美鶴と、亘と繋いでいた手をぱっと離して、アヤが走り出す。
「アヤ、気をつけるんだぞ」
美鶴が慌ててそう叫ぶと、アヤはちょっとだけ二人を振り返って、はーいと元気よく返事をした。ぶんぶんと手を振って、すぐにまた駆け出していく。
向日葵
土曜の午後、三人は電車で五駅離れた、大きな公園に遊びに来ていた。小さな子供でも楽しめるアスレチックが売りの、今子供達の間ではちょっと話題のスポットらしい。
らしい、というのは、アヤから聞いた話だからだ。中学生になった美鶴と亘は、そんな公園など全く知らなかったのだけれども、休み明けになると、学校から帰ってきたアヤがクラスの友達の名前を並べては、行ってきたんだって、すごく楽しいんだって、と報告するようになって、その存在を知ったのだった。
連れて行ってあげようよ、と言い出したのは亘だ。とても利発で聞き分けのよいアヤは、自分と兄が叔母のところにお世話になっているのを気にしてか、あまり自分からおねだりを言ったりしない。それは亘から見ていっそ可哀相な程である。公園にだってきっと行きたくて仕方ないのだろうに、決して連れて行ってとは言わないのだ。自称保護者の一人としては、察してやらない訳にはいかないだろう。
亘がそう言うと、どうやら美鶴も同じように感じていたらしい。亘の提案に、すぐにこっくり肯くと、ありがとうと言ったのだ。端整な顔を、くしゃっとほころばせて。
それは滅多に見られない、美鶴の心からの笑顔だった。いつもはヒトを馬鹿にしたような笑みばかり浮かべているくせに、アヤ絡みになると、美鶴は途端に素直に感情を表すのだ。
そんな時、亘はちょっと、ほんのちょっとだけど胸に痛みを覚えた。いいなぁ、なんて、羨む方が馬鹿げてる。だって、二人は兄妹だ。一人っ子の亘にはよく分からないけれども、美鶴とアヤにとってお互いは、特別な存在なのである。しかも美鶴は、一度アヤを失う悲しみを味わっている。その執着が世間一般の兄妹と同じでなくとも、仕方のない事だろう。
でもそれを言うのなら、亘だって同じだ。亘は幻界で、美鶴を失う悲しみを味わった。どうしても一緒に帰りたくて、力及ばず叶わなくて、亘の腕の中で逝ってしまった美鶴。あの時の胸が張り裂けんばかりの悲しみは、決して言葉にする事は出来ない。
だから、なのかどうかは分からないが、亘も美鶴に世間一般の友達とは違う執着を感じていた。亘にとっての特別は、美鶴だった。いつなんどきでも一緒にいたいし、その姿が見られない時は、無性に不安を感じてしまう。アヤに向ける笑顔にさえ、嫉妬を感じてしまう程に。
そう、亘が感じているのは、嫉妬だ。亘はアヤに、嫉妬している。美鶴の全てを占めているアヤ。仕方ないと頭では分かっているけれども、心がついてゆかない。
亘は大きなため息を吐いた。すると隣に腰掛けた美鶴が、どうしたと言わんばかりに顔を覗きこんでくる。
二人はアヤの遊ぶアスレチックが見渡せる、ベンチに腰掛けていた。天気のよい、土曜の午後とあって、至る所に家族連れの姿が見られる。そんな中にあって、中学生二人と小学生の三人連れは、一体どんな風に映るのだろうと、亘は不意に思った。
だがじっと亘を見つめる美鶴の視線に気がついて、慌てて首を横に振ってなんでもないと美鶴に告げる。美鶴は眉を顰めると、小さな声で言った。
「おまえ、疲れてるんじゃないか?今日も午前中部活だったんだろう?」
「そんな事ないよ、だってこうしてベンチに座ってるだけじゃないか」
極力元気を装って、亘は答えた。美鶴は暫く値踏みするような目で亘を見てから、つと視線をそらした。アスレチックで遊ぶアヤの姿を探しているのか、きょろきょろと辺りを見回している。
その時、アヤの声が響いた。
「お兄ちゃーん、亘お兄ちゃーん」
声のした方を見れば、アヤはアスレチックの天辺で、ぶんぶんと二人に両手を振っている。その姿は本当に可愛くて、愛おしくて。亘は笑みを浮かべて手を振り返す。隣を見れば、美鶴も満面に笑みを浮かべて手を振っている。
アヤは二人が手を振り返したのを確認すると、天辺から伸びている長い滑り台をすーっと下りてきた。華麗に着地を決めると、そのまま美鶴と亘の方へ走ってくる。
「見た?ねえ見た?アヤ頂上まで行ったのよ」
「うん、見たよ。アヤはすごいね」
そう言って、美鶴はアヤの頭を撫でてやっている。アヤはえへへと照れ笑いを浮かべて、亘の方を見た。
「亘お兄ちゃんは?見てくれた?」
「うん勿論。アヤちゃん上手だねぇ」
亘も手放しで褒めてやると、アヤはますます嬉しそうな顔をして、今度はあっちに行って来る、と叫ぶが早いか走り出していった。そんなアヤの様子を、苦笑でもって亘は見送る。
「ありがとう」
唐突に美鶴が呟いたので、亘はなんの事か分からずに、は?と間抜けな声を出してしまった。美鶴の方に視線をやれば、彼はじっと目の前の芝生を見つめている。いつもならヒトの話をちゃんと聞け、と怒るくせに、今日は様子が違った。亘の反応を気にも留めず、もう一度、今度は先刻より幾分はっきりとした声で言った。
「ありがとう、今日」
「ああ……」
それで漸く合点がいって、亘は肯いた。でもそんなの全然気にする事ないよ、と付け加える。だって亘は美鶴と一緒にいたいだけなのだ。勿論、この部分は黙っておいたけれど。
しかし美鶴は首を振ると、続けた。
「アヤ、さ。やっぱり俺だけが相手じゃ、寂しいと思うんだ」
「そんな事、ないと思うけど」
だってあんなにお兄ちゃん子なのにと亘は思ったが、美鶴はやっぱり首を振った。
「おまえがいてくれると、いつもよりずっとはしゃぐんだ。それがすごく嬉しい」
それから美鶴は、ゆっくりと亘の方を見た。
「ありがとう、亘」
そう言って、その面に、ふんわりと、それはそれは綺麗な笑みを浮かべてみせたのだった。
あんまりにも不意に向けられた美鶴の笑顔に、亘は思わず見とれてしまった。暫くぽかんとした顔で美鶴をただただ眺めていたのだが、そんな亘を不審に思ったであろう美鶴が首を傾げた事で、漸く亘は我に返った。美鶴は折角の笑顔も引っ込めてしまって、訝しげな表情で亘を見ている。
亘は恥ずかしさから頬を染めると、慌ててぱたぱたと両手を振り、誤魔化すように言った。
「や、そんな。お役に立てて、光栄です」
すると、途端に美鶴が吹き出して、亘はまたしてもぽかんとしてしまう。美鶴は呆然としている亘に構わず、一頻りくつくつと笑ってから、涙の滲んだ目で亘を見た。そのさまがなんだか、こう、上手く言葉には出来ないけれども、亘の胸をドギマギさせる。
「おまえ、変なヤツだな」
「は?どうして?」
突然のひどい言い様に、先まで胸の高鳴りもどこかへ行ってしまったようである。亘は頬を膨らませると、言い返した。
だが美鶴はといえば、ふと視線をそらすと、優しい笑みを浮かべて、手を振ったりしている。視線の先を辿れば、アヤがぴょんぴょん飛び跳ねながら手を振っていた。亘ははあとため息を吐く。アヤが相手では、亘なんぞがいくら不貞腐れていたって、敵う訳がないのだ。
仕方なく亘は、美鶴に倣ってアヤに手を振り返した。アヤはジェスチャーで、あるアスレチックを指している。これからこれに登るのよ、と伝えたいようだ。亘がうんうんと頷くと、にぱっと全開の笑顔を見せてから、件のアスレチックに挑戦し始めた。
そうして暫くはアヤの姿を眺めていた亘だったが、ふと思い立って、そうっと隣を盗み見てみた。美鶴も亘と同様、じっとアヤの姿を眺めている。その横顔は、幸せな笑顔で満ち満ちていて。思わず亘も顔をほころばせてしまう程だった。
だがそれもこれも、アヤがいるおかげだ。
アヤのおかげで、美鶴はこうして笑えるようになったのだ。
そう考えると、くだらない事で嫉妬している自分が本当に恥ずかしくなってきて、亘は美鶴に気付かれぬよう、こっそりとため息を吐いたのだった。
終