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ドアを開け閉てする音に振り返ったらしい阿部君は、戸口にオレの姿を認めるとあからさまにしまったって顔をした。
手に持っていた物を、慌てて背中に隠している。
でもオレはそれがなんなのか、ばっちりと見てしまった。
見るからに高そうな包装紙に包まれた、平たい箱。
いくらオレが馬鹿でも、それがなんなのかすぐに分かった。
だって今日は、バレンタインだから。


「……見た?」
「……」


ひどく気まずそうな阿部君の声に、オレはこっくり頷くと、そのまま俯いた。
阿部君の顔が見ていられなくて、オレの顔も見て欲しくなくて、ぎゅっと目を閉じる。
途端に瞼がじんわりと熱くなってきた。


こんなこと思うなんて、オレってすごいいやなヤツだ。
分かっているのに、胸の奥のほうからもやもやと湧き出てくる感情をどうしても消すことができない。
どころか、刻一刻と膨れ上がっていく。


阿部君はオレのなのに。
阿部君はオレのなのに。
阿部君はオレのなのに。


どうしてオレ以外の誰かから、チョコレートを受け取ってるの? 
どうして見知らぬ誰かは、阿部君にチョコレートをあげているの? 


阿部君は、オレの、なのに。


……こんなこと考えてるなんて阿部君に知られちゃったら、きっとすごく呆れられるだろう。
せっかくオレなんかがいいって言ってくれたのに、やっぱりやだって、なっちゃうかもしれない。


そもそも、阿部君が誰からなにをもらおうと阿部君の自由だし、見知らぬ誰かが阿部君のことを好きでも、それはその人の自由だ。
そんなこと、オレだって一応分かっている。
でも気持ちの部分で、どうしてもいやだって、思っちゃう。
オレだって、たとえば阿部君に他に好きな人がいても、こっそり好きでいさせて欲しいって思うくせに、他の人のことだけは許せないだなんて……。
オレって本当に最低の人間だ。


早く、早く顔を上げて笑わないといけない。
いつまでも俯いてたら、阿部君が変に思うだろ。
顔を上げて、にっこり笑って、阿部君それもらったの? って、なんにも気にしてないみたいに言わなければならない。


でも胸中の焦燥とは裏腹に、オレの身体は錆びついちゃったみたいに、全然動いてくれなかった。
なのに涙だけはどんどんこみ上げてきちゃって。
目を閉じてはいるけど俯いている所為で、今にもこぼれ落ちそうになってしまう。
オレは阿部君にばれないように、一生懸命堪えてた。


「あー……じゃあ、仕方ねっか……」


そのとき、今までずっと黙っていた阿部君が独り言みたいにぽつりと呟いた。
オレの方に近づいてきてるのが、畳を踏む音で分かる。
次いで目の前が、ふっと暗くなった。
それでオレは、目を閉じたままだったけど、阿部君がすぐ前に立っているんだってことを知った。


「三橋?」


阿部君の、訝しげな声。


ほら、早くしないと。


早く頭を上げて、なんでもない顔をして返事をしないと、阿部君がおかしいって、思っちゃう。


でもオレの身体はやっぱりいうことを聞いてくれなくて、仕方なくオレは、黙ったままじっと俯いていた。


「おまえ……またなんかろくでもないこと考えてるだろ?」


そしたら阿部君が、まるでオレの心を読んだみたいなことを口にして。
びっくりしたオレは思わず顔を上げてしまった。
弾みで、ずっと我慢していた涙がぼろぼろっとこぼれ落ちる。
あっと思ったオレは慌てて両腕で拭おうとしたんだけど、もう遅かったみたいだった。


阿部君は、瞬間、ぎょっとしたような顔をした。
それからすぐに真顔になった。
オレは必死で涙を拭いながら、そんな阿部君の様子を腕の隙間からちらちらと覗き見ていた。


しばらくの間じっと黙っていた阿部君は、不意に目を伏せるとはあって大きなため息をついた。
オレは自分の身体が、大袈裟なくらいに震えるのを覚えた。
あっという間に絶望的な心持ちになって、一生懸命止めようと努力していた涙が、またしてもだらだらと溢れ出してしまう。
きっと、もう、絶対、呆れられちゃったに違いない。
高校生にもなって、すぐに泣くオレを、鬱陶しく思っているに違いない。
それでオレなんかより、チョコレートをくれた女の子のほうがいいやって、思っているのかもしれない。


……ううん。
考えてみれば、オレなんかのこと、阿部君みたいに勉強もできて野球もできてかっこいい人が、いつまでも好きでいてくれるわけがない。
いくら短い間とはいえ、オレなんかのこと好きだって言ってくれてこと自体が、奇跡みたいなもんなんだから。


阿部君が別れたいって言うなら、オレはうんって言おう。
今までありがとうございましたって言って、お別れしよう。
でもおしまいになっちゃうのは、恋人としてだけだ。
バッテリーとしての関係さえ残ってくれれば、オレはなんとか耐えられる。
だってマウンドにさえ登れば、阿部君はオレだけの阿部君になるんだから。
ピッチャーを降ろされたりしないよう、一生懸命頑張ればいい。


「……まあいい加減、慣れたけどさ」


オレが必死になってこれから起こりうる様々なことを考えていたら、またしても阿部君が独り言みたいにぽつりと呟いた。
その言葉に気を取られたオレが腕の隙間から阿部君を窺うと、阿部君はやっぱり呆れたような表情で、オレをじっと見ていた。
けど。
口元にはうっすらと笑みが浮かんでいる。


阿部君の微笑の意味が分からなくて、オレが呆然としていると、阿部君は不意にオレのほうへ手を差し伸べてきた。
そうして目の間に突きつけられたものに、オレはぎょっとして息を飲む。


それは先刻阿部君が隠した、チョコレートの箱だった。


オレはもう本当にわけが分からなくて、何度も何度もチョコレートの箱と、阿部君の顔を見比べた。
そんなオレを、阿部君は相変わらずじっと見ている。
と思ったら、急に顔をそむけたかと思うと、ぷっと吹き出した。


「おまえ本当に分かってないのな」
「……え?」


分かってないって、なにがだろう? 
オレはオレなりに現状を理解して、きちんと覚悟を決めているつもりなのに。


そう思ったら途端に悲しくなってしまって、またしても涙がこみ上げてくるのを覚える。
なんとか堪えようと頑張ってみたんだけど、でも上手くいかなくて、変な嗚咽がもれてしまった。
慌てて口を塞いだけど、目の前に立っている阿部君を誤魔化せるはずもなかった。


阿部君は空いた手を前髪にやると、わしわしとかき回した。
それから大きなため息をついた。
オレがびくりと身体を震わせると、ああもうっ、と吐き捨てるように言って、差し出したままのチョコレートの箱を揺すった。


「おまえに、だよ」
「へ?」
「だからおまえにだって言ってんの!」


いい加減察しろよホントどんくさいなおまえは、って続けられた言葉はひどく乱暴な口振りで、オレはいつもみたいに思わずびびってしまった、んだ、けど。


「ちょっ……、なんで泣くんだよおまえはっ!」


阿部君の言っている意味を理解した途端、オレはうええっと情けない声を上げながら、ぼろぼろと涙をこぼし初めてしまった。
だってだってだって。
まさか阿部君が。オレなんかに。


「……もしかして、いらねぇとか? 男からチョコもらうのなんて、あんま嬉しくないか?」


そしたら阿部君が、全然見当違いなことを言い出したので、オレはびっくりしてぶんぶんと首を横に振った。
あんまり勢いよく振りすぎた所為でちょっと頭がくらくらしたくらいだった。


「――ならなんで泣くんだよ」
「……うっ、ひぐっ、だっ、だっ、げほっ」


なんでか勘違いしている阿部君にオレは自分の気持ちを伝えようとしたんだけど、泣きながらでは無理があったみたいで結局盛大にむせてしまっただけだった。


上手く息のできない苦しさから、胸に手をあてたオレが前屈みになると、不意に目の前の気配が動いて、阿部君がオレの隣に来てくれた。
大きな手のひらが背にあてられたかと思うと、ゆっくりと上下に動き始める。
その手の優しさに癒されたかのように、オレの咳は次第に治まっていった。


はふはふと忙しない呼気を繰り返しながら見上げれば、心配そうな面持ちでオレを覗き込んでいる阿部君と目が合う。
小首を傾げて、落ち着いたか? って言われるのに、オレはこくこくと頷いて返事としてから、ようやく整った呼気に言葉をのせた。


「オ、オレ……嬉し……くて……」
「……おまっ」
「あ、ありが、とお」


どうしてだかぐっと言葉に詰まったみたいな阿部君に、オレが必死で言葉を継ぐと、阿部君は唐突に俯いてしまった。
と思ったら、急にオレの身体が前に傾いだ。
驚いたオレがぎゅっと目を瞑るのと同時に、温かいなにかにぶつかる。
先刻までの状況を考えれば、それは阿部君の身体以外にほかならなくて。
ぱっと目を開いてみれば、視界の片隅に阿部君の黒髪がちらちらと揺れていた。


阿部君は、両腕をオレの腰にまわして、力一杯抱き締めてくれている。
背中に感じる違和感は、きっと阿部君が手にしたままのチョコレートの箱だと思われた。
そんなふうにしたら、折角のラッピングがぐちゃぐちゃになっちゃうんじゃないかなって心配になったけど、でもオレは阿部君にぎゅってしてもらえるのが嬉しくて、バレンタインの今日にチョコレートをもらえるのももちろん嬉しいけど、ぎゅってされるのがもっとずっと嬉しくて。
黙ってされるがままになっていた。


「……おまえって、ホント馬鹿……」


そしたら阿部君が、不意にそんなことを囁いた。
その言葉の小ささから、もしかしてオレに聞かせるつもりはなかったのかなって思ったけど、でも残念ながらこれでもかってくらいくっついているから聞こえてしまった。
それでその通りだなって思ったから、こう答えた。


「うん、オレって、ホントすごい馬鹿だ」


途端に阿部君はくつくつと笑い出して。
つられたオレもうへへって笑みをこぼした。


多分阿部君は、オレがなにを考えてたのかなんてお見通しなんだろうと思う。


ホントにホントに、馬鹿なオレでごめんね。


自分に自信がないばかりに、阿部君のこと疑うような真似してごめんね。


でも阿部君がこうやってオレに優しくしてくれるたびに、オレはちょっとずつだけど、自分のことが好きになってくみたいなんだ。


そしたらいつか、阿部君が望んでいるようなオレに、なれるかもしれない。


ううん、なれるように頑張らなきゃいけない。


だから阿部君。


もうちょっとだけ、待っていてください。









季節感なぞ知ったこっちゃない!!!
20080325



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