これって禁断症状?
つまんない、つまんない、つまんないなぁ。
くたくたの身体をさも億劫そうに動かして、のろのろと着替えながら、亘はそんなことを考えていた。というより、脳内がその言葉で埋め尽くされていると言った方が早いかもしれない。考えれば考える程つまんなくなるのだから、なるべく考えないようにしたいのだけれども、こうしてぼんやりしてしまう瞬間は無理だった。
つまんないといえば、アイツはいっつもつまんなさそうな顔してるよなぁとか、更に余計なことまで考えてしまう。でもだからこそ、時折浮かべる笑顔が最高なんだよなぁとも。
そういえば、かれこれ一週間はまともに顔を見ていない。大会前は部活も厳しくなるとは想像していたけれども、まさか朝練昼練放課後まで、びっしりきっちりだったとは。好きで入ったサッカー部だけれども、今はちょっとだけ後悔している。せめて、せめて昼休みくらいは、というよりお弁当くらいは、好きに食べさせて欲しかった。部室で部員揃ってだなんて、そこまでしなくてもいいんじゃないだろうか。
だが下っ端の下っ端、一年生の亘にそんな進言が出来よう訳がない。文句を言うのも胸中だけに止めて、ただただ従うよりほかなかった。
下っ端一年生は後片付けをしなければならないから、彼らが着替えを始める頃には、既に上級生たちは部室から消えている。先輩のいない開放感から、亘の同級生たちはなにやらわいわい騒ぎながら、楽しそうに着替えをしていた。
けれども亘はとてもその輪に加わる気になれなくて、一人黙々と着替えを済ませると、お先でーすばいばーい、と声をかけて部室を後にする。教科書やノート、それに着替えが加わってぱんぱんの鞄を肩にかけ、これまたのろのろと校門へ向かって歩き出した。
つまんない、つまんない、つまんないよう。
そんな思いに押し潰されそうになっていたからだろうか。亘はなかなか自分が呼びかけられているのだと気付けなかった。
「おい、亘」
苛立ちも露に叫ばれて、亘は漸く振り返った。昇降口から歩いてくる姿を認めて、信じられない思いでその名を口にした。
「美鶴……?」
「おまえ、ヒトが折角待っててやったのに。無視するなんでどういうつもりだ?」
美鶴は足取りも軽やかに亘の隣まで歩いてくると、しかめっ面でそう言った。亘は慌てていい訳する。
「や、ちが、だって、ちょっと考えごとしてて」
「考えごと?」
美鶴が首を傾げるのに、亘は小さな声で答えた。
「……美鶴のこと……」
すると美鶴は一瞬きょとんとした顔をして、それから苦笑を浮かべた。
「それで無視されてたら、世話がない」
「だってぇ……」
亘はぶつぶつといい訳を続ける。
「もう一週間も美鶴と会ってないから、つまんないなぁって、そればっかり考えちゃって」
「じゃあ嬉しいだろ?」
美鶴が勝ち誇ったような笑みでもって、そう言う。亘は勢いよく肯きながら、やっぱり美鶴の笑顔は最高だなぁ、と思った。そして、もしかしたら美鶴も、亘と会えなくてちょっとはつまんないと思っていてくれたのかもしれないと思い至り、なんだかほんわりあったかいような気持ちになった。
これで明日からも部活を頑張れる、なんて言ったら現金すぎるだろうか。
どう考えても「僕を待つ灯火」の反動です。
20060820UP
サラリと言わないで欲しい
校門のところに、所在なげに佇む美鶴の姿を認めて、亘はぱっと駆け出した。美鶴、と叫べば、亘の視界の中で美鶴はゆっくりと振り向いた。右手をちょっと上げている。亘は手を振り返すと、全速力で彼の元へと走った。
「ごめん、お待たせ。待ったでしょ?」
「……別に」
勢い余ってたたらを踏みながらも、なんとか美鶴の前で立ち止まった亘は、口早にそう言った。だが美鶴の返事はひどく素っ気ない。それだけでなく、さっさと歩き始めてしまう。
亘はあれ?と思い、首を傾げた。
「美鶴、なんか怒ってる?」
「……別に」
慌てて美鶴の後を追いながら、先を行く彼の背中に問いかけてみても、これまたひどく素っ気ない返事が返ってくるばかりだ。亘は苦笑を浮かべた。だって、これじゃあ怒ってますって言っているようなものだ。
亘は足を速めると、美鶴の隣に並んだ。横目でこっそり様子を窺うと、美鶴は能面のような無表情さでしかと前を向き、一心に歩いている。きっと、亘が見ているのにも気付いているだろうに、あえて無視しているといった感じだ。
亘はため息を吐いた。美鶴はあまり感情を表に出さず、自己解決を試みるから、こうなると長引くことが多い。試験前で部活がなくて、折角久しぶりに二人で帰れるというのに、つまんないなぁ、なにかあったのかなぁ、なんて亘がぼんやり考えていたら、美鶴が唐突に口を開いた。
「……なんだって?」
「え?」
亘は反射的に美鶴を見た。美鶴はやっぱり前を向いたまま、ちらとも亘を見ない。だが言葉を交わす気にはなったようである。
「さっきの……」
亘は、ああ、と声を上げた。それからちょっと頬を赤らめると、美鶴から視線をそらし、小さな声で告げた。
「なんか……好きって……言われた」
放課後、美鶴と連れ立って昇降口に向かっていた亘は、合同授業で一緒になる隣のクラスの女子に呼び止められた。話があるのでちょっとだけ時間が欲しいという。その切羽詰った顔に、亘はちょっとだけならと答えてしまった。美鶴に校門のところで待っていてくれるようお願いすると、その子の後について行ったのだ。まさかそんな、告白されるだなんて、微塵も思っていなかったからだ。
亘が先刻のことを思い出して、一人あわあわしていると、美鶴が問い詰めるような声で聞いてきた。
「それで?」
「は?」
「おまえは?なんて答えたの?」
どうしてそんなことを聞くんだろう。そう思った亘は、美鶴を見た。するといつの間にか美鶴も、ひたと亘を見ている。なんだか居た堪れなくなった亘は俯くと、さっさとこんな話を終わらせたくて、小さな声で答えた。
「……よく分かんないって……」
「なに?」
「そういうの、よく分かんないって、だからごめんって言ったんだよ」
半ば喚くようにそう言うと、亘は黙り込んだ。なんで、なんでこんな恥ずかしいことを美鶴に言わなきゃならないんだろうと口唇を噛む。しかも美鶴はふーん、とか言っちゃってる。美鶴はもてるから、こんなことには慣れっこなのかもしれないけど、亘にとっては初めての経験なんだから、たとえちょっと変な断り方をしてしまったって、仕方がないじゃないか。
だがなけなしのプライドが邪魔をして、亘がそれらを口にすることはなかった。地面を睨みつけたまま、ただひたすら足を動かす。
そうしてふと気がつけば、隣から美鶴の姿が消えていた。これには流石に亘も驚いてしまった。
「美鶴っ?」
そう声を上げると、きょろきょろと辺りを見回す。夕暮れ前の中途半端な時間の所為か、住宅街を通る通学路には、人気がない。慌てて振り返ると、ほんの数歩後ろに美鶴の姿があった。亘は安堵の吐息を漏らすと、咎めるような口調で言った。
「もう、いなくなったかと思ったじゃないか」
けれども美鶴は亘をじっと見つめるばかりで、返事をしようとしない。
「美鶴?」
亘は今一度呼びかけると、彼に向かって歩き出そうとした。その時、不意に美鶴が口を開いた。
「俺も」
亘は足を止めて、美鶴を見た。
「俺も、おまえが好きだよ」
美鶴はなんでもないことのようにそう言うと、一瞬だけ顔を伏せてから、歩き出した。言われたことがすぐに理解出来なくて、ただただ呆然と美鶴の所作を見守っていた亘を、追い越してゆく。
それで漸く我に返った亘は、勢いよく振り返った。美鶴がどんどん遠ざかってゆくのを認めて、急いで後を追う。
「美鶴っ」
必死の思いで呼びかけると、美鶴は足を止めた。顔だけで亘を振り返る。
「なに?」
「なにって、なにっておまえ……さっきの」
その隙に美鶴に追いついた亘は、たどたどしく言い募る。頭の片隅ではぼんやりと、どうして日に2度もおんなじことで慌てなきゃならないんだろうと思っているのに、なんだか現実に起こっていることとは思えなかった。美鶴が好きって、誰を?亘を?本当に?
美鶴は亘を暫くの間じっと見つめていたが、突然苦笑を浮かべると、口を開いた。
「よく、分かんないんだろ」
「えっ、うん」
亘は思わず肯いた。
「だったら、いいんだ」
「いいって、なにが?」
「だから、いいんだよ」
そう言うと美鶴は、亘の頭をぽんぽんと優しく叩いた。まるで幼い子供を宥めるかのような行為に、亘はちょっとむっとして、両手で頭を押さえる。すると美鶴が笑みを零した。
「分かるようになったら、考えてよ」
亘はなんとも返事のしようがなくて、口を閉ざした。
そんな亘の様子に、美鶴は肩を竦めてみせると、さっさと歩き出してしまった。けれども今度は、亘も後を追うようなことはしなかった。だって追いかけたところで、美鶴になんと言えばいい?そもそも名前くらいしか知らない隣のクラスの女子と美鶴とじゃ、おんなじこと言われたって全然違うのに、どうして美鶴はそんなことも分からないんだろう。
だがあんまりにも突然のことで、亘の思考回路は完全にストップしてしまったようだ。どうすべきなのか、全く思い浮かばない。
「美鶴の馬鹿……」
遠ざかってゆく美鶴の後姿をじっと眺めながら、亘はぽつりと呟いた。
もう全然1000文字じゃないですorz
20060821UP
長雨に閉ざされた空間で
「雨だね」
「そうだな」
「折角夏休みなのに、ね」
「そうだな」
「いつも夏休みに入っても、梅雨って明けてなかったっけ?」
「どうだったろ」
「早く止まないかなぁ、遊びに行きたいなぁ」
「……いいから手を動かせ」
「わっ」
飛んできた消しゴムを、すんでのところで避けた亘は声を上げた。
「美鶴、なにするんだよ」
「おまえが愚痴愚痴喧しくて、手を動かさないからだろう?」
テーブルを挟んで、向かい合って座っている美鶴が、亘に冷たい一瞥をくれる。亘は美鶴に、恨めしげな視線を向けながら消しゴムを拾った。
「だってぇ、毎日宿題ばっかりやってて、つまんないんだもん」
「どうせ雨でどこにも行けないんだから、今のうちに済ませておいた方がいいだろう」
美鶴はそう言うと、手元に視線を落とした。さらさらと、問題集を解いてゆく。亘はため息を吐いた。
「まあ、そうだけどさ……」
仕方なく、美鶴に倣って問題集に戻る。夏休みに入ってからの連日の雨と、ある意味教師や親より厳しい監督のおかげで、宿題は残すところ後半分あまりである。いくら雨だからといって、こんなに宿題が進んでいるのなんて、絶対に美鶴と亘くらいだろうと思うと、亘はため息を隠しきれない。
でもあんまりつまらなさそうにしていると、こわーい監督が睨みつけてくるので、亘はせっせと問題を解くことにする。今日のノルマはこの問題集だ。これさえ終えれば、後は美鶴と喋ったり、ゲームしたりして遊べるのだからと自分に言い聞かせて、亘は手を動かした。室内に、雨の降りしきる音に混じって、シャーペンを走らせる音が満ちた。
暫くすると美鶴が、ため息と共にシャーペンを置いた。それを視界の端に認めた亘が顔を上げると、美鶴は問題集を手に取り、最初からぱらぱらとまくっている。最後まで見終わると、それを机の上に放って、美鶴は両手をうんと伸ばして伸びをした。首を左右に曲げている。
「終わったの?」
「そう」
亘が問うと、美鶴はこっくりと肯いてみせた。
「おまえも、早くしろよ」
そう言われて、亘は慌てて問題集に戻った。まだ後三分の一程残っている。亘が内心冷や汗を書きながら、必死で問題を解いていると、美鶴が唐突に口を開いた。
「……雨、全然止まないな」
「そうだね」
亘は上の空で返事をする。だが美鶴は全然気にならないようで、更に続けた。
「なんか俺とおまえ、二人だけみたいだ」
「……そうだけど?」
亘は顔を上げると首を傾げた。
「お母さん、仕事だもん」
すると美鶴は一瞬不思議そうな顔をしてから、ぷっと吹き出した。
「ああ、そうじゃない。そうじゃなくて……」
そう言うと、首を巡らせ窓を見上げる。亘もつられて、窓を見上げた。風があるのだろう、雨が吹っかけてきていて、窓はしとどに濡れている。外の様子も、あまり分からないくらいだ。ざぁざぁと、雨音が喧しく、他にはなにも聞こえない。
それで漸く亘にも、美鶴の言いたかったことが分かったような気がして、肯いた。
「本当だ、二人だけみたいだ」
「だろ?」
美鶴も同意する。
「まるで、ここだけ現世から切り離されてるみたいだ」
そう言って目を細めた美鶴の横顔が、なんだかとても寂しそうに見えて、亘は咄嗟にこんなことを口にしていた。
「でもっ、美鶴とだったらいいよ」
「なに?」
美鶴が訝しげな視線を向けてくるのに、亘は更に言い募った。
「美鶴とだったら、二人だけでも、いいやって」
美鶴はちょっと驚いた顔をしてみせた。亘が、美鶴は僕とじゃいや?と問うと、その面に苦笑を浮かべてこう言った。
「おまえって、本当に変なヤツ」
「え?なんで?」
亘が声を上げると、またしても消しゴムが飛んできた。
「いいから、さっさと宿題を済ませろ」
「そんなだって話かけてきたの美鶴……」
「いいから」
納得のいかない亘は反論するが、美鶴に押し切られてしまった。不貞腐れた顔のまま、亘は仕方なく宿題に戻る。なんだか悔しくて、頑なに問題集を凝視した。
その所為で、美鶴が嬉しそうな笑みを浮かべているのに、亘は気付かないでいた。
20060822UP
何度目かの春
面白くもない担任の話をぼんやりと聞いていた亘は、隣の教室が不意に騒がしくなったのに気がついてはっとした。その騒々しさはすぐ廊下にも広がり、隣のクラスは早々にホームルームを終えたのだと知れる。バタバタと、昇降口へ走ってゆく数名の生徒が、廊下側の窓から見て取れた。
だが亘のクラスのホームルームは、まだまだ終わりそうにない。方々から密やかなため息が零れる中、担任はなにやらくどくどと喋り続けている。今年はハズレに当たってしまったと、亘もため息を吐いた。それだけでなく、美鶴と違うクラスになってしまったことが、亘をひどく落ち込ませていた。踏んだり蹴ったりとは、こういうことを言うんじゃないだろうかなんて、ついつい思ってしまう。
唯一の救いは、合同授業で一緒になるクラスに分かれられたことだった。要するに美鶴は、隣のクラスなのだ。つまんないホームルームなんかさっさと終わらせてくれる、アタリな担任が受け持つ、隣のクラスなのだ。
亘は今一度ため息を吐くと、机に頬杖をついた。見るとはなしに、廊下側の窓を眺める。そうこうするうちに、他のクラスでも徐々にホームルームが終わり始めたのだろう、廊下は騒々しさを増し、人通りは増えてゆく。けれども亘のクラスは、まだまだホームルームの真っ最中だ。
美鶴、どうしてるだろう。まさか始業式の日から、こんなにホームルームが長引くだなんて思ってもいなかったから、特に約束もせず、なんとなく一緒に帰るんだろうななんて思っていたけれど、待っていてくれるだろうか。でも美鶴のことだから、あんまり遅いと不機嫌になって、一人で帰ってしまうくらいしかねない。
そうなったら踏んだり蹴ったりの……後はなんて言うんだろう?
そんなくだらないことで亘が頭を悩ませている時、当の美鶴が廊下に姿を現した。亘はすんでのところで、あ、という言葉を飲み込み、じっと美鶴の動向を眺めた。
美鶴は窓から教室内を覗き込みながらゆっくりと歩いていたが、亘と目が合うと足を止めた。それから教壇で喋り続けている教師にちらりと目をやり、眉を顰めると、再び亘に視線を戻した。
亘が縋りつくような思いで見つめていると、美鶴は自分の教室の方を指差しながら、ぱくぱくと口を動かした。―――待ってる。必死で美鶴の口の動きを辿った亘は、そう確信すると、微かな笑みを浮かべて頷いた。伝わったことに満足したのか、美鶴も笑みを浮かべると頷いて、手を振りながら教室の方へ戻ってゆく。亘はそれを最後まで目で追っていた。いよいよ美鶴の姿が見えなくなっても、そのまま廊下を眺め続けていた。
年を経るごとに、二人を取り巻く様々な環境の変化から、段々と一緒にいられる時間が少なくなってきている。幸いにも同じ中学校に通えたが、こうしてクラスは違ってしまうし、部活動の都合もあって、なかなか小学生の時のようにはいかない。先を見れば、同じ高校に通えるとも限らないし、大学に至ってはほぼ間違いなく別々になるだろう。
それでも亘と美鶴は、互いに都合をつけあって、出来る限り一緒にいるに違いないと思うのだ。たとえば今日のように。どれだけ季節が巡っても。
物思いに耽っていた所為だろう、担任の話がいつの間にか終わっていたのに、亘は気がつくのが遅れた。日直の号令に、慌てて立ち上がる。亘は挨拶もそこそこに、美鶴の元へと向かうべく、教室を飛び出したのだった。
20060823UP
キスとキスの合間に
ちょっとだけ顔を離して、こつんとおでこをぶつける。上目遣いに美鶴の瞳を覗き込みながら、亘はぽつりと呟いた。
「コーラ味」
すると美鶴は、幾分呆れたような表情で応じる。
「そりゃさっきまでコーラ飲んでたんだから、当たり前だろう」
「まあ、そうなんだけど」
そう言いながら亘は、今度は完全に美鶴から離れた。ベッドに腰掛けている美鶴の、隣に腰掛ける。
「そういえば、ファーストキスって何味だったかなぁって思ってさ」
「……今更なにを言い出す訳?」
美鶴が訝しげな顔を向けてきた。
「何年前の話だよ」
「そうまだ子供だったからさぁ、大好きな美鶴とキス出来て、もうそれでいっぱいいっぱいになっちゃって、全然憶えてないんだよね」
勿体無いなぁと、ため息混じりに呟けば、ふーんと鼻であしらわれる。
「そりゃ残念なことで」
美鶴は投げ遣りにそう言うと、机の上に避けてあったコップに手を伸ばした。半分程にまで減ったコーラに口をつける。浮かべた氷がコップにあたって、カランと涼しげな音を立てた。
美鶴の所作をぼんやり眺めていた亘だったが、ふと思い立って、こう問いかけてみた。
「美鶴は?」
「なに?」
「憶えてる?ファーストキスの味」
美鶴は途端に顔を顰めると、亘に冷たい一瞥をくれた。だが亘が、ちょっとまずかったかも、なんて思う間もなく、美鶴は不意に真顔になるとコップを机に戻した。吐息を漏らし、目を伏せてから、口を開く。
「ミルク味」
「は?」
亘は首を傾げた。
「甘ったるいミルク味。ふんわり柔らくって、すべすべで、最高だった」
「……それって……」
そうまで言われてしまったら、どんなに察しが悪くても、気がついてしまうだろう。亘は心持ち泣きそうになりながら、じとっとした目で美鶴を見た。それって、相手は僕じゃないよね?喉元まで出かかった言葉を、無理矢理飲み込む。そんなことをしたって、過去に起こった事実がなくなる訳じゃないのに、どうしてだか亘はそうしてしまった。悲しくて仕方がなくて、慌てて美鶴から顔を逸らす。
その時、唐突に美鶴が吹き出した。くつくつと、さもおかしそうに笑っている。あまりにも突然のことに、亘は泣きそうになっていたのも忘れて、ぽかんとした顔で美鶴を見た。亘の視線に気がついたのか、美鶴も亘を見る。ヒトの悪い笑みを浮かべながら、ばーか、とからかうような口調で言った。
それで亘は漸くあることに気がついて、あっと声を上げた。
「兄妹はカウント外だよ」
「そんなこと、おまえ言わなかっただろ?」
そう言って、美鶴はやっぱり笑い続けている。美鶴のあんまりにもあんまりな態度に、亘はむくれるとそっぽを向いた。すると流石に美鶴もやりすぎたと思ったのか、急に笑い声が止んだ。変わりに静かな声で呼ばれる。
「亘?」
「……」
だが亘は返事をしなかった。頑なに顔をそらし続ける。美鶴はベッドから立ち上がると、亘の顔を覗きこんできた。
「亘、不貞腐れるなよ」
「……美鶴が悪いんだろ」
「ちょっとからかっただけじゃないか」
「ちょっとじゃないよ」
亘が恨めしげな視線を向けると、美鶴は幾分困ったような笑みを浮かべた。
「じゃあ、いいこと教えてやる」
そう言うと、亘の両肩に手を置き、耳元に口を寄せる。
「コーラ味」
「え?」
亘は目を見開いた。すぐ横にある美鶴の顔を、まじまじと見る。美鶴は小首を傾げると、笑みを浮かべたその顔を近づけてきた。亘は反射的に目を閉じる。
口唇に、美鶴の温もりを感じながら、そういえばあの時も、こうして亘の部屋でコーラを飲んでいたんだっけと、不意に思い出した。
20060824UP
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