた、ブルーの命。
落ち着きを取り戻すにつれ、ジョミーはすぐさまブルーを寝台へと帰さねばならないと考え始めていた。
そうでなければ、これまで一体、なんの為に我慢をしてきたのだろう。
ジョミーの命を、自らの命をかけて救ってくれたブルー。
もうなにを信じていいのかすら分からなくなった世界で、唯一、彼だけが信用に値すると思えたのだ。
だから、どうしても失いたくなかった。
奇跡を起こせたことに感謝した。
折角助かった命を大切にしたくて、会いたいという気持ちを押し殺した。
それなのにジョミーは今、全てをふいにしようとしている。
――特に用がないのなら、早くお帰りになって下さい。
お休みになって下さい。貴方のお身体を大切にして下さい――。
「……僕は、元気にやってます」
ところが、ジョミーの口からこぼれ落ちたのはそんな言葉だった。
ジョミーははっとして口元に手をやったが、その胸中を知らないブルーは嬉しそうに肯くばかりだ。
「それはよかった」
心底安堵したような、微笑さえ浮かべている。
ジョミーはといえば久方振りのブルーの笑顔に、つい葛藤も忘れて、ただただ心を奪われてしまった。
そうして誤魔化しようのない、ある感情に気がつく。
結局のところジョミーは、ブルーがこうして会いにきてくれたことが、嬉しくて堪らないのだ。
どうしているのかと気にかけてくれたことが、嬉しくて堪らないのだ。
それは理性で押さえつけられない、正直な気持ちだった。
相反すると、自分でも思う。だが時に感情は、理性を凌駕してしまうものである。
「ミュウの歴史を学んでいるんだって?」
「えっ、あ、はい」
気がつけば物思いに耽っていたジョミーは、ブルーの言葉に我に返った。
慌ててこくこく肯くと、ジョミーの所作がおかしかったのか、ブルーは笑みを深めた。
「いずれは帝王学や戦術もと聞いているけれど」
「……それはまだ……」
ジョミーは思わず眉をしかめてしまった。
名称を聞くだけでも小難しそうなそれらに、少々及び腰だったからだ。
「講義は、つまらない?」
だが、途端に心配そうな面持ちになるブルーに、ジョミーは首を横に振ってみせる。
「そんなことはない……です。でも覚えることが多くて」
「テレパシーで記憶を移してしまえば簡単なんだけれどね」
「教授は、体裁も大切だって言ってます」
「そうか」
ブルーはくつくつと笑うと、じゃあ、今日の内容を復習がてらに聞かせてくれるかな? と言った。
そんなブルーの要望に、ジョミーは懸命に記憶を辿って答えた。
ジョミーが今学んでいるのは、ミュウの存在が認められ始めて、暫く経ってからの頃である。
ようするに、ブルーたちが大変な苦労を重ねて、人類から逃げ出した時分のことだった。
ジョミーの話に、彼が時折遠くを見るような目をするのは、その所為かもしれない。
しかしそういった反応も、ブルーがジョミーの話を真剣に聞いてくれている証拠のように思えて、ジョミーの心を喜ばせるばかりだった。
ジョミーはとても、楽しかった。
嬉しかった。
なによりもブルーの笑顔が、ジョミーを至極幸せな心地にした。
だから問われるままに、ESP訓練のことも語って聞かせた。
あまりシミュレーターを壊さなくなったと告げると、ブルーはすごいねと感心してくれた。
彼が喜んでくれるのなら、ジョミーはなんでも出来るし、どんなことでも頑張れると思った。
ブルーもまた、確かにジョミーとの会話を楽しんでいるふうだった。
にこにこと機嫌よく微笑み、相槌を打っている。
そうして話がひと段落つくと、ほうと吐息をもらした。
満足げな面持ちを、ジョミーに向ける。
ジョミーは笑い返そうとした。
「君がソルジャーとして立派にやってくれていて、僕は安心だ」
しかしぽつりとつぶやかれたブルーのセリフに、ジョミーの表情は強張ってしまった。
夢のようなひとときから、急に現実を突きつけられたような心地になる。
ブルーの突然の訪問に浮かれ、肝心なことを見失っていたのだと、思い知らされた。
ブルーは別段、ジョミーのことを気にかけている訳ではない。
次期ソルジャーのことを、気にかけているだけなのだ。
頼りない後継者に、病床にあっても気が気ではなくて、それがたまたまジョミーだったから、こうしてわざわざ足を運んでくれただけである。
そこに他意などないのに、ジョミーはずいぶん都合のいいように、勘違いしてしまった。
「ジョミー?」
機嫌よく話をしていたジョミーが、不意に黙り込んだのを訝しく思ったのだろう。
ブルーが首を傾げている。
だがジョミーはもうとても彼を見ていられなかった。
手元に視線を落とすと、膝の上で握り締めた拳が、微かに震えているのに気がついた。
ブルーの所為ではないと、分かっている。
でも押さえ切れない気持ちは如何ともし難かった。
――ソルジャーとしての僕以外に、興味はありませんか?
それでもジョミーは、思わず口をついて出そうになった言葉を、必死で呑み込んだ。
両手に力を込めると、爪が手のひらに食い込む。
その痛みでもって、ジョミーはなんとか感情の発露を堪えた。
ジョミーは感情にESPも引きずられてしまうから、とても危険である。
「顔色が悪いようだけど、気分でも……」
「なんでもないです」
ブルーの言葉を遮って、ジョミーは吐き捨てるように言った。
驚いたのだろうか、彼が息を飲むのが気配で知れる。
ブルーにこんな口をきくなんて、この船に連れてこられた直後以来だと、どこか他人事のように考えていた。
「お身体に障りますから、お引き取り下さい」
「ジョミー……一体……」
「お休みになって下さい」
その口振りから、ジョミーの突然の変わりように、ブルーが戸惑っているのがよく分かる。
だがジョミーは、寝台から立ち上がると、彼に背を向けてしまった。
唇をかみ締めて、じっと足元を見つめる。
ひどく気まずい沈黙が、室内に満ちた。
どれほどの時をそうしていただろう。
「――突然来てしまって、すまなかった」
囁くような声が耳に届いたと思った瞬間、背後にしかと感じていたブルーの気配がかき消えた。
ほっとすると同時に涙が溢れ出て、ジョミーはずいぶん緊張していたのだと知る。
どうにも立っていられなくて、床に膝をつくと寝台に突っ伏した。
途端に激しい後悔が襲いかかってくる。
どうしてあんな態度を取ってしまったんだろう。
ブルーがジョミーを後継者としてしか見ていないなんて、分かりきっていたことなのに。
そもそも彼は、そういう立場にある人だ。
個人の感情でなく、ミュウ全体の益となるよう行動せねばならない。
後継者として大切にしてくれるだけでも、十分光栄じゃないか。
ジョミーは、ブルーにとって確かに特別な存在なのだから。
でも、それだけじゃ嫌だった。
ブルーには、ジョミーの力でなく、ジョミー自身を見てもらいたかった。
もちろん、たんなる我儘だとは重々承知している。
それでも、どうしてもブルーには――。
好きだから。
不意に、答えがすとんと心の中に落ちてきて、ジョミーは知らず苦笑を浮かべていた。
ああだからこんなにも悲しいのかと納得する。
時折感じていた寂寥感。
理由はこんなにも単純なものだった。
その時、ふと呼びかけられたような気がして、ジョミーは意識を拡散した。
すると、今度は明確な意思が脳裏に飛び込んでくる。
『―――シン、ソルジャー・シン? ソルジャー・ブルーがそちらに行っていないだろうか?』
ハーレイからの思念だった。
どうやらブルーの不在に今更気がついたようである。
では彼は、未だ私室へ戻っていないのだろうか?
それとも、単なる行き違いだろうか?
でもジョミーには、関わりのないことのように感じられた。
『……いらしてましたけど、もうお引き取り願いました』
ジョミーは乱暴な所作で涙を拭うと、そう答えた。
どうしてだか、なにもかもがどうでもいいことのように思える。
早く寝台に入って、眠ってしまいたかった。
なにもかも。
忘れて。
『ソルジャー・シン……? 君……』
訝しげなハーレイの言葉にも、もう応じる気力がない。
じっと黙ったままでいると、諦めたのか、ハーレイはため息をついたようだった。
『いや……、夜分すまなかったね』
それきり途切れる思念に、ジョミーは安堵の吐息を漏らした。
寝台に入ろうと思うのだが、酷く疲れていて、とても立ち上がれなかった。
終