貝の見る夢 〜祈りの後






――ジョミー。
ジョミー?

どこか、遠くで、僕を呼ぶ声がする。
でも僕はとても疲れていて、本当に疲れていて。
どうしてもその声に応じることが出来ない。

ただ、夢現なままに、うんと肯いたような気がする。

ジョミー。
こんなところで寝ていては、風邪をひいてしまうよ?

……こんなところ?
こんなところって、どこだろう――?






あまりにも突然のことに、僕は自分の置かれている状況が、一片も理解出来なかった。
まるで催眠術にかけられていた被験者が、術者の合図にはっと我に返ったような、そんな覚醒だったからである。
そうして、唐突に突きつけられた現実は、僕の理解の範疇を完全に超えていた。

辺りは、薄暗かった。
光源が、ほの白い柔らかな灯りだけだからだろう。
だが、すぐ目の前を確認するのに、困るほどではない。

僕は、ことさらゆっくりと、瞬きをした。
けれども、もちろん状況は変わらない。
今度はしばらくの間、ぎゅっと目を瞑ってみる。
しかし瞼を上げてみれば、変わらない現実が視界を占めるばかりだ。

もしかして、夢を見ているんじゃないだろうか。
そんな、誰もが考えるであろう逃げ口上に思い至り、僕は試しに、自分の手を思い切りつねってみる。
当然の事ながら、痛かった。
でも、夢に痛覚がないなんて、絶対なんだろうか?
カラーだったり、モノクロだったりもするみたいだし、痛覚だって人によってはあるのかも――。

なんて。
僕があからさまな現実逃避を始めた時。
ん、という、微かな声と共に、吐息のこぼれ落ちる音が聞こえて。
つい僕は、先刻からなるべく見ないように、見ないようにとしていた彼の方を、見てしまったのだった。

同性とは思えないほどの、長い睫に縁取られた瞼が、わずかに震えている。
そう頭が理解したと同時に、それはゆっくりと開かれていった。
吸い込まれそうな紅玉色の瞳が、どこかぼんやりとしたまなざしを僕に向けている。
目覚めたばかりで、まだ焦点があっていないに違いない。
だがすぐにひたと僕を見据えると、ちょっとだけ目を細める。
口角が僅かに持ち上がり、まるで、微笑を浮かべているかのようだった。

いや。
彼は確かに、微笑んでいる。

その端整な面をふんわりとほころばせた彼は、形のよい口唇を開くと、これまた寝起きの所為か、ちょっとだけ掠れた声で、言った。
「おはよう、ジョミー」

「ひゃあっ!」
気がつけば僕は、みっともない悲鳴を上げつつ身体を起こすと、後ろに飛び退っていた。
自分が、寝台の上にいるであろうことは、すっかり頭から飛んでいた。

結果。

僕は無様に、そこから転げ落ちることとなったのだった。

――床に激突する。
そんな、決して免れえない出来事に備えて、僕はぎゅっと目を瞑った。
でも、それだけだった。
たいした高さのないところから落ちた僕にとっては、目を閉じることが、精一杯の抵抗だったのである。

ところが。

いつまで経っても恐れていた衝撃が訪れることはなかった。

どれだけの間、僕はぎゅっと目を瞑って、その時に備えていただろう。
最初は、これが噂に聞く、大事に遭った瞬間は時の流れが遅く感じられる現象かな、なんて思っていた。
けれども、そうだとしたって、いい加減長すぎる。
しかも、どうしてだかふわふわと、心地よかったりするのだ。
まるで、優しいママの腕に、抱かれているようだった。

おかしい。

いくらなんでも、おかしすぎる。

ここにきて、ことの異常さにようやく気がついた僕は、両手を伸ばして、辺りを探ってみる。
だが、一向に触れるものはない。
ついで、恐る恐る瞼を上げてみる。
視界を占めたのは、淡い光に照らし出された、寝台の側面であった。

自らの置かれた位置から、僕はやっぱり、寝台から落ちたのだと確信する。
では、何故、こうして無事でいられるのか。
その答えは、周囲に視線を巡らせることで、容易に知ることが出来た。

僕は、寝台の脇で、空に浮いていたのだった。

「ジョミー、大丈夫か?」
その時、不意にかけられた言葉に、僕ははっとした。
反射的に顔を上げれば、寝台の上に上体を起こしたブルーの姿が目に入る。
彼はその端整な面を不安の色に染めて、さぐるようなまなざしを僕に向けていた。
目が合うと、小首を傾げる。
いまいち状況が飲み込みきれない僕だったが、彼のそんな表情が自らに起因していることだけは分かって、気がつけばこくこくと、何度も必死に肯いていた。

「そうか……」
するとブルーは、あからさまにほっとしたような顔をして、吐息を漏らした。
と同時に、僕は冷たく硬い床の感触を覚えて、自分がいつの間にか空中浮遊を終えていたのだと知ったのだった。

なにがなんだか、さっぱり分からない。
それが僕の、正直な感想だった。
だって、目が覚めたらブルーの寝台にいて、転げ落ちたかと思えば空に浮いていて、結局何事もなかったかのように着地を果たしているなんて――。

そんな事々に考えを巡らせていた僕は、ようやくあることに思い至って、さっと血の気が引くような感覚を味わった。

まさか。

でも、他に考えられない。

僕は床に落としていた視線を、ゆっくりと持ち上げた。
ブルーは、相変わらず寝台の上から僕の様子を窺っている。
その紅玉色の瞳にある確信を得て、しかし信じ難くて。

「今のは……もしかしてブルーが……?」
口をついて出た言葉は、僕の心境を余さず表しているかのように、掠れ震えていた。

だが僕の胸中など知らぬブルーは、瞬間、不思議そうな顔をした。
けれども、すぐに僕の言っている意味に思い当たったのだろう、口元に笑みを浮かべると小さく肯いた。
「間に合ってよかった」

「よくないです」
ブルーの言葉に、僕は堪らず叫んでいた。
やっぱり、という思いと、どうして、という思いがない交ぜになり、ぐちゃぐちゃと心をかき乱す。

「なんで、なんで僕なんかの為に……。今力を使ったりしちゃ、貴方の身体が……」
纏まらない思考のまま、それでも僕は懸命に言い募る。
そうでもしていないと、罪悪感に押し潰されてしまいそうだった。

どうして僕は、余計なことばかりしてしまうんだろう。
ブルーに、また無理をさせてしまったじゃないか。
言われたとおり、部屋で大人しくしていれば、きっとこんなことには、ならなかったのに。

「ジョミー」
やんわりとした、それでいてどこか有無を言わせぬブルーの呼びかけに、僕はふと口を噤んだ。
ブルーの、困ったようなまなざしが居た堪れなくて、目を伏せる。

「……ごめんなさい」
「どうして、君が謝るの?」
「だって……ごめんなさい」
他に言うべき言葉も見つからず、僕はただただ謝罪を繰り返した。
ぼやける視界に、慌てて目元を腕で拭う。
昨日から泣いてばかりで、本当に仕様がないと、思った。

こんな情けない後継者を、ブルーはどう思っているのだろう。
彼の視線を一身に浴びながら、僕はそんなことを考えていた。

いのちをかけて助けてくれたこと。
彼の大切な仲間たちを託したことを、後悔しているんじゃないだろうか。

不意に、ブルーが大仰なため息をついて。
僕はびくりと身体を震わせた。
やっぱり、呆れているに違いない。
悔やんでいるに違いない。
そんな思いが脳裏を駆け巡り、僕は身体を竦めて、彼の言葉を待つしかなかった。

ブルーは今一度、ため息をついた。
言葉に迷っているのか、暫し逡巡しているかのような雰囲気が伝わってくる。
そうしてようやく口を開いた時、彼の口唇からこぼれ落ちた言辞は、俄かに信じられる類のものではなかった。

「ジョミー、僕はとても気分がいいんだけれど」
「え……?」
言われた意味が分からずに、僕は間の抜けた声で聞き返していた。
だがそれも当然のことだろう。

気分が、いい?

今の彼に、これ程疎遠な言葉があるだろうか。

だがブルーは、幼子に言い聞かせるような口振りで、もう一度訴えた。
「僕はね、今、とても気分がいいよ」
「……嘘だ……」
僕はかぶりを振って、彼の言葉を否定する。
きっと心配をかけまいとして、そんなことを言っているに違いない。

「嘘じゃ、ないよ」
次いで発せられたブルーの言葉に重なって、ぎしりと寝台のきしむ音がした。
その音に、僕ははっとして顔を上げる。
「ブルー」
思わず、悲鳴じみた声を出してしまった。

ブルーは、寝台から足を下ろしていた。
床をしっかり踏みしめると、まるで危なげのない所作で、寝台の傍らに立ち上がる。
それから、一歩足を踏み出した。
ちょうど、僕の目の前に。
見上げれば、ブルーはほらね、と言わんばかりの表情を浮かべて、僕を見下ろしている。

確かに、ブルーの足取りはしっかりとしていた。
改めて見つめれば、顔色もずいぶんといいような気がする。
なによりも、昨日までブルーから感じられた、嫌な気配が全くなくなっているのだ。

でも、だからといって、すぐに信用できるはずがない。

「ジョミー、もう心配しないで」
「でも、だって」
「ジョミー……」
頑なに彼の言葉を否定し続ける僕に、ブルーは肩を竦めてみせた。
それから、不意に跪く。
ちょっとだけ身を屈めると、僕の顔を真正面から見据えてくる。
その手が僕の手を取り、きゅっと握り締めた。

「君は、ずっとこうしていてくれたね」
「こうって……」
「僕の手を、握っていてくれただろう?」
「ああ……」
僕は小さく肯いた。
昨夜のことが、脳裏に思い出される。

「君が、力をくれたんだ」
そう言ってブルーは、僕の手を持ち上げると、そっと頬を寄せてきた。
突然の所作に、僕はただぼんやりと、彼のされるがままになっていた。

「ジョミーが力を分け与えてくれたから、僕はこうしていられるんだ」
ブルーは一旦言葉を切ると、ほうと満足げなため息を漏らした。

「君の力が、僕を癒してくれたんだよ」
「そんな……ことって……」
ジョミーは茫然自失の態で呟いた。
ブルーは端整な面に笑みを浮かべて、じっと僕を見つめている。
そこには、ESPを使わなければ、寝台から身体を起こすのもやっとだった、彼の姿は微塵もなかった。

本当に、そんなことがありえるのだろうか。
だがESPについて、まだろくに知らない僕には判断のしようがない。
ただ、ひとつだけ確かなのは。
にこにこと機嫌よく微笑む、ブルーの姿で。

僕は堪らず、彼に抱きついていた。
そうしてブルーは、なんの危うさも感じさせずに、僕の身体をしっかりと受け止めてくれた。

「ジョミー、ありがとう」
耳元で囁かれる彼の言葉を聞きながら、僕は奇跡を信じ始めていた。










いまいち納得いかないですが、一旦アップしてしまいます。
20070520

20070819 オフ用手直し版に差し替え。



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