馳せる
「阿部君は、いい人だってさ」
「はあ?」
「よかったなー、阿部」
満面に笑みを浮かべた田島にばしりと背中を叩れて、オレは思わず顔を歪めた。
てめーいきなりなにしやがると怒鳴りかける。
しかしオレをどついたあと、ぱっと駆け出していた田島はすでにずいぶん先を行っていて。
仕方なくオレは、苦々しい思いのままごくりと文句を飲み込んだ。
行き場を失った苛立ちを、グラウンドから部室へと向かう足取りに込めて歩き続ける。
きっと、すげー不機嫌な顔をしているに違いない。
天才となんとかは紙一重だっていうけど、ホントなんだなと確信する。
なにがいい人だわけわかんねぇ。
それとも新手の嫌がらせなのかそうなのか?
理解不能な言葉でオレを混乱の渦に突き落とした当の紙一重野郎は、練習後だっていうのに元気なもんで、あっという間に先を歩いていた連中に追いつくと、どこかおぼつかない足取りでのろのろと歩いていた三橋に跳びついている。
田島の勢いに負けたのか、それとも突然のことに驚いたのか、三橋の身体がぐらりと揺らいだ。
それでオレは、危うくあっと声を上げてしまうところだった。
練習後のおふざけで、怪我でもしたらどうするんだあの馬鹿。
けれどもニ、三歩よろめいただけで、三橋はなんとか体勢を立て直したようだった。
オレはほっと安堵の吐息をもらす。
いくら華奢で危なっかしげに見えても、さすがにその程度でひっくり返るほどやわじゃないってことか。
そういえば中学では、マウンド譲らなかったって言ってたっけ。
本当にひとりで投げとおしていたんだとしたら、外見に似合わず基礎体力はあるのかもしれない。
アイツのいじいじおどおどした性格のせいで、そんなふうには見えないけど。
でもだからといって、危ないことをしていいってわけじゃあ、ない。
あとで田島に、むやみに三橋に跳びつくなってよーく言い聞かせねぇと。
それでなくても三橋は、なんつーかぼんやりしていて、なにもなくても勝手に怪我しそうなんだからな。
その上チームメイトが危険を増やして、どうするんだってーの。
そんなオレの胸中を知る由もない田島は、三橋の肩を抱いて、なにやら言葉をかけているようだった。
途端に三橋がきょどり始める。
背を向けてるから、表情は分からない。
一体なにを言いやがったんだ田島のヤツ。きっと、ろくでもないことなんだろうけど。
むやみに動揺なんかさせるなよな。
また大泣きされたらどうするんだ。
そのときオレの視線に気がついたのか、不意に田島が顔を上げた。
オレと視線が合うと、にやーっと感じの悪い笑みを浮かべてみせる。
でもむっとしたオレが口を開くより早く、また三橋の方を向いてしまった。
耳元に口を寄せて、なにごとか囁いている。
と思った瞬間、三橋が勢いよく後ろを振り返った。
当然のことながら田島をにらみつけていたオレと、目が合う。
途端に三橋の顔が――。
真っ赤に染まった。
それから、振り返ったときと同様、勢いよく視線をそらされた。
田島に抱きつかれながらも、なんとか動かしていた足をぴたりと止めてしまう。
三橋の突然の所作に、田島がおっと声を上げた。
首に回していた腕を、ぱっと離す。
すると三橋は脱兎のごとく駆け出した。
そりゃもう、たった二日間で目にしてきたどんくささが嘘のような、機敏な走りだった。
オレはもちろん、田島も、その周りにいた連中も、思わず立ち止まってあっという間に小さくなった三橋の背中を、呆然と眺めてしまったくらいだ。
「ありゃー、逃げられたー」
そんなオレらを我に返らせたのは、どこまでも呑気な田島の言葉だった。
田島は頭の後ろで手を組んで、三橋の姿が消えた校舎の角を見ている、らしい。
後姿だからよく分からないけど、多分そうだ。オレは足早に田島のところへと向かうと、疑問を口の端にのせる。
「おまえ、なに言ったの?」
「へ? なにって?」
「三橋に、なに言ったんだっつってるの」
理解の遅い田島に、つい苛立った口調になってしまった。
田島は一瞬、むっとしたような表情を浮かべた。
けれどもその面は、すぐに感じの悪い笑みにとって変わられた。
なんだか、さっきもこんな顔を見たような気がする。
田島はにやにやとむかつく笑みをたたえたまま、口を開いた。
「阿部に教えといてやったよーって」
「はあ?」
人に伝わるように話しやがれこの野郎。
――というオレの心の叫びが伝わったのかどうかは知らないが、田島はすぐさま言葉を継いだ。
「三橋がさ。阿部君は、いい人、だ! なんて感激してたからさ。さっきおまえに教えてやっただろー? それを三橋に言ったの」
「……それで?」
「したら逃げられちった。恥ずかしかったのかなーあいつ」
「……意味分かんないんだけど?」
「なんで?」
きょとんとした表情で、田島はオレを見上げている。
なんでもくそも、出だしからわけが分かんないだろうが。
オレが、いい人?
飯の前にあんだけ号泣しといて、いい人?
一体どの口がそんなこと言ったんだ?
「投手に好かれてよかったじゃん」
いやそういう問題じゃなくて。
満面の笑みを浮かべて言う田島に、オレは得体の知れないものを見るような目を向けてしまった。
この話の通じなさは一体全体なんなんだろう。
コイツにしろ三橋にしろ、人として最低限の能力を、野球に取られているような気がしてならない。
その上での天才バッターに、奇跡の九分割なんだろうか。
チームメイトは大変だな……ってオレたちじゃねぇか!
瞬間、これから起こりうるであろう苦労の数々が、脳裏をよぎった。
オレは思わず、大きなため息をついてしまう。
だがすぐにいやいやいやとかぶりを振った。
たとえ人としてどんなに問題があろうとも、三橋は首を振らない理想の投手だ。
マウンドでオレに従ってくれさえすれば、あとはどうでもいいじゃねぇか。
田島にしたってそうだ。
バッターとしての才能は飛びぬけてるなんでもんじゃないんだから、他のことには目を瞑るべきだろう。
そうやって無理矢理気を取り直したオレは、知らず俯けていた顔を勢いよく上げた。
するとこっちを見ていたらしい泉と目が合った。
田島はとっくに先を歩いている。
他の連中もぞろぞろと部室に向かっている。
そんな中で、オレと泉だけがぼんやりと――傍から見ればそうとしか思えなかっただろう――立ち尽くしていた。
「……なに?」
首を傾げるオレに、泉はなぜか呆れたような面持ちで肩を竦めた。
おいちょっとむかつくぞその態度。
「三橋ってさあ」
「……」
だが泉の口から発せられた名前に、オレは黙り込んだ。
そういえばコイツは三橋と田島と同じクラスだったけ。
このタイミングで話しかけてきたんだ、きっとなにか知ってるんだろう。
「家族以外と一緒に飯食うの、中一の夏ぶりなんだって」
「はあ?」
「あいつ、三星で嫌われてたって言ってたじゃん」
「はあ……」
そりゃ思った以上の嫌われっぷりだったんだな。
そいで部活での関係にひどく萎縮してしまった三橋は、多分クラスでも友達をつくれなかったんだろう。
なんかあまりにも簡単に想像がついて、オレは乾いた笑みを浮かべてしまった。
で、それがどうしたって?
「おまえ、部室で一人で飯食おうとしてた三橋を、つれてきただろう?」
「ああ……」
そういうことかと、オレはようやく納得した。
みんなで飯食うなんて、あんまり当たり前のことだから、全然思い至らなかった。
そっか、三橋はどんくさいから部室でのろのろしてたわけじゃなかったんだ。
自分なんかがみんなと飯食えるわけがないって、思い込んでたんだ。
でも、それってさ。
ちょっとオレたちに失礼じゃね?
あいつが三星でどんな仕打ちされてたのかは知らないけど、オレらまでそいつらと同列扱いかよ。
ガキじゃあるまいし、チームメイトをハブったりなんかしないっての。
……なんかむかむかしてきたぞ。
「そ。だから阿部は、いい人なんだと」
「ふーん……」
「あんま三橋いじめてやんなよ、おまえ気ぃ短そうだからな」
「うっせ」
オレの胸中を知る由もない泉の言葉に、オレは適当に返事をするとさっさと歩き出した。
泉もすぐあとをついてきているようだった。
辺りに野球部員の姿は見当たらない。
とうに部室に辿り着いている頃だろう。
早いやつは、着替えも済ませているかもしれない。
でも三橋はどんくさいから、まだのたのたと着替えに手間取っているんだろうな。
涙目になりながら、シャツのぼたんと格闘している三橋が脳裏をよぎって、オレは自分の想像力の豊かさに再び乾いた笑みを浮かべた。
高校生の、しかも男が、だ。
あんなにもびくびくおどおどいじいじした性格になるまでには、一体どんなにひどいいじめがあったんだろう。
もちろん、元来の性分も多少はあるんだろうけどさ。
「……なあ」
「なに?」
オレの突然の呼びかけに、泉がきょとんとしたような声で答える。
「も少ししたら午後授業、始まるだろ」
「そだな。それがどうした?」
「……クラスで飯食うときさ……」
「ああ」
思わず言いよどんでしまったオレの言葉を、泉は汲み取ってくれたようだった。
なんとなく恥ずかしくて、最後まで口にできなかったオレはほっと安堵の吐息をもらす。
だが泉に思い切り背中を叩かれて、すぐに息を飲む羽目に陥った。
「――っずみ、てめえなにしやがる」
「阿部はいいやつだなー」
泉はオレがにらんでいるのもどこ吹く風といった調子で、にやにやと笑いながらオレを追い越して行ってしまった。
しばらく走ってから不意に振り返って、早くしろよーなんて言っている。
オレは思わず舌打ちした。
だってオレは捕手だから、投手の面倒をみるのは当然だろ。
別にいいやつなんかじゃねぇよ。
むしろオレは、オレの野球をやるために、三橋を利用しようとしてるんだ。
あいつに利用価値がある限りは、見捨てたりしねぇだけで――。
って、オレはなにを必死になって言い訳してるんだ?
あほらしい。
オレは勢いよくかぶりを振ると、泉のあとを追って走り出した。
部室に着く前に、三橋に余計なこと吹き込むんじゃねーぞと念を押すために。
終
西浦ーぜはいい子ばっかだよね!
20071017
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