触れる想い
不意に、船内の空気が慌しくなったように思われて、ブルーは胸中で笑みを浮かべた。
以前ならば何事が起こったのかと、すぐに思念を飛ばすところである。
だが、今は違った。
彼がこの船に落ち着いてから、まるで日課のようになにがしかの騒動が起こっているからだった。
一体、今日はなにをしでかしたのだろう。
少し楽しみだなんて言ったら、不謹慎だろうか。
その時、室内の空間が僅かに歪んだように思われた。
と同時に、ジョミーがその姿を忽然と現した。
頬をほんのりと赤らめて、荒い呼気を繰り返している。
これもまた、想定内の出来事である。
ブルーは堪えきれない笑みを湛えて、ジョミーを見た。
視線に気がついたのだろう、ジョミーがふと面を上げた。
ブルーに目を向けると、悪戯の見つかった子供のような表情を浮かべる。
「すみません、また突然お邪魔しちゃいました……」
「君の訪問は、いつでも歓迎するよ」
至極恐縮しているらしいジョミーに、ブルーは静かな口調で答えた。
彼を気遣ってのことではない、本心からの言葉である。
それはジョミーにも伝わったようで、彼はぱっと表情をほころばせると、軽い足取りで寝台へと近づいてきた。
寝台の傍らに佇んだジョミーを、ブルーは横になったまま見上げた。
ジョミーも、ブルーを見下ろしている。
彼の視線を確かめたブルーは、枕の上でちょっとだけ首を傾げてみせた。
途端にジョミーが困ったような表情を浮かべる。
心境に従ってくるくると変わるジョミーの面を、眺めるのはとても楽しい。
「えー……っと、器物破損? みたいな……」
ブルーのもの言いたげな視線に耐えかねたのか、ジョミーが恐る恐るといった態で答える。
「被害は?」
「……シミュレーターが……」
「そうか」
「すみません……」
徐々に小さくなっていくジョミーの声に、ブルーは苦笑を禁じえない。
彼はどうして、ブルーの前に出るとこうなのだろう。
ハーレイや長老たちの前では、ずいぶん剛毅で大胆だというのに。
「呆れたでしょう?」
ブルーの苦笑を勘違いしたのか、ジョミーが重ねて言う。
ブルーは首を振って、彼の言葉を否定した。
「それだけジョミーの力が強大だという証拠だ。喜びこそすれ、呆れたりなんかしないよ」
「でもハーレイたちは怒ってます……」
「ああ……」
脳裏に、ジョミーの力によって生じた被害を青筋を立てて説明するハーレイの姿がよぎって、ブルーはまたしてもくつくつと笑ってしまった。
そうして瞬間、船内に意識をやれば、確かに彼らはものすごい勢いでこちらに向かっているようだった。
ジョミーが本気で逃げ回れば、彼らに勝ち目はないというのに、どちらも大概懲りないものである。
「それは……僕の所為かもしれないね」
「え?」
暫し考え込んでから、ブルーは思ったままを口にした。
ジョミーがきょとんとした顔をする。
「僕が君にだけ特別に甘いから、彼らはその分、嫌な役を引き受けてくれているんだと思う」
そこで一旦言葉を切ると、ブルーは目を細めてジョミーを見た。
ジョミーはどうしてだか、目を見開き、口をぽかんと開けている。
そのちょっと間抜けな面持ちが歳相応で可愛くて。
まだ幼い少年を、過酷な運命に引きずり込んでしまった罪悪感が、不意に胸をよぎる。
「すまない……」
ついて出た謝罪は、一体なにに対してのものだったろう。
「や、そんな、僕は、全然」
だがブルーの胸中なぞ知る由もないジョミーは、上ずった声で懸命に言い募りながら、両手のひらを胸の前で振っている。
つい沈みがちになってしまったブルーの口振りを、気遣ってのことだろう。
ジョミーの優しい心持ちに、ブルーは気持ちがすっと楽になるような気がした。
知らず口元に微笑が浮かぶ。
するとジョミーは、唐突に口を閉ざした。
その面がみるみるうちに耳まで赤く染まってゆく。
ふと視線を逸らすと、小さな吐息を漏らしている。
「ジョミー? どうかしたのか?」
ジョミーの突然の変貌を訝しく思ったブルーが問いかけても、ジョミーは返事をしなかった。
しばし逡巡するような素振りを見せてから、漸く口を開く。
しかしあまりにも小さな声で、ブルーの耳には届かなかった。
「ジョミー?」
ブルーが今一度呼びかけると、ジョミーはぱっと顔を上げた。
「キス、してもいいですか?」
意を決したような表情でもって、口早に言う。
「もちろん、いいよ」
どこか思いつめたようなジョミーの勢いに、ブルーは首を傾げながらも応じた。
キスなんて、これまでにも何度か交わしている。
許しを請われることもなかった。
それなのに、どうしたのだろうと思ったが、ブルーはあえて追求せずに瞳を閉じた。
僅かに軋む寝台に、ジョミーが手をついたのだろうと想像する。
閉ざした瞼を透かして、ブルーは室内灯の淡い光を感じていた。
だがある瞬間から薄暗くなって、ジョミーが覆いかぶさってきたことを教えてくれる。
なんだか今日は、ずいぶんと時間をかけるつもりらしい。
なかなか訪れないジョミーの微かなぬくもりに、ブルーは鼓動が早まるのを覚えた。
それは一瞬の出来事だった。
しかし違えようはなかった。
思わず見開いた目の、視界の中で、ジョミーは真摯なまなざしをブルーに向けていた。
「そろそろ行かなくちゃ」
だがブルーが口を開くより早く、ジョミーは寝台から身を翻していた。
「僕が来てたこと、内緒にして下さいね」
そう言って口元に人差し指をあてると、悪戯っぽい笑みを浮かべる。
そんな様子はいつものジョミーとなんら変わりがなくて、先刻の出来事こそが夢か幻だったんじゃないかと、ブルーには思えた。
けれども口唇に残る、ジョミーの口唇の感触は確かなもので。
ブルーはジョミーの姿がかき消えた後も、ずいぶん長いこと彼のいた場所を眺めていた。
気がつけば、動かすのも億劫な腕を持ち上げて、指先でそっと口唇をなぞっていた。
このキスの意味を、知りたかった。
でも、知りたくなかった。
相反する思いに、ブルーはぎゅっと目を閉じる。
早くハーレイたちがやってきて、気を紛らわせてくれればいいと、思った。
終