美鶴はその時、すごく、すごく、不機嫌だった。






メイ






 原因となった衝撃発言がなされたのは、芦川家のリビングでの事であった。


 
 いつものように仲良く連れ立って学校から帰宅した三人は、荷物を下ろすと、うがい、手洗いを済ませて、リビングへと移動した。アヤがお腹すいたー、と言ってソファに腰掛けるのを見て、美鶴はちょっと待ってと言い残してキッチンへと向かう。すると僕も手伝うよと、亘が後を追ってくる。

 キッチンで美鶴は、戸棚からドーナツを取り出して皿に並べた。亘が隣に並んで、彼の手元を覗き込んでくる。叔母さんのお土産、と美鶴が呟くと、亘は美味しそうだねと言って、にっこり笑った。そして麦茶でいいかなぁと、冷蔵庫を指差す。美鶴がこっくり頷くと、亘はそそくさと飲み物の準備を始めた。

 二人は用意したおやつをお盆に載せて、リビングへと戻った。アヤは待ちかねた様子で、足をぶらぶらと振っている。美鶴がお待たせ、と言えば、その面をぱっと輝かせてやったー、と歓声を上げる。テーブルにお盆を置き、アヤに向かい合う格好で、美鶴と亘もソファに腰を掛けた。三人でいただきます、と声を揃えれば、楽しいおやつの時間の始まりだ。このところ、ほぼ例外なく繰り返されている、小学生のいる家庭ではごくありふれた光景である。



 だがありふれているからこそ、美鶴は時折泣きたくなる程の幸せを感じていた。本来ならば、このような至福の時間は存在しなかった。それをどうしても取り戻したくて、酷い事も沢山して、けれども失敗して。失意の中で美鶴も消えて無くなる筈だった。

 ではどうして現在があるのかというと、全ては亘のおかげなのだと美鶴は思っている。勿論実際のところがどうなのか、美鶴には知る由もない。運命の女神のお考えなんて、一介のヒトである美鶴には想像すら出来ないからだ。でも失敗した筈の美鶴が、実際無事に現世に帰って来ている。叶えてもらえなかった筈の願いも、叶っている。そこに何がしかの理由を見出すとすれば、同時期に幻界を旅し、美鶴が原因で崩壊の危機に陥った幻界を助けた、亘以外にないだろう。感謝してもしきれない。

 だから、だろうか。その生い立ちから、あまりヒトと親しくなる事を好まない美鶴だったが、亘だけは特別に思えるのだ。亘とならどんな話でも出来たし、ずっと一緒にいても鬱陶しくなかった。こうしてアヤとの大切な時間の中にさえ、その存在を受け入れているのだから、それは相当なものだろう。



 美鶴は吐息をもらすと、ちらりと隣を見やった。亘が口いっぱいにドーナツを頬張りながら、なにやら楽しげにアヤと話をしている。そのまま向かいに視線を向けると、アヤが負けじとドーナツを頬張りながら、楽しげに今日学校であった出来事を報告している。亘が相槌をうって、アヤがころころと笑う。幸せで、幸せで、幸せすぎて泣きたくなる日がくるなんて、以前の美鶴には考えもつかなかった。



 こうして三人、ずっと一緒にいられればいい。



 なんて思いながら、美鶴はドーナツを口に運んだ時、アヤがねえねえお兄ちゃん、と呼びかけてきた。美鶴は幸せ気分で、何?と返事をする。アヤはほにゃっと顔をほころばせると、こう言ったのだった。

「アヤ、大きくなったら亘お兄ちゃんのお嫁さんにしてもらおっかなぁ」

 その衝撃発言に、美鶴は返答に窮してしまった。思わず黙り込むと、その隙に亘が口を挟んだきた。

「わあ、本当に?嬉しいよアヤちゃん」

 途端に美鶴はむっとした。どうしてだか分からないけれども、とにかく腹が立って腹が立って仕方がなかった。
 だが美鶴は、それもアヤの亘のお嫁さん発言の所為だろうと思い込む事にした。だって他に理由がないのだから、それ以外に考えられない。

 そんな美鶴の心境を知る由もない二人は、きゃらきゃらと笑い合っている。その幸せそうな光景を、先とは違って複雑な心境で眺めながら、美鶴はとりあえず怒りの矛先を隣に座る人物に向ける事にした。

「うっ……何美鶴酷い……」

 なんの遠慮もなく亘の脇腹に肘鉄を食らわせてやると、亘は呻き声と共に恨めしげな視線を美鶴に寄越した。けれども美鶴はふん、とそっぽを向いてやる。何故自分がこんなにも不機嫌なのか、全く分からないままに。

「お兄ちゃん、どうかしたの?」

 そんな二人のやり取りを不思議に思ったのか、アヤが美鶴に聞いてくる。美鶴はその面に笑みを浮かべると、答えた。

「なんでもないよアヤ」

 アヤはふーんという顔をした。隣では相変わらず亘がうめいている。
 美鶴は手にしていたドーナツを一口齧った。甘くて、美味しい筈のそれは、どうしてだか口に苦く感じて。まるで、美鶴の心境を雄弁に物語っているかのようだった。








自覚するのは、美鶴の方が早いかなと思います。
20060720



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