受け止めるよ何度でも



 部活を終えた亘は、着替える間も惜しんで、ユニフォームのまま校舎へと向かった。下駄箱で上履きに履き替え、薄暗い廊下を走り、階段を駆け上がる。息せき切って教室の前に辿り着いた亘は、そこで一旦足を止めると、大きく深呼吸した。気持ちを落ち着けてから、静かに教室の引き戸を引く。ちょうど身体の幅ほどまで開けたところで、亘は教室内を覗き込んだ。

 西日の差し込む教室は、廊下と違って随分と明るい。探すまでもなく、 在るべきヒトが在るべき場所に腰掛けているのを認めて、亘は安堵の吐息を漏らした。彼は両肘を机について、組んだ手に額を預けている。亘がこうして覗いているのにも、気付いているのかいないのか、微動だにしない。急に近寄って驚かせてしまわないよう、亘は口を開くと彼の名前を呼んだ。

「美鶴」

 亘の呼びかけは、決して大きなものではなかったけれども、しんと静まり返った放課後の教室内には、よく響いた。美鶴の元にも確かに届いたであろうことが、彼がその身を僅かに震わせたことで知れる。

 だが美鶴にそれ以上の動きは見られなかった。亘の方を見もしなければ、言葉を発したりもしない。組んだ手に額を預けて、ただただじっとしているだけである。その様はまるで、現世にある、ありとあらゆるものから身を守っているかのようで、亘は胸の痛みを覚えた。そしてそれは、あながち間違いではないのだ。そう、彼は今、ひどく傷ついている。

 亘は今一度深呼吸すると、美鶴、と呼びかけた。

「側に、行ってもいい?」

 だが美鶴からの反応はなかった。しかし亘は急いて言葉を重ねたりせずに、辛抱強く待った。
 すると暫くして、美鶴が小さく肯いてくれたのが見て取れた。亘は教室に身体を滑り込ませると、引き戸を閉めた。ゆっくりとした歩調で、美鶴の元へと向かう。

 美鶴の席は、校庭が望める窓際の、一番後ろだった。席替えの時、アタリを引いたと嬉しそうな笑みを浮かべていた美鶴が不意に思い出されて、なんだか亘は泣きたくなってしまった。
 瞬きを繰り返して、なんとか涙を堪えると、亘は自分の席に腰掛けている美鶴の隣に立った。その肩に、そっと手を置く。

「美鶴、大丈夫?」

 そんなことしか言えない自分を胸中で罵りながら、亘は続けた。

「もう遅いし、帰ろう。美鶴の家でも、家でも、どっちでもいいからさ」

 ね?と問いかけながら、亘が美鶴の背中をさすってやると、美鶴は手の下で深いため息を吐いた。それから小さな小さな声で、こう言った。

「……ごめん……」
「美鶴が謝ることなんか、ないよ」

 憤りから、思わず声を荒げてしまいそうになるのを懸命に堪えて、亘は答えた。詮索好きのお節介の所為で、美鶴はこれまでに何度もこんな目に合ってきたに違いないと思うと悔しくて、口唇を噛む。それでも幼い頃は、その矛先が直接美鶴に向けられることは、あまりなかったのであろう。亘がそうと知った経緯を考えても、そんなに誤った推測ではないと思うのだ。だが年を追うごとに、美鶴が矢面に立たされるようになっていった。お気楽なお子様たちは、平気でヒトを傷つける。でも亘だって、そんなお気楽なお子様たちの一員だ。

「美鶴ごめんね……」
「おまえこそ、なんで謝る訳?」

 亘の口をついて出た言葉に、美鶴が漸く顔を上げた。その潤んだ瞳に、憔悴した顔に、亘がもう一度ごめん、と言うと、美鶴は苦笑を浮かべる。

「変なヤツ」

 そう呟くと、不意に亘に抱きついてきた。美鶴は椅子に腰掛けたままだから、ちょうど亘の腰に腕を回し、お腹に顔を埋める格好となる。

「美鶴っ、僕汚いよ」

 亘は慌てて美鶴を引き離そうとしたが、美鶴は首を横に振ると、殊更ぎゅうっとしがみついてきた。暫くはおろおろと美鶴の頭頂部を見下ろしていた亘だったが、美鶴は一向に離れようとしないので、ため息を吐くと、後で汗臭いとか、泥臭いとか言わないでねと断っておいてから、美鶴の頭をそっと抱き締めた。

「……言わない、と思う」

 亘のユニフォームに顔を埋めている所為で、幾分くぐもった声で美鶴が言うのに、亘は苦笑を浮かべた。考えたくもないが、これからもきっと、こういったことはあるに違いない。それが美鶴の負ってしまった運命なのだ。亘がそれを肩代わりすることは出来ないけれども、せめてこうして傍にいられればいいと思う。ずっと、ずっと。

亘は美鶴の頭をぎゅうと抱きしめた。その温もりがとても愛おしかった。



痛い系、切ない系も大好物です。
20060825UP




そういうトコも好きなんだけど



 美鶴といる時、亘はいつも一生懸命話をする。まるで寡黙な美鶴の分まで、自分が喋らなければならないと思っているかのようだ。
 今だって例にもれず、亘は一生懸命言葉を連ねている。学校で何があったとか、友達の誰某がこうしたとか、今はまっているゲームの進行状況だとか。はっきりいって、美鶴にとってはくだらないの一言に尽きる内容ばかりである。以前の美鶴だったら、煩い喧しい黙れとでも言って、早々に会話を終わらせていたに違いない
 。だが相手が亘となると、どうしてだかそうする気にはなれなかった。大方生返事ばかりではあったけれども、根気よく亘の話に付き合ってやれるのだ。

「でね、おばあちゃんとか、前よりもっと甘くなってさ、ゲームとかこっそり買ってくれるんだけど、この間お母さんに見付かってすっごい怒られちゃった」
「へえ」
「けど、おじさんが味方してくれて、取り上げられなくって済んだんだよ」
「そう」
「カッちゃんとはもう一緒に遊んだんだけど、すっごい面白いんだ。今日美鶴もやろうよ」
「ふーん」
「……美鶴、僕の話聞いてる?」
「聞いてるけど?」

 不意に亘が恨めしげな声で問いかけてくるのに、美鶴は首を傾げるとそう答えた。だが亘はいまいち納得がいかないようで、不貞腐れたような顔をして美鶴を見つめている。

「本当に?」
「ゲーム、するんだろう?」

 美鶴は仕方なく言葉を重ねた。すると亘はぱっと顔を輝かせて、そうそう、なんて嬉しそうに肯いている。なんとも単純なものである。本当はゲームになんてあまり興味がないのだけれども、それで亘が喜ぶのなら、まぁ付き合ってやるかなんて思ってしまう自分に、美鶴はちょっと驚いていたりする。どころか、亘に対しては、得てしてこういう風に応じてしまうのだ。

 お気楽なお子様なんて、大嫌いだ。美鶴のその姿勢は、幻界での経験を経ても変わりない。けれども例外が出来てしまったのだ、唯一ではあったけれども。
 それがいいことなのかどうなのか、美鶴は判断しかねていた。だがはっきりしていることもある。美鶴は亘とのこういう時間が、意外と好きだった。亘が変わらずにお気楽なお子様でいてくれていることに、安堵さえ覚えているくらいだ。

「美鶴、早く行こう」
 全開の笑顔で亘が言うのに、美鶴も笑みを浮かべると肯いた。

* * * * * * 

「……美鶴、僕の話聞いてる?」

 あんまりにも素っ気ない美鶴の返事に、ちょっとばかり気分を害してそう問いかけてみれば、あっさりとこう切り返される。

「聞いてるけど?」

 ……とてもそんな風には見えないから、わざわざ聞いている訳で、でもそんなことは言える訳がなくて。亘は不満も露に美鶴を見た。

「本当に?」
「ゲーム、するんだろう?」

 すると美鶴はやれやれ、といった雰囲気でそう答える。それで美鶴がちゃんと亘の話を聞いていてくれたのだと分かって、亘は顔を輝かせた。
 聞いてるなら聞いてるで、最初からそういう反応を見せてくれればいいのに、美鶴はいっつもこうだ。悲しいかなそんな美鶴に、亘はもう大分慣れてしまっていたけれども、たまに幾許かの不満を覚えて、こうして思わず問いかけてしまうのだ。
 けれども決して強くは出られない。だって亘は、美鶴のそういうところも好きだったりするからだ。素っ気ないようでいて、実は優しい美鶴が、なんだか亘は好きで堪らなかったりするからだ。
 変なの。自分でもそう思う。でも仕方がないじゃないか、それが本当の、本当なのだから。
 亘は満面の笑みを浮かべると、口を開いた。

「美鶴、早く行こう」

 美鶴も笑みを浮かべて、肯いてくれた。



20060826UP



跳ね上がった心で気付いた



 二人は現世で、一番近しい存在なのだと、亘は思う。幻界なんていう、異常な経験を分かち合っているのだから、それも当然のことだろう。だからこれまで極力ヒトとの積極を避けて過ごしてきた美鶴も、亘を受け入れてくれたのだろうし―――勿論、アヤが帰ってきたおかげでもあるだろうが―――、亘に至っては言わずもがなである。

 二人はそれがごく自然の状態であるかのように一緒にいた。これからもずっとずっとそう在り続けるのだと、亘は思っていた。そう、つい先日までは。

「亘、なにやってるんだよ」

 美鶴の苛立ちを孕んだ声に、物思いに耽っていた亘は我に返った。咄嗟に状況の判断がつかなくて、きょとんとした顔で目の前に立つ美鶴を眺める。美鶴は訝しげな表情で口を開いた。

「信号、変わっちゃうだろ。早くしろ」

 口早にそう言うと、亘の手を取る。亘は咄嗟に美鶴の手を振り払いそうになってしまったが、その衝動を懸命に堪えて、曖昧な表情を浮かべた。
 そんな亘に気がついたのか、美鶴は一瞬眉を顰めて、けれども今は道を渡る方が優先されると思ったのだろう、亘の手をぐいぐい引っ張って、横断歩道を渡り始めた。亘は逆らうことなく、美鶴に従う。ばくばくと早鐘を打つ心臓に、口唇を噛み締めた。

 こんなの変だ、おかしい。分かっているけれども、自分ではもうどうしようもなかった。
 美鶴とずっと一緒にいたい、その気持ちに変わりはない。だが亘の所為でそれは叶わないんじゃないかと思うと切なくて、亘は亘の手を引いて先を行く美鶴に気付かれぬよう、密やかにため息を吐いた。

* * * * * *

 信号待ちの間に、不意にぼんやりし始めた亘は、信号が変わったことにさえ気付かない様子だった。最近はよくこういうことがあったから、美鶴はため息を吐くと彼の名を呼んだ。

「亘、なにやってるんだよ」

 すると亘ははっとして顔を上げると、いまいち状況が分からないといった表情で美鶴を見る。仕方なく美鶴は、今一度口を開いた。

「信号、変わっちゃうだろ。早くしろ」

 そう言って、彼の手を取る。逆らう間を与えずぐいと引っ張って、横断歩道を渡り始めた。
 抵抗されるかと思ったが、意外にも亘は素直に美鶴のされるがままになっている。だがその手の微かな震えは隠しきれるものではなかった。
 一歩後ろを歩く亘に気付かれぬよう、美鶴は密やかにため息を吐いた。

 亘は気付いているのかもしれない。だけど馬鹿のつくお人好しだから、自分のことよりも美鶴のことを気にして、あからさまな態度を取らないだけなのではないだろうか。
 きっと、そうなんだろうと、美鶴は自嘲の笑みを浮かべる。でも、今更亘から離れることなんてとても考えられない美鶴は、その亘の優しさに付け込むだけだ。

 決して離したりするものかと思いながら、美鶴は亘の手をぎゅうと握り締めた。



ちょっと前回と同じパターンで。
20060827UP



目一杯、背伸び中



 言葉遣いもきちんとしていて、礼儀正しいし、お勉強も運動も出来るんでしょう?亘と同い年だなんて、信じられないくらいしっかりした子ねぇ、とは、三谷家における美鶴の総評である。母邦子に至っては、美鶴の端正な容姿も大層お気に入りのようで、あんな女の子も欲しかったなぁなんて、恐ろしくて美鶴には絶対に聞かせられないようなことを呟いたりもしているくらいだ。

 大好きな美鶴が自分の家で高評価を得ているのに、亘はとても満足していた。子供のうちは、友達付き合いにも親が干渉してくるので、親に対する印象が非常に重要だからだ。そして美鶴は外面がいいだけでなく、本当に先のような人物であった。邦子に言われるまでもなく、亘でさえ時折、同じ年であることを疑ってしまうほどである。

 そんな美鶴の一番の友達でいられることが、亘にとっては自慢のひとつであった。でも、最近、ちょっとだけ、そういうことを考えると胸の辺りがもやもやするのだ。
 どうしてだろうと自問して、一番近い言葉を探ってみたら、悔しいという一言に行き当たってしまった。けれどもそうだと自ら認めてしまえば、後は霧が晴れたようにもやもやの原因が分かっていった。亘は、大人な美鶴に置いていかれるのが、悔しいのだ。美鶴の隣に、並んでいたいのだ。

 しかし亘の芦川家での総評といえば、元気で明るくって素直で子供らしい子、である。美鶴という子供の存在をふまえた上で考えると、芦川家での亘の評価は、とても高いものなのだろう。でも亘にとっては大変不本意な結果である。美鶴は大人で、亘は子供だと断言されているようなものだからだ。

 そんなことばかりを悶々と考えていた所為だろう。ある日、随分と遅い時間に塾の連絡網が回ってきた。連絡網といっても、学校のようにきちんと組まれたものではなく、適当に友達同士に回すような形である。宮原からの連絡を受けた亘は、じゃあ芦川にも回しておくねと言って電話を切った。幻界から帰ってみたら、いつの間にか転校していた美鶴だったけれども、塾だけは変わらずに同じところへ通っていたのだ。

 本来ならとても電話なんか出来ない時間だったけれども、流石に塾の連絡網とあっては邦子も文句を言ったりしない。それでも一応塾の連絡網だった、芦川んちに回すねと断ってから、亘は受話器を取った。既に暗記済みの美鶴の家の番号を回す。そう待つ事もなく、コール音が途切れた。

「はい、芦川です」

 聞きなれた美鶴の声だ。だが亘はそうと知っているにも関わらず、こんな言葉を口にしていた。

「夜分恐れ入ります、三谷と申しますが……」

 はっきりいて、単なる美鶴の真似だった。美鶴は亘の家へ電話する時、ちょっとでも遅い時間だとこう言うのだと、亘は邦子から聞かされていた。ホント、芦川君ってきちんとした子ねぇ、という賛辞と共に。亘が出るとそんなことを言ったりしないから、亘は直接聞いたことはないのだけれども、自分だってそれくらい言えるのだと、ずっとずっと思っていたのだ。

 ところが電話の向こうの美鶴は、不意に黙り込んでしまった。亘は何か間違ったことを言ってしまったのではと、慌てて芦川?と呼びかける。すると、途端に受話器から美鶴の笑い声が聞こえてきた。

「おまえ、どうしたの?俺だって分からなかった?」
「……別に」

 亘はそう返事をするので精一杯だった。美鶴はさもおかしそうにくつくつ笑いながら、ふーん、と言っている。
 そんな彼の態度に、全てを見透かされているような気がして、亘は口早に用件を伝えると、美鶴がまだ何か言いたげであるのも無視して、電話を切ってしまった。電話台にもたれかかるようにしてため息を吐く。

 すると背後から邦子の言葉が飛んできた。

「あんたもそんなこと言えるようになったのねぇ」

 こうなってくると亘はなんだかもう恥ずかしくて仕方がなくって、邦子に返事をすることもなく、踵を返すと自分の部屋へと向かった。その背中に、追い討ちをかけるように邦子が言う。

「これも芦川君のおかげかしら。ありがたいことだわ」

 ……結局褒められるのは芦川かよ。亘は不貞腐れた顔で自室のドアを勢いよく閉めた。バタンっ、と思ったより大きな音がしてしまい、邦子の叱る声がすぐに飛んでくる。亘はドアに寄りかかって、首を竦めた。



いい意味でライバルな二人にも萌え。
20060829UP




今更だけど言わせてよ



 なんとなく、だけど、そうなるんじゃないかみたいな予感はずっとあって、でも美鶴も亘も、あえて気が付かないふりをしてきた。
 勿論そんなこと聞ける訳ないから、美鶴に関しては多分としか言いようがないけれども、亘に関しては確かにそうなのだ。

 ではどうしてそんな風にしてきたのか。答えは簡単だ。二人共―――美鶴だってきっと―――、ただただ恐れていただけなんだと思う。だって二人は、先に進むことによって生じるリスクを、いやという程知ってしまっていたからだ。本来なら、成長と共に徐々に知っていくであろうに、美鶴と亘はそうではなかった。

 それでも亘は、まだ子供の常識の範囲内で処理出来る程度だったからいい。だが美鶴は違った。大人でさえ対処に困るような出来事に幼い頃にたった一人で放り込まれて、さんざ苦労して、それでそういった事々に臆病になってしまったとしても、仕方ないのではないだろうか。

 今のままでいれば、ずっと一緒にいられるかもしれない。一歩足を踏み出してしまえば、そこは奈落の底かもしれなかった。
 そもそも二人にとってそうなることは当たり前のように感じられたけれども、現世では認められざる想いだ。
 いつか後悔する時が来るかもしれない。
 だが二人はもう足を踏み出してしまった。

 どちらからともなく、気がつけばそうしていた。

 口唇をくっつけ合うだけの、拙いキスを何度も何度も繰り返してから、二人は漸く顔を離した。至近距離から互いの目を見つめ、微かに笑みを浮かべる。
 放課後の教室はしんとしていて、西日の所為で意外と明るかった。ひとつの机の上に課題を広げて、二人は向かい合って座っている。美鶴も亘も机の上に肘やら手やらをついていたから、気がつけばノートがくしゃりと皺になっていた。

 だが今はそんなこと、気にする余裕はなかった。美鶴が小さくため息を吐いた。どこか、あーあ、やっちゃった、みたいな空気を纏っていて、亘は苦笑を浮かべる。亘もまさにそんな心境だったからだ。

 けれどもこうなってしまっては、もうどうすることも出来ない。二人は足を踏み出してしまった。後戻りは出来ない。

「あのさ、今更なんだけど、美鶴に言いたいことあってさ」

亘がそう呟けば、美鶴も困ったような笑みを浮かべながら肯いた。

「うん、俺も」



20060830UP

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