飛行夢 〜ことの始まり
確かに目を開いた筈なのに、辺りはとても薄暗くて、なにも窺い知ることができない。
それでも懸命に目を凝らし、何度か瞬きするうちに、ひどく不鮮明ではあるけれども、誰かが覗き込んでいるのが分かった。
「シロエ、気がついたか」
『気がついたそうです』
「誰か、ドクターを」
「長老たちにも、報告した方がいいんじゃないか」
『ドクター、例の子供が気がつきました』
「ソルジャー・ブルーも気にされているだろう」
その誰かに、名を呼ばれた。
そう思った瞬間、辺りが急に喧しくなる。
沢山の人の声と――人の声?
まるで脳裏に直接吹き込まれているかのような、不快な感覚を覚えて、シロエは思わず眉を顰めた。
いやだ。
煩い。
止めてくれ。
そう口にしたつもりだったけれども、乾いた唇はかすれた呼気をこぼすばかりで、思うように動いてはくれない。
「――少し静かにしてやって。思念も、シロエの周りでは禁止だ。目覚めたばかりで、力の制御ができていない。それと……この怪我の所為か? とにかく、全ての思考が流れ込んでしまっているようだ。心が壊れてしまう」
ところが、どうしてだかシロエの名を呼んだ人には、シロエの気持ちが通じたようだった。
彼の呼びかけに、途端に周囲がしんとなる。
シロエはほっと吐息をもらした。
安堵から、自然と瞼が重くなる。
狭まる視界で、誰かが微笑んだような気がした。
優しい感触が、さらりと髪を梳いていく。
「疲れているだろう、眠れるようなら眠っておいで」
とても耳に心地よい、柔らかな声音に囁かれて、シロエは小さく頷いた。
言われてみて初めて、自分がとても疲れていることに気がついた。
瞼を開けておくことさえ億劫である。
促されるまま暗闇に身を置いたシロエは、ふと彼のことを知っていると思った。
遠い昔、確か今と同じ様に、優しく語りかけられたことがある。
あれは――そう――。
――ピーターパン?
ふふと、誰かは笑みをこぼした。
「覚えていてくれたんだ」
――じゃあここは、ネバーランド?
「それはちょっと違うかな。ネバーランドを目指す、船の中だよ」
――僕のこと、迎えに来てくれたんだ。
「だって、呼んだだろう?」
――でも僕……ピーターパンに酷いことしたのに。
「……全部、思い出したんだね」
ピーターパンは、シロエの髪を今一度優しく梳いてくれた。
シロエは目を閉じたままだったけれども、脳裏には彼の優しい笑顔が思い浮かんでいた。
幼い頃、出会ったままの姿だったけれども、おかしいとは微塵も思わなかった。
だって彼は、ピーターパンだ。
――ごめんなさい。
「どうして謝るの」
――僕が貴方のこと、信用しなかったから。
「あれは僕のやり方が拙かったんだよ」
ピーターパンが苦笑をもらしたのが、どうしてだか分かって、シロエもつられて笑みを浮かべた。
実際、上手く笑えていたかどうかは知れないが。
「さあ。昔話もいいけど、今の君に必要なのは休息だ」
――でも……。
「時間は沢山あるから大丈夫。今は安心してお休み」
慌てて言葉を繋ごうとするシロエを、ピーターパンは優しく、しかし有無を言わさぬ調子で諌めた。
それから、彼の立ち上がる気配。
途端にシロエは、激しい不安に襲われた。
ピーターパンが、どこかへ行ってしまう。
「……じゃあ君が眠るまで、ここにいようか」
だがピーターパンは、結局足を止めてくれた。
今一度傍らに腰を下ろすと、シロエの手を優しく握り締めてくれる。
シロエは安堵のため息をもらした。
温もりが、シロエを更なる闇の底へと誘う。
瞬間、何故か恐怖を覚えたが、彼がちょうど強く手を握り締めてくれたので、そんな思いはすぐに霧散していた。
なにか大切なことを忘れているような気がしたが、彼の手の温もりに、シロエは考える間もなく眠りに落ちていた。
終