貝の見る夢 〜心の深淵
『ソルジャー? ソルジャー・シン? 食事にも来られないで……どうかされたんですか?』
先刻からドアの向こうで、リオが懸命に呼びかけている。
だが寝台の上で丸くなり、頭から上掛けを被ったジョミーは、一向に応じようとしなかった。
『皆……心配しています。食事をお持ちしましょうか? それとも――体調が優れないようなら、ドクターを呼びますが』
「……ほっといて……」
しかし、今にも人を呼びそうな素振りを見せられては、放ってはおけない。
ジョミーはしぶしぶ口を開いた。
ドクターなど呼ばれて、ことを荒立てたくなかったからだ。
そもそもジョミーは、自らの愚行にひどく落ち込んでいるだけである。
たとえ優秀なドクターといえども、手の施しようはないだろう。
ジョミーの声はもとより小さく、さらに上掛けに遮られていて、とてもドアの外へ届いたとは考えられなかった。
けれどもリオは、思念として捉えてくれたようである。
暫し逡巡するような雰囲気を漂わせた後、彼の気配はドアから離れた。
僅かな間を置いて、リオの言葉が聞こえてくる。
『……分かりました。でも、明日の朝食には必ずいらして下さいね』
リオはそう念を押すと、ジョミーの部屋の前から立ち去っていった。
遠ざかる足音が、そうとジョミーに教えてくれる。
しかし厚い壁に阻まれて、靴音はすぐに途絶えた。
途端に、辺りはしんとした静寂に包まれる。
そんな風に感じるのは、シャングリラの動力音があまりにも耳に馴染んでしまって、意識できなくなっているからだった。
耳を傾けてみれば、アタラクシアの重力に逆らって飛び続けるエンジン音が、微かではあるけれども確かに聞こえるのに。
それだけジョミーが、この船に親しんでいるということだろう。
ジョミーは上掛けの中で、大きなため息をついた。
選択の余地なく放り込まれた状況だというのに、身体はすっかり慣れてしまった。
そんな事実に、思わず自嘲の笑みを浮かべる。
では、こうしてじっと耐え忍んでいれば、いずれこころも慣れてしまうのだろうか。
ソルジャーとして、力だけを求められる生活に。
いや、慣れなければならない。
ジョミーは今一度大きなため息をつくと、寝返りをうった。
視界を占めるのは、上掛けの白色ばかりである。
驚愕に目を見開いたブルーの面持ちがちらついて、堪らずに目を閉じた。
どうして呼び出されるがままに、ブルーの元へと出向いてしまったのだろう。
自らの気持ちに気がついてからは、以前にもまして彼に会わぬよう、固く心に誓っていたのに。
なぜならばブルーが、ジョミー自身に目を向けてくれるなんてありえないからだ。
彼にとってジョミーは、強大な力を持つ、後継者でしかない。
――それでもいいと、考えていたはずだった。
確かに、ブルーへの好意に気づかぬうちは、この世で唯一頼れる存在だった彼に、会いたくて堪らなかった。
だがブルーの身を案じ、あえて会わないという選択をしただけである。
――ブルーを永遠に失ってしまうかもしれない、恐怖。
あんな思いは、もう二度と味わいたくなかった。
だから彼の容態が安定するまで、いくらでも待つつもりだった。待てると思っていた。
しかし、現実はどうだ?
ひとたびブルーに会ってしまえば、嬉しさに我を忘れ、勝手な期待をし、挙句の果てに思い通りでなかったからといって八つ当たりをした。
最低の行いである。
そもそもジョミーの想いは、理に反している。
男に好きになったと言われたって、ブルーは困惑するばかりだろう。
でもあの優しい人は、ジョミーが後継者だからといって、無理にでも受け入れてくれるような気がするのだ。
それでなくともブルーは、ジョミーに過酷な運命を強いたことを、負い目に思っているふしがある。
自分にできることならばと、あっさりその身を委ねかねない。
だがそんなふうにされては、ジョミーが余計に惨めになるばかりだ。
拒絶され、決定的に嫌われるほうがどれほどましだろう。
そして、恐れていた通りの事態が起こってしまった。
先刻の出来事が脳裏をかすめて、ジョミーはぎゅっとシーツを握り締めた。
己の幼すぎる愚行に、のた打ち回りたい気分である。
感情のコントロールができない。
分かっている。
でも、どうすればいいのかが分からない。
ブルーがジョミーを呼び立てる理由は、もちろん承知していた。
だから言い訳を用意していた。
――ちょっと、疲れていたんです。
だから、つい八つ当たりしちゃいました。
ごめんなさい――。
そう言えてさえいれば、きっとブルーは納得してくれただろう。
ジョミーが思わず見とれてしまう、端整な面に微笑を浮かべて、それならいいだって許してくれたに違いない。
でも、実際ブルーを目の前にしたら、もうなにも考えられなくなってしまった。
準備していたことなどそっちのけで、気持ちの揺れ動くままに接してしまった。
ジョミーを、じっと見つめていた紅玉色の瞳。
だがブルーが見ていたのは、ジョミーではなかった。
後継者としての、ソルジャー・シンである。
悲しくて。辛くて。
感情の赴くままになにか言ったように思う。
もしかしたら、思念をぶつけたのかもしれない。
よく、覚えていなかった。
結局、逃げるようにして自室に戻ってきた。
それきり、寝台の上で上掛けを被り、こうしている。
なんて子供っぽい所作だろう。
――皆、心配しています。
不意に、リオの言葉が脳裏をよぎった。
その言辞に偽りのないことくらい、ジョミーにも分かっている。
でもそれは、あくまでもジョミーがソルジャーだからだ。
たいした力も持たぬ一介のミュウだったら、彼らも一食抜いたくらいで部屋にリオを寄越すなんて、大げさなことはしなかっただろう。
ソルジャー。
ソルジャー。
ソルジャー。
どこまでもつきまとうそれに、ジョミーは頭を抱えた。
ぎゅっと目を閉じて、しかしすぐにはっと見開く。
脳裏をよぎった事々に、どうしてこれまで気がつかなかったのだろうかと、愕然とする。
ブルーだって、ジョミーと同じく、ソルジャーという立場に囚われた人なのだ。
現在のジョミーがそうであるように、常にソルジャーらしく振舞うことを要求され、少しでも期待からそれれば非難され、過剰なまでに干渉されているのだ。
それも、ジョミーの想像もつかないような、長い時に亘って。
ジョミーは息苦しさに、胸元を強く握り締めた。
思えば出会った頃から、あやふやで掴みどころのない人だと、感じていた。
個人的感情の窺い知れない人だと、思っていた。
にも関わらずジョミーは、その意味するところを深く追求せずにいた。
それだけでなく、自らが同じ状況に置かれても、全く気がつかなかった。
もっと早くに思い至っていれば、こんな事態に陥ることはなかったかもしれないのに。
身体が虚弱な分、ESPを有するミュウ。
だがその力は、自らの不具合を補える程度の微々たるものが殆どだ。
ミュウの存在を許さぬ人類に、立ち向かえるほどでは決してない。
だから彼らは、ソルジャーを欲するのだ。
絶対的な力でもって、ミュウをまとめ上げる指導者にすがるのだ。
個々では、人類に対して為す術のないことを、重々承知しているからに他ならない。
そんな人々を目の当たりにした時、心根の優しいブルーは、ジョミーのように反発を覚えたりしなかったのだろう。
望まれるままに、ソルジャーとして在ろうとしたに違いない。
自分を殺して、ミュウの為だけに生きることを選んだのだ。
それが今の、彼である。
ブルーは、ソルジャーとして人に接することしか、知らないのだ。
そう望まれているのだから、当然のことである。
そしてブルーは、自らがされたように、ジョミーに相対したのだ。
そう接する人々しか知らないのだから、当然のことである。
だとしたら、どうしてブルーを責められよう。
むしろ責められるべきは、ジョミーの方である。
唯一彼を理解できるかもしれない立場にいながら、全く理解を示さないだけでなく、個人的感情からひどい八つ当たりまでしてしまったのだから。
――謝らなければ。
ジョミーは寝台の上に、勢いよく身体を起こした。
跳ね除けた上掛けが、床の上にひらりと舞い落ちる。
もうずいぶんと遅い時刻だったけれども、日付はまだ変わっていない。
ブルーはすでに休んでいるだろうか?
もしそうだとしても、その時はまた出直せばいい。
とりあえず、彼の元へ行ってみるべきだと思った。
そうしてこの気持ちに、けじめをつけるのだ。
けじめをつけて、彼の、ミュウたちの望むようなソルジャーとなるのだ。
それが命がけでジョミーを助けてくれたブルーへの、大切な指導者を危険な目に合わせたにも関わらず受け入れてくれたミュウたちへの、恩返しになろう。
もとより手の届かない人だった。
ブルーの心はミュウの未来で占められている。
たとえジョミーがどんなに立派な人だったとしても、彼は後継者としての価値しか見出してくれないだろう。
ジョミー個人には、興味すら湧かないに決まっている。
でも、それで十分じゃないか。
たとえ後継者でしかなくとも、ブルーに意識してもらえないよりはずいぶんましである。
ドアが開くのももどかしく、部屋を飛び出したジョミーは、人気のない通路を走り出した。
一心に、ブルーへと向かって。
終