Than anything
その日、阿部はささやかな願望を胸に、学校へと向かった。
期待と、一抹の不安に表情が歪みそうになるのを懸命にこらえて、何食わぬふうを装い、グラウンドのフェンスをくぐる。
だがぐるりと見回してみても、目当ての人物はまだ来ていないようだった。
考えてみれば、いつだって阿部の方が先に到着しているのだから、当然のことである。
なんとなく肩透かしをくらったような気がして、阿部はふんと鼻を鳴らすと、黙々と着替えを始めた。
「阿部ぇ、今日誕生日だよねー。おめでとー」
そんな阿部に、へらへらと声をかけてきたのは水谷である。
だが阿部にとって、水谷はお呼びではなかった。
うっせぇとばかりにひとにらみすると、着替えに戻ってしまう。
予想外の反応に、水谷は首を傾げた。
「あれ? 今日って阿部の誕生日じゃなかったっけ?」
「え? 阿部君、お誕生日だよねぇ? おめでとぉ」
しかしちょうど通りかかった篠岡にまで言われてしまっては、さすがに無視はできない。
阿部はしぶしぶ頷いた。
するとそれまでグラ整をしていた連中まで、口々にそうだったの? とかおめでとうとか言い始める。
それらをうんざりとした面持ちで聞き流していた阿部だったが、フェンスの戸のきしむ音には、ぴくりと身体をわななかせるとすぐさま振り返ってみせた。
傍らでその様子を見ていた水谷が、きょとんとした表情を浮かべる。
「……っす」
ぺこりと頭を下げて入ってきたのは、三橋だった。
途端に顔を輝かせる阿部に、水谷は今度は目を丸くした。
それからなにを察知したのか、触らぬ阿部になんとやらとばかりに、そそくさと逃げていく。
水谷にしては、懸命な判断だったといえよう。
「おう、三橋。おはよう」
だが阿部の眼中に、水谷など微塵も入っていなかった。
屈託のない笑顔をたたえたまま、阿部は三橋に声をかける。
途端に三橋は表情を強張らせると、びしりとその場に固まってみせた。
阿部のいつになく機嫌のよさそうな雰囲気に、逆に不穏な空気を感じ取ったのだろう。
しばし戸口に佇み、忙しなくあちこちに視線を彷徨わせている。
けれども、すぐに朝練の開始時間が迫っているのに気がついたのか、恐る恐るといった態で阿部のいるベンチの方へと近寄ってきた。
「あの、阿部、君。おはよ、ございます……」
「おう」
阿部は満面に笑みを浮かべたまま、答えた。
もちろん、その先にとある言葉を期待してのことである。
今日はそのために学校に来たといっても過言ではない。
今となって考えれば、水谷は非常にいいタイミングで話を振ってくれたものだ。
三橋はみなが阿部におめでとうを言っている最中にやってきた。
これで下手な小細工などせずとも、三橋に今日が阿部の誕生日だと知らせることができた。
あとは阿部のささやかな願望――三橋におめでとうを言ってもらう、を叶えていただくばかりだ。
というと、まるで阿部の頭がおめでたいようだが、それはある意味的を射ていた。
野球にうつつを抜かす高校生男子が、よりによって同級生の男――しかもバッテリーを組んでいる投手に、どうしてもおめでとうと言ってもらいたいだなんて、おかしすぎる。
決して人には言えない願望だ。
けれども阿部は真剣だった。
すごーく真剣だった。
どうしてかというと、それは阿部が三橋に惚れているからにほかならない。
だが阿部自身、自らが抱いている想いが不毛極まりないことを、重々承知していた。
だから三橋に告げるつもりなど、さらさらなかった。
そもそも男が男に恋したところで、上手くいく可能性なんてないに等しい。
伝えたところで、嫌悪された上に今後の付き合いの一切合切を拒否された挙句、バッテリーも解消され、学校中の笑いものになるのが関の山である。
……いや、笑いものになるのは我慢できなくもない。
問題は、三橋に二度と近づけなくなることだった。
そんなことになったら、絶対に立ち直れない自信が阿部にはあった。
そういった事情から、阿部は三橋への想いを誰にも知られぬよう慎重に、慎重に生きていた。
そんな阿部にとって、誕生日におめでとうと言ってもらうことは、常日頃忍耐に忍耐を強いられている自分への、ご褒美のようなものだった。
三橋がただ笑っておめでとうと言ってくれれば、阿部は来年の誕生日まで、それを糧に生きていけると思うのだ。
だがいつまで経っても、三橋はおめでとうを言ってくれなかった。
もしかして、さっきのみんなの声が聞こえてなかったのかと阿部が不安になりかけた頃、ベンチに鞄を下ろしてもじもじしていた三橋がようやく口を開いた。
「ああああの、阿部、君?」
「うん?」
待ってましたとばかりに、阿部は笑顔で頷く。
「なん、ですか?」
「は?」
けれども三橋の言葉は、阿部の望んでいたものではなかった。
思わず首を傾げる阿部に、三橋はあからさまにきょどりながら、それでも一生懸命に先を続ける。
「えっと……見てる、から……」
「ああ……」
「オ、オレ。また、なんかしちゃ……」
「あー違う違う違うから泣くな」
笑顔の阿部に見つめられて、どうにもいたたまれなくなったらしい三橋が、いつものごとく卑屈な思考回路に則って、見当違いな結論を弾き出すのに、阿部は慌てて否定してみせた。
胸中で、なんかしちゃったんじゃなくて、なんかしてくんないの間違いだよと訂正しながら。
だか阿部のこころの声が、天然三橋に届こうはずもない。
阿部の言葉に、そ、そう? なんて首を傾げながら、一応は納得したのか練習時間が気になるのか、涙を拭いもそもそと着替えを始める。
阿部は盛大なため息をつきかけて、すんでのところで飲み込んだ。
そんなものを三橋に聞かれた日には、どんな曲解をされるかわかったものじゃない。
まあ、まだ今日は始まったばかりだ。
今は朝練が迫っているから、三橋もそれどころじゃないんだろう。
なんていうふうに、阿部は自分を納得させると――誤魔化した、ともいうかもしれない――、これ以上三橋を怯えさせてはおめでとうどころか今日一日の会話も成り立たなくなると危惧して、さっさとグラウンドに向かうことにしたのだった。
だが午前中の授業を終え、昼休みになっても、阿部の願望が叶えられることはなかった。
しかも屋上で、部の連中と一緒に昼を取ったにも関わらずだ。
そのとき、誕生日についての話題が一切でなかったのなら、まだ阿部も納得がいっただろう。
だが花井が飲み物をおごってくれたり、栄口が自作の弁当を分けてくれたり、浜田が購買で買った菓子パンをくれたりもしたのに――もちろん、おめでとうの言葉と共にだ――結局三橋は、なんの反応もみせなかったのである。
その身体のどこに入るんだと一度問い詰めてみたい量の弁当を、黙々と口に運んでいるばかりだった。
途中、阿部のもの言いたげな視線に気がついたのか、ふと顔を上げたりもしたが、阿部と目が合うと、途端にきょどり始めてしまい話にならない。
どうにもいたたまれなくなって、阿部は目を伏せると、あまり進んでいなかった弁当をかきこんだ。
そして現状に対するもっともらしい回答を導き出すべく、頭をフル回転させる。
――三橋は引っ込み思案だから、皆に先を越されて、なんとなく言い出すタイミングを逸してしまったんだろう。
それが阿部の辿り着いた結論だった。
ものすごーくポジティブシンキングである。
だがそうとでも思っていないとやっていられないからであって、背後には非常にネガティブな想いが潜んでいたのだった。
もしかして三橋は、オレの誕生日に気がついていないんじゃないだろうか?
……いや、それならまだいい、全然いい。
もし、もし知っていて、あえて気がつかないふりをしているんだとしたら?
オレなんかに、おめでとうを言いたくないって、思っているんだとしたら――!?
しかも阿部には、三橋にそんな態度を取られてしまうようなこころあたりが、残念ながらあった。
野球だけでなく、三橋の生活の全てに干渉しているからだ。
部内の口さがない連中は、そんな阿部をウザイ、と評している。
だが阿部にしてみれば、とにかく三橋が心配で心配で心配で、しかも少々抜けているところがあるから変な虫がつかないかも心配で、居ても立ってもいられずに、ついつい口を出してしまうだけなのだが、阿部の恋心をしらぬ輩にはそうは思えないらしい。
そして三橋も、阿部に球を取ってもらいたいばかりに我慢をしているだけで、その実阿部をウザイ、と思っているのではないだろうか。
だから阿部の誕生日を祝う気に、なれないのではないだろうか。
――少しでも落ち着いて考えれば、人に優しく自分に卑屈な三橋が、そんなことを考えるわけがないと気づきそうなものである。
だが残念ながら今の阿部に、ゲーム中のような冷静沈着、沈思黙考は求められなかった。
その証拠に阿部は、脳裏をよぎる恐ろしい想像に、うっかり泣きそうになってしまっていた。
慌ててかぶりを振って、不吉な予想と涙を追い払ったくらいだ。
そしてまだ昼休みじゃないかあと半日も時間があるじゃないかと、自分で自分に言い聞かせる。
校内に鳴り響く予鈴に、阿部はともするとうなだれてしまいそうになる面をなんとか持ち上げて、午後の授業を受けるべく教室へと向かったのだった。
だから五時限目が終ったとき、ふと廊下に目をやった水谷が「あ、三橋だ」と言ったのにはどきりとした。
だがここで朝や昼のようにガン見しては、また三橋がきょどってしまうに違いない。
阿部は、オレは水谷の言葉になんとなく廊下を見ただけですよー、怖くなんかありませんよー、といったふうを必死で装って、廊下に顔を向けた。
三橋は七組の後ろの戸口に佇んでいた。
困り果てた顔をして、ぱくぱくと口を動かしている。
用があるならさっさと呼べばいいのに、暗い過去の記憶が邪魔をするのか、三橋はいつだって控えめだ。
まあそこが可愛いんだけどと、阿部は腐った考えに思いを馳せかけた。
「あ、阿部、君」
――けれども、三橋の言葉にすぐさま現実へと立ち返った。
阿部に用みたいだねぇと呟いている水谷に、うっせぇ分かってるよと胸中で悪態をつきつつ、阿部は席を立った。
歓喜に顔がゆるみそうになるのを、懸命にこらえながら、どうした? とかちょっとそっけない感じの返事をする。
これまた朝と昼の二の舞はごめんだという思いが、阿部の頭を占めていたからである。
すると三橋は、ほんのりと頬を赤らめた。
大きな瞳を伏せると、もじもじと所在なげに身じろぎをし始める。
これはもしかしてもしかするかもしれない。
なんだやっぱり皆の前じゃ恥ずかしかったんだなオレは別に気にしないのに。
だがとうとうオレのささやかな願望が叶えられるときがやってきた!
神様仏様お釈迦様ありがとう! と宗教をまったく無視した感謝を阿部が胸のうちで捧げようとしたとき。
「あ、の。古典の教科書、貸してくれません、か?」
「……は?」
聞こえてきた三橋の言葉に、阿部はぱっくりと口を開けた。
だが俯いて、両手をいじくりまわしている三橋が、阿部の変化に気づくことはなかった。
「え……と、ごめんなさいオレ……古典の教科書、忘れちゃって……」
「……」
「今日七組、古典あるって、泉君が言ってて」
「……」
「か、貸してもらえないかな、って」
「……」
「……あの、阿部君……?」
いつまで経ってもなんの反応も示さない阿部に、少々鈍い三橋もさすがに訝しく思ったのか、恐る恐るといった態で面を上げる。
それまで呆然と目の前に佇む三橋を眺めていた阿部だったが、彼の所作にはっとするとああ、と呟いた。教科書ね、とも。
幸いにも三橋は、ぬか喜びにしばし呆けてしまった阿部に気がつかなかったようだった。
うひ、と独特の笑みを浮かべると、何度も何度も首を縦に振っている。
阿部は今にもこぼれ落ちそうになる盛大なため息をまたしても懸命にこらえながら、ちょっと待ってろと言い残して机へと向かった。
教科書を手に三橋を待たせている戸口を振り返ると、三橋は珍しく満面に笑みを浮かべて、阿部の動作を見守っている。
いつもなら、こうして頼ってもらえるだけで、嬉しくてたまらないのに。
笑顔を向けられただけで、幸せでたまらなくなるのに。
なんでオレは今、むなしくて仕方がないんだろうと、阿部はぼんやり考えていた。
そんなわけで放課後を迎える頃には、阿部はすっかり不貞腐れてしまっていた。
どうせ三橋にとってオレは、その程度の存在でしかないんですよ。
おめでとうを言ってもらうだなんて、大それた望みを抱いたオレが馬鹿でしたよと、ずいぶん投げ遣りにもなっていた。
それでもやっぱり三橋が好きなんだけど、三橋にとっては迷惑でしかないんだろうなぁなんて、けなげなことも考えていた。
ようするに、阿部の心は大分弱っていたのである。
だから、だろうか。
ちょうどその隙をつくようにして、部活の前にちょっとだけいい? と声をかけてきたクラスメイトに、気がつけば阿部は「別にいいけど」と返事をしていた。
途端に顔をほころばせる名前くらいしか知らないその女の子に、阿部はちょっとだけ、罪悪感を覚えた。
というのも、用件は聞くまでもなく想像がついたからだ。
俯きがちの面をほんのりと赤く染めたクラスメイトは、後ろで組んだ手に紙袋をぶら下げている。
そこから覗く可愛らしい包装紙は、間違いなく阿部への誕生日プレゼントだろう。
だが阿部が欲しているのは、彼女からのプレゼントでも、祝いの言葉でも、好意でもなかった。
にも関わらず応じてしまったのは、ひとえに阿部が気弱になっていたからに他ならない。
叶わぬ恋に、願望に、阿部はもう疲れ果てていたのだ。
先を歩く女の子の背中をぼんやり眺めながら、この子を好きになれたら、オレにも薔薇色の未来がやってくるのかなぁなんて、失礼極まりないことを考えてしまうほどだった。
「阿部、君……?」
けれども、そのほうが楽だからといって、人の気持ちがそうそう変わるものでもない。
放課後の喧騒にまみれた廊下にあって、ぽつりと発せられたその声を、阿部が聞き逃すことはなかった。
ちょうど教室を出たところだった。
弾かれたようにして振り返った阿部の視線の先には、三橋の姿があった。
三橋は阿部とクラスメイトの姿を、順繰りに何度も何度も見つめているようだった。
それから一瞬ののちに、ぱっと顔を赤らめた。
と思ったら、今度は真っ青になった。
「阿部君? どうしたの?」
不意に足を止めた阿部を訝しく思ったのだろう、クラスメイトが呼びかけてくる。
それにちょっと待っててと答えてから、阿部は三橋に向き直った。
「三橋、どうした?」
だが問いかけてから、とあることに思い至った。
三橋はきっと、古典の教科書を返しにきたに違いない。
別に部活のときでいいのに、こういうことに関して三橋は、意外と律儀だった。
けれども阿部はあからさまに人と連れ立って、どこかへ行こうとしていた。
呼び止めてよかったものかどうか、量りかねているのだろう。
「教科書ならあとでいいよ。オレちょっと用があるから、少し遅れるかも……」
「……」
そんな憶測から、阿部は三橋に言葉をかけたのだったが、三橋の耳には全く入っていないようだった。
唐突に俯くと、なにごとかを呟いている。
だがあまりにも小さな声だったので、阿部の元には届かなかった。
「三橋? なに?」
その様子にどこか尋常でないものを感じた阿部は、一歩、三橋に近付いた。
すると三橋は、勢いよく顔を上げた。
今にもこぼれ落ちんばかりの涙をためた瞳が、ひたと阿部に向けられる。
阿部は思わず息を飲んだ。
「……い、やだ……」
三橋は苦渋に満ちた声を絞り出すようにして、そう言った。
途端に両の目から涙が溢れ出す。
瞬間、三橋が驚いたような表情を浮かべたのは、自分が泣いていることにようやく気がついたからだろうか。
しかしすぐに顔を歪めると、一歩、二歩と後ずさりつつきびすを返し、一目散に走り去ってしまった。
三橋の言動の一切を理解しかねた阿部は、しばし呆然と遠ざかっていく三橋の背中を眺めていた。
だがその姿が階段に消えたところで、我に返った。
同じく呆然とした面持ちで三橋の所作を眺めていたに違いないクラスメイトに、ごめんっ、と残して走り出す。
背後で彼女がなにごとか言っていたように思うが、立ち止まるつもりはなかった。
阿部の頭は三橋のことでいっぱいで、他事なぞ微塵も考えられる余裕はなかったからだ。
やっぱり阿部の一番は三橋でしかなくて、それは野球に限ったことではなくて。
たとえ三橋がどう思っていようとも、変わることなどないのだと阿部は改めて思い知ったのである。
階段に辿り着いた阿部は、三橋のあとを追って上へと向かった。
この先は、屋上へと続いている。
けれども安全面から、放課後には屋上へと出られるドアは鍵がかけられているはずだった。
もちろんあの三橋のことだから、なんの考えもなく、ただ足の赴くままに階段を駆け上がったに違いない。
はたして三橋は、屋上のドアの前でうずくまり、膝を抱えて小さくなっていた。
その背中がわずかに震えたのは、阿部の足音を聞きつけたからだろうか。
階段を駆け上がったせいで少々乱れた息を整えつつ、阿部は静かに口を開いた。
「……三橋」
今度ははっきりと、三橋の身体がわなないた。
けれども、返事をする様子はなかった。
阿部はひそかにため息をつくと、三橋を驚かせたりしないよう慎重に、ゆっくりと足を進めて、彼の傍らに立った。
そこで初めて、三橋がスポーツ店のロゴ入りビニールバッグを右手にしっかりと握り締めているのに気がついた。
わざわざこんなものに入れて、教科書を返しに来たんだろうか。
だが教科書にしては、ずいぶんと厚みがある。
「……ご、ごめ、なさ……」
そのとき、三橋が涙に濡れた声で言った。
阿部は意識をビニールバッグから三橋へ戻すと、できるだけ穏やかな口調を心がけつつ、口を開いた。
「なに謝ってんの?」
「だって……」
「うん」
「オ、オレ……邪魔し、ちゃって」
「別に、邪魔されたとは思ってないけど」
「でも、あの、子」
「ああ」
「阿部君のこと、好き、なんだ、よね」
「は?」
珍しく敏い三橋に、阿部は状況も忘れて素で驚いてしまった。
まさかあれだけのことで、どこか抜けている三橋に事情を悟られるとは、思ってもみなかったからだ。
けれども、本当の衝撃発言は、この直後になされたのだった。
「一緒、だから、すぐ、分かった」
「――へ?」
なにが――? とは口にできなかった。
まさか、という思いと、もしかして、という思いがないまぜになって、阿部の中で渦巻いていた。
だがこれまでのできごとが、まさか、という思いのほうを強くしていた。
勝手に期待をして、ぬか喜びに終わるのはもうごめんだった。
そんな阿部の胸中を知る由もない三橋は、いつになく饒舌に、言葉を紡いでいく。
「それなのに、オレ、邪魔、しちゃって」
「……」
「邪魔、したくて」
「……」
「オ、オレ……すごい、やなヤツだ」
「……」
「ごめん、なさい」
「……三橋」
「オレの勝手で、邪魔しちゃって、ごめんなさい……」
「三橋っ」
嗚咽混じりに語られる内容に、阿部はそう叫ぶと三橋の傍らに膝をついた。
両足を抱えている三橋の左手を取ると引っ張り、強引に顔を上げさせる。
涙にまみれたその顔は、綺麗だとか可愛いだとかの形容詞とは程遠かったけれども、阿部にとってはとても愛しく思えた。
「ねぇ、なんで?」
「え……?」
「なんで邪魔したかったんだよ?」
「それは……」
阿部の問いかけに、三橋は途端に言いよどんだ。
困ったような面持ちで、ふと目を伏せてしまう。
「言ったら阿部君の、迷惑、に……」
「ならねぇよ」
「絶対、なる」
「ならねぇって」
「なる、よ……」
そう呟くと三橋は、また顔を膝頭に埋めてしまった。
阿部が手を離してやると、両腕でごしごしと面を拭い始めた。
そんなに強くこすったら目に悪いだろとか、こんな冷えた廊下にいつまでも座っていたら身体に悪いだろとか、言いたいことは多々あったけれども、阿部はひとつ吐息をもらしてからただ一言、こう言った。
「――好きだ」
途端に、三橋の動作の一切がぴたりと止まった。
阿部は少し考えてから、三星のときとは意味が違うからな、と付け加えた。
すると三橋はゆっくりと、本当にゆっくりと、顔を上げた。
驚きのあまり涙も引っ込んだのか、大きく見開かれた赤い目は、わずかに潤んでいるばかりだった。
その唇が嘘、という形に動くのを見て、阿部はかぶりを振った。
「嘘じゃねーよ」
「う、そだ。だって阿部君が、オレなんか……」
好きになるわけがない――。
三橋は口の中でもごもごと、そう言ったようだった。
どこまでも卑屈な三橋に、阿部はしばし思案してから口を開いた。
「おまえこそ、オレにこんなこと言われて迷惑なんだろ? だから嘘だってことにしたいんじゃねーの?」
「ちっ、がう!」
そしたらものすごい勢いで否定された。
阿部が口を閉ざして首を傾げると、三橋はせっかく引っ込んだ涙をまたしてもぼたぼたと滴らせながら、切々と訴え始めた。
「オレ、オレは本当に、阿部君が好きで、でもこんなこと言ったら、迷惑だろうって思って、野球も一緒にできなくなったら、絶対にいやで――。だから黙ってようって、阿部君に嫌われるくらいなら、なんでも我慢しよう、って、思って、たのに」
「うん」
「でも、やっぱり、阿部君を誰かに取られるのは、いやで」
「そっか」
「ごめん、なさい……」
「オレもごめんな、三橋」
「……なんで阿部君が、謝るん、だよ?」
「ごめんな、三橋……」
阿部はもう一度そう言うと、訝しげなまなざしを向けてくる三橋の身体に両手を回して、自分の胸に引き寄せた。
三橋は一瞬身体を強張らせたけれども、すぐにその身を委ねてきた。
手に入れられるとは思ってもみなかった存在のぬくもりに、阿部は涙腺がゆるむのを覚えた。
結局二人は、世間一般でいうところの普通じゃない恋にひどく怯えて、互いのことにまで気が回らなくなっていたのだった。
つき合わせてみれば、こんなにも同じ想いを抱えていたにも関わらずだ。
それがなんだかずいぶんと滑稽に思えて、阿部は少しだけ、笑った。
「あの、これ……プレゼントです。お誕生日、おめでとう」
「おお、サンキュ」
おずおずと差し出されたスポーツ店のロゴ入りビニールバッグを、阿部は笑顔で受け取った。
「開けていい?」
「う、うん」
「……おおタオルじゃん。ありがとな、三橋」
「オ、オレも、おそろい」
「――そうなの?」
「ひっ、だ、駄目、だったら……」
「駄目なわけねぇだろ。いいじゃんおそろいで」
「ほ、ほんと、に?」
「ほんとほんと。で、さぁ」
うひ、と笑んだ三橋に、阿部は意を決して今日一日気になっていたことを口にしてみた。
「なんで今なわけ?」
「へ?」
「プレゼント、朝も昼も休み時間も会ったのに、なんで放課後だったわけ?」
「そ、れは……」
阿部は息を飲むと、三橋の言葉を待った。
もちろん結果よければ全てよし。
万事オールオッケーなわけだけれども、半日に亘ってやきもきさせられた理由は是非とも知っておきたいと、阿部は考えていた。
「阿部君、だけだから」
「え?」
「オレ、オレ……誕生日お祝いしてもらったのに、誰にもプレゼントとかあげてなくて」
「みんなそうだろ」
「う、でも……阿部君は、オレの、特別だから……どうしても……あげたくて……」
段々と小さくなっていく三橋の声に、阿部は続きを引き取った。
「オレだけにだから、みんなの前では渡しづらかったってか」
顔を真っ赤に染めてこくりと頷く三橋が可愛くてたまらなくて、阿部はその身体をぎゅっと抱き締めると耳元で嬉しいよ、と囁いたのだった。
そんなこんなで部活に大幅に遅刻した二人が、モモカンに握られるのはまだもう少し先のことである。
終
阿部君2007年のお誕生日おめでとう!!!
20080114
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