しあわせなボク






 二月最後の週末を控えたある日、美鶴が今年も大丈夫? なんて聞いてきたので、ぼくはもちろんと大きく頷いた。小学五年生の春からもうずっとだったから、かれこれ四回目のお誘いである。一人っ子で、いとこもいないぼくにとっては、嬉しいばかりの約束だ。だって、そうでもなければ、きっと、お雛さまにさわる機会なんて、なかっただろうからだ。

 当日は例年通り、アヤちゃんを遊びに行かせてから、二人して作業に取りかかった。納戸にしまってある、雛人形と記された箱を、次々と洋間に運び出し、開封してゆく。ビニール紐でくくられた雛壇を解いて組み立てれば、それだけでもう、ずいぶんお雛さまっぽい雰囲気になった。可愛らしい柄の入った、真っ赤な敷き布を広げれば、後は人形を配置するだけである。

「亘、一番上の人形、用意しといて」
 両手に屏風を抱えた美鶴の指示に、ぼくは緩衝材代わりに箱に詰められている新聞紙を取り出しながら、訂正した。

「お内裏さまと、お雛さまでしょ?」
「そう、それ」

 だが美鶴は、まるで興味がないといった風だった。床に広げた飾りつけ完成図をにらみながら、ぶつぶつと、人形を置いてゆく順番を考えている。毎年のことだけれども、一年に一回だけの作業なんて、そうそう記憶には残らない。それに加えて美鶴は、効率を一番に考えるヒトだ。毎年頭を悩ませては、前年より手早く飾りつけを済ませている。どうやら、時間を短縮することに、達成感のようなものを感じているらしいのだ。

 そんな美鶴の様子に、ぼくは苦笑をもらした。アヤちゃんを喜ばせるために、毎年雛人形の飾りつけに余念のない美鶴。でも、実はちょっとだけ、面倒に思っているのを、ぼくは知っている。だから時間短縮なんていうノルマを、あえて自分に課して、やる気を奮い起こしているんだ。

 前に一度だけ、アヤちゃんと二人で飾ったほうが楽しいんじゃないのって、言ったことがある。別に、手伝うのがいやだとか、そういうわけじゃなくて、純粋な疑問からだった。美鶴が、この世で誰よりも大切に思っているアヤちゃん。彼女のための雛人形なんだから、二人で作業したほうが楽しいに決まってるじゃないか。

 けれども美鶴は、それじゃ駄目なんだと首を横に振ったのだった。どこの家だって、本人が小さいうちは親が代わりに飾ってくれるだろう? だからアヤが、せめて中学生になるまでは、おれが用意してやるんだって言って、どこか寂しそうな笑みを浮かべてみせたのだ。

 ぼくには、世間がそういうものなのかどうかは、よく分からない。でも美鶴の気持ちだけは分かったような気がして、もうなんにも言えなくなってしまったのを覚えている。

 実は、すごく恥ずかしいことだけれども、一時期ぼくは、アヤちゃんに嫉妬を覚えていた。だって、美鶴の世界は、アヤちゃんを中心に回っているからだ。それが、初めて会ったときから、美鶴にこころを持っていかれてしまっていたぼくにはつらかった。とはいっても、そんなことを口にしては、美鶴に嫌われかねない。というより、絶対に嫌われる。だからぼくは、結構長い間、胸の内に巣食ういやらしい感情と戦っていたのだ。理性では、そんな風に思うなんて間違っていると分かっていた。でも感情が、いやだいやだと駄々をこねる。美鶴にぼくを見てもらいたくて、でも嫌われたくないから口に出来なくて、ずいぶん耐え難いときをすごしたものだった。もちろん、今となっては、そんな心地も苦笑と共に思い出せるのだけれども、こうして、二人きりでいるにも関わらず、美鶴の意識がアヤちゃんだけを向いている時は、やっぱり、ほんのちょっとだけ、面白くなかったりする。

「美鶴」
「……ん?」

 呼びかけても、最上段に屏風とぼんぼりをバランスよく配置することに夢中になっている美鶴の返事はつれない。ぼくはため息を吐くと、お雛さまを手に、彼の背後に立った。美鶴に覆い被さるようにして、お雛さまを飾る。中学に入って、美鶴の背を追い越したからこそ、可能な所作だった。

 ぼくが突然背後から手を伸ばした所為だろう。美鶴はとても驚いたようだった。振り返って、咎めるような視線を向けてくる。でもぼくは意に介さず、にっこりと笑みを浮かべると、美鶴の肩に手を置いた。少しだけ手前に引くと、ぼくの意図を察したのか、美鶴の目が剣呑な光を帯び始める。だが言葉を発せられる前に、ぼくは美鶴の口唇を自分のもので塞いでいた。

「……突然なにするんだこの馬鹿……」
 優しく触れ合わせて、軽くついばむだけに留めた口づけを終わらせた途端、ひどく冷たい声で罵倒された。でもいい加減美鶴というヒトが分かってきたぼくには、全然堪えない。お互い雛人形を手にしていないのをいいことに、背後から美鶴の身体にぎゅっと抱きつくと、その耳元に言葉を落とした。

「お手伝いの、お礼。今年もくれるのかなって」
 すると、美鶴の顔がほのかに赤くなった。きっと、昨年のことを思い出したに違いない。そんな美鶴がとても可愛くて堪らなくて、ぼくはほころんでしまう顔をどうしようもなかった。

「……片付けまで、きっちり手伝ったらな」
 小さな、本当に小さな声で囁かれた言葉に、ぼくは了解の意を込めて、美鶴の身体をさらに強く抱き締めたのだった。









むしろお礼の部分を書けばよかった(笑)
たぶん普段してもらえないコトを、してもらうのです。

20070303



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