飛行夢 ~目覚める






覚醒は、あまりにも突然だった。

夢と現の境界もあいまいなまま、シロエはただぼんやりと目を見開き、視界に映るものを眺めていた。

初めのうちは、なかなか焦点が合わなかった。
なにを見ているのか、自分でもさっぱり分からない。
けれどもそうして目を凝らしているうちに、距離感もあいまいだった色々なものが、唐突に実体を持ち、シロエの眼前に姿を現したのだった。

のっぺりとした天井。
室内を照らし出す灯り。
点滴架台。
透明なバックに入った、透明な液体。
だらりと垂れ下がった管は、シロエの腕へと伸びている。
ずいぶんと青白い腕には、点滴針。
その為に、左腕だけ寝具の上に出されているのだろう。

一番遠いところから、一番近いところへ。
順を追って辿ったシロエの視線は、最終的に、自らの身体へと行き着いた。

シロエはひとしきり、寝台の上に横たえられているらしい自分を見渡した。
どうしてそんなことが可能だったかというと、シロエはヘッドボードにあてがった枕に、半ば上体を預けた格好でいるからだった。
気が利いてると、思った。

それは確かに、シロエの身体だった。
しかし、どうしても現実感が伴わない。
試みに、手のひらを握りしめてみようと考える。
すると、血の気の失せた指先が、ぴくりと動いた。
シロエの意思に従って、ゆるゆるとこぶしを形作り始める。
だがシロエの指示とは裏腹に、軽く手を丸めたところで、ぴくりとも動かなくなってしまった。
まるで、電池がきれてしまったようである。
右手でも試してみたけれど、結果は同じだった。
寝具の中で、外で、軽く握られたシロエの手。
手のひらと指の間の、僅かな空間。
そこには、決して埋めることのできない、空白があった。

僕は一体、どうしたんだろう?

なにか――思い出さなければならないことが、ある。

でも、どうしてだか――思い出したくない。

相反する想いに、シロエはぎゅっとまぶたを閉ざした。
だが薄暗闇の中に逃げ込んでも、ざわつく心は如何ともしがたい。
唇からこぼれ落ちる吐息は、シロエの胸中を物語るかのように、重苦しいものだった。

「目が、覚めたかな?」
不意に、知らぬ人の声がした。
気配など微塵も感じていなかったシロエは、驚き、身体を強張らせた。
だが低く、落ち着いた声音は、彼の優しさをシロエに伝えるのに役立った。
警戒することはないんだよ。
誰かに耳元で囁かれたような気がして、シロエは気がつけば全身の力を抜いていた。
ゆっくりと瞼を持ち上げれば、真上からシロエの顔をのぞきこんでいる男と視線が合う。
白衣を着ているところから察するに、彼はドクターに間違いなかった。
それでひどい怪我をしたんだと、思い出した。
でも、どうして?
それが分からない。
いや、知りたくない。

「……誰……?」
辺りに満ち満ちていた静寂を打ち破ったのは、かすれ、しゃがれた、耳障りの悪い声だった。
シロエが目をまん丸にしたのは、それが自分の口から発せられた言葉だったからである。
あんまり驚いたシロエは、軽く咳払いしてみた。
途端に、激しい喉の渇きを覚える。
からからの喉は水分を求めて、渇いた咳をシロエに強いた。
けほけほと空咳を繰り返す。
苦しくて、眉根が寄った。
目尻に、涙が浮かぶ。

「ああいけない。大丈夫かい?」
力なくむせるシロエに、しかしドクターは、慌てる素振りも見せなかった。
慣れた仕草で、シロエの背と枕の間に手を差し込む。
抱きかかえるようにしてシロエの上体を起こすと、背中を丁寧に撫で擦った。
ドクターの手はほんのりとあたたかくて、布越しとはいえ触られると、そこから熱が移ってくるようだった。
与えられたぬくもりが、心地よい。

ドクターの介抱がよかったのだろう、シロエの咳はすぐに治まった。
シロエが安堵の吐息をもらすと、ドクターはすかさず、飲み物の入ったボトルを差し出した。
口元に据えられたストローに、シロエは一瞬目をやってから、それをくわえた。
思い切り吸い込めば、待ち望んでいた液体が、口内を満たす。
でも、どうしてだか味は分からない。
そういえば、最後に食べ物を口にしたのはいつだったろう。
舌は使わないと、機能が衰える器官だったのかもしれない。
そんなことを考えながら、こくりと嚥下する。
だが乾きすぎた喉に、半端な水分では毒でしかなかった。
痛みさえ覚えて、シロエは慌てて、ごくごくと水を飲んだ。
多分、水だと思われるものを。

ボトルの中身を大半飲みつくすと、シロエはストローから口を離した。
途端に、頭がしゃっきりしたように思う。
いまいち目覚め切れていなかった脳が、ようやく活動を開始した雰囲気だった。
と同時に、大切なことを忘れていたのだと思い知る。
先刻からざわついていた心は、その所為だったに違いない。
急ぎドクターを見上げたシロエは、小首を傾げて口を開いた。

「ピーターパン……ピーターパンは?」
「ピーターパン?」
「そう、ピーターパンだよ! 彼はどこ?」
「ピーター……ああ」

ドクターにすがりつかんばかりにして訴えるシロエを、軽くいなしながら、彼は暫し考え込むような素振りを見せた。
だがすぐに合点がいったようである。
シロエに大きく頷いてみせた。

「ソルジャー・シンならすぐに呼んであげるから、とりあえず落ち着いて……」
しかし、ドクターの言葉が最後まで続けられることはなかった。
不意に口を噤んだドクターが、背後を振り返る。
シロエもつられて、彼の視線を追った。
そこで目にした光景に、自然と顔がほころぶ。
二人の見やる先には、ジョミーが佇んでいたのだった。

「ソルジャー、気づかれてましたか」
「うん。――シロエ、僕を呼んだだろう?」
ドクターの言葉を首肯したジョミーは、ゆったりとした足取りでシロエの元へとやってきた。
軽やかな身のこなしでマントを翻すと、寝台の端に腰かける。

「ずいぶん、元気になったみたいだね。どこか痛いところはある?」
シロエの顔をのぞきこみ、気遣わしげな面持ちのジョミーが言った。
シロエはかぶりを振って、彼の疑問に答える。
本当は、問われてみてはじめて、全身に重苦しい鈍痛を覚えたのだが、我慢できないほどのことではない。
それよりも、ジョミーに心配をかけるほうが、よほどシロエを苛むのだ。

シロエの応えに、ジョミーは満面の笑みを浮かべた。
彼の笑顔は、シロエをとても安堵させる。
それなのに、どうしてだか涙がこぼれ落ちそうになって、シロエは慌てて顔を俯けたのだった。










病室に関しては、色々考えて雰囲気重視にしてみました。
20070704



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