暖かい光が、美鶴を包み込んでいる。
まるで母親の腕に抱かれ、守られ、すっかり安心しきった赤子のように、美鶴は光の中で身体を丸めていた。
もう随分長い事、こうしているような気がする。
現世の煩い事から開放されて、美鶴は今、とても心安らかだった。
ずっと、ずっと、このままでいたいと、切に願う。
自身を見舞った不幸を、理不尽さを、憎み、恨み、それを糧に生きるには、美鶴は疲れすぎていた。
美鶴は安堵のため息を吐く。
ここに美鶴を脅かすものは、いない。
さあ、もう眠ってしまおう、永えに。
美鶴はそっと目を閉じると、光明の奥深くへと沈んでいった。
君という光
視界いっぱいに、見慣れた天井が広がっている。
ああ、自分の部屋の天井だ。美鶴は今、ベッドで目覚めたところなのだ。
そう認識した途端、これまでの出来事が堰を切ったように美鶴に押し寄せてきた。幻界で経験したあらゆる事々が、次々と美鶴の脳裏を過ぎってゆく。そうして美鶴ははっきりと思い出した、失敗してしまったのだと。
美鶴はベッドの上で寝返りをうった。薄暗い室内の様子が目に入る。そこここにダンボールが積み上げられていた。ごめんなさいねと、目を伏せた叔母の顔が、ふと思い出される。都合で、どうしても引っ越さなければならないと聞いたのは、つい先日の事だ。
だからこそ美鶴は、幻界へと急いだ。本当は夏休みまで待つつもりだったけれども、状況が許してはくれなかった。引越し先はここからそう遠くない場所だったけれども、美鶴がまた大松ビルを訪れられるという保障がどこにあるだろう。ここ最近の美鶴の行動に、なんとなく不信感を抱いている様子の叔母が、もし監視を厳しくしてしまったら?現世では単なる小学生である美鶴の行動は、簡単に制限されてしまうだろう。
だが全ては徒労に終わってしまった。美鶴は失敗してしまったのだ。もう何年も何年も請い焦がれ、ついには美鶴の全てになってしまった願いは、結局叶えられなかった。そして美鶴は、叶えられなかった願いを胸に、幻界で死にゆく運命だった。それは美鶴に課せられた、罰だった。
いや、そうではないだろう。願いの叶わなかった美鶴にとって、死は甘美な誘惑だった。辛い現世に一人取り残されるよりも、死して闇深き深淵に沈み込む方が、どれだけ救われるか。己と闇の境界も曖昧に、いつしか美鶴という存在は闇に融け出し、消えてなくなってしまう方が、どれほど心安らかか。
しかし美鶴はこうして現世に戻ってきている。運命の塔の膝元で、瀕死の重傷を負った筈なのに、それすらも癒えている。これこそが美鶴に課せられた罰なのだ。自らのなした大事を胸に、辛い現世を生きていかなければならないなんて、美鶴にとってこれ以上の罰があるだろうか。
不意に妹の、あどけない笑顔が脳裏を過ぎった。きゃらきゃらと、楽しそうに笑ってる。幻界での最後の時、三谷にたどたどしい祈りを唱えてもらった時、美鶴は確かに妹を傍らに感じた。母もいたのかもしれない、もしかしたら、父も。
暖かな光に包まれて、美鶴はあの日以来、初めてゆっくりと休む事が出来たように思う。凍えて固まってしまっていた美鶴の心が、融解したようだった。安らかで幸せで嬉しくて、美鶴はもうずっとこのままでいたいと切に願った程だった。
今思えば、あれは幻界からの餞だったのかもしれない。幻界に赴く程変えたかった運命の待つ現世に、罰として返される美鶴に対する、女神の最後の慈悲だったのかもしれない。
美鶴はぼんやりとダンボールだらけの室内を眺めていた。ついで時計に目をやれば、夜明けにはまだ程遠い時刻であった。美鶴が幻界へと赴く為、家を抜け出した頃に戻されたようである。ため息を吐いて、美鶴はごろりと転がり、仰向けになった。じっと天井を見つめる。
三谷は、どうしたろう。あいつの事だから、きっと上手くやったに違いない。そして願いは……幻界を救う事。馬鹿みたいにお人好しの三谷の事だから、女神にそう願ったに違いない。
だが、それが正しい答えだったのだ。今になって、美鶴にも漸く分かってきたように思う。自分の願いよりも、他者を思いやる心を持った三谷だからこそ、女神の恩寵を授かる事が出来たのだ。そう考えると、他者を踏みつけにしてまで願いを叶えようとした美鶴には、そもそも運命の塔へ登る資格などなかったのだ。
けれども、それで三谷は本当に良かったのだろうか。美鶴と違って、完全に幻界に取り込まれてしまっていた三谷は、幻界での最善の願いを女神に祈ったのだろうが、いざ現世に帰ってきて、それを後悔してははいないのだろうか。
別に、負け惜しみじゃない。誰に対する言い訳かも分からないまま、美鶴はぽつりと呟いた。だけど、気になる、どうしても。
しかし美鶴が幻界へと旅立った夜に戻された事を考えると、三谷もきっと、同じようにあの夜に戻されるのだろう。では、まだ時期尚早だ。
美鶴はほっと吐息をもらした。もう一眠りしようと、思った。今ならば、ぐっすりと眠れるような気がする。何故だろう、美鶴は運命を変える事なく現世に戻ったというのに、心は嘘のように凪いでいるのだ。その答えは美鶴の内にすでにあるようでいて、捕まえようとすると、するりと逃げられてしまう。それを手中にするには、まだ何か足りないものがあるとでも言いたげだ。
そんな事を考えながら、美鶴は静かに目を閉じた。