もう随分と暗くなった通学路を、亘と美鶴は二人並んで歩いていた。沈みかけた太陽の投げかける黄昏時の日差しが、二人の影を長く長く、路地に映し出している。辺りに人影はなく、住宅街の中にあって、何故か物悲しい雰囲気が漂っていた。
黄昏
委員会の集まりがある。
帰りのホームルームを終えて、教室を飛び出して、ちょうど行き会ったアヤと手を繋いで、美鶴お兄ちゃん帰りましょ、と全開の笑顔で呼びかけた亘に、美鶴はそう言ったのだった。
えー、と不満を露にした声を出せば、仕方がないだろ、とあっさり切り捨てられる。じゃあ美鶴の唯一の弱点であるところのアヤに縋ろうと―――どんなに情けなくたって、これが一番効果的なのだ―――亘が彼女の手をちょっと引き、口を開きかけた時、当のアヤはにっこり微笑むと、こう言った。
「じゃあアヤ、今日はお友達と帰るね。遊びに行く約束してるし」
そして亘の手を離すと、お兄ちゃんも亘お兄ちゃんもばいばーい、と手を振って、風のように去って行ってしまったのだ。きっと、そのお友達を追いかける為なのだろう。
後に残された年長者二人は、暫し無言のまま、アヤの走り去った廊下を眺めていた。どやどやと、方方の教室から溢れ出してくる生徒達で、廊下はごった返している。
そんな喧騒の中、美鶴は亘に冷たい一瞥をくれた。
「アヤはあんなに聞き分けがいいのに……」
はあ、と大きなため息付きである。流石に亘も恥ずかしくなって、じっと俯くと、もじもじと身動ぎした。でも亘にだって言い分はある。だってアヤは家に帰れば、ずっと、ずっと美鶴と一緒にいられるのだ。ちょっと帰りが別になったって、大して気にもならないだろう。
けれども亘にとって、クラスの違う美鶴と一緒にいられるのは、学校の行き帰りと放課後だけである。そのうちのふたつを取り上げられてしまっては、もう殆ど一緒にいられる時間など、ないに等しい。そりゃ悲しくなったって仕方がないだろう、少々の駄々をこねたくもなるというものだ。
しかし亘は賢明にも、口を閉ざしたままでいた。こんな事言っても、美鶴に馬鹿にされるだけだと、これまでの経験から嫌という程学んできた成果である。美鶴が執着するのはアヤにだけ。亘なんてどうでもいいのだ。分かっているし、それも仕方ない事だと思うけれども、やっぱりこんな時はちょっと寂しい。
亘もはあ、と大きなため息を吐くと、じゃあ帰るねと元気のない声で言い、踵を返した。背中を丸めて、とぼとぼと昇降口へと向かって歩き出した時、背後で美鶴がぽつりと言った。
「待ってても、いいけど」
亘はぴたりと足を止めた。ゆっくり振り返ると、美鶴はそっぽを向きながら、別に無理にとは言わないけど、と続ける。その頬はちょっぴり赤くなっていて。亘は満面に笑みを浮かべて頷いたのだった。
「随分、遅くなっちゃったね」
亘が何気なく呟くと、美鶴は刺々しい声で答えた。
「そう思うんなら、先に帰ればよかったのに」
「や、そういう事じゃなくってさ」
亘は両手をぱたぱたと振って、慌てて弁明する。
「委員長は大変だなぁと思ってさ」
「……別に」
「大変だよ、委員会が終わった後も先生の手伝いするなんてさ」
美鶴はえらいよね、と亘が顔を覗き込めば、ふいと横を向いてしまう。けれども、そういった仕草が、逆に美鶴が照れているだけなのだと亘に教えてくれる。美鶴はいつか、その事実に気がつくだろうか。
亘はえへへ、と笑うと、前方を見据えた。行く先の路地に、二人の影が長く長く伸びている。亘と美鶴の歩みに合わせてゆらゆら揺れる影を暫し眺めてから、亘は今一度口を開いた。
「いつもは真ん中にアヤちゃんがいるのにね」
そう言って隣を見やれば、美鶴も亘と同じように二人の影をじっと見つめているようだった。
「そうだな」
少しの間を置いて、美鶴が答える。こうして取りとめのない話をするのが、美鶴とだととても楽しい。亘はいつまでもこうして二人、話をしていたいなぁなんて思いながら、先を続けた。
「なんだかちょっと、寂しくない?」
「……なんで?」
ところが、美鶴の虫の居所が、突然悪くなってしまったようなのだ。美鶴はぴたりと足を止めると、不機嫌を露にした声で言った。先刻まで、いい感じで話をしていたのに。訳が分からないまま亘も美鶴に倣って足を止めた。首を傾げて美鶴?と呼んでみる。美鶴は暫くの間じっと前をにらみつけていたが、ふん、と顔をそむけた。
「だったら、アヤと帰れば良かったのに」
吐き捨てるようにそう言うと、唐突に歩き出してしまう。亘の事など意に介さず、どんどんと先を行ってしまう。亘も弾かれたように歩き出すと、なんとか美鶴に追いついた。美鶴、と今一度呼びかける。
「違うよ、そんなんじゃなくって」
「……じゃあ、なんだって言うんだ」
「え……っと、それは……」
途端に亘は言葉に詰まってしまった。確かに、なんで亘は先刻寂しいと思ったのだろう。アヤがいないから?―――それは違う。夕暮れ時の、物悲しい雰囲気の所為?―――それも違う気がする。だって隣には、美鶴がいる。美鶴がいれば、それだけで亘は幸せなのに。でも、じゃあ、なんでだろう。
「ほら答えられない」
そんな亘の逡巡を見て取ったのか、美鶴は冷たく言い放つと、更に足を速めた。亘も負けじと足を速める。まるで競争でもしているかのように、二人は薄暗い路地を進んで行く。先導は、長い長い影が務めている。ゆらゆら、ゆらゆら。亘と美鶴の行く先に、漂っている。
その時亘は不意に気がついた。気がついて、咄嗟に隣を行く美鶴の手を取った。驚いたであろう美鶴が立ち止まったので、亘も一緒に足を止める。そしてその手をぎゅっと握り締めると、笑顔でもって言った。
「分かった」
「……何が」
「なんで、寂しいのか」
美鶴がちょっと眉を顰めたのも無視して、亘は続ける。
「美鶴と、手を繋ぎたかったんだ」
「はあ?」
流石の美鶴にも想像出来なかった答えだったのだろう。珍しく素っ頓狂な声を出して、亘を見つめてくる。そんな美鶴に笑顔を向けると、亘はもう一度言った。
「美鶴と、手を繋ぎたかったんだよ」
「……」
とうとう美鶴は黙り込んでしまった。こいつ、なに言ってんだという視線を感じながら、それでも亘は口を開いた。
「ずっと、ずっと、美鶴と手を繋ぎたかったんだ、僕」
やっぱり美鶴は無言のまま。でも亘は全然気にしていなかった。
「アヤちゃんとじゃなくて、美鶴とね」
だから二人並んで歩いているのにと、寂しくなってしまったのだ。
美鶴は随分長い事沈黙を守っていた。それはもう、亘がかなり不安になってしまう程に。そして漸く口を開いた美鶴は、小さな声でこう言った。
「おまえ、ばっかじゃないの」
けれども繋いだ手を振り払われたりはしなくて。亘は笑顔で美鶴に行こう、と言うと、その手をぐいと引っ張って、家路を急いだのだった。
終