飛行夢 〜重なる偶然の奇跡






シロエが完全に寝入ったことを確認したジョミーは、握っていた手をそっと離した。
スツールから立ち上がると、彼の手を上掛けの中にしまってやる。
ずいぶん長いこと同じ体勢でいたから、あちこちが軋むように痛んだ。
うんと伸びをして身体を解す。

『ようやく眠りましたか』
ESP禁止令を受けて、これまでずっと黙っていたリオが、ジョミーの傍に歩み寄ってくる。
ジョミーはこくりと頷いた。

「記憶が大分混乱しているみたいだ。多分……どうしてここへ来ることになったのかは、分かっていないと思う。成人検査以前の記憶は、はっきりしているみたいだけど」
『このまま忘れてしまった方が、幸せかもしれませんね』
「いや……」
ジョミーはシロエに視線を落としつつ、暗い声で言った。
「今は、思い出したくないという一心で、自ら封印しているだけのようだから――」
「そうだな、身体の傷よりも、そっちの方が深刻かもしれない」
『ドクター』
見ればシロエの寝台の向かい側に、ドクターも佇んでいた。
難しい顔をして、シロエを見下ろしている。

「怪我は、すぐに治るだろうよ。この子もソルジャーと同じ、健常なミュウだから」
しかし、心の傷だけは本人が乗り越えるしかない。
ジョミーはため息をついた。

「シロエは、強い子です。きっと、大丈夫でしょう」
まるで自らに言い聞かせるようにそう言うと、ジョミーは再びシロエに目をやった。
皆の真ん中で、シロエはこんこんと眠り続けている。
ようやく深い眠りに入れたのだろう。
最初はうとうととするばかりで、少しでもジョミーが動く気配を見せると、すぐに目覚める素振りをみせていた。
やはり先の出来事は、相当の精神的ダメージをシロエに与えているのだ。
血の気の失せた面が痛々しい。

ジョミーは手を伸ばすと、汗で額に張り付いた前髪を払ってやった。
サイドテーブルからタオルを取り、顔を優しく拭ってやる。
それから、額にキスをひとつ落とすと、ジョミーはタオルをサイドテーブルに放った。

「後をお願いします。なにかあったら、すぐに知らせて下さい」
「了解しました、ソルジャー・シン」
うやうやしく頭を下げるドクターに苦笑を浮かべてから、ジョミーは踵を返した。
足早に医局のドアへと向かうと、後からリオがついてきた。

ソルジャー・ブルーに全権を委ねられてから、ジョミーはそれは多忙な毎日を送っている。
人類へのコンタクトを取り始めた昨今は、尚更であった。
本当なら、シロエの看病などしている場合ではない。
だが罪悪感から、ジョミーは無理を言って彼についていたのだった。
シロエが幼い時分に無事連れ出せていれば、こんなことにはならなかっただろう。
そう思うと、ジョミーの胸はとても痛んだ。

医局を後にしたジョミーは通路を歩きかけたが、ふと足を止めた。
まずはどこへ向かうべきかと考え込む。
シロエが目覚めたことは、すでにブルーにも長老たちにも報告が行っている。
だが彼らは、それぞれジョミーの口からの報告も望んでいるはずだった。

というのも、シロエを助けられたのは、ほんの偶然からだった。
たまたまシロエが教育ステーションで問題を起こし、ESP検査を受けている時に、たまたまジョミーが人類にコンタクトを取った為、彼のSOSをキャッチすることができたのだ。
そうでなければ、さすがにこの広い宇宙で、シロエを助けることは不可能だったろう。

そうした偶然の産物からシロエの思念を受けたジョミーは、誰に説明する暇もなく、彼を助けに宇宙空間へと飛び出していた。
それでも間一髪だったから、ジョミーの判断に誤りはない。
だが不意に姿を消したジョミーを、皆は大層心配していたのだそうだ。
しかも、無事に帰還してきたかと思えば、その手に重傷を負ったミュウの子供を抱えている。
船内は一時、ちょっとしたパニック状態に陥ってしまった。

口喧しい長老たちが説明を後回しにしてくれたのは、ひとえにシロエの治療を優先したからに他ならない。
そうでなければ、とっくに呼び出されていただろう。
では、まずは長老たちの元を訪れるべきか? 
だが、相変わらず彼らとあまり良い関係を築けていないジョミーにとって、それはあまり気乗りのしない訪問だった。

やっぱり、ブルーのところにしよう。
ジョミーはそう決めると、彼の私室に向かって足を踏み出した。
ついでに、長老たちへの報告に付き合ってくれるようお願いすればいい。
ジョミーにはずいぶん偉そうな彼らだが、唯一、ソルジャー・ブルーには頭が上がらないのだ。

自らの上々な計画に微笑を浮かべたジョミーは、足取りも軽やかに船内を歩んで行った。

『ところで……ソルジャー?』
その時、不意に話しかけられて、ジョミーは背後を振り返った。
そこには、いつしかジョミーの片腕として立ち働くようになったリオの姿がある。
彼は何事か思い悩むような素振りを見せながら、ジョミーの後に従っている。
「なに?」
ジョミーが首を傾げると、リオは面を上げてこう言った。

『ピーターパンって、なんですか?』

瞬間、ジョミーはリオがなにを言っているのか、理解できなかった。
だがすぐに先刻のシロエとのやり取りを思い出し、青ざめる。
絶対にそんなことはありえないのだけれども、血の気の引く音を聞いたような気がした。

『ピーターパンって、あの童話のピーターパンですよね? 妖精とか出てくる……。どうして彼は貴方のことをそう呼ぶんですか? 貴方も当たり前のように返事をして?』
しかしそんなジョミーの胸中を知らぬリオは、面を傾げつつ言葉を重ねる。
ジョミーは足を止めると踵を返した。
ジョミーの唐突な所作にきょとんとしているリオの肩を両手で掴むと、懇願するようなまなざしで彼を見る。

「――忘れてくれ」
『どうして……』
「どうしても」
一句一句区切るように言ってから、ジョミーはがっくりと項垂れた。
迂闊だったと、今更後悔してももう遅い。
ESPに目覚めたばかりにシロエは、当然のことながら力の制御などできるはずもなく、従って彼の思考は、本人の意思に関わりなく垂れ流し状態だったに違いない。
あの場にいた者は皆、彼らの会話の一部始終を耳にしたのだろう。

あまりに必死なジョミーの剣幕に気おされたのか、リオは不思議そうな表情を浮かべつつも頷いた。
だがジョミーが安堵したのもつかの間、彼はとても気の毒そうな面持ちでもってこう口にした。

『でも……彼のESPはかなり強力ですから、もしかしたら船中に広まってるかも……』



――もう二度とピーターパンと呼ばないように。
シロエが目覚めたら、まずはそれをお願いしようと、ジョミーは固く心に誓ったのだった。











書くだけでも結構恥ずかしいピーターパン……。
20070607



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