花火






 いらっしゃい、と言って出迎えてくれたのは、美鶴一人だった。亘は首を傾げる。

「アヤちゃんは?」

 玄関に入り、靴を脱ぎながら疑問を口にすれば、亘の背後で扉を閉め、鍵をかけている美鶴が答えた。

「同じマンションの、友達の所。叔母と一緒にお邪魔しに行ってる」
「ふーん……」

 亘は上がり框に立つと、振り返って美鶴を見た。美鶴はノブに手をかけて、きちんと鍵が閉まっているかを確認している。それからくるりと振り返った。

「それがどうかしたか?」
「え……?」

 美鶴がなにを言っているのか、咄嗟には理解出来なくて、亘は思わず言い澱んでしまった。美鶴はそんな亘を暫しじっと見上げていたが、すぐにああ、と声を上げると続けた。

「アヤ、おまえとなんか約束してた?」

 それで漸く亘にも合点がいって、ううん、と首を横に振った。

「や、別に全然。ただ、珍しいなぁと思って」
「そうかな」

 美鶴はつっかけていたサンダルを脱ぐと、亘の隣に上がってきた。亘は美鶴の所作を眺めながら、そうだよ、と答える。

「こういう時は、いつも一緒だったじゃない」
「そうだっけ」

 だが美鶴はひどく素っ気ない。じゃあ行こうかなんて言って、さっさとリビングの方へ歩き出してしまう。亘はその背中に、訝しげな視線を投げた。変なの。そう思う。アヤ至上主義のくせに、アヤの事なんてどうでもいいみたいなふりしてるなんて、すっごく美鶴らしくない。亘は美鶴の、アヤに対する執着の理由を知っているから、尚更そう感じるのだろう。

「亘」

 気がつけば、美鶴がリビングの扉を開けて亘を見つめていた。

「もうすぐ、始まるけど」

 そう言って、リビングの奥へと一瞬視線をやる。それで亘も、今日どうして芦川家を訪れたのか思い出した。確かに、そろそろ時間である。亘はまだ納得がいかないままだったけれども、仕方なくリビングに向かって歩き出したのだった。



 夜空にぱっ、ぱっと花が咲く。僅かに遅れてどーん、どーんと空気が振動する。
 今日は、ちょっと離れた河川敷で毎年行われる、大規模な花火大会の日だった。亘の家では、残念な事に音が聞こえるばかりで、花火自体は見られない。毎年うるさいだけで、悔しい思いをしているんだ、なんて、冗談交じりに言ったのは、幻界を旅したあの年である。すると次の日、うちのマンションのベランダからなら見えるらしいと、美鶴に誘われたのだ。亘は勿論、二つ返事で食いついた。それからというもの、毎年この日は芦川家にお邪魔しているといった次第だ。

 亘と美鶴はベランダの手すりに並んでもたれて、ビルとビルの隙間から上手い具合に見える花火を、ぼんやりと眺めていた。オーソドックスな花火から、猫やハートの変り種まで、数多の花火が続々と打ち上げられている。遠く、近く、歓声が聞こえる。同じ様に、ベランダで花火を見ているヒト達のものだろう。

 去年までは、二人の間にはアヤがいた。美鶴の叔母が一緒だった事もある。もう何度も同じベランダから眺めた花火だったが、こうして二人きりで見るのは初めてだと、亘は不意に気がついた。

 そうと知ったら、なんだか妙にドキドキしてしまった。二人きりになるなんて、これまでにも数え切れない程経験しているのに。

 亘はこっそりと隣の様子を窺った。亘の胸中など知る由もない美鶴は、ひたと前を向き、一心に花火を見つめている。時折、その目が微かに細められた。はあ、と感嘆の吐息を零す。

「……見てる?」
「えっ」

 唐突に声をかけられて、亘は上ずった声を発してしまった。慌てて遠く、花火の見える方向に視線を戻すが、遅かった。

「俺の事、見てた?」

 美鶴が亘の方へゆっくりと顔を巡らせながら、呟いた。それを視界の端で認めつつも、亘はどう返事をしたものか答えに窮してしまって、頑なに前を向いたままでいた。

「亘?」

 美鶴の手が、ベランダの手すりにかけられた亘の腕に触れる。亘は弾かれたように美鶴を見た。真っ直ぐに亘を見つめる、美鶴の視線とかち合った。美鶴が、その面にほんのりと笑みを浮かべる。

 ふと気がつけば、亘はまるで吸い寄せられるかのように、美鶴に顔を寄せていた。美鶴は一瞬笑みを深めると、静かにその目を閉じた。亘も目を閉じる。どんどんと、花火の音が喧しくなった。もしかして、一番の見所を逃しているのではないかと思ったが、そんな事はすぐにどうでもよくなった。



 いつしか夜空は静まり返っていた。漸く顔を離した二人は、視線を交えて苦笑する。

「……肝心なところ、見逃しちゃったね」

 亘がそう囁くと、美鶴は幾分驚いたような顔をして、まじまじと亘を見た。

「花火、見てたんだ」

 訳の分からない事を口にする。亘は首を傾げてしまった。

「そりゃ勿論……」

 言ってから、はっとした。それって、もしかして―――。
 すると美鶴が、ため息混じりに言った。

「なんか……緊張した」

 困ったような表情を浮かべる。

「どうしてだろ」

 つと天井へ視線をやると、呟いた。

「……やっぱり、アヤにいてもらえば良かった……」



「美鶴っ」

 亘は堪らずにそう叫ぶと、勢いよく美鶴に抱きついた。美鶴がわっと声を上げるのにも構わずに、横からぎゅっと彼の身体を抱き締める。それからさらさらの髪に頬を寄せると、先を続けた。

「来年も、二人で、花火を見よう」
「……」

 随分と意気込んで言ったのだが、美鶴からの反応はなかった。亘は慌てて付け加える。

「あ、アヤちゃんが、それでよければ、だけど」

 だが亘の懸念は杞憂だったようだ。美鶴はふるふると首を横に振った。

「いいよ」
「え?」
「来年も、二人で見よう」
「……うん」

 亘は満面に笑みを浮かべて肯いた。抱き締めている所為で顔は見えないけれども、美鶴もくすりと笑ったような気がした。

 ちゃんと美鶴の顔が見たくて、亘が少しだけ身体を離そうとした時、玄関の方で微かな物音がして。結局二人はぱっと身体を離してしまった。

「アヤ達、帰ってきちゃった」

 そう言った美鶴の顔が、ちょっと残念そうに見えたのは、亘の気のせいではないだろう。きっと亘も、すごくがっかりした顔をしてしまっているに違いない。

 アヤちゃんごめんね。

 亘は胸中で謝りながら、名残惜しげに手を伸ばすと、美鶴の髪にちょっとだけ触れた。美鶴はくすぐったそうに目を細める。

「行こうか」
「うん」

 二人踵を返してベランダのサッシに歩み寄った。それを開けリビングに上がったところで、玄関のドアの開く音もした。アヤのただいまぁという声が、リビングにまで響いた。









色々深読みして頂けると幸い。
20060805



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