想い、想われ
「僕は、好きだよ?」
無意識のうちに、口が動いていたようだ。美鶴のぽかんとした顔を、やっぱりぽかんとした顔をして亘は眺めていたのだったが、徐々に自分の口からぽろりとこぼれ落ちた言葉の意味するところに思い至って、ひゃあと悲鳴を上げると、後ろに飛び退いた。だがそう広い訳ではない亘の部屋では思うようにはいかず、結局亘は背中をベッドに、膝をテーブルにしたたかにぶつけただけだった。
正座を崩した格好で、痛みからくっと言ったきり俯いてしまった亘を、美鶴は冷ややかな目で見つめていた。亘の情けない姿とは違って、美鶴は用意された座布団にきちんと正座したままである。背筋もぴっと伸びていて、姿勢も良い。その端整な顔立ちと相まって、美しい彫刻のようにさえ思える程だった。
だがその口から発せられるのは、至極辛辣な言葉ばかりである。
「おまえ……、馬鹿だろう?」
亘は俯いたまま、呻くように答えた。
「そりゃ美鶴には敵わないけど……」
大きなため息が聞こえてきて、亘は反射的に顔を上げた。二人で勉強するのには、ちょっと手狭なテーブルを隔てて、美鶴と目が合う。その目があからさまに亘を蔑んでいて、流石に亘もちょっとむっとしてしまった。すると美鶴は軽く肩をすくめると、言った。
「そうやって、すぐむくれる。勇者様は、まだまだ子供っぽくていらっしゃるようだ」
「……うるさい……」
咄嗟に反論の言葉が口をついて出そうになったが、亘はすんでのところで堪えた。これまでの経験から、いくら楯突いたところで、亘は美鶴に口では勝てないと分かっていたからだ。じゃあ他に勝てるものがあるのかといえば、それすらも怪しい。何から何まで完璧、それが芦川美鶴というヒトだった。
それ故に美鶴は、どうやらクラスメート達から浮いてしまっているようなのだ。はっきりそうと聞いた訳ではないが、亘にはなんとなく分かってしまった。同じ学校に通っていた時だってそうだったのだから、多分間違いない筈だ。それには、同世代には理解し難いこれまでの経験から成る、美鶴の性格もその一端を担っているであろう。
だが当の美鶴がそういった事実を微塵も気にしていないのだから、性質が悪い。どころか、鬱陶しいお友達ごっこにつき合わされずに済んで、良かったとさえ思っているようなのだ。亘にしてみればちょっと羨ましい、女の子達の好意も含めて、なのだから、まったくもって困った性格である。
けれどもそんな美鶴を、ちょっと嬉しく思ってしまう亘は、きっと彼よりもずっと困った性格なのだろう。
思わず吐いてしまったため息に、美鶴は形の良い眉をぴくりと震わせた。
「どうかしたか?何か反論でも?」
「……なんでもない」
それきり黙り込んだ亘に、美鶴は肩をすくめると手元に視線を戻した。机の上にはノートや、参考書、過去問題集が広げられている。亘達は今年、中学受験だった。同じトップクラスの私立校を目指しているから、こうして時折どちらかの家で、勉強会をしているのだ。
さらさらと問題を解いてゆく美鶴の指先を、亘はぼんやりと眺めていた。美鶴と一緒に勉強する日が来るなんて、出会った頃には想像もつかなかった。けれども幻界が、幻界での出来事が、二人を引き寄せた、二人を結びつけてくれた。亘にとっての美鶴が特別な存在になったように、美鶴にとっての亘も、特別な存在になったのだ、きっと。そうでなければ、他者を寄せ付けないようにして生きている美鶴が、どうして学校が変わったにも関わらず亘と連絡を取合ったりする?どうして受験する中学を相談したりする?どうして休日にわざわざ亘の家まで勉強しに来るというのだろう。
そうした事実は、亘の心に優越感をもたらした。自分だけが美鶴の特別なんだと思うと、ふんわりと心が温かくなったものだ。
だが同時に、罪悪感も感じていた。美鶴の態度は、決して褒められたものではないし、美鶴の為にも良くないと知っているのに、亘はそれを喜んでしまっているからだった。
でも、だって、仕方ないじゃないか。亘はがっくりと首を項垂れてから、もそもそと床の上を移動し、テーブルの前の座布団に落ち着いた。先刻投げ出したシャーペンを手に取ると、途中になっていた問題に取り掛かる。
「そんなんじゃ、受からないぞ」
ちらりと視線を上げた美鶴が、淡々とした口調で言った。亘は憮然として答える。
「分かってる」
「同じ学校に、行くんだろう?」
「そう、したいよ」
「俺はランク下げないから」
「分かってるって」
亘は苛立ちも露に、言い返した。ふいに塾の講師の、厳しい顔が脳裏を過ぎる。今のままでは難しいでしょう、先日の面談でそう言われたばかりだった。もう1ランク下げてはどうか、今の所程ではないけれども、十分にレベルの高い学校なのだから、と。
だが亘にとって重要なのは、学校のレベルではないのだ。そこに美鶴がいるかどうか、だった。勿論そんな事、塾の講師には言えないけれども。
いつしか、亘にとっての美鶴は、全てにおいて優先されるべき存在になっていた。美鶴を独り占めしたかった、美鶴に独り占めされたかった。だから美鶴が亘を特別扱いしてくれると嬉しい、たとえそれがどんな方法であってもだ。
亘は怒りをぶつけるかのように、がしがしと問題を解いていった。美鶴はそんな亘を呆れたような目で見てから、やっぱり問題に戻った。暫くは二人のシャーペンの音だけが、室内に満ちた。
「頑張れよ」
唐突に口火を切ったのは、美鶴だった。躍起になって問題を解いていた亘は、顔も上げぬままにんー?と気のない返事をする。
「俺は今の所合格圏内だからさ、志望校変えるなんて出来ないんだよ。もう叔母さんに余計な心配かけたくないし。だからおまえに頑張ってもらうしかないんだよ」
美鶴は一息にそう言うと、またシャーペンを動かし始めた。亘は一瞬遅れて、顔を上げる。
「なんだって?」
「だから、頑張れって」
手を動かしたまま、ぶっきらぼうに美鶴は言った。亘は驚きに目を見開いて、じっと美鶴を凝視する。亘の視線に気がついたのか、美鶴も顔を上げた。小首を傾げる。
「……なんだよ」
「う、ううん。僕頑張るよ」
亘はそう言って、シャーペンを持った手で握りこぶしを作り、胸の前にかざした。それはまるで心意気を宣誓しているかのようで、なんだかちょっと滑稽だったかもしれないと亘は焦った。だが美鶴が苦笑を浮かべつつも何も言わなかったのに安心して、亘も笑みを浮かべてみせた。
ところが美鶴は、すぐに真顔になってしまった。亘が首を傾げると、美鶴は僅かに目を伏せてから、言った。
「俺も」
「……何が?」
意味が分からず、ますます首を傾げてしまった亘に、美鶴はちらりと視線をやった。と亘が思った時には、その綺麗な顔はどんどん近づいてきていた。状況についてゆけない亘が、目をまん丸にしてぽかんとしているうちに、互いの距離はゼロになっていた。
亘は、唇に暖かいものが触れたように感じた。だがそれがなんなのか気がつく前に、その温もりは離れていってしまった。
亘のすぐ目の前に、美鶴の顔がある。それで亘はようやっと何が起こったのか、先刻美鶴が何を言ったのかを知った。途端に顔が真っ赤になる。そんな亘の有様に、美鶴はふふん、と鼻で笑うと、何事もなかったかのように勉強に戻った。亘は目を白黒させながら、あーとかうーとか呻いていたのだが、ついには後ろにひっくり返ってしまった。ちょうど頭がベッドに乗っかる格好になり、そのまま天井を見上げる。やっぱりもう全然美鶴には敵わない、とため息を吐いた。
「親は?何て言ってる?」
「別に、頑張るのはいい事だって、やれるだけやれって」
「ふーん」
「……なんだよ」
「だってさ」
「うん」
「俺と一緒の学校行きたいからって、言ったんだろ」
「うん、勿論」
「おかしいって、言われなかった?」
「どうして?」
「だって、変だろ。友達と同じ学校行きたいからって、そんな。今でも十分いい学校行けるのに」
「そうかな?」
「そうだよ。そういうのは、彼氏彼女がやる事だろ普通」
「僕は、好きだよ?」
終
小説中巻読んでる時点での妄想話。
20060701
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