大人と、子供と



 美鶴は問題を解く手を止め、顔を上げた。あまり広くはないテーブルを隔てて、亘が懸命に過去問題集に取り組んでいる。亘の部屋で、二人受験勉強をしているのだから、それはいい。それはいいのだが……。

「……何不貞腐れてる訳?」
「……別に」
 美鶴が問いかけても、亘はちらとも視線を上げない。素っ気ない口調で一言呟いただけである。これには美鶴もむっとしてしまった。シャーペンを置くと、広げていたノートや問題集を片付け始める。突然の美鶴の行動に、流石に亘も驚いたらしく、手を止め、顔を上げて、美鶴をまん丸の目で見つめている。美鶴はふん、と鼻を鳴らした。
「帰る」
「は?え?ちょ……なんで?」
 亘が慌てて言うのに、美鶴は冷たい一瞥をくれてやった。
「目の前に不貞腐れたヤツがいると、やる気なくなるから」
「……」
 痛いところと突かれた、という表情で亘が黙り込むのを、美鶴はじっと見つめていた。そうして暫く待ってみたのだが、亘が口を開く気配は一向にない。

 美鶴はため息を吐くと片づけを再開した。ノートや問題集、ペンケースをバッグにしまいこむ。それからゆっくりと立ち上がった。
「じゃ、小母さんによろしく」
 そう言って、亘の横をすり抜けてドアへと向かおうとした。ところが亘にがっしとバッグを掴まれてしまった。ついと視線をやれば、泣きそうな顔をして美鶴を見上げている。美鶴は眉を顰めて亘を見下ろした。
「……離せ」
「いやだ」
 美鶴は大仰にため息を吐いてみせた。亘はびくりと身体を竦ませ、俯いてしまう。亘の頭頂部に向かって、美鶴は出来る限り低い声で言ってやった。
「で、何不貞腐れてる訳?」
「……怒らない?」
 恐る恐る、といった感じで亘が答える。美鶴は肩を竦めた。
「聞いてみなけりゃ、分からない」
「じゃあ言いたくない」
「じゃあ帰る」
 美鶴はバッグをぐいと引っ張って、亘の手を振り払おうとした。だが亘は頑なにバッグを離そうとしない。単純な力勝負となると、美鶴の方が分が悪かった。元勇者さまは、幻界で随分と鍛えられたようなのだ。呪文で全て片付けていた美鶴とは違って。

 けれども今の美鶴には、そんな些細な事でさえカチンとくる。もう一度バッグを取り返そうとしてみるが、やはり叶わない。美鶴は舌打ちをした。亘はそのぽやっとした外見とは裏腹に、意外と頑固なのだ。こうと決めたらてこでも動かない。

 そんな事態は、これまでにも何度かあった。けれどもその度に仕方なく美鶴が大人になって、亘に譲っていたのだったが、どうしてだか今日はそんな気分にはなれなかった。あまりにも理不尽だからかもしれない。
 だって、美鶴は何もしていない。いつもの通り駅で待ち合わせをして、亘の家に来て、一緒に勉強していただけなのだ。亘だって、最初のうちは上機嫌で、ぺらぺらぺらぺら聞いてもいない事まで喋り捲っていた癖に、本当に唐突に機嫌が悪くなってしまったのだ。何か原因になるような心当たりは、美鶴にはなかった。
 こういう時、美鶴は心底亘をずるいと思う。自分の思い通りにならないからといって、不貞腐れたり、我儘を言ったり。そういった事は美鶴には許されていなかった。同年代の子供たちが当たり前のようにしている事々を、美鶴は決してしてはいけないのだ。そうでなければ美鶴のようなお荷物は、すぐに放り出されて、施設に入れられてしまうかもしれない。

 なんだか悲しくなってしまって、美鶴は歯を食いしばった。ただの僻みだと分かっている。変えなければならないのは自分自身だと、幻界は教えてくれた。でもどんなに大人びていたって、美鶴はまだ子供なのだ。時折どうしようもなく羨んでしまう事だって、ある。

「美鶴……?」
 じっと黙り込んでしまった美鶴をいぶかしんだのか、亘が小さな声で問いかけてきた。いつの間にか顔を上げて、美鶴の目をじっと見つめている。
「ホントに怒っちゃった?」
「……別に」
 言ってから、これでは先の会話の繰り返しではないかと思った。今度は美鶴が突っぱねているのだけれども。
「ごめんね」
「何が?」
「ちょっとね、僻んでただけなんだ」
「は?」
 亘の言う意味が分からなくて、美鶴が首を傾げると、亘はごくりと唾を飲み込んでから、先を続けた。
「だって美鶴、お母さんにすっごい愛想いいんだもん。にこにこしちゃってさ、ありがとうございます、だって。僕といる時はそんなに笑ってくれない癖に。ずるいんだもん」

 思わず美鶴は黙り込んでしまった。あんまりにもあんまりな事を言われたような気がする。
 亘は掴んだままの美鶴のバッグをちょっと揺すると、縋る様な目をして言った。
「怒った……?」
「……呆れた」
 搾り出すようにして、美鶴はようやっとそれだけを答えた。無邪気な子供には敵わないなんて大人は言うけれども、どうして美鶴が今その気分を味わっているのか。

 そんな美鶴の心境を知る由もない亘は、だってぇ、やっぱりずるいんだもんなんてブツブツ言っている。美鶴はなんだか色々と考え込んでいた自分が、馬鹿らしく思えてきた。やり場のない憤りを、とりあえず目の前の亘にぶつけてみる事にする。美鶴は亘の頭に両手を伸ばすと、ぐしゃぐしゃとその髪をかき混ぜてやった。
「わ、何、何?」
 亘が驚きに声を上げ、美鶴のバッグから手を離した。美鶴は最後に亘の頭をぺしっと叩くと、ため息混じりに言った。
「くだらない事で、不貞腐れるんじゃない」
「でも」
「でもじゃない。……帰ろうか?」
 そう脅してみれば、亘はすぐにふるふると首を横に振った。美鶴は口元に笑みを浮かべる。
「じゃあ我慢しろ」
「……うん」
 渋々といった態で、亘が頷いたので、美鶴は踵を返すと元いた場所に戻った。亘の向かい側に座り直す。

 その時、じとっとした亘の視線に気がついて、美鶴は首を傾げた。
「……なんだよ」
 問いかけてみても、黙ったままふるふると首を横に振るばかりだ。でも美鶴には亘が何を言いたいのか、どうして言えないのか分かるような気がする。仕方なく美鶴は口を開いた。
「おまえさ」
「……うん」
 亘は小さな声で答える。
「おまえの小母さんに愛想振りまいたり、する?」
「え?なんで?」
 よく分からないという顔をして、亘は言う。
「そういう事だよ」
 美鶴はバッグから勉強道具を出しながら、そう言った。ちらりと横目で亘の様子を伺ってみると、なにやら難しい顔をして考え込んでいる。しかし暫くしてぱっと顔を輝かせると、満面の笑みを浮かべて美鶴を見た。美鶴も苦笑を浮かべる。

 亘は本当に甘ったれのお子様で、時に腹立たしい程であるけれども。
 美鶴はこんな時、ふと思うのだ。そんな彼に救われているのではないかと。
 だって、色々思い悩むのを馬鹿らしいと思わせてくれる相手なんて、他にいない。
 なんだか肩から力が抜けてゆくような気さえするのだ。

 だから美鶴は亘に惹かれるのかもしれない、なんて事は勿論亘には秘密だ。
 
 美鶴はなんとなく恥ずかしくなって、コホンと咳払いをすると、問題集に目を落とした。




オチを何通りか考えて、悩みに悩んでこうしてみました。
これはミツワタっぽい?
20060705



戻る