君という光 3
無言、だった。
「もしもし?」
亘はちょっと声を荒げると、今一度問うてみた。無言電話には最悪な思い出しかないのだ。感じ悪くなってしまったって、仕方がないだろう。間違い電話なら、そう言ってくれればいいだけなのだし。
けれどもやっぱり、無言。亘はため息を吐いた。何なんだ、一体。
「……暇な事、してんなよ」
完全に怒り口調で、亘は言った。そして受話器を置こうと耳から離しかけた時、聞こえた気がしたのだ。あ、という、微かだけれども確かに亘を引き止める為に発せられた一言を。しかもその声には聞き覚えがあった。決して忘れる事の出来ない、亘と母の、命の恩人の声だ。
慌てるあまり受話器を取り落としそうになりながらも、亘は懸命に叫んだ。
「芦川っ……」
電話の向こうのヒトは、息をのんだようだった。それで亘は確信する。絶対芦川だ、間違いない。
「芦川?芦川だろ?おまえ……大丈夫だった?転校したって、それで僕気になって、だってあんな、あんな、サヨナラなんて言うから、駄目かと思って、でもそんなの、あっちはなんとかなって、それなのにおまえが」
あまりにも突然の出来事に、亘はパニックに陥ってしまった。気になって、気になって、仕方なかった芦川からの連絡だ。しかもわざわざ亘に電話してきたところを見ると、彼も幻界の事を忘れてなんかいないのだ。これで落ち着いていられる方がどうかしている。
だが亘の言葉は、電話の向こうの失笑によって遮られてしまった。亘が思わず黙り込むと、彼はひとしきり笑ってから、今度ははっきりと聞き取れる声で、言った。
「おまえ……相変わらずなのな」
「芦川……」
本当に、本当に芦川だ。芦川が亘に電話してきて、喋ってる。そう思った途端、亘は安堵のあまり足から力が抜け、その場にしゃがみこんでしまった。視界がぼやける。
「……泣くなよ」
ちょっと困ったような声で、芦川が言う。亘は慌ててごしごしと顔を拭うと、泣いてない、と言い返した。芦川はふーん、と全然信じていないであろう感じだ。でもそんなところが彼らしくって、亘はまたしても泣いてしまいそうになるのを、懸命に堪えた。
「今、大丈夫か?親とか……」
「だ、大丈夫。お母さんもう寝てるんだ。まだちょっと具合悪くって」
芦川にはなにも隠す事はない、そう思った亘はありのままを話した。だって今こうしてお母さんが生きてるのは、全部芦川のおかげなのだから。ところがそう言ったら、芦川に怒られた。
「おまえ、じゃああんな大声出すなよ。……お母さん、起きちゃうだろ」
「あ……、うん、ごめん」
芦川の言う通りなので、亘は素直に謝った。だが実際はちょっと上の空だった。お母さん。そう言う時、芦川が少し躊躇ったように亘には感じられたのだ。お母さん。芦川がもう何年も口にしていないであろう言葉。口にしたくても、出来ない言葉。
不意に、現世に戻ってからずっと亘の心にわだかまっていた事柄が脳裏を過ぎった。亘だけ願いを叶えてしまって、ごめんね。亘より、よっぽど叶えたかっただろうに、ごめんね。方法は間違っていたけれども、芦川の願い自体は、決して芦川だけのものではなかったのにね。
そんな思いが、亘の口をついて出た。
「ごめん、芦川」
「……俺に謝っても」
だが芦川は、勘違いしたようだった。そりゃそうだろう、この話の流れで、分かった方が凄い。亘はえへへと照れ笑いをした。
「そうだね、小さい声で話すよ」
あえて訂正はしなかった。だってそんな謝罪は、結局亘の独りよがりだからだ。それで亘は気が晴れるかもしれないけれど、芦川はどうだ?今更取り返しのつかない事を、あえて蒸し返す必要はないだろう。そういう意味では、亘は芦川にはっきりと勝ってしまったのだから。
けれども今の亘は知っている。芦川だって、もしかしたら成功した旅人の一人かもしれないという事を。
最後の宝玉は、幻界創世の時より、闇の鏡を封じていた。という事は、これまで運命の塔に辿り着けた旅人はいなかったのだ。きっと、亘が初めて女神に願いを叶えてもらった旅人なのだろう。
でもそれが、これまでの旅人が全て失敗に終わったという証拠ではないのだ。亘はまだ子供で、思慮が足りなくて、だから女神の膝元へ行くまでかかってしまったけれども、大人の旅人だったらどうだろう。もっとずっと早く幻界での旅の意味に気づき、変えなくてはならないのは運命ではなく、自分自身だと知るのではないか。そしてそうと知った者が、旅の成功者なのだ。別に運命の塔へと辿り着く必要は、ない。
芦川は、どうなんだろう。確かに運命の塔へは行けなかったけれども、幻界での最後の時、芦川は自身の行った事を確かに悔いていた。そうして気づいたかもしれないじゃないか、旅の本来の意味に。
そんな亘の胸の内など知る由もない芦川は、電話の向こうで肯いているようだった。
「そうしろ」
「うん」
亘も物思いに耽りそうになるのを振り払って、答えた。今はとにかく、芦川の無事を喜べばいいじゃないか。細かい事は後回しで良い。
「元気だった?転校したって聞いて、びっくりしたよ」
「それは……もう決まってた事なんだ。叔母の都合で」
小さな声で問いかければ、つられたのか芦川まで声が小さくなったのが、なんだかおかしかった。
「そっか。でも本当に良かった」
「なにが?」
「おまえが無事で」
「……うん」
「おまえになんかあったらさ、叔母さん悲しむよ、絶対」
一度だけ芦川のマンションで会った、年若い叔母さんの顔を思い浮かべながら、亘は言った。
「……うん」
「ははは」
「なんだよ」
唐突に亘が笑いだしたので、芦川は気分を害したようだった。声の雰囲気が恐くなっている。でも亘は気にする事なく、ひやかした。
「だって、おまえがあんまり素直だからさ。僕の知ってる芦川じゃないみたいだ」
「……」
芦川が黙り込んでしまったので、亘はますます笑いが止まらなくなってしまった。幻界へ行って、やっぱり芦川も変わったように思う。それもいい方向へ。それがとてつもなく嬉しかった。
その時、不意に邦子の寝室の方で物音がした。亘、と微かな声も聞こえる。
「わ、お母さん起きたみたい」
慌てた所為で上ずった声で、亘は言った。気がつけば九時を回っている。こんな時間に小学生が電話をする事を、邦子はよしとしないのだ。でも亘としては、まだまだ芦川と話をしたかった。話を聞きたかった。これきり終わってしまうなんて、嫌だった。
するとそんな亘の心境を察したかのように、芦川は早口で言った。
「メモ、あるか」
「う、うん」
亘は電話の置いてある棚の引き出しから、メモ帳とボールペンを取り出した。亘の返事と同時に告げられ始めた番号を、必死に書き留める。
「俺、今殆ど家にいるから」
じゃ、と言って芦川は一方的に電話を切ってしまった。かけてきたのも突然なら、切るのも突然だった。まあ、切らねばならなかったのは亘の方に理由があったのだけども。
亘は手元に残った、番号をじっと見つめた。それだけが、先の電話が幻ではなかったという証拠である。芦川は無事だった、元気だった、そして亘に連絡してきてくれた。
再び寝室の方で、先より随分とはっきりした邦子の声が聞こえた。亘ははーいと返事をすると、寝室へと向かった。その足取りが随分と軽やかだったのは、当然の事だろう。