君のてのひらから
亘は、恐る恐る隣の様子を伺った。そこには、心底うんざりした顔の美鶴がいる。ああ、やばいかも。亘がそう思った瞬間、美鶴はくるりと踵を返した。
「ちょっ、おい、美鶴。どこ行くんだよ?」
亘は慌てて追いかけるが、美鶴はすたすたと歩いて行ってしまう。人の流れに逆らっている筈なのに、美鶴の足取りは澱みない。対して亘は何度も人にぶつかりそうになりながら、なんとか美鶴について行っているような状態だ。
暫くして人ごみを抜けた時、漸く美鶴に追いついた亘は、その手を掴んだ。ぐいと引っ張って、亘の方を向かせる。
「だから、どこ行くんだって」
「帰る」
「帰るって、どこに?」
「……」
むっつりと黙り込む美鶴に、亘はにっこりと満面に笑みを浮かべてみせた。
「ね、お祭り、行こうよ」
美鶴はまたしてもうんざりした顔になった。ため息を吐く。
「……あんなの、混んでるばっかりじゃないか」
「でも夜店が出てるよ?夕飯はそれで済ませて良いって言われてるんだから、帰ってもきっとご飯ないよ」
だから、ね?と言って、亘はおねだりする子供のような上目遣いで小首を傾げる。美鶴ははぁ、と大げさにため息を吐き、肩をすくめた。
「おまえは子供か」
「まだ子供だよ、何言ってんだよ」
そう言って亘は、強引に美鶴を引っ張って、元来た道を歩き始めた。嫌がられるかなぁと思ったが、意外にも美鶴は、亘に従って素直に後をついて来る。今晩は亘の家にお泊りなのだから、逆らいきれないと早々に諦めてくれたのだろうか。
三橋神社のお祭りに行こうと誘ったのは、亘だった。土日で開催されるから、土曜に泊まりで遊びに来ればいいよと、しつこく美鶴に迫ったのだ。最初は渋っていた美鶴も、亘のあまりのしつこさに呆れたのか面倒になったのか、あーはいはい分かりましたと了解してくれて、晴れて美鶴の亘宅へのお泊りが実現したのだった。
だが亘は失念していた。普通の子供なら喜びそうなもの一切に興味のない美鶴が、お祭りを、夜店を、喜ぶ訳がないという事を。最初に美鶴が亘の提案を渋ったのは、お泊りの部分にだと、亘は勝手に思い込んでいた。しかしそうではなかったのである。
夕方、駅まで美鶴を迎えに行った亘は、彼と合流するとまずは自宅へ戻った。1泊分の荷物は、大した量ではないけれども、長い事持ち歩くには十分邪魔である。お祭りに行くのならば尚更だ。美鶴の荷物を亘の部屋に放り込んでから、二人は三橋神社へと向かったのだった。
そこまでは、まぁ、いつもどおりだった。あまり口数の多い方ではない美鶴に、亘が一方的に話しかける。近況などを報告し、聞き出し、それなりに楽しくすごしていた。
けれども神社が近づき、道を行く人々が増えるに従って、美鶴の表情は段々と険しいものになっていった。亘の問いかけにも、返事を返さなくなってしまった。そして神社の前に到着した時、美鶴は心底うんざりした顔をして見せたのである。
勿論、亘だってちょっとはその気持ちが分かる。境内が、あふれんばかりの人で埋め尽くされていたからだ。これでは最大の楽しみの、夜店に近づくのだって容易ではない。
でもだからって、帰る事はないだろう。亘はこの日を、すごく、すごく、すごく楽しみにしていたのに。
美鶴の手をぐいぐい引きながら、亘はなんだかちょっと泣きそうになってしまった。美鶴にとってはどうでも良かったのかな?お祭りになんて連れてこられて、迷惑だなんて思っているのだろうか?やっぱり断れば良かったって、後悔してるのかな?
その時、これまで従順に亘に従っていた美鶴が突然立ち止まったので、亘は前につんのめってしまった。弾みで涙がこぼれ落ちそうになり、亘はぐっと歯を食いしばって堪える。そんな状態だったから、振り返って美鶴にどうかしたのか聞きたかったけれども、無理だった。口を開くと、ついでとばかりに涙もあふれてきてしまいそうで、言葉を発する事も叶わない。亘はじっと俯いてしまった。
暫くの間、二人はその場に佇んでいた。沢山のヒトが、二人をどんどん追い越してゆく。浴衣の子供の、下駄の音が耳に心地よい。カラコロカラコロ、どんどん遠ざかる。
「痛い」
「……え?」
あんまり唐突だったので、美鶴がなんと言ったのか、亘は聞き取れなかった。間の抜けた声で問い返す。
「だから、痛い」
美鶴はそういって、握られたままの腕をぶんぶんとゆすった。亘ははっとして、振り返った。眉をしかめた美鶴と、目が合う。慌てて手を離すと、美鶴はどーもと言って、握られていた部分を逆の手でさすった。
「あっちに行って、無駄に力強くなっただろ」
「そうかな?」
自分でもびっくりする程、情けない声が出た。
「そうだよ」
だが美鶴はそんな亘を気にする風でもなく、言葉を続ける。それが亘には切なくて、美鶴から視線を逸らした。やっぱり美鶴は亘の事なんて、どうでもいいんだ。今日だって、あんまり亘がしつこいから、嫌々付き合ってくれているだけなんだ。
ついに視界がぼやけてきて、亘は目をぱちくりと瞬いた。美鶴には絶対に知られたくない。ますます顔を逸らそうとして、しかし不意に視界を掠めたものに、亘は釘付けになってしまった。
美鶴が、片手を差し出していた。手のひらを上にして。
亘はじっとその手を見つめてから、ゆっくりと視線を美鶴の顔に移した。美鶴は僅かに首を傾げ、ちょっと苛立ったような表情で、早くしろとばかりに手を振った。亘がおずおずとその手に自分の手のひらを重ねると、美鶴はきゅっと亘の手を握り締めてくれた。
「はぐれたら面倒だから」
そう呟くと、美鶴はさっさと歩き出した。繋いだ腕がぴんと伸びて、亘も慌てて彼の後を追う。二人は手を繋いで、三橋神社への道を辿った。
亘はちょっと先を行く美鶴の背中を、ぼんやりと眺めていた。繋いだ手が、温かい。その温もりが、まるでそんなに悲観する事ないよと言ってくれているようで、なんだか亘はまた泣きたくなってしまった。嬉しいのに泣きたくなるなんて、変なの。でもどうしようもなくって、亘は美鶴に気づかれぬよう、そっと片手で顔を拭ったのだった。
終