貝の見る夢 〜すれ違う心
「……なにかご存知ではないですか?」
淡々と日報を述べていたはずのハーレイが不意にそう言ったので、ブルーは所在なげに手元の辺りに彷徨わせていた視線を上げた。
だが代わり映えのしない平穏な報告に、殆どを聞き流していたので、彼がなにを問うているのかが分からない。
それでなくともここのところは、気がつけば先日の出来事を反芻している。
他の事々に意識を割く余裕がなかった。
ハーレイに面を向けて首を傾げるブルーに、おおよその状況を察したのだろう。
彼は大仰なため息をついた。
「ソルジャー・シンのことですよ、ソルジャー・ブルー」
「ジョミー?」
ちょうど思い巡らせていた人の名前を出されて、ブルーはどきりとする。
だが表面上は平静を保ったまま、その名を口にした。
「ジョミーが……どうかしたのか?」
「――様子がおかしいのです」
ハーレイはあからさまにむっとした様子で、そう答えた。
きっと、すでに話をされていたのだろう。
ブルーが困ったような面持ちで肩を竦めると、ハーレイは今一度ため息をついてから、渋々といった態で口を開いた。
「先日からひどく上の空で、講義にも訓練にも全く集中していません。時間を無駄にするばかりです。今日はとうとう、シミュレーターを壊しました。大分力を制御できるようになっていたにも関わらずです。――なにかあったとしか考えられません」
その時のことを思い出したのか、ハーレイの言葉は徐々に苛立ちを顕にしていった。
吐き捨てるように言い切ると、きついまなざしをブルーに向ける。
まるで貴方が原因でしょうと言わんばかりだ。
もちろん、みなまで聞かずとも、ブルーにはハーレイの話の内容が大方予測できていた。
しかし、だからといって、ブルーになにが言えただろう。
彼の疑惑の目に、黙り込むしかない。
「幾日前でしたか? 貴方がジョミーの元を訪れたのは」
一向に応じようとしないブルーに焦れたのか、ハーレイはそのものずばりを口にしてきた。
あの日、不意に姿を消したブルーを、ハーレイたちは血眼になって探していたらしい。
その途中で、ジョミーにもコンタクトを取ったのだろう。
きっと、ブルーが暇を告げてからに違いない。
だとしたら、彼の様子はすでにおかしかったと思われる。
直前まで会っていたブルーが、原因と取られるのは当然のことである。
「さ……あ、幾日前だったろう。よく憶えていないが、それがどうかしたのか?」
だがブルーは、知らぬふりをした。
無論、忘れたくとも忘れられない出来事である。
だが、いまいち状況が飲み込めない以上、軽々しく口にすべき問題ではないと思われた。
一方的にブルーが悪いのならばそれでいい。
しかし、もしなんらかの問題がジョミーにあるとハーレイに判じられてしまったら?
彼はすぐさま長老たちに報告に行くだろう。
そんなことになったら、ようやっとミュウの船に打ち解け始めたジョミーが、また心を閉ざしてしまいかねない。
加えて、あまり他言するべきでないという予感があった。
ミュウの直感がそう告げているのだから、従っておいた方が得策である。
ブルーの思惑に気づいているのかいないのか、ハーレイは瞬間、訝しげな表情を浮かべた。
だがすぐに面を改めると、顎に手をあて何事か考え込んでいる。
長い付き合いで、ブルーがそうと決めたなら、時が来るまで決して口を割らないと知っていてのことだろう。
「その日から……だと思うのです」
「そうなのか?」
そうだろうと思いながらも、ブルーはわざとらしく首を傾げた。
ハーレイは少しだけ白けたような面持ちをしつつも、大きく肯いた。
「あの日……貴方がお帰りになられた後、ソルジャー・シンと思念で話をしたのですが……」
「様子が、おかしかった」
「ええ。ずいぶん態度が頑なでしたし、それに……」
「それに?」
やはり、ハーレイはジョミーにコンタクトを取っていたのだった。
しかも想像通りのタイミングである。
珍しく言いよどむハーレイに僅かな苛立ちを覚えつつ、ブルーは先を促した。
脳裏には、あの日以来会っていないジョミーの、まだ幼さの残る面持ちが思い浮かぶ。
彼は表情を強張らせて、失望に彩られたまなざしをブルーに向けていた。
ミュウとして目覚めてから、ずいぶんと慕ってくれていたのが、嘘のような様相である。
その原因を探れるなにかが、ハーレイとのコンタクトに隠されているかも知れない。
だとしたら、是非知っておかねばならない。
「……防御されていたので表層しか読めませんでしたが……どうやら彼は、泣いていたようなのです」
暫しの逡巡の後、ハーレイは自信なさげにそう答えた。
告げられたことの意外な内容に、ブルーは思わず目を見開く。
「泣いていた……?」
「ええ、そう――感じられました。もちろん絶対かと言われると断言はできかねますが……」
そこで一旦話を切ったハーレイは、探るような目をブルーに向けた。
「ソルジャー・シンに、一体なにがあったのでしょう? 貴方は本当に、なにもご存知じゃありませんか?」
再び問うてくるハーレイに、ブルーは咄嗟に返す言葉を見つけられない。
仕方なくかぶりを振ることで、返答の代わりとする。
「そうですか……」
ブルーの言動を全て信用したわけではないだろうが、一応ハーレイは納得した様子である。
残念そうに肩を落とした彼を、理由があるとはいえ騙しているブルーは見ていられなくて、つと視線を逸らした。
淡い室内灯を反射している床に、目を泳がす。
すまないと胸中で謝罪した。
ジョミーの不調の原因は、間違いなくブルーである。
先日の出来事を思えば、他に考えられなかった。
しかし理由が分からない。
分からないからブルーも動きようがない。
だから暫くの間は、様子を見ていようと思っていた。
しかしジョミーの生活に影響を及ぼしているのならば、話は別である。
無論、このまま捨て置くわけにはいかない。
どちらにしろ、いずれ解決を図らねばならない問題である。
今がいい機会なのかもしれなかった。
ブルーは一息ついてから、意を決して口を開いた。
「……僕が、話そう。ジョミーに手がすいたらここへ来るように、伝えてくれ」
「は? いや、しかし……」
だがブルーの提案に、ハーレイはあまり乗り気ではないようだった。
またしても考え込むような素振りを見せる。
しかしそれも当然の反応だと思えた。
ジョミーの様子がおかしくなったのは、ブルーと会ってからなのだ。
その理由も分からずに、原因と思われる人物に問題を委ねるなど、普通ならばありえない。
けれどもこれまでの、ブルー以外にはなにかと反発してみせるジョミーの態度を考慮したのか、結局ハーレイは分かりましたと頷いた。
一礼すると踵を返し、足早に去って行く。
早速ジョミーに、話を通すつもりなのかもしれなかった。
ドアを開け閉てする空気音に、ブルーはほっと吐息をもらした。
寝台の上に起こしていた身体を、力の抜けるままぐったりと横たえる。
しんとした室内で脳裏をよぎるのは、やはりジョミーのことばかりだ。
幾日、そんな日々をすごしてきただろう。
まるで自分が痛手を負ったように、顔を苦痛に歪めていたジョミーを、朧に憶えている。
その手のあたたかさに、危ういところを癒された。
うろたえたり怒ったり喜んだり。
彼の面持ちは本当にくるくるとよく変わる。
ジョミーは感情の起伏が激しいのだ。
だが彼の率直さが、そういった性分も不快には思わせなかった。
むしろ微笑ましく感じたものである。
そんなジョミーが、どうしてあんな態度を取ったのか。
わけもなく人にあたるような子でないのは、重々承知している。
だから原因がブルーにあると、残念ながら確信をもって言えるのだ。
ただ、どうしてなのか、理由だけが分からない。
やはり、何事か思うところがあるのだろう。
それは、切実なまでに『会いたい』と願っている人に、由来しているのか。
そもそもブルーは、ささくれ立つジョミーの心を、誰にも頼ろうとしないその姿勢を、案じたが故に会いに行ったのだ。
にも関わらず、ジョミーの表向き元気そうな姿に、すっかり気のせいだったと思い込んでしまった。
いや、思い込みたかったのかもしれない。
それはジョミーに対する罪悪感が見せた、儚い幻だったろう。
その証拠に、ブルーがことの異常さに気がついた時には、すでになにもかもが手遅れであった。
ジョミーは取りつく島もなく、ブルーは結局、ことを荒立てに行っただけとなってしまった。
こんな調子では、ジョミーに信頼されないのも当然である。
よくも頼ってきて欲しいなどと思えたものだ。
―――どうやら彼は、泣いていたようなのです。
不意に、ハーレイの言葉が頭を掠めて、ブルーは眉を顰めた。
独り涙を零すジョミーを思うと堪らなくて、ぎゅっと目を瞑る。
そこまで彼を追い詰めてしまったブルーに、今更できることなどあるのだろうか。
本当に、呼び立ててしまってよかったのだろうか。
考えがあってのことでもないのに。
だが、ブルーが今こうしていられるのは、ジョミーのおかげだ。
ジョミーに与えられた命を、ブルーは彼の為に捧げると決めている。
ならばできうる限りの努力をするべきだ。
もしブルーが、その存在が気に食わないというのなら、甘んじて受け入れよう。
彼がミュウとして、ソルジャーとしてこの船で生きていけるのならば、自分はどうなっても構わなかった。
それがミュウ全体の為でもある。
先のない老いたソルジャーと、歳若く力溢れるソルジャー。
悩む必要すらない選択である。
ジョミーは、いつ頃ここへやって来るだろう。
もうハーレイに伝言を聞いただろうか。
聞いたところで、素直にブルーを訪ねてくれるだろうか。
――分からない。
自らの考えにいいようのない不安を覚えて、ブルーは小さなため息をもらした。
ジョミーが今、どうしているかがひどく気になる。
少々探らせてもらおうと、意識を集中し思念を飛ばしかけたその時。
『――ブルー?』
ずいぶんと強張った声に名前を呼ばれて、ブルーは思わず身体を竦ませていた。
閉ざしていた目を、はっと見開く。
『ジョミー……』
『お呼びだと聞きました。……入ってもいいですか?』
どこまでも堅苦しく、他人行儀な物言いに、まるで互いの理解が足りなかった頃に戻ってしまったような錯覚を覚える。
いや、錯覚ではない。確かにその通りなのだ。
ジョミーの言いようから、彼がすでに部屋の前にいることが窺えた。
ブルーは緊張から、知らずつめていた息をそっと吐き出す。
ゆっくりと身体を起こし、軽く身形を整えた。
『ブルー……?』
訝しげなジョミーの声音に、ブルーは慌てて応じた。
『ああ、すまない。構わないから飛んでおいで』
『……はい』
答えと同時に、寝台の傍らにジョミーの姿が現れる。
ブルーはゆっくりと、彼に視線をやった。
だがジョミーはといえば、面を伏せたままじっと立ち竦んでいる。
ブルーをちらとも見る気配がない。
それだけでなく、全身で懸命に、ブルーを拒んでいるように思われた。
そんなジョミーの頑なな態度は、ブルーの胸をぎゅっと締めつける。
どうしてだか息苦しささえ覚えて、ブルーは微かに喘いだ。
早く、なにか言わなければならない。
だが気ばかりが急いて、上手く言葉にならなかった。
「なにか、ご用じゃないんですか?」
じっとジョミーを見つめるばかりで、一向に口を開こうとしないブルーに焦れたのか、ジョミーがため息混じりにそう言った。
思考を読まずとも、彼が一刻も早くこの場を立ち去りたいのだということが知れて、ブルーはふと虚しさを覚えた。
まだ幼き時分にその潜在能力を見出し、それからずっと見守ってきたジョミー。
一方的なものとはいえ、ブルーは彼を、子供とも兄弟とも思っていた。
ようやっとユニバーサルの洗脳が解け、ミュウへの誤解もなくなり、ソルジャーとして上手くやっていけそうだったのに――ブルーが台無しにしてしまった。
「……調子が、優れないようだから」
しかし口をついて出るのは、そんな当たり障りのない文句ばかりである。
「上手くいっていたESP訓練も、ここのところは失敗ばかりだと聞いている。――どうかしたのか?」
僅かに小首を傾げながら、ブルーはジョミーに問いかけた。
あまりの白々しさに、思わず苦笑を浮かべてしまいそうになるのを、懸命に堪える。
本当は、もっと別のことを言いたかった。
でもどうすればいいのか、ブルーには分からなかった。
どうして、どうして、どうして。
そんな言葉ばかりが胸中を駆け巡り、肝心の語句は一向に思い浮かばない。
ジョミーは、ブルーの言葉を聞いているのかいないのか、ずいぶん長い間黙り込んでいた。
だが不意に、何故? と小さな声で呟いた。
それがあんまり小さな声だったので、ブルーは瞬間、空耳かと思った。
だがすぐにジョミーが言葉を継いだので、気のせいではなかったのだと知った。
「何故、ブルーが僕のことを気にされるんです?」
「何故って……当たり前だろう」
しかし耳に届いたからといって、その意味するところを理解できるかというと話は別である。
ブルーには、ジョミーの言い分がよく分からなかった。
困惑から探るような目を、つい彼に向けてしまう。
とはいっても、ジョミーは相変わらず俯いたままである。
「ジョミーは僕たちの仲間で、次代を担うソルジャーだ。君にそうあって欲しいと願った者として、不調を心配するのは当然のこと――」
ブルーははっとして、口を噤んだ。
ジョミーが唐突に、面を上げたからだった。
その表情に、ブルーは知らず息を飲んでいた。
ジョミーは怒りとも悲しみともつかない面持ちで、ブルーをひたと見つめていた。
にも関わらず、瞳だけは不安げに揺らいでいる。
僅かに口を開きかけて、しかしなにも言わずにまた閉ざしてしまう。
荒い呼気が、彼の苛立ちを余さず訴えているかのようだった。
「ジョミー……」
「……結局、それだけなんですね……」
ジョミーは吐き捨てるようにそう言うと、唐突に身を翻した。
ほんの数歩分だったブルーへの距離を一気につめると、寝台の上に乗り上げてくる。
驚愕に言葉も忘れ、ただ呆然と彼の所作を眺めるブルーの傍らに、膝立ちになった。
真上からひどく冷めた目で見下ろされて、ブルーは混乱と居心地の悪さから思わず顔を伏せる。
だが両肩を痛い程に掴まれて、すぐにまた面を上げた。
いつの間にか、吐息の触れ合う距離にジョミーの顔があった。
ブルーは我知らず身体を竦ませる。
彼の唇からこぼれ落ちる呼気が、ブルーの口元を熱く湿らせた。
ブルーは咄嗟に、固く目を閉ざす。抗おうという気は全く起こらなかった。
ジョミーがそれを望むなら、受け入れるのがブルーの役目だと思われた。
けれども、予想していた感触は、いつまで経っても訪れない。
代わりに、はっと短い吐息をもらされる。
その呼気に誘われるようにして、ブルーは恐る恐る瞼を上げた。
視界を、ジョミーの面持ちが占める。
彼は眉を顰めて、苛立ちも顕なまなざしをブルーに向けていた。
だがブルーには、どこか今にも泣き出しそうな、小さな子供のように映った。
寄る辺を求めて、懸命に手を伸ばしている、小さな子供に――。
「……貴方の優しさは、残酷だ」
『――僕を見て!』
「え……?」
唐突に叫ばれた言葉と、押し付けられた思考に、ブルーは瞬間、なにも考えられなくなってしまった。
そうしてその悲痛なまでの訴えが、ブルーの中で意味を成す頃には、ジョミーの姿はとうにかき消えていた。
後に残されたのは、ジョミーの重みの分だけ沈んだ寝台ばかりである。
ブルーは呆然としたまま、彼のいた辺りを眺めていた。
手をさし伸ばして、そっとそこに触れてみる。
捕えそこなったぬくもりの残滓に、ひどく胸が痛んだ。
終