飛行夢 〜出会い 後編






医局に、つかの間の静寂が訪れた。
常ならば気にも留めない空調の音が、やけに耳につく。
ドクターや、看護師の戻ってくる気配はなかった。
もしかしたら、ジョミーが人払いをしたのかもしれない。

シロエはしばしぼんやりと、ジョミーの消えた虚空を眺めていた。
それからぎゅっとまぶたを閉ざした。
途端に緊張がほどけたのか、起こしていた上体を支えられなくなってしまった。
ヘッドボードにあてがった枕に、背中からくったりと沈み込む。
ついで緩慢な仕草で膝を立てると、上掛けごと両手で抱えた。
膝頭に顔をうずめる。

寝台の上で縮こまったシロエは、ふと、このまま消えてなくなってしまえればいいと、思った。

そう時を置かずして、ジョミーは再び姿を現すであろう。
だが今回ばかりは、大好きなテレポートの瞬間に備えて、目を凝らしていられる気分ではなかった。
それどころか、もう戻ってこないで欲しいとさえ願っていた。
こんなふうに考えるのは、シロエがジョミーと再会してから、初めてのことである。

――シロエの知らない誰かが、ジョミーに抱えられて飛んでくる。

これから、いやでも目にしなければならないできごとに、シロエは大きなため息をもらした。
呼気に上掛けがぬるんで、ひどく心地が悪い。
けれどもシロエは、膝頭から顔を上げることはなかった。
なおいっそう面を押しつけるばかりである。
不意に、激しい焦燥感を覚えて、シロエはどうにも居た堪れなくなってしまった。
ジョミーが戻る前に、どこかへ逃げ出せはしないものかと妄想する。
けれども、ドクターの許可が下りない所為で医局から出たことのないシロエは、想像の中ですら逃避することが叶わない。
この船で、唯一の寄る辺であるジョミーが頼りにならないのでは、シロエになす術はないのだった。
事態を甘んじて受け入れるしかない。

「……きっと、ピーターパンの特別な人なんだ……」
気がつけばシロエは、そんなことを口にしていた。
そして言葉にしてしまうと、それがもうゆるぎのない真実のように思われて、シロエは唇を噛んだ。

当初シロエは、ジョミーが先触れを務めるような立場の人がいるのだと考えた。
だがそうだとすると、ジョミーの態度に違和感を覚えざるをえない。
彼には目上の人に対する、かしこまった様子などがあまり見られなかったからだ。
けれども、ジョミーが特別に親しくしている人を紹介しようというのであれば、一連の行動も得心がいく。
ずいぶんと楽しそうだったのも、珍しくうわついた雰囲気だったのも、全てその人に起因するに違いない。

シロエは上掛けを、ぎゅっと握り締めた。
薄汚いものが、身体中に満ち満ちていく心地だった。
泣いて。
わめいて。
着実に積もりつつある鬱憤を晴らしたい衝動にかられる。
だがそんなことができようはずもない。
子供じみた真似をして、ジョミーに呆れられたくはなかった。

「ちゃんと……笑わなくちゃ」
自らに言い聞かせるかのごとく呟いたシロエは、膝頭に顔を埋めたまま口角を持ち上げようとしてみた。
シロエの胸中がどうあれ、ジョミーが仲介役をかってまで紹介しようという人である。
邪険にしては彼に申し訳が立たないからだ。
しかし口元はひきつれるばかりで、とても微笑んでいるとは思えない状態だった。
先刻までは何気なく浮かべていた笑顔が、ひどく難しい所作のように感じられる。
そして焦れば焦るほど、シロエの面は強張っていった。
こんな顔は、とてもジョミーに見せられたものではない。

両腕で抱えた足をよりいっそう身体に引き寄せたシロエは、寝台の上でますます小さくなった。
相反するこころに、どうにかなってしまいそうだった。

「――ついちゃいますよ」
その時、室内の静寂を打ち破る明るい声が響いて、シロエはびくりと身体を震わせた。
ついで、二人分の靴音が澄んだ音を立てる。
一拍遅れて、布が床に納まった音。
かすかな衣擦れ。
そして初めて耳にする声音に、シロエは反射的に面を上げていた。

「……君は本当に強引だね」
「貴方に言われたくありません」
どこか呆れたような口調で言う人に、ジョミーが笑顔で答えていた。
その表情はシロエに向けるものとはまた異なっていて。
シロエは瞬間目を伏せた。
だがすぐに視線を上げると、改めてジョミーの傍らに佇む人を眺めた。
いや、にらみつけたといったほうが正確かもしれない。
二人は、そんなシロエに気づきもしないで、言葉を交わし続けた。

「過保護もほどほどにしたまえ」
「すぐに無茶をしようとする、ブルーがいけないんですよ」
「必要に迫られれば仕方がないだろう? ジョミーだってそうじゃないか」
「僕は頑丈にできているからいいんです」

まるでジョミーらしからぬ、子供っぽい口振りに、ブルーと呼ばれた人は顔をほころばせた。
年頃はジョミーとそう変わらないのに、どこか老成した表情だと、シロエは感じた。
透き通るような銀色の髪のせいだろうか。
陽の光を知らぬ白い肌に華奢な体形が、ずいぶんと儚い印象をシロエに与えた。
だが真紅の力強い瞳が、彼がそれだけの人ではないことを物語っている。
まとう衣装は、ジョミーのものと酷似していた。
その事実に、シロエは胸の鼓動が激しくなる。
ソルジャーであるジョミーだけが、他の誰とも異なる衣装をまとっているのだと思っていたのに。

そしてなによりも、彼らの親しげな物言いがシロエの癇に障った。
これまでに見たこともないジョミーの打ち解けた態度に、シロエはひどく傷ついた。
きっとそういう人が来るだろうことは分かっていて、覚悟もしていたはずなのに、まったく無駄だったようである。
ジョミーが誰かと特別に親しくしているさまなんて、見たくなかった。
聞きたくなかった。
いやでたまらなくて、とうとう顔を俯ける。

嫌いだ。

――大嫌いだ。

「シロエ?」
ジョミーの、はっとしたような声が耳に届く。
けれどもシロエは、一切の反応を示さなかった。
頑なに面を伏せたまま、微動だにしない。
するとジョミーから、逡巡するような気配がうかがえた。
しばしの沈黙のあと、ジョミーは足を踏み出したようだった。
靴音は、まっすぐにシロエへと向かってくる。
ブルーはといえば、相変わらず先刻の場所へ佇んでいるままのようだった。

「シロエ……嫌いって……」
規則正しい靴音に雑じって呟かれた言葉に、シロエは身体を竦ませた。
思考を読まれたのだと察したのだ。
一体どこまでを見透かされてしまったのか、考えるのも恐ろしい。
気がつけばシロエは、ひどく乾いた唇を無理矢理に開いて、かすれた声を絞り出していた。

「……出てけ」
「え?」
「出てけって、言ってる」
「シロエ……」

ぴたりと足を止めたジョミーが、困惑を滲ませた口調で言う。
それも当然だろうと、シロエはどこか他人事のように思っていた。
シロエがジョミーにこんな口をきいたのは、初めてだったからである。
しかも、二言目はずいぶんときつい調子になってしまった。
シロエの突然の豹変に、驚かないほうがどうかしている。

もちろんシロエは、ジョミーに対してそんな口をきくつもりはなかった。
ほとんどは、ブルーに向けて発したようなものである。
だがどちらにしろ、今はひとりにして欲しかった。
言い訳をつらつらと並べ立てる気力もなかった。
なにもかもがどうでもいいことのように思われて、シロエは再び膝頭に面を埋めると、両手で足を抱え直した。
途端に上掛けがなまあたたく湿っていって、ぎゅっとまぶたを閉ざす。

「……ジョミー、一旦失礼しようか」
瞬間、室内に流れた気まずい静寂を、場違いなほど落ち着いた低い声が裂いた。
続いて、ジョミーよりも若干軽い靴音が響く。
ブルーが、寝台の方へと向かって歩き始めたようだった。

「でも、ブルー……」
「シロエは気分も優れないようだし、疲れさせてしまってはいけないよ」
躊躇するジョミーに、彼の傍らで立ち止まったらしいブルーが重ねて言う。
その諭すような口振りは、何故かシロエの気持ちを苛立たせた。
シロエの無礼をとがめもしないことが、その感情に拍車をかける。
まるで高みから見下ろされている心地だった。

「……分かりました」
「――シロエ、突然すまなかったね。ゆっくり休んでくれたまえ」
ジョミーが渋々といった態で了承すると、ブルーは最後にシロエに向かって言葉を投げかけた。
だが返答は最初から期待していなかったようである。
シロエの無反応を確かめるわずかな時間だけをおいて、ブルーはジョミーと共に姿を消したのだった。



ひとり医局に取り残されたシロエは、ずいぶん長いこと膝頭に顔を埋めて、寝台の上で小さくなっていた。
脳裏をよぎるのは、むろんブルーのことばかりである。
結局、彼が何者なのか分からないままであった。
けれども、親しい様子の中にもジョミーが彼を気遣う素振りをみせていたことから、相当の地位にある人だと思われた。
それはまとう衣装が、ジョミーのものと酷似していることからもうかがえる。
なによりも容姿に見合わぬひどく落ち着いた雰囲気が、シロエの予想がそう外れていないことを物語っているように感じられた。
真紅の瞳は、深層までをも見通せるかのようだった。

「――嫌いだ」
シロエは自らのこころを確かめるように、そう口にしていた。











なんか皆様拙宅のシロエもブルー大好きだと思ってらっしゃるようなので、
ドン引きされないかとすげー心配です。
20070805



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