しあわせなキミに
室内には、新聞やら和紙やらの擦れ合う音が、響いていた。部屋の中央に座り込んだ美鶴が、先刻から一心に、周囲に置かれたダンボール製の箱を開封し、中身を取り出しているからだ。ちょっと席を外した隙に、足の踏み場がひどく限られてしまっている。ぼくは慎重に、慎重に、部屋の中へと足を進めた。
「美鶴、これで最後だった」
「そう、ありがと」
ぼくが声をかけると、ふと顔を上げた美鶴は、その面にふんわりと微笑を浮かべた。幽霊ビルで初めて会ったときから、まるでこの世のものとは思えない、綺麗な顔立ちだと思っていたけれど、こうして笑みなど浮かべたさまは、本当に、女神さまみたいで。ぼくはいつも、なんだか無性にどきどきしてしまう。頬が火照る感覚に、慌てて顔を俯けるのも初めてじゃない。
だが作業に追われる美鶴が、ぼくに目を向けてくれたのは、一瞬のことだった。なんにも気がつかない様子で、手元に目を落とすと、じゃあ箱開けてくれる? なんて言ってる。もちろん、気づかれちゃ困るからそれでいいんだけれども、時折、ちょっとだけ悲しくなる。ぼくはこんなにも美鶴が気になるのに、美鶴はそうじゃないだって、いやというほど分かってしまうからだ。
つまらない嫉妬だって、自分でも思う。そんな風に考えているだなんて、美鶴に知られたら嫌われてしまうかもしれない。だからぼくはじっと我慢する。ぼくのこころはあの夜の、冷たい水面に一滴の水が落ちて、凛と響いたような音と、不意に現れた美鶴の姿に、捕らわれたきりだというのに。
でも、仕方がないんだ。今の美鶴は、ようやく取り戻せた幸せに、夢中なんだから。
ぼくは美鶴に気づかれぬようこっそりため息を吐くと、手にしていた箱を床に置いた。
「どれから開ければいい?」
そう問いかけてみても美鶴は、今度は顔も上げなかった。説明書のような薄っぺらい冊子を懸命ににらみつけながら、どこか上の空な調子で答える。
「適当。どうせ全部開けるんだし」
「分かった……」
美鶴の冷たいあしらいに、気持ちがくじけてしまいそうになるのを必死で堪えて、ぼくは肯いた。その場に腰を下ろすと、早速運んできた箱に手をかける。うわぶたを取り去れば、防虫剤の匂いだろうか、なんともいえぬ香りが鼻をくすぐった。
「あ」
その時、不意に大声を上げられて、ぼくは驚きのあまりびくりと身体を震わせてしまった。なにごとかあったのかと、慌てて美鶴の方を見やる。けれどもやっぱり、美鶴は冊子をにらみつけたままだった。
「なに? どうしたの?」
「雛壇だ。まず雛壇から作らないと……」
ぼくの言葉が耳に入っているのかいないのか、美鶴はまるで独り言のように呟くと、ビニール紐でくくってあった鉄の棒と板の塊へ手を伸ばした。それから、はっとした表情を浮かべると、ようやくぼくの存在に気がついたような面持ちで、ぼくを見た。
「亘、まず雛壇を作って、人形の箱はそれからだ」
「……うん」
ぼくは覇気なく首肯すると、ゆっくり立ち上がり、美鶴の元へと向かった。本当に美鶴は、アヤちゃんが絡むと、周りのことなんかどうでもよくなってしまうらしい。普段は、これでもかっていうくらい、周囲に気を配っているにも関わらずだ。ことぼくに限っては、それが顕著に現れるような気がする。単なる被害妄想だろうか? そうだったら、いいんだけど。
美鶴が手にしていたのは、やっぱり組み立て説明書だった。二人で力を合わせて、説明書の通りに雛壇の部分を作ってゆく。高価な人形を乗せておくとは思えないほど簡単な作りだったから、たいした時間もかからずに、それは完成した。美鶴が赤い敷き布をかぶせると、それだけでもう、ずいぶんらしくなった。
「お雛さまっぽくなったね」
「うん、後は人形だけだな」
ぼくがぽつりと呟くと、美鶴もこっくり肯いた。
アヤちゃんが叔母さんから貰い受けたというお雛さまは、七段飾りの立派なものだった。まだ成長途中のぼくたちが飾りつけるには、背丈にいくばくかの不安を覚えるほどである。適当に配置するのでは、なにかの拍子に人形を落としてしまいかねない。だとしたら、上から順に飾っていくのが妥当だろうということになって、ぼくと美鶴はお内裏さまとお雛さまの入った箱を探し出した。蓋を開けると、背後に置かれる屏風やぼんぼりなども、一緒にきちんと収められていた。そういえば、雛人形を間近に見るのは初めてだ。ぼくはつい、手にしたお雛さまをまじまじと見つめてしまった。
「どうした?」
そんなぼくに、美鶴が不思議そうな声でもって聞いてくる。ぼくはうん、と肯いた。
「綺麗だなって、思って」
「そう」
もしかしたら笑われるかもしれない。そんな予感は、美鶴の神妙な口振りに一蹴された。ちょっとだけ気を良くしたぼくは、重ねて言った。
「美鶴も、そう思う?」
「うん、久しぶりに見たけど……綺麗だよな」
美鶴は美鶴で、お内裏さまを手にして、まじまじと見つめている。久しぶり。そんな単語が胸にひっかっかったけれども、すぐにその意味するところに思い至り、亘はまるでにがいものでも飲み込むようにして、その言葉を自分の奥底へと封じ込めた。アヤちゃんが戻ってきたことによって、美鶴の記憶にどんな変化があったのか、ぼくは知らない。聞こうともしていない。いつか、時がきたら、美鶴の方から話してくれるだろうと思ったからだ。でも、今の台詞で、少しだけ、分かってしまった。
なんだか返事に窮してしまい、ぼくは黙って、お雛さまを見つめていた。白いお顔に、すらりとした切れ長の目。小さな口唇には紅がのっている。そうしてじっと見つめていると、とても綺麗なんだけれども、どこか恐ろしくも感じられて。ぼくはそれを、なぜか知っている感覚だと思った。
すぐ隣では、美鶴がやっぱりお内裏さまを眺めている。その端正な横顔に、亘はああと胸中で呟いた。
美鶴だ。
美鶴に、似ているのだ。
世界中を敵に回していた、あの頃の美鶴に。
その時、ぼくの視線に気がついたのか、美鶴が不意に顔を向けてきた。目が合うと、ほんわり、優しい微笑を浮かべてくれる。
美鶴の笑顔に、ぼくはすごくほっとして、気がつけば、つられて笑みを浮かべていた。綺麗だからこそ、冷たくて怖いのが際立ってしまっていた美鶴。でも今は、こんなにも幸せそうな面持ちをしてくれるようになった。全部、アヤちゃんのおかげだ。
そう思えばぼくの我慢なんか、ほんの些細なことでしかなくて。
ぼくはぎゅっと口唇を噛み締めて、堪えるしかなかった。
終
自分でもなんでこんなに暗いものを書いてしまったのかよく分りません(苦笑)
20070302
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