貝の見る夢 〜解ける心






夜もだいぶ更けてきたというのに、眠れそうな気配は一向に訪れない。
仕方なくブルーは、寝台の上に身を起こし、ヘッドボードにあてがった夜具に背を預けた格好で本を繰っていた。
だが、内容が頭に入ろうはずもない。
文字に集中しようとすればするほど、眼前の言葉たちは意味を成さなくなる。
ちらちらと脳裏をよぎるジョミーの面に、ため息ばかりがこぼれ落ちた。

ブルーは読み止しの本に栞を挟むと、寝台の上に投げ出した。
それから、まるで糸の切れた操り人形のように、上体をクッションに埋める。
重力に従ってくったりと項垂れた頭は、如実にブルーの心境を物語っていた。

――どうして、こんなことになってしまったのだろう。

先日から、幾度となく繰り返してきた問いを、ブルーは再び自らに投げかけた。
だが答えはおろか、解決の糸口になりそうなことさえ分からない。
ただひとつだけ確かなのは、ブルーが取り返しのつかない事態を引き起こしてしまったということである。
躊躇しつつも、結局はブルーに任せてくれたハーレイに、現状をなんと説明すればよいのか。
ブルーは途方に暮れるばかりである。

大きなため息をもらしたブルーは、紅玉色の瞳を瞼で覆い隠した。
ほんのりと透けてみえる室内灯の淡い光で、閉ざされた視界は微かに明るい。
そんな中で、憤りをあらわにしたジョミーが、ブルーをねめつけていた。
彼の強い意志を宿した瞳は、疑いようのない怒りを訴えているのに、ブルーは何故、今にも泣きそうだなんて思ったのだろうか。

きっと、そういった些細な齟齬の積み重ねが、結果的にジョミーを追い詰めていったのだ。
それでなくともジョミーは、まだ14歳の、親元を離れたばかりの子供である。
彼にとって、ブルーの要求は過酷すぎるものだった。
反発を覚えるのも当然であろう。
もちろん、そんなことは承知の上で接してきたつもりではあるが、どこかでなにかを誤ってしまったに違いない。

それとも、ブルーは少々、ジョミーに干渉しすぎていたのだろうか。
その考えに則って思い返してみれば、確かにジョミーは、ブルーが彼のことを案じている時分に、様子がおかしくなっていた。
だとするとジョミーは、彼に全てを委ねて一線を退いたものの、心配のあまり口を出してしまうブルーを、疎ましく思っていたのではないか。

ジョミーがソルジャーとしてとてもよくやっていることは、ブルーも了承している。
ハーレイの報告と、船内に飛ばした思念から、十分に窺えるからだ。
時折、思念が不安定になることもあったが、その若さを考えれば気に病むほどのものではない。
母親に会いたいと願うのも、記憶を失っていないのだから、至極真っ当な要求である。
ジョミーがそうと望まない限り、ブルーが口を出す謂れはなかったのだ。

にも関わらずブルーは、彼をこんな運命に引き込んだ罪悪感から、余計な干渉をしてしまった。
ジョミーのためだなんて、単なる建て前でしかない。
実際は、自らの後ろめたさを誤魔化したかっただけなのだ。
そんなブルー側の事情は、懸命に為すべきことを為していたジョミーにとって、迷惑以外の何物でもなかっただろう。

ゆっくりと瞼を持ち上げたブルーは、上掛けに包まれた自らの身体を眺めた。
本来なら、とうに失われているはずの命だった。
今こうしていられるのは、ひとえにジョミーのおかげである。
だが、だからといって、彼がブルーを必要としているわけではない。
心根の優しいジョミーは、目の前で死に瀕している者を、放っておけなかっただけなのだ。
それが誰であれ、ジョミーの対処に変わりがあったとは思えない。

健全な肉体と、精神を持ち合わせたジョミー。
彼ならばきっと、ブルーには成し遂げられなかった地球への帰還を、果たしてくれるに違いない。
立派な若き指導者として、ミュウを率いてくれるだろう。

時代は、すでに新たな世代へと移行している。
諫言役として、ハーレイや長老たちもいる。
老いたソルジャーの居場所など、この船にはないのだ。
それなのに、ブルーは未だに生きながらえている。
そのことこそが、ブルーの犯した最大の過ちではないだろうか。

自らが思い至った考えに息苦しさを覚えて、ブルーは吐息をもらした。
ついで、ゆるゆるとかぶりを振る。
とても理に適っているようでいて、しかしブルーの推測では、どうにも説明のつかないことがあるからだった。
まだ、なにかが足りないに違いない。

――僕を見て!

ブルーは、ほんの数時間前に押し付けられた思念を思い返していた。
そっと右手を持ち上げると、指先で唇に触れる。
ジョミーの言動は不可解すぎて、ブルーにはどうしても理解し難い。
力の抜けるままに右手を寝台の上に投げ出すと、ブルーは頭を夜具に預けた。
僅かに上向いた格好で、再び目を閉ざす。
不意に、なにもかもが取るに足りないことのように思われてきて、ブルーはその面に自嘲の笑みを浮かべた。
ジョミーの言葉に、行動に、どんな意味があろうとも、彼にとってブルーが不要な存在であるのに変わりはないからだ。
こうして思い悩んでいることさえ、ジョミーにとっては疎ましいのかもしれない。

ジョミーが、ミュウの中で上手くやっているのなら、それでいい。
とても喜ばしいことである。

それなのに、何故、ブルーの胸中はこんなにもざわつくのだろう。

忙しない呼気に、居た堪れない心地を覚えて、ブルーは両手で胸を押さえた。

――僕を見て!

脳裏では、ジョミーの思念ばかりが反芻されている。

「君こそ、僕を見てくれていないじゃないか……」
しんとした室内に、聞く者のない言葉が、ぽつりとこぼされた。






どれほどの時間を、寝台の上でまんじりともせずにすごしていただろう。

「ブルー……」
不意に、ずいぶんとかすれた声が、ブルーを包み込む静寂を打ち破った。
思考の深淵に沈み込んでいたブルーは、はっとして目を開く。
どんなに微かでも聞き間違えようのないその声音に、思わず身体を竦ませる。
瞬間、まさかとも思った。
けれども誤魔化しようのない彼の気配が、寝台の傍らに在る。
物思いに耽るあまり、周囲の一切が五感の枠外に追いやられていたのだろう。

驚愕に目を見開いたブルーは、ぎこちない仕草で首を巡らせた。
探すまでもなく、ジョミーの姿が視界に飛び込んでくる。
彼は寝台を照らし出す灯りの、かろうじて届く辺りに佇んでいた。
顔を俯けている所為で、表情は窺えない。

どうしてだとか、何故だとか。
そんな疑問が脳裏をよぎったように思う。
しかしながら、それらを口の端にのせることはできなかった。
あまりにも唐突な出来事に、ブルーは頭が空白になるのを覚えた。
なにも考えることができない。

「……ジョミー……」
ブルーの唇からこぼれ落ちたのは、彼の名前のみだった。
まるでジョミーの存在を検めるかのごとく発せられた言葉は、彼に負けず劣らずかすれていた。
そして、とても小さな声だった。
けれども、ジョミーの元へは届いたようである。
途端にびくりと身体を震わせたジョミーが、なにがしかの決意を固めるように、両手を強く握り締めたからだった。

ジョミーは、暫し逡巡するかのような素振りを見せてから、ゆっくりと面を上げた。
そうしてあらわになった表情に、ブルーは知らず息を飲む。
彼の翠緑色の瞳が、今にもこぼれ落ちそうなほどの涙を湛えていたからだ。
しかめられた眉が、ジョミーの苦渋に苛まれる胸中を、ブルーに余さず伝えてくれる。
顔色も、ひどく悪い。

「どう……したんだ? なにかあった……」
気がつけばブルーは、そんなことを口にしていた。
だがすぐに我に返ると、みなまで言うことなく口を閉ざす。
余計な干渉がジョミーを苛立たせていたであろう事実を、思い出したからである。

またしても、同じ過ちを繰り返すところだった。
ブルーは吐息をもらすと、微かにかぶりを振る。
ジョミーはブルーの言葉など、望んではいないのだ。
それを忘れてはならない。

「いや、すまない……なんでもないんだ」
ようやく正常に戻り始めたらしい思考の助けを借りながら、ブルーは慎重に選んだ言葉を口に上らせた。
もちろん、何故ジョミーがここにいるのか、気にならないわけではない。
しかし今は、ブルーの些細な疑問より、事態をこれ以上悪化させないことの方が優先されるべきである。
ブルーはもう、ジョミーに独りで涙をこぼさせたくはないのだ。

――いや、それだけじゃない。

ブルーは自嘲の笑みを浮かべると、瞬間、目を閉ざした。
それから、改めてジョミーを見る。
彼は先刻から、微動だにしていなかった。
険しい面のままに、涙で潤む瞳を、ひたとブルーに向けている。
わななく唇は、なにごとか言いあぐねている所為だろうか。
だとしたらきっと、最後通牒に違いない。
その内容は、考えるまでもないだろう。
それも当然のことかと、ブルーはどこか他人事のように思っていた。

ジョミーにつらい思いをさせたくない。
確かに、その通りだ。
だがブルーが最も恐れたのは、また別の事々だったのである。

不意に一変する、ジョミーの態度。

憤りをあらわにする、翠緑色の瞳。

その、冷めたまなざし。

唐突に脳裏をよぎった場景に、ブルーはため息をついた。
それらはもう、二度と目にしたくないジョミーの所作だった。
こうして思い返すだけで、胸中を鉛のようなものが占め、途端に息苦しくなる。
忙しない呼気に、ブルーは眩暈にも似た感覚を覚えた。

とても情けないことだと思う。
だが自らを騙せはしない。

結局ブルーは、これ以上ジョミーに、突き放されたくないだけなのである。

本来なら、先の指導者として新たな指導者を導くべきであろう。
だが、この体たらくである。歳若く、感受性鋭いジョミーは、そんなブルーの内面を早々に察していたに違いない。
現状は、その結果なのだ。
だとしたらブルーは、ジョミーになにを言われようとも、甘んじて受け入れるしかない。
せめてもの救いは、ブルーにも機会が与えられているということだろうか。

――全ての事々に、幕を引く、機会を。

ざわつく心を鎮めるべく、ブルーは静かに目を閉じた。
薄暗がりの中で思い出すのは、やはり両の瞳に涙を湛えたジョミーである。
しかしその面には、笑みが浮かんでいた。
ブルーの快復を、心から喜んでくれた時分の記憶である。
あれからそう時を経たわけでもないのに、二人を取り巻く状況は激変してしまった。

だが、それも今日までのことである。

意を決したブルーは、目を開くとジョミーを見つめた。
くじけそうになる心を懸命にかきたてながら、今にもかすれ消えてしまいそうになる声を絞り出す。

「僕はどうも……口がすぎてしまうようだね」
途端に、これまで取り立てて反応を見せなかったジョミーが、表情を強張らせた。
信じがたいものでもみるようなまなざしをブルーに注いでいる。
またしても失言したのだろうかと、ブルーは身が竦むような思いを味わった。
彼の視線に居た堪れなくなって、思わず顔を伏せる。
だが今更言葉を納めるわけにはいかなかった。

「迷惑、だったろう? 本当にすまない……」
「違うっ」
不意に強い口調で遮られて、ブルーは反射的に面を上げていた。
瞳に映るジョミーの姿に、言葉を失ってしまう。

ジョミーは、くしゃりと顔を歪めていた。
そのまなじりから、ひとすじの涙がこぼれ落ちている。
それは幼さを匂わせる、丸みを帯びた頬を伝うと、彼の胸へと至った。

ブルーは為す術もなく、ただただ呆然とジョミーを見つめていた。
やはりブルーからはなにも言うべきではなかったかと、後悔が渦を巻く。

「違うっ……違います」
そんなブルーの胸中をよそに、ジョミーは懸命に言い募る。
しかし荒い語気は、すぐになりを潜めてしまった。

「違うんです……ごめんなさい……」
徐々に勢いを失っていった言辞は、最後には囁くような調子になっていた。
口調につられたのか、ジョミーは顔も俯けている。
けれどもその言葉は、ブルーの元にしかと届いた。
だがその意味するところが分からない。

「ごめんなさい……」
何度も何度も謝罪を口にするジョミーに、ブルーは困惑するばかりだった。
どうして、彼が謝ったりするのだろう?
謝らなければならないのは、ブルーではないか。

「ジョミー……すまない。分からないよ」
面を伏せ、肩を震わせるジョミーに向かって、ブルーはようやく口を挟んだ。
途端にジョミーは黙り込む。
その沈黙に、彼がブルーの言葉を待っているのだと見て取ったブルーは、先を続けた。

「ずっと……ずっと君のことを考えていたけれど……すまない、よく分からないんだ。僕が……ジョミーを怒らせるようなことをしたんだろう?それなのに、どうして……君が謝ったりするんだ?」
首を傾げるブルーの前で、ジョミーは激しくかぶりを振った。
しかしブルーには、彼がなにを否定したいのかがやはり理解できない。
暫し口を噤み、ジョミーの言い分を待ってみる。
だが、彼が口を開く気配はなかった。
不意に右手を上げたかと思うと、顔を腕で乱暴に拭っている。
それでようやくブルーにも、ジョミーが嗚咽を堪え、言葉を発するどころではないのだと知れた。
この涙もまた、ブルーの所為に違いない。

ブルーは上掛けを剥ぐと、寝台の端から両足を下ろした。
ジョミーに向き合い、見ていないと承知しながらも、頭を下げる。

「ジョミー、本当にすまない。不要な僕は大人しくしているべきなのに、余計な口ばかり出してしまって……」
「どうして!」
ジョミーの悲痛な叫び声に遮られて、ブルーは思わず口を噤んだ。
はっとして顔を上げれば、いつの間にか面を上げていたジョミーが、大股で近寄ってくるのが目に入る。
そう思った瞬間、ブルーはジョミーにしかと抱き締められていた。

「どうして、そんなこと……。僕には貴方が必要なのに……。だって、だって……」
あまりにも唐突なジョミーの所作に、ブルーはただぼんやりとされるがままになっていた。
ジョミーは軽く開かれたブルーの両足の間に、身体を滑り込ませている。
両の腕で、ブルーの頭をその胸元に抱き締めている。
頭頂部に感じる重みに、彼がブルーの髪に顔を埋めていることを知った。

触れ合う部分から、ジョミーのぬくもりが次第に移ってくる。
呼吸をするごとに、彼の匂いを覚える。
久方振りに感じるそれらに、気がつけばブルーは、うっとりと瞼を閉ざしていた。
満たされてゆく胸中に、これまでブルーを苛んでいた感情の正体が、ようやく分かったような気がした。

「僕は、貴方が、好きなんです」
頭上からは、先の勢いと打って変わって、静かな声が落とされる。
だがその言葉の意味するところをブルーが理解する前に、どうしてだがジョミーは、不意に身体を離してしまった。
去って行くぬくもりに、ブルーは慌てて瞼を開く。

「ごめんなさい……こんなこと言われても、困るでしょう?」
ほんの半歩分後ろへ退いたジョミーが、涙の所為で充血した目を伏せながら言う。
ブルーはといえば、ようよう掴まえたぬくもりが離し難くて、咄嗟に手を伸ばすと彼のマントの端を捉えていた。
その僅かな抵抗に、ジョミーが視線を上げる。

「ブルー……?」
「また……行ってしまうの?」
「え?」
「……寂しい」

困惑の色を浮かべた面を僅かに傾げていたジョミーが、ひゅっと息を飲む。
震える唇が言葉を紡ぎだす前に、ブルーは彼のマントを手繰り寄せた。
するとその身体は、いとも容易くブルーの元へと戻ってくる。
ブルーは安堵の吐息をもらすと、ジョミーの懐に顔を埋めた。
腰に腕を回して、しかとすがりつく。
それから、自らも気がついたばかりの心境を、吐き出した。

「君が離れていって、僕はとても寂しかったんだ……」
しんとした室内に、ブルーのくぐもった声は存外大きく響いた。
と同時に、手中に納めたジョミーの身体が、僅かに震える。
頭頂部に、痛いほどの視線を覚えた。

これまでのことや、ジョミーの言葉の意味すること。
ブルーには考えねばならないことが多々あったろう。
しかし、今は到底無理だった。
ようやく取り戻したぬくもりに、もう二度と離したくはない、そんなことばかりを願っていた。

ブルーの胸中に従って、ジョミーを抱く手に力が入る。
すると、それが合図だったかのように、ジョミーの両手がブルーの身体に回された。
ぎゅっと抱き締められる。

「……僕は、貴方が好きなんですよ……?」
耳元で囁かれる言葉に、ブルーは小さく頷いた。
「僕だって、君が好きだよ? 当たり前じゃないか」

その時、ほんの一瞬ではあるけれどもジョミーの身体が強張ったように感じて、ブルーは思わず面を上げていた。
だが頭上で小首を傾げるジョミーの表情は、とても穏やかなもので。
気のせいかとため息をもらしたブルーは、促されるままに、再び彼の胸元へと顔を埋めたのだった。











ちょっと短いですが、きりのいいとこで。
20070624

ここできっちり終わらせようかとも思いましたが、やはり当初の予定通りの展開で。
感想等お聞かせ下さると、とても励みになります。
20070701


20070821 オフ用手直し版に差し替え。


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