こころ安らかなる場所
苛立ちに任せて、足音も荒々しく駆け込んだけれども、すぐにここがどこかを思い出して、ジョミーは慌てて歩を緩めた。ついでに、大きく深呼吸をして、乱れに乱れた心を少しでも落ち着けようと努める。船中の、どこにいたとしても、手に取るように分かってしまうと言われる程、健全な肉体に宿るジョミーの思念は強かった。だからこそ、次期ソルジャーに選ばれたのだから、それ自体は決して悪いことではないだろう。しかし、瀕死の重病人を前にしては、そうとも言っていられない。ジョミーが無意識のうちに撒き散らす思念が、負担になっては堪らないからだ。そもそも、彼がこんな状態に陥ってしまったのは、ジョミーの所為である。
二度、三度と深呼吸を繰り返し、なんとか平静を装うと、ジョミーは改めて彼のいる寝台に向かって、歩き始めた。辺りはしんとしている。ジョミーの他に、訪問者はいないようだった。暗い室内に、ジョミーの足音ばかりが、大げさなくらいに響き渡る。もちろん、極力物音を立てぬよう気をつけてはいるのだけれども、船の床が相手では限界があった。立つものの姿を、ぼんやりと映し出す程度に磨きこまれた床は、ジョミーの足取りをひとつ残らず正確に刻み続ける。
『今日は、なにがあった?』
その時、不意に彼の言葉が脳裏に届いて、ジョミーは瞬間、足を止めた。だがすぐに苦笑を浮かべると、もう遠慮はいらないとばかりに、足早に歩き出す。
『起こして、しまいましたか?』
つと顔を上げて、彼が休んでいる寝台の、まだ少しだけ遠い光を眺めながら、ジョミーは答える。そもそも体調の優れなかったらしい彼を慮ってか、辛うじて寝台周辺を浮かび上がらせている白い光は、淡く、優しく、どこか暖かい。そうしてそれは、まるでミュウの長として、船全体から慕われている彼自身を表しているかのようでもあって。ジョミーは時折、なんだか無性に悲しくなってしまう。
『……君の思念は、どこからでもここに届くよ』
『すみません……』
彼の困ったような、それでいて少しだけ嬉しそうな口振りに、ジョミーは首を竦めた。結局、彼は最初からジョミーの行動を知っていたという訳だ。ようするに、ジョミーがそうと気遣う前から、とっくに迷惑をかけていたのである。
寝台は、もうすぐ目の前に迫っていた。そこに横たわる、彼の身体のラインに添って、上掛けが盛り上がっている。いつもきちんとしていて、寝乱れた様子など見せたこともない。大きな枕に預けられた、頭部。その面は、天井を見上げている。だが、瞳は閉ざされたままだ。端整な面持ちはどこか作り物めいていて、薄い胸が微かに上下するのに、安堵を覚える。
ジョミーは寝台の傍らに佇んだ。それからもう一度、今度はテレパシーを使わずに、謝罪を口にした。見ていないと知っていながら、頭も下げてみる。もしかしたら、空気の動きで察してもらえるかもしれないからだ。ジョミー以外のミュウは、身体になんらかの故障がある分、正常な感覚はずいぶんと鋭敏だ。
「ブルー。本当に、すみません」
「謝ることなど、なにもない」
鼓膜を心地よく震わせる、ブルーの落ち着いた低い声に、ジョミーはゆっくりと顔を上げた。視線を寝台の上に落とせば、彼は、いつの間にか真紅の瞳を覗かせて、ジョミーを見上げていた。口元には、微笑を湛えている。ジョミーも笑みを浮かべると、また、長老たちとやっちゃいました、と漏らした。
「僕、集中力がないんです」
「まだ力に目覚めたばかりだから、仕方がない」
「でもあいつらは、そうは思ってくれないんだ」
ふと先刻までのやり取りを思い出し、ジョミーはつい不貞腐れた口調で続けた。そんなジョミーの態度に、ブルーは益々笑みを深める。その笑顔に、途端に自らの子供っぽい振る舞いが恥ずかしくなって、ジョミーはブルーからつと視線をそらした。それでもまだ居た堪れなくて、ぱっと身を翻すと、寝台に背を預けるようにして床に座り込む。照れ隠しに、両の手で抱えた膝に顎を乗せて小さくなっていると、頭上から、ブルーの静かな声が降ってきた。
「……彼らは、弱いんだ」
ジョミーは目を伏せると、彼の言葉に耳を傾けた。
「ミュウと言っても、その力は様々だと、ジョミーも聞いただろう? 君や僕のように、身を守る術を持つ者もいれば、そうでない者もいる。そして、この船にいる者は皆、後者に属すると言っていい」
そこで一旦口を閉ざしたブルーは、深いため息を吐いた。やりきれない思いを如何ともし難く、ついこぼしてしまったというような、悲しいため息だった。
「だからね、ジョミー。強大な力を持つ君に、どうしてもすがってしまうんだ。君ならミュウの未来を切り開けるんじゃないかって、過度な期待をかけてしまう。それは力に目覚めたばかりの君には、重すぎるものだろう。だが、彼らを許してやって欲しい」
「……許すとか、許さないとか、そんなのは……」
膝に口元を埋めている分、ずいぶんとくぐもった声で、ジョミーは答えにもならないことを呟いた。
本当は、自分でも気がついているからだった。ジョミーが腹を立てているのは、彼らに対してではない。皆を救えるかもしれない力を持ちながら、思うように操ることの出来ない、自分自身に対してである。そもそも、これまで彼らが頼りにしてきたソルジャーを、こんな状態に追い込んでしまったのはジョミーだ。どうして彼らを責められよう。
きっと、ブルーも気がついているに違いない。でも、優しい彼は、そんな事実を指摘して、ジョミーを追い詰めるようなことはしないのだ。どころか、ジョミーの欲している言葉を、惜しみなく与えてくれる。
その時、不意に髪を撫でられて、ジョミーは身体を震わせた。ジョミーの動揺を感じたのだろう、瞬間手は離れたが、すぐにまた戻ってきた。ゆったりとした所作で、ジョミーの髪を梳いてくれる。優しい母を思い出させる手つきに、ジョミーはうっとりと目を細めた。
「……まだ歳若い君に、こんな重圧を与えてしまって、本当にすまない……」
だが続いて発せられた言葉に、ジョミーは思わず振り返っていた。
ブルーは、寝台の上に横たわったまま、ジョミーの方へと身体を向けていた。先刻まで髪を梳いていたであろう右手が、所在なげに空を漂っている。呆気に取られたような面持ちは、ジョミーの突然の行いによるものだろう。
何か言わなくてはならない。そうは思うのだが、気ばかり急いてしまって、上手く言葉にならなかった。仕方なくジョミーは、首を横に振ることで、自らの意思を伝える術とする。そんなジョミーの態度に、ブルーはなにを思ったのか、一瞬の後に笑みを浮かべると、口を開いた。
「ジョミー、大丈夫。分かるよ」
「え?」
言われている意味を量りかねて、ジョミーは首を傾げる。するとブルーは右の人差し指でとんとんと自身の側頭部を叩くと、ちゃんと感じた、と続けた。それでようやくジョミーも、状況を理解することが出来た。
「……結構、便利なものですね」
「ミュウも、そう悪くはないだろう?」
「もう、そんな風には思っていません」
ブルーの意味深長な口振りに、ジョミーは慌てて言い募った。ブルーは、なおもくすくすと笑いながら、それはよかったと呟いた。
「助けてくれたこと、とても感謝しています」
その笑顔に誘われるようにして、気がつけばジョミーは、そんなことを口にしていた。
「……うん」
「だから、僕に出来ることならなんでもしたい」
「……ありがとう」
そう言って目を伏せたブルーは、確かにそこにいるのに、今にもかき消えてしまいそうにおぼろげで。ジョミーは両の手で寝台の上に投げ出されていた、彼の左手をぎゅっと握り締めた。
「お疲れになったでしょう? もう休んで下さい」
「ああ、そうかもしれない」
ジョミーの言葉に、ブルーはため息混じりに答えた。身体を元に戻すと、瞼を閉じようとして、しかし真紅の瞳がそれに隠されてしまうことはなかった。
「ブルー?」
首を傾げるジョミーに、ブルーはめずらしく困ったような面持ちで視線を彷徨わせると、小さな声で言った。
「手」
「はい?」
「手を、離してくれないか?」
「ああ……」
ジョミーは自らの手元に視線を落としてから、今一度彼に目を向けると、にっこり微笑んで駄目です、と応じた。
「あなたがお休みになるまで、僕がこうしていますから」
「ジョミー……」
あからさまにうろたえているブルーに、ジョミーは言葉を継いだ。
「僕の具合が悪いと、ママはよくこうやって手を握っていてくれたんです」
そう言って、しっかりとブルーの手を握り直したジョミーは、上体を寝台にもたれかけるようにして床の上に膝立ちになった。
「とってもよく眠れるし、治りも早いんですよ」
だから、ね? と小首を傾げるジョミーに、ブルーはとうとう苦笑を浮かべた。
「それじゃあ、お願いしようかな」
「はい、お休みなさい」
「お休み、ジョミー」
目の前で、ゆっくりと閉ざされていく瞳をぼんやりと眺めながら、ジョミーが繋いだ手に祈るのは、ただただ、彼の安らかな休息のみである。
ジョミーにとって、ブルーの元が唯一の安息の場所であるように、ブルーにとっても、ジョミーが安息の場所になれればいいと、思った。
終