受話器を取り、プッシュボタンを押しかけて、だが美鶴は結局受話器を元に戻してしまった。大きなため息を吐く。もう何度こんな事を繰り返しているだろう。意気地のない自分に、思わず苦笑する。握り締めてしまった所為で、番号を書いたメモは、美鶴の右手の中でくしゃくしゃになっていた。番号は既に暗記していたから、案ずるまでもないのだが。
美鶴は肩をすくめると、一旦電話から離れ、リビングのソファにどさりと腰をかけた。足に腕をつき、組んだ手の上に頭をもたせかける。今一度、はあ、と大きなため息を吐いた。手の中で、メモがかさりと微かな音を立てる。
君という光 2
美鶴が現世に戻ってから、もう随分と経っていた。夏休み中である。あの後、美鶴はついに城東第一小には登校する事なく、転校してしまっていた。
終業式くらい、登校したかった。それが美鶴の本音である。だが疲れ果てた叔母を前にして、そんな我儘は言い出せなかった。これまでにもう十分すぎる程迷惑をかけてしまっている。これからは、極力叔母の望むようにすごそうと、美鶴は心に決めていた。
しかし、どうしても気にかかる事はある。七月いっぱい、存分に逡巡した美鶴は、八月に入って最初の夜、受話器を取った。先の学校で渡されていたクラス名簿を繰って、とある番号をプッシュする。塾でいないかもしれない、そんな思いでじっと受話器を握り締めていた美鶴だったが、数コールの後に耳に飛び込んできたのは、聞きなれた声だった。
ほっとした美鶴は、口早に用件を伝えた。きっと電話の相手は驚くだろう、そう予想していた美鶴だったが、実際はちょっと違っていた。
「おまえたちって、実は結構仲良かったんだな。僕が知らなかっただけで」
そう言って、彼―――宮原は苦笑したのだった。この間、三谷も家に来てさ、おまえの事聞いてったよと。
宮原とどんな話をして、なんと言って電話を切ったのか、美鶴はよく憶えていなかった。三谷が、美鶴の消息を聞きに、宮原のところを訪ねていた。その事実が、頭をぐるぐると回っていた。
美鶴は顔を上げると、ソファの背もたれに寄りかかった。くしゃくしゃのメモを丁寧に広げて、そこに記された番号をじっと見つめる。室内はしんと静まり返っていた。クーラーの微かな稼動音だけが、美鶴の耳をくすぐる。今日は会社の付き合いで、ちょっと遅くなってしまうと、朝、叔母に言われていた。絶好の機会である。
だが美鶴は最後の一歩を踏み出せないでいた。時計を見れば、もう八時半を回っている。あんまり遅くなっては、迷惑だろう。そう思うのだが、先刻から受話器を持ち上げては置いて、の繰り返しである。
だって、なんと言えばいい?
美鶴は、今日何度目になるか分からないため息を吐いた。上手い事三谷を捕まえたとして、美鶴は一体なにをどう言えばいいというのだろう。勿論、三谷に確認したい事があるからこそ、柄にもなく宮原に電話までして彼の番号を聞いたのだが、それはあくまでも美鶴側の都合だ。じゃあ、三谷は?三谷はどうだろう。宮原の家まで行って美鶴の消息を聞いているくらいだから、結果がどうであれ―――美鶴としては、彼はきっと成功したのだと思っているが―――幻界での記憶はしっかりと残っているのだろう。そうでなければ、関連事を含めて失っている筈だから、三谷が美鶴の事を気にかける訳がない。
でもそれは、幻界であんな別れ方をしてしまったからだ。美鶴はメモを持った左手をソファに投げ出すと、右手で額を押さえた。あの時は、美鶴自身ももう駄目だと思ったし、三谷もきっとそう感じたに違いない。だからこそ三谷はたどたどしいながらも懸命に、祈りの言葉でもって美鶴を見送ってくれたのだ。そんな経緯があるのだから、あのお人好しの三谷が、現世に戻ってから幻界で逝った美鶴がどうなっているのか気にするのは、当然の事と思う。
逆を言えば、美鶴の無事が確認出来れば、三谷はもう美鶴の事などどうでもいいのではないだろうか。
最後の最後まで三谷はお人好しだった。自分の願いをそっちのけで助けようとした幻界に、取り返しのつかない事をしでかしてしまった美鶴にも、優しかった。見捨てようとしなかった。
でも現世に帰ってきてからは?美鶴の生存を確認して、ほっとして。そうして冷静に美鶴のしてきた事を考えた時、三谷はやっぱり美鶴の事を許してくれるのだろうか。美鶴には、そもそも女神の膝元に跪く資格はなかったが、三谷は違った。もし美鶴がいなければ、旅人が彼だけならば、全てが上手い事運んで、三谷は自分の本当の願いを女神に祈れたのではないだろうか。三谷が願いを叶えられなかったのは、美鶴の所為なのではないだろうか。
同じように現世に戻ってきて、冷静に幻界での出来事を考えるうちにその思いが強まってきて、美鶴はとても居た堪れなかった。と同時に、三谷に問うてみたいという欲求が増した。おまえは後悔していないのか、美鶴を憎んでいないのかと。
それだけじゃない。どうしてそう思うのか美鶴にもさっぱり検討がつかないのだが、三谷と話をすれば、何故失敗したにも関わらず美鶴がこうも心穏やかでいられるのか、分かるような気がするのだ。
自分勝手にも程がある。美鶴は自嘲の笑みを浮かべた。三谷は幻界での事を、もう終わったものとしているかもしれないのに、後は時間と共に忘れるだけと思っているかもしれないのに。
だがこのままじゃ美鶴は、ずっと同じ場所に立ち止まったままである。失敗したとはいえ、折角旅人の資格を授けられ、決して短くはない旅をしたというのに、これでは幻界へ行く前と同じではないか。あの経験は、無駄だったと言わんばかりである。
美鶴は勢いよく立ち上がると、大きく深呼吸した。手の中のメモをくしゃりと握り締めると、一歩一歩ゆっくりと電話へ向かった。静かに受話器を取り上げる。もう絶対に置くものかと心に決めて、諳んじてしまった番号を、ひとつひとつ確かめるように押し始めた。