真夏日の午後
「ん」
「ありがと」
素っ気ない一言と共に差し出されたグラスを、亘はお礼と共に受け取った。美鶴は軽く頷くと、自分の分を手にベッドに腰掛けた。床に座り込んで、ベッドにもたれている亘のすぐ隣である。美鶴がゆっくりとした動作でグラスを傾けるのを横目で見ながら、亘もグラスに口をつけた。カラン、と氷が涼しげな音を立てる。開け放した窓からは、むっとした熱気と共に、蝉の鳴く声が聞こえてくる。冷たい麦茶はとても美味しい。
夏休み中の登校日を終えて、亘は美鶴の家に来ていた。二人が通う私立中学校は、ほぼ二人の家の中間点にあったのだけれども、ほんのちょっとだけ美鶴の家からの方が近い。そういった事情から、中学に上がってからは、亘はよく美鶴の家に入り浸るようになっていた。家に寄ったら、帰る時は倍の時間がかかるじゃないか、なんていう美鶴の苦言は、聞こえないふりをしている。
飲み干したグラスを目の前のテーブルに置いて、亘はため息を吐いた。ちらりと美鶴の様子を伺えば、腿に肘をつき、まだ半分程残ったグラスを両手で弄んでいる。何を考えているのか、ぼんやりと遠くを眺めている。心ここにあらずといった雰囲気だ。
亘は上半身をベッドに預けるようにして、美鶴の方を向いた。マットレスが僅かに沈み、それで美鶴は亘の所作に気づいたようだった。亘に顔を向け、ちょっと首を傾げてみせる。亘はベッドの上に伸ばした左腕に頭を預けたまま、ふるふると首を横に振った。
最近は、こうして二人でいても、あまり会話をする事がなかった。元より美鶴は口数が少ないし、亘も中学生になってちょっと大人になったのか、以前のようにべらべらと喋ったりなんて、したいとも思わなくなっていた。それよりも、ただこうして隣にいるという事実の方が、もっとずっと重要なのだと気づいた所為かもしれない。
美鶴は、またしても遠くをぼんやり眺めている。そうしていると、その端整な容姿と相まって、まるでこの世のものではないように感じられる。美鶴は一度、亘の手の届かない所へ行きかけているから、なおそんな風に思ってしまうのかもしれない。
亘は右手を伸ばすと、美鶴のワイシャツを掴んだ。この暑いのに、きっちりとボタンを留め、ネクタイさえ緩めていない。模範的な制服の着こなしだ。対して亘は、ボタンを留めている数も最低限ならば、ネクタイも緩めまくりだ。
「暑くない?」
言いながら、亘はワイシャツを引っ張ってみた。こうして捕まえていないと、美鶴はどこかに行ってしまうんじゃないかなんて、漠然とした不安が時折亘を襲う。
「暑いよ」
美鶴はそっけなく答えると、グラスの中身を一息に飲み干した。上体と腕を伸ばして、空いたグラスをテーブルに置くと、やれやれといった表情で亘を見下ろした。
「暑いなら、くっつかなければいい」
「それとこれとは別」
そう言うと亘は、ぎゅうっと美鶴の腰に抱きついた。こうして彼を手中に納める事で、初めて亘は安心出来る。幻界での出来事は、今よりもまだずっと子供だった亘の心に、結構なトラウマを残しているのだ。初めて経験するヒトの死が、同い年の友達のものだったのだから、それも仕方のない事だろう。
だがそのトラウマが、程度を超えた執着となって現れた時、流石に亘も悩んでしまった。誰よりも美鶴と一緒にいたかった。美鶴が傍らにいないと不安で、悲しくて、亘以外の誰かと親しそうにしているのを見るのは辛かった。嫉妬にかられ、彼を独占したいと思った。そんな風に考えるなんて変だと、何度も悩んだ。でもどうしようもなかった。
けれども美鶴が、ジレンマに陥った亘に答えを与えてくれたのだ。
「美鶴……好き」
亘がぽつりと呟くと、美鶴は僅かに身じろいだ。
「……うん」
暫くしてから、やはり小さな声でぽつりと答える。亘はほっと安堵の吐息を吐いた。
「小母さん、今日は?」
「……多分、遅くなる、とは思う」
美鶴が、亘の髪を撫でながら、言った。亘は美鶴の身体の両脇に手をつくと、ベッドの上に伸び上がった。亘をじっと見つめている美鶴の、ほんの数センチ前まで顔を近づける。
「大丈夫と思う?」
亘がちょっと首を傾げると、美鶴は呆れたような顔をした。
「俺に分かる訳ないだろ」
「まあ、そうだけど」
ちょっとがっかりしてしまった亘は、おでこをこつんと美鶴のおでこにぶつけた。美鶴が、至極真面目そうな表情でもって言う。
「まあ、辛抱も肝心だよ」
「なんだよそれ、僕ばっかりみたいじゃないか」
亘がむくれると、美鶴は相好を崩した。堪えきれないといった風情で、くつくつと笑っている。その表情があまりにも楽しそうで、亘はむくれるのも忘れて、つい見とれてしまった。美鶴がこうして笑えるようになるなんて、出会った頃には考えられなかった。何も変える事の出来なかった現世だけれども、美鶴にとって、以前のように辛いばかりではないのなら、亘にとっても凄く嬉しいと、思った。
美鶴の笑顔につられるようにして、亘も笑みを浮かべた。すると美鶴は不意に顔を離すと、亘の頬に口付けた。
「今日のところは、これで我慢しなさい」
まるで亘を子供扱いして、そんな事を言う。亘はまたしてもむくれてしまった。
「やだ」
一言の元に却下すると、亘はそっと美鶴の口唇を塞いだ。ふんわりと柔らかいそこはとても冷たくて。夏の暑さを一瞬忘れさせてくれるかのようだった。
終