幼稚な気の引き方
土曜の昼下がりの電車内はがらがらで、しんとしていた。どこか別の車両に、小さな子供が乗っているのだろう。時折甲高く、それでいてたどたどしい声が聞こえるばかりだ。普段なら、あまり気にならない電車の走行音が、やけに耳に響く。
美鶴はドアのすぐ脇で、手すりに軽くもたれるようにして立っていた。腕を組み、窓の外を流れゆく景色をじっと眺めている。
亘は、美鶴のもたれている手すりにつかまって立っていた。身体だけは美鶴の方を向いているが、その顔は床を見つめている。度々、美鶴の様子を窺うようにちらちらと視線を寄越してきたが、美鶴は全て黙殺していた。亘も口を開くことはない。
もう随分長いこと、お互いだんまりを決めこんでいた。
きっかけは、本当に些細なことである。だが些細なことで、こうして気まずくなるのはしょっちゅうだ。二人共、存外意地っ張りだから、当然の成り行きであろう。分かっているのなら、互いにちょっと気をつければいいだけのようにも思えるが、そう上手くいくものではない。いつも、つまらない意地の張り合いに発展してしまう。
その時、静かな車内に車掌のアナウンスが流れた。美鶴が降りる駅の名を、二度繰り返す。程なくして、電車は駅のホームへと滑り込んだ。
美鶴は手すりから身体を起こすと、肩にかけた鞄の位置を正しながら、ちらりと亘に視線をやった。すると先刻まではちらちらと美鶴の様子を窺っていたというのに、亘はじっと床を見つめているばかりだ。そのあまりにも頑なな態度が、逆に美鶴の視線にも気がついているであろうことを物語っている。
美鶴はふん、と鼻を鳴らすと、亘に背を向け、開いたドアから車内同様閑散としているホームに降り立った。
その時、どうしてだか違和感を感じて、美鶴はホームの中ほどまで歩いてから、後ろを振り返ってみた。
そこには、亘がいた。ちょっと美鶴のシャツの裾をつまんで、じっと俯いている。
では先の違和感の原因は、亘だったのだ。ほんのちょっとだけ、後ろに引っ張られる感じがしたからなのだろう。
美鶴が大仰にため息を吐くと、亘は弾かれたように顔を上げた。打って変わって、縋るように美鶴を見つめるその瞳が、不安に揺れているのが見て取れる。
美鶴は仕方なく口を開いた。
「……何」
亘はごくりと息を飲んでから、小さな声で言った。
「さっきは、ごめん」
「……うん」
美鶴がこくりと肯くと、亘は安堵の表情を浮かべた。今一度ごめんね、と口にする。もういいと、美鶴は首を振った。素直に謝られてしまっては、いつまでも苛々している方が馬鹿らしい。
こうして二人の些細な諍いは、終わりを迎えるのだ。二人が決定的に仲違いしないのも、ひとえに亘のおかげである。意地っ張りなくせに、美鶴と気まずいのだけは我慢がならないのか、いつも、いつも、亘から謝ってくる。美鶴はそれを受け入れる。もう何度も繰り返している、一連の流れだった。本当に、分かっていて、どうして同じことを繰り返してしまうのだろう。
――意外と、亘とのこんなやり取りを楽しんでしまっているのかもしれない。
ふと脳裏を過ぎった考えに、美鶴は慌てて頭を振った。突然の美鶴の所作に驚いたのか、亘が首を傾げる。
「美鶴? どうしたの?」
「……なんでもない」
その言葉に、我に返った美鶴はそう答えた。
本編に皆無だった分、些細な日常話に萌えなんです。
20061007UP
そっと耳打ち
指先で机を叩くとんとんという音に、亘は没頭していた問題集から顔を上げた。つと左に顔を向ければ、隣に腰掛けている美鶴と目が合う。じっと亘を見つめるその視線に、亘はどうしたのという意味を込めて首を傾げる。すると美鶴は先刻机を叩いたに違いない、机上に置かれていた右手をひっくり返し、手の平を上に向けた。人差し指をちょいちょいと動かすと、自らの身体も亘の方へと寄せてくる。それで漸く亘にも、美鶴の意図が知れた。美鶴はこういうことに、ひどく几帳面だ。
場所柄を弁えず、自分勝手に振舞うことを、美鶴は良しとしなかった。二人が今いる図書館などはその筆頭である。他にも電車やバスの中は勿論、よそのお宅にお邪魔した時や学校、スーパーなども、程度の差はあれ美鶴にとっては、周囲の目を気にせずにはいられない場所のようだった。ふざけたり騒いだりするのは、言語道断。言葉を交わすのにも、注意を払うくらいだ。要するに美鶴は、大人の言葉を借りると、しつけの行き届いた気配りの出来る――いい子、なのである。
得てしていい子は、大人受けは良くとも子供社会では嫌われるものだ。だがこと美鶴に限っては違った。その同級生たちとは一線を隔する、雰囲気の為せる技かもしれない。無論亘は、そんなことで美鶴を嫌ったりはしない。しないが……最近、困ったことにはなっている。
美鶴に腕を小突かれて、亘は物思いから覚めた。はっとして美鶴に焦点を合わせると、彼はちょっとむっとしたような表情で、今度は右手全体を使って亘を呼んでいる。図書館の椅子は、大きくゆったりとした造りになっているから、互いが身体を寄せない限り、美鶴の望むようには出来ないのだ。
それでも亘が躊躇していると、美鶴は苛立ちを露にした。ならば強硬手段に出るまでよとばかりに、亘の左腕を掴んだ。ぐいと自分の方へ引き寄せる。流石に、それを振り払うほど抵抗したい訳ではない亘は、仕方なくされるがままになった。
ようやっと自分の思い通りになった美鶴は満足げな顔をして、亘の耳元に口を寄せた。ぼそぼそと、亘にだけ聞こえれば十分といった程度の声で、美鶴は話し始める。
「もうすぐお昼だけど、今日はどうする――」
けれども亘の頭には、美鶴の言っていることが全然入ってこなかった。それどころではなかったからである。
亘の耳に、触れんばかりに近づけられた美鶴の口唇が、頬を掠めるその吐息が、亘をとても正常ではいられなくしていた。ふんわりと漂う良い匂いは、美鶴の使っているシャンプーの香りだろうか?
「おい、聞いているのか?」
「はいっ?」
亘が上の空なことに気付いたのであろう美鶴のきつい声音に、亘は思わず素っ頓狂な声を発してしまった。それはしんとした図書館に、ことのほかよく響いた。二人の周囲に座って、めいめい勉強や読書に勤しんでいた人々が、ちらちらと非難の視線を向けてくる。
「……馬鹿っ……」
舌打ちとともに美鶴が呟く。亘は首を竦めた。誰の所為だと思っているんだよ! と言いたかったが、責任転嫁以外のなにものでもない。仕方なく亘は小さな声で、ごめん、と謝った。
美鶴は分かっててやってます(笑
20061014UP
お菓子よりも魅惑的な
日が暮れるに従って、闇へと沈んでゆく教室の窓を、亘は校庭から見上げていた。
どうかしたのかと随分気に病んだから、薄暗がりの中に美鶴の姿を見つけた時には、本当に安堵した。
「電気、点けないの?」
亘の立てる物音に、窓際の席に腰掛けていた美鶴がゆっくりと振り返る。そのさまを眺めながら、亘は問いかけていた。
だが窓から差し込む夜間照明に、ぼんやりと照らし出された美鶴は、首を傾げただけだった。周囲を見回し、それから漸くああ、と声を上げる。
「全然気が付かなかった」
「なに、それ」
亘は美鶴の方へと歩を進めながら、思わず苦笑を浮かべていた。だって、こんなに薄暗いのに、気が付かないなんてどうかしている。それとも、なにかに気を取られてでもいたのだろうか?
「見てた」
「え?」
まるで亘の心を読んだかのような美鶴の言葉に、亘の心臓はどきりと高鳴る。
「見てたから、おまえを」
そう言って美鶴は、右の人差し指を窓の方へと向けた。亘も、その指先に誘われるようにして表を見る。そこからは先刻まで亘のいた校庭の一角が、とても良く見えた。校庭からは角度の関係で、美鶴の姿を認められなかったのだろう。
「外見てる分には、問題なくてさ」
それは、確かにその通りである。校庭は部活動を行う生徒の為に、夜間照明で照らされているからだ。
だが亘にとって、そんなことはもうどうでもよくなっていた。さらりと告げられた美鶴の言葉に、動悸は激しくなるばかりだ。
とても見ていられなくて、亘は慌てて外から視線を逸らした。勿論美鶴の顔を見るのも恥ずかしいから、自然と俯きがちになる。机に目を落として――亘は、あれ、と思った。
「これ、どうしたの?」
話を変えるのにちょうど良いと、亘はそれを指差した。それは、随分と可愛らしいラッピングを施された、手のひら大の包みだった。美鶴が腰掛けている席の、机の上にちょこんと置いてある。
美鶴は、今始めてその存在に気が付いたような顔をしてみせた。
「ああ、貰ったんだ。調理実習で作った、マフィンだって」
さらりと言ってのける。亘は自分の顔が強張るのを感じた。
「……誰から?」
「さあ、誰だったっけ」
首を傾げる素振りは見せたものの、あっけらかんとした美鶴の態度に、亘は我知らずため息を吐いていた。
「美鶴……それってさ」
「なに? 食べないの?」
美鶴を諌めるべく口を開いた亘だったが、彼の予想外の反応に間の抜けた声を発してしまった。
「……は?」
「お腹、空いてると思ったから貰っておいたんだけど」
いらないんなら、俺が食べようかな。そう言って、美鶴は包みに手を伸ばした。指先で摘んで、目の高さに持ち上げる。
「いらない?」
亘を見上げて、包みをちょっと揺すってみせる。
「……食べます。頂きます」
亘は仕方なく肯くと、美鶴の手からその包みを受け取った。丁寧にラッピングを解くと、中から良い香りと共に、小振りのマフィンが顔を覗かせた。形は少しばかり歪だったけれども、とても美味しそうだ。一口齧ってみる。予想に違わず、やはり美味しい。
美鶴はといえば、マフィンをぱくつく亘を、口元に笑みを浮かべながら眺めている。このマフィンが、本来誰の口に入るべく作られたかなんて、全く考えていない様子である。
――こんなことしてたら、いつかしっぺ返しを食らうに違いない。
だが些細な嫉妬から、知らぬふりをしてしまう亘も同罪だ。
「美味しかった?」
亘が最後の一口を飲み込むと、美鶴が聞いてきた。
うん、と肯きかけた亘だったが、思いなおして机に両手をついた。腰を屈めると、美鶴の顔を覗きこむ。亘の意図を察したであろう美鶴が静かに目を閉じるのを確認してから、亘は二人の隔たりをゼロにした。
「……どう?」
「……甘い」
吐息の触れる距離からそう問えば、美鶴は僅かに眉を顰めて答える。
「口直し」
そんな風に言って、今度は美鶴から顔を寄せてくる。
美鶴、甘いもの嫌いだったっけ?
亘はふと思った。だがマフィンよりもそれが魅惑的なのは確かだと、深く追求することはなかった。
お約束万歳!
20061019UP
何て呼んで欲しい?
「じゃあなっ、芦川」
そう叫んで去って行くクラスメイトに、美鶴は手を振っている。その様子をぼんやりと眺めていた亘は、ふと疑問を口にした。
「そういえば、僕だけだよね」
「……なにが?」
美鶴は亘に視線を寄越すと、首を傾げる。
「美鶴のこと、美鶴って呼んでるの」
「ああ……そういえばそうかも」
こっくりと肯き、肯定してみせた美鶴は、ゆっくりと歩き出す。亘も美鶴の後を追い、その隣に並んだ。揃って、昇降口を出る。
薄暗い校舎内から急に外に出た所為だろうか。午後の陽射しにきらきらと反射する、昇降口前のタイル地の床が、酷く眩しい。
亘は思わず立ち止まり、目を細めた。隣を見れば、美鶴も同じように目を細めている。二人は暫くの間目を慣らしてから、再び歩き出した。のんびりとした足取りで、正門へと向かう。
「それが、どうかした?」
唐突に口火を切ったのは、美鶴だった。
不意に話を蒸し返されて、亘はなにを言われているのか咄嗟に理解出来なかった。だがすぐに先刻の続きだと思い至り、ああ、と声を上げる。
「もしかして、名前で呼ばれるの嫌なのかなって、ちょっと思って」
「別に……そんなことないけど」
美鶴はちょっとだけ考える素振りをみせてから、そう答えた。
「そっか」
亘は肯くと、目を瞬いた。
「それならいいんだ」
安堵の笑みを浮かべる。
すると亘につられたのか、美鶴もほんのり微笑んだ。そういえば、と思い出したように口にする。
「名前で呼んでるのって、おまえくらいだな」
「え……?」
何気なく呟かれた言葉に、亘は束の間絶句する。しかしすぐに気を取り直して、問いかけた。
「そうなの?」
「うん。そうだと思う」
それがどうかしたか? とでも言いたげな顔をして、美鶴は亘を見た。その視線がなんだか気恥ずかしくて、亘はつい俯いてしまう。上目遣いに美鶴の様子を窺いながら、取り繕うように語を次いだ。
「なんか……それって……僕だけ特別みたいだ」
美鶴は、一瞬きょとんとした表情を浮かべた。だがすぐに相好を崩すと、苦笑混じりに言った。
「そうなる……かな?」
美鶴の台詞に、亘の心臓は高鳴った。返事にも窮してしまい、ついつい黙り込む。亘の胸中など知る由もない美鶴は、更に言葉を続けた。
「俺が名前で呼んでるのも、おまえくらいだな」
そう言って微笑む美鶴に、亘は頬がかっと熱くなるのを感じた。心臓は、もう喧しいくらいにばくばくと脈打っている。
見慣れた筈の美鶴の顔をどうしてだか見ていられなくて、亘は慌てて視線を逸らした。
なんか色々そうだといいなぁって感じで。
20061021UP
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