「アヤ、こっちこっち」
美鶴が手を振りながら声を上げると、美鶴と亘の視線の先できょときょとと辺りの様子を伺っていたアヤが、こちらを向いた。途端にぱっと顔を輝かせ、嬉しそうな声でお兄ちゃん、と言うと、可愛らしい赤のレインコートを翻して二人の元へと駆けてくる。お揃いの赤い長靴が、ぱしゃぱしゃと水しぶきを跳ね上げた。
五月雨
昇降口を出た所で、亘と美鶴は揃って大きなため息を吐いた。そんな二人を同級生たちは、天気予報見ろよ、とか、ばっかだなぁ、なんて言って追い越してゆく。ぽん、ぽんと、いたる所で傘を開く音が聞かれる。二人は今一度はあ、と大きなため息を吐いた。
厚い雲に覆われた空は、昼頃になってぽつぽつと雨を落とし始めた。傘を忘れてしまった亘は、どんよりとした空を見上げながら、帰りまでには止みますようにと祈っていた。だが雨足は弱まるどころか急速に激しさを増し、学校が終わる頃には本降りになっていた。ざあざあと雨音が喧しい。最悪の展開である。
それでも亘は、この時点ではさほど帰り道の心配をしていなかった。部活も雨で中止になったので、帰りのホームルームを終えると、いそいそと美鶴のクラスへ向かった。彼ならきっと、絶対、傘を持っていると思ったのだ。亘のように天気予報を見たにも関わらず、傘を忘れてしまうような真似を、美鶴はしないだろう。
けれども美鶴のクラスに辿り着いた亘が、ひょっこり顔を覗かせ美鶴、と呼びかけると、彼は幾分ほっとした顔をして助かった、と言ったのだ。それだけで亘にはもう十分に事の次第が知れたのだった。
天気予報、見そびれたんだよとは、廊下を歩きながらの美鶴の談である。そんな日に限ってこんな大雨になるなんて、運が悪いとしか言いようがない。
「どうしよっか」
亘が道すがらぽつりと呟くと、美鶴は暫しの思案顔の後、ちょっと待てと言って昇降口横に設けてある公衆電話へと走っていった。携帯電話を持っているくせに、校内での使用は禁止されているからと、隠れてでも使おうとしない。美鶴はそういうところにものすごく律儀なのだ。電話をかける美鶴の背中を、どこにかけてるんだろうとぼんやり眺めながら、亘はそんな事を考えていた。
美鶴はすぐに戻ってきた。アヤが傘持ってきてくれるってという、ありがたい知らせと共に。それで亘と美鶴は、同級生達に馬鹿にされながらも、昇降口で救い主を待つ事となったのだった。
その救い主であるところのアヤは、右手に自分のピンクの傘を握り締めて、左手で美鶴の青い傘を大切そうに抱きしめて、二人の待つ昇降口へと走ってきた。愛らしい笑顔を振りまいて、お待たせ、なんて美鶴に言っている。だがその視線が亘に至ると、途端に顔を強張らせてしまった。亘は首を傾げる。
「アヤちゃん、どうしたの?」
そう問いかければ、益々顔を歪ませて、今にも泣き出しそうになりながら、小さな小さな声で言った。
「……亘お兄ちゃんの分、忘れちゃった……」
「なんだそんな事」
亘が口を開くより早く、美鶴がアヤの頭にぽんと手を置いて言った。腰を屈めてアヤの顔を覗きこむと、にっこり微笑む。
「亘お兄ちゃんは、濡れて帰るから大丈夫なんだよ」
「え」
あんまりにもあんまりな美鶴の発言に、亘は素っ頓狂な声を上げた。途端に美鶴がぷっと吹き出す。それでからかわれたのだと気付いて、亘はむっつりと黙り込んだ。アヤは二人のやり取りがよく理解出来ないようで、きょとんとした顔をして、亘と美鶴を交互に見ている。
美鶴はアヤの頭をぽんぽんと軽く叩いてから、その手から傘を受け取った。アヤを促して歩き出させると、傘を開き、それをん、と言って亘の方に突き出した。
「入っていくだろ?」
「……勿論」
亘は笑顔で傘を受け取った。
中学に入ってから、随分と身長の伸びた亘は、いつしか美鶴の背丈を追い越していた。当初美鶴はその事実が大分おもしろくなかったようで、亘はよく美鶴に下から睨まれたものだ。ひょろひょろ伸びやがって、という憎まれ口付きで。でもそれが結果的に、美鶴が亘を上目遣いで見る事になってしまっているのに、美鶴は気がついていないようである。上目遣いの美鶴の視線に、亘はいつもどぎまぎしていた。そして今も。
「……狭い」
じろりと亘を睨みながら、美鶴が不機嫌そうな声で言う。その視線に、亘は心臓が高鳴るのを感じながらもごめん、と口にした。
「流石に、もう無理があるかなぁ」
そう言って、手にした傘を美鶴の方へ傾ける。小学生の頃は二人で入っても十分だった美鶴の傘だけれども、流石に中学生になった二人には小さすぎたようだ。斜めがけにした鞄を背中に回し、極力ぴったりとくっついているのだが、どうしても傘からはみ出してしまった。
美鶴は傾けられた傘を亘の方へ押し戻しながら、先を行くアヤにあんまりふざけてると転ぶぞ、と叫んだ。アヤははーい、と返事をしつつもやっぱり水溜りに突っ込んで行っては、ぱしゃぱしゃと水しぶきを上げて遊んでいる。美鶴は仕方ないなとでも言いたげに肩を竦めると、そろそろ買い換えないと駄目かも、と呟いた。つと顔を上げて傘を眺めている。その肩は傘からはみだし、雨に打たれていた。
勿論亘の肩だってもうぐっしょりなのだけれども、この傘は美鶴のものだ。亘を入れてくれた事で美鶴が濡れてしまうなんて、なんだか間違っている気がする。
亘は今一度美鶴の方へ傘を傾けた。すると美鶴がむっとした表情を浮かべて、傘を押し戻す。
「濡れちゃうよ」
と亘が言えば、美鶴に
「おまえだって」
と返されてしまった。
「だって、これ美鶴の傘じゃないか。僕は、ほら、うーんと、おまけだから」
「なんだそれ」
美鶴が呆れたような顔に笑みを浮かべた。亘も笑い返すと、だから、ね、と再び傘を美鶴へと傾ける。美鶴も再び傘を押し戻そうと手を上げかけて、どうしてだがそのまま固まってしまった。なにやら考え込んでいるようである。
「美鶴?」
亘が首を傾げると、美鶴はこうすれば少しはましかも、と一人ごちた。そして唐突に亘の傘を持つ腕に、その両腕の絡ませてきた。
「みっつる?」
驚きのあまり、変な声が出てしまった。だが美鶴は意に介さず、ほら、ちょっとはましだろうなんて、得意げな笑みを浮かべている。
確かに、腕を組むと更にぴったり寄り添う事が出来るし、歩くテンポも完全に一緒になるから、ちょっとどころかかなりましだ。ましだけれども。
亘はぐるんと首をねじって、美鶴から顔を背けた。かあっと頬が熱くなるのを感じたからだった。こんな顔、美鶴には見せられない。
幸いにも美鶴は、自分たちにとっての最良の解決策を見出してからは、もっぱら意識は先を行くアヤに奪われているようだった。アヤ、アヤ気をつけて、と雨音に負けないように叫んでいる。
アヤちゃん、傘を忘れてくれてありがとう。
亘は心の中で感謝を捧げつつ、多分真っ赤になっているであろう顔を、必死に美鶴から逸らし続けていた。
終
なんだか梅雨明けたんか?くらいいい天気の中、梅雨ネタ。
20060729
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