それは反則



 先刻までの喧騒が嘘のように、更衣室は静まり返っていた。差し込む陽光が、床にぼんやりと窓の形を描いている。時折吹き抜ける風が、カーテンをはためかせた。心地良い、秋の朝である。
 澄んだ空に甲高いホイッスルの音が鳴り響き、美鶴は窓の方へと顔を向けた。
「始まったみたいだね」
 ロッカーに寄りかかっていた亘も、身体を起こして窓を見ている。先のホイッスルが合図だったかのように、至る所で同じ音が響き渡り始めた。と同時に、喚声が沸き起こる。

 美鶴はロッカーの戸を閉めると、鍵を掛けた。
「試合、何時からだっけ?」
「え……っと、10時45分?」
 亘は首を傾げつつ、ジャージのポケットから小さく折りたたまれたわら半紙を取り出した。それを開くと紙面を指で辿り、大きく肯く。
「うん、10時45分にAコート。5分前集合だって」
「そっか、じゃあまだ時間あるな」
 美鶴は壁に設えられた時計に目をやった。
「まだ9時過ぎだ」

「美鶴は応援、行かないの?」
 わら半紙に目を落としたまま、亘が問う。
「9時から体育館Bコートで、美鶴のクラスバレーの試合だよ?」
「行かない、面倒臭い」
 室内に点在しているパイプ椅子の一脚を手に、美鶴は答えた。それを引き摺って窓際へ行くと、表を眺められるように置いて、そこに腰掛ける。
「じゃあ僕も試合までここにいよっと」
 亘も美鶴に倣って、椅子を引き摺ってくると、美鶴の向かいに腰掛けた。にっこりと笑みを浮かべる。

 窓からは、校庭で行われているサッカーの試合が一望出来た。走り回る選手達を応援すべく、どのコートにも周囲にはヒトがすずなりだ。試合が動くごとに、わっと声が上がる。
 たかが校内の球技大会なのに、ご苦労なことだ。美鶴は外を眺めながら、そんな風に思っていた。だが後1時間もすれば、美鶴も校庭を走り回らなければならない。知らずため息が漏れていた。
 しかも――。
「まさかおまえのクラスに当たるとはねぇ……」
 ぽつりと呟かれた言葉に、亘も苦笑する。「ねぇ。僕もびっくりしたよ」
 なによりも……、と少し言いよどんでから、亘は先を続けた。
「美鶴がサッカー選んでることに、びっくりした」
「なんで?」
「だって美鶴、広いコートで走り回るのなんて面倒だと思ってそうだから」

 ご名答である。体育館の、狭いコートで行われるバレーの方がどれ程ましだと思ったことか。それでもサッカーを選んだのには、無論理由がある。
 亘を横目で見ながら、美鶴は口を開いた。
「おまえの所為」
「は?」
 亘が訝しげな視線を寄越してくる。
「おまえがバレーだと思ったから、サッカーにしといたのに」
「そんな訳ないだろ、サッカー部は強制的にサッカーだよ。バレー部だってそうじゃないか」
「……大体、おかしいんだよな。アマチュアにプロが混じるようなもんだろ」
「そんなこと言ったって……たかがクラス対抗なんだもん。そう煩いこと言わないよ」
「じゃあ本人達が気を利かせろ」
「そんなぁ……」
 亘の情けない声に、美鶴は思わず笑みを浮かべた。

 たかが校内球技大会、されど校内球技大会。どのクラスも、結局は勝ち負けに拘っている。
 実のところ美鶴だって、バレー部を優先的にバレーに回した結果、サッカーになっただけなのだから。

 「……嘘だよ」
 あんまり亘が真に受けるので、美鶴は仕方なくそう言った。途端に亘が、へ? と間抜けな声を出す。
「うちバレー部多いから、問答無用でサッカーに回されただけ」
「ああそう……って美鶴ひどっ!」
 一瞬安堵の表情を浮かべた亘だったが、すぐにむっとした顔をして美鶴を睨んでくる。
 だが亘など怖くもなんともない美鶴は、校庭を眺めながらぼやいた。
「でもやっぱりおかしいと思うんだよなぁ……」
「……美鶴のクラスだって、バレー部をバレーに全投入してるくせに」
 亘の恨みがましい言葉は、聞こえないふりをする。
「サッカー部1人しかいないのに、4人もかたまってるクラスに勝てる訳がないだろ」
「……素人は思ってもみないことしたりするから、こっちだってやり難いし結果だって分かんないのに」
「……いちいち喧しいな」
「本当のことだよ」
 じろりと睨みつければ、同じ様に睨み返された。
 校庭で上がった一際大きな喚声が、二人の間に立ち込める険悪な空気を乱してゆく。

 そうして暫くの間、亘と睨みあっていた美鶴だったが、急に馬鹿馬鹿しくなって肩を竦めた。ため息を吐く。
「……もう、やめよう」
「……そうだね」
 亘もきっと、同じ気持ちだったのだろう。美鶴の提案に、すぐさま肯いてみせた。
「それにさ」
「うん?」
 すいと視線を逸らした亘に、美鶴は小首を傾げる。
「僕は勘定に入らないよ」
「……なんで?」
 亘の横顔を見つめながら、美鶴は問うた。頬がほんのり赤いのは、どうしてなのだろうと思う。

「……だって、美鶴がいるし」
「は?」
「すごく、すっごくやり難いと思うんだ、きっと」
 思わず道、譲っちゃいそうだし――と、とても言い難そうに呟いてから、亘は俯いてしまった。
 その台詞の意味するところに思い至って、美鶴の顔は知らずほころぶ。

「亘」
 随分と優しい口調になってしまったのは、当然のことだろう。亘がゆっくりと顔を上げるのに合わせて、美鶴はパイプ椅子から腰を上げた。片方の手で窓の桟を、もう片方の手で亘の座るパイプ椅子の背を掴む。
 きょとんとした顔が、驚愕に彩られるのをぎりぎりまで視界に収めながら、美鶴は亘の口唇を自らの口唇でもって塞いだ。驚きから軽く開かれていた亘の口に、これ幸いと口内まで舌を差し込む。ぺろりと舐め上げれば、亘の身体がびくりと震えた。

存分に亘を味わってから、漸く美鶴が顔を離すと、亘は顔を真っ赤にして美鶴を凝視していた。口がぱくぱくと上下しているが、言葉にはならないようである。
 美鶴は腰を伸ばすと、互いの唾液で濡れそぼった口唇を親指で拭った。亘の顔が、益々赤くなる。見ていられないのか、つと視線を逸らした。
 美鶴は満面に笑みを浮かべると、言い放った。
「ハンデをありがとう、のお礼です」
「はあ?」
流石に聞き捨てならなかったのか、亘が素っ頓狂な声を上げる。
「ハンデって、もしかして……」
 呆気に取られた顔を向ける亘に、美鶴は笑みでもって答えた。途端に亘が情けない顔をする。
「それって……絶対お礼って言わない……」
「そんなことないけど?」
 美鶴が空っとぼけると、亘はじっとりと恨めしげな目を向けてきた。

 敵に弱点を教える方が悪いのですよ三谷君。
 美鶴は胸中でそう呟くと、ほくそ笑んだ。これで面倒だった球技大会もちょっとは面白くなるかもしれない。
 なんだかんだ言ったところで、結局美鶴も勝ち負けに拘っている一人なのだった。



美鶴は絶対負けず嫌いだと思う。
20061023UP



記念日じゃなくても



 心地よい疲労感に、美鶴はベッドに横たわったままぼんやりとしていた。傍らでは壁に背を預けた亘が、やっぱりぼんやりしている。どちらも暫く口を利いていない。
 室内はしんとしていた。時計の音ばかりが、やけに大きく響いている。その単調なBGMに、美鶴はうっとりと目を細めた。逆らい難い睡魔が襲ってくる。

 叔母が家を空ける時、亘が泊まりに来るようになって、どれくらいたったろう。中学生の時分は、子供だけでは心配だと――以前は美鶴独りで留守番していたにも関わらず――、美鶴が亘の家に泊まらされていた。高校に合格した辺りから、あまり煩いことを言われなくなったように思う。
 だとするともう2年位か。保護者不在をいいことに、こんなことをしているのは。
 勿論、罪悪感を感じないでもない。だがこの年頃に、我慢は困難である。

 茫漠とした意識の中で、取りとめのないことを考えていた美鶴は、壁の方へ寝返りをうった。途端に亘の身体に行き当たってしまう。
 シングルベッドに男子高校生二人は、やっぱり狭すぎる。狭すぎる筈なのに、それを快く思ってしまうなんて、ちょっとおかしいのだろうか。

「美鶴、眠そう」
 微笑を浮かべた亘が、手を伸ばして美鶴の髪に触れた。先の運動の所為で乱れてでもいたのだろう、手櫛で梳いて整えてくれる。
「電気消そうか?」
「ん……」
 顔を覗き込んで、そう問いかけてくるのに、美鶴は鼻から抜ける、吐息のような声でもって答えた。
 亘は分かった、と頷いた。苦笑しているのは、夢現な美鶴の状態に対してだろうか。

 壁から背を起こすと、亘は美鶴をまたいで、ベッドの端に左手をついた。右手で照明の紐を引く。かちっ、かちっという音と共に、部屋は段階を経て暗くなっていった。美鶴に覆い被さっていた亘の姿も、ただの黒いシルエットになる。
 ぼうっと亘の所作を見上げていた美鶴は、不意に激しい不安を感じて、思わず口を開いていた。
「亘……」
「うん、なに?」
 だが問われたところで返答のしようがない。

 言いよどむ美鶴に、シルエットの亘は小首を傾げた。そうこうするうちに、段々と目が暗闇に慣れてきたのか、亘の表情がうっすらと窺えるようになる。不思議そうな表情で、美鶴をじっと見つめている。
 美鶴はほっと安堵の吐息を漏らすと、ゆるゆると首を振った。亘の腕を取り、軽く引っ張る。
 なにをどう思ったのかは知れないけれども、亘は促されるままにベッドに転がった。美鶴に寄り添うと、暗がりの中でひっそりと呟く。「明日は?」
「うん?」
「いつも通り?」
「うん」
 美鶴がこくりと首を振ると、亘は右肘をついてちょっとだけ身体を起こした。ベッドサイドの目覚まし時計を手に取ると、時間を合わせてスイッチを入れる。それを元の場所へ戻すと、亘は美鶴の傍らに戻ってきた。

「じゃまた明日、お休み」
「お休み」
そう言って笑う亘に、美鶴もほんのりと笑みを浮かべて答えてから、静かに目を閉じた。すぐさま眠りの淵へと落ちてゆく。

 いつもと変わらぬ朝は、もうすぐだ。



突拍子もない連想していてすみません。
20061025UP



永久保存メール



 箱から取り出し、保護シールを外したばかりの真新しい携帯電話を手に、亘はにんまりと笑みを浮かべた。これまで何度強請っても買ってもらえなかった携帯だが、第一志望の中学に受かった途端、母邦子から持っていた方が良いと買い与えられたのだ。春からの電車通学に備えてのことだろう。
 だが理由などどうでもいい。欲しくて欲しくて堪らなかった携帯が、今手の中にある。亘は思わず頬擦りしたくなるのを堪えた。

 ぱちんと携帯を開くと、メール作成画面へと進む。これまでは操作を横で眺めていただけだけれども、意外となんとかなるものだ。

 早速教えられていたメールアドレスを入力する。次は件名だ。一瞬迷ったが、まだ亘のメールアドレスを知らないのだからと、『三谷亘です』とした。

 最後に本文なのだけれども、そこで亘の手はぴたりと止まってしまった。一体なにを書いたものかと、考え込む。そもそもの用件は、やっと手に入れた携帯の電話番号とメールアドレスのお知らせなのだが、折角の初メールをそれだけで終わらせてしまうのはなんだか忍びない。かといって他になにか用がある訳でもない。
 
 携帯を手にしたまま腕を組んで、亘はうーんと唸った。自室に視線を巡らせてみるが、ネタが転がっている訳がない。大きなため息を吐くと、亘は腰掛けている勉強机の椅子の背もたれに寄りかかった。ぎしりと軋んだ音がする。
亘は組んでいた腕を解くと、再び携帯に目を落とした。暫く触らなかった所為か、画面が暗くなっている。

 メールアドレスと、件名だけが入力された薄暗い画面をぼんやり眺めながら、亘はふと、用がないのなら伝えたいことを書けばいいのではないかと思った。それも、普段は気恥ずかしくて、なかなか口に出来ないようなことを。

 我ながら妙案だと、亘は笑みを浮かべた。携帯を持ち直し、本文入力を選択する。途端に画面がぱっと明るくなった。まるで亘の今の気分のようだった。

 亘は一文字一文字、ゆっくりと入力していった。最後に自分のメールアドレスと電話番号をつけてから、もう一度頭から読み直す。間違いなどないことを確認して、送信する。送信完了画面に、ほっと吐息を漏らした。

 メールを見て、どんな顔をするのだろう、そしてどんな返信がくるのだろうと、ちょっとどきどきしてくる。

 だがそれには今暫く時間がかかるだろう。亘は携帯を閉じて机に置こうとした。その時、それが着信を告げて鳴り始めた。初期設定の単調な電子音である。

 亘は突然のことに驚き、携帯を取り落としそうになった。まだ他の誰にも教えていないのだから、誰からの返信かは見るまでもなく知れる。
 亘は胸を高鳴らせながら、携帯を開いた。メールを確認する。

 それはひどく簡潔な一言だった。

 あんまりにもらしい言葉に、亘は思わず苦笑する。でもこれだけ早く返信出来たということは、もしかして亘からの連絡を待っていてくれたのだろうか? 確かに昼間会った時、今日携帯が来るということは伝えてあったけれども。

 そう考えると、つれない返信もなんだか嬉しく思えて、亘はもう一度本文を見直した。そしてあれ? と思った。 本文に、妙な間があるように感じたのだ。
 首を傾げた亘は、試しにキーを押してみた。画面がスクロールを始める。隠れていた文字が、不意に目に飛び込んできた。

 その言葉を、亘はじっと見つめた。頬が緩んでしまうのを、どうにも止められなかった。一度ぎゅっと携帯を抱きしめると、それを机に置く。放り出してあった説明書を手に取ると、ページを繰った。

 大切なメールを、消さないでおく方法を調べなければならない。






『美鶴へ 大好きです これからもよろしくお願いします 亘』
『おまえ大丈夫か?』






『でも、まあ、うん。俺も好きだよ。これからもよろしく。美鶴』



お題はひとまずこれでおしまい。ここまでお付き合い下さりありがとうございました!
20061027UP


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