始まりの季節  〜午後〜






 電車がホームに滑り込む。アナウンスと共に扉が開く。

 7人掛けの座席の、一番端に腰掛けていた亘は立ち上がると、ひょいと扉から顔を覗かせた。きょろきょろと首を巡らせるが、そこに美鶴の姿はない。亘はちょっと肩を竦めると、電車から降りた。ホームに据えてあるベンチへと向かって歩き出したところで、扉が閉まった。電車はゆっくりと駅から離れてゆく。亘と共に降り立った筈の人々は、既に改札へと向かったのだろう、ホームはがらんとしていた。朝の喧騒とは大違いである。

 亘はベンチに腰掛けると、中学の入学祝に買ってもらったばかりの携帯電話を取り出した。メモリーの一番最初に登録されたアドレスを呼び出すと、短い文章を打ち込んだ。―――駅で待ってるよ。

 送信ボタンを押して、亘は携帯をぱちんと閉じた。ベンチの背にもたれて、吐息を零す。その時、まだいくらも経っていないというのに、亘の手の中で携帯がメールの着信を告げて、ぶるぶると振動し始めた。今一度携帯を開き、内容を確認する。―――駅、見える。なんとも素っ気ない二言のみ。でも、だからこそ、美鶴がどんなに急いでいるのかが伺えて、亘はくすりと微笑んだ。そんなに急がなくても、美鶴をおいて帰ったりなんてしないのに。だけど、やっぱり、ちょっと嬉しい。

 携帯を両手で弄びながら、亘はなんとなく視線を線路の先へやった。ちらちらと白いものが舞っている。どこかに桜の木でもあるのだろうか。まるで季節外れの雪が降っているようだ。四月の清風が、亘の面を優しく撫でてゆく。のどかな、春の午後の風景である。亘はそれらを、ただぼんやりと眺めていた。

 程なくして、階段からヒトの降りてくる足音が聞こえてきた。亘は意識を遠くの景色から引き戻すと、ゆっくりと階段を見上げた。亘の座るベンチは、ちょうど階段を見上げられる位置にあった。

 果たしてそこには、美鶴がいた。顔を上げた亘と、視線が合う。すると美鶴はその面に綺麗な笑みを浮かべると、ちょっと足を速めて階段を下りてくる。最後の三段ばかりは飛び降りて、その勢いのまま亘のいるベンチへとやってきた。

「待った?」

 開口一番そう聞くのに、亘は首を振って答えた。

「ううん、一本前ので来たばっかり」
「そっか」

 美鶴はほっとした表情で、亘に笑いかける。それから亘の隣に腰掛けると、ああ疲れた、なんて言って、亘にもたれかかってくる。もしかして、走ってきたのだろうか?そんな疑問が亘の口から零れ落ちた。

「美鶴、走ってきたの?」
「うん、まあ、ちょっとは」

 美鶴はため息混じりにそう答える。

「なんかあの担任、無駄にホームルームが長い」
「そんなの、美鶴の所為じゃないんだから、ゆっくり来なよ」

 亘がちょっと咎めるような口調で言うと、美鶴がじろりと睨んできた。

「……おまえが待つ事になるんだぞ?」
「別にいいじゃない、僕いつまででも美鶴を待ってるよ」

 だからゆっくり来ればいい、慌てる事なんてないんだよ。亘はそういうつもりで言ったのに、美鶴はどうしてだか呆れたような顔をして亘を見ている。亘は思わず首を傾げてしまった。

「美鶴?」
「……知ってる」
「え?」
「だから知ってる」
「……なにを?」
「おまえが、俺の事、ずっと待つだろうって」

 今度は亘が呆れる番だった。

「だったらゆっくり来ればいいのに……」

 そう呟くと、途端に美鶴の顔が険しくなった。もたれていた身体を離すと、じっと正面から亘を見つめてくる。その射抜くような美鶴の視線に、亘はなんだかよく分からないまま居ずまいを正した。美鶴は時折、とっても恐いのだ。

「亘」
「はい」

 ついつい、良い子のお返事をしてしまう。そんな亘の様子に、美鶴はひとつ肯いてから先を続けた。

「知ってるからだろ?」
「……はい?」

 恐る恐る疑問系で問い返せば、美鶴は大仰にため息を吐いてみせる。でもだって分からないものは仕方ないじゃないか、なんて、亘は懸命にも口には出さなかった。

「もういい、分かった」

 突然、美鶴が投げ遣りな口調になった。亘はまたしても首を傾げる。

「えっと、美鶴?」
「ずっと待ってろ、俺の事」
「……うん、そのつもりだけど?」

 なんでそんな当たり前の事を言うのだろうと、亘が首を傾げたまま肯けば、美鶴はこれまた唐突に、くすくすと笑い出した。亘はぽかんとしてしまう。今日の美鶴は、本当に訳が分からない。

 その訳が分からないところの美鶴は、一人で束の間笑ってから、ちょっぴり涙の滲んだ目を亘に向けてきた。潤んだ瞳で見つめられて、なんだかどぎまぎしてしまった亘をよそに、一人ごちる。

「おまえには、敵わないよ」
「は?」

 なんで?とまでは口に出来なかった。ちょうどその時、構内にアナウンスが響き渡る。―――電車が参ります、危険ですから黄色い線の―――。

 美鶴が、さあこれでこの話はお終いだとばかりに立ち上がる。亘も、渋々美鶴に従った。

 電車がホームに滑り込んでくる。扉が開いた。二人は両脇に分かれたが、降りるヒトはいなかった。揃ってがらがらの車内に乗り込むと、並んで座席に腰掛ける。

 ちらりと隣に視線をやれば、先刻までとは打って変わって美鶴はとても機嫌が良さそうで、亘はますます首を傾げてしまった。でも折角美鶴の機嫌が直ったのだから、まあいいかと思う事にする。だって二人でいられる時間は、あんまりにも少ないから。

 それでもこれだけは言っておこうと、亘は美鶴の腕をちょんちょんと指で突付いた。美鶴がん?という顔を亘に向ける。

「僕、さあ、ちゃんと美鶴を待ってるから」
「うん」
「絶対に、来てよね」
「……」

 美鶴は訝しげな表情で亘を見た。きっと、亘の言っている意味がいまいち理解出来ないのだろう。亘は一息吐くと、美鶴の顔を見つめて、先を続けた。

「もう僕をおいていったり、しないでね?」

 二人の間に、沈黙が落ちた。ガタン、ゴトンと電車の振動がやけに大きく聞こえる。亘はじっと美鶴を見続けていた。美鶴は暫し呆然とした表情で、やっぱり亘を見つめていたが、不意に顔をそらした。その横顔がくしゃりと歪む。

 亘には、なんだか美鶴が今にも泣き出しそうに見えて、思わず美鶴、と大きな声を出してしまった。

 気がつけば、車内にまばらに散っているヒト達が、ちらちらと二人の様子を伺っていた。はっとした亘が恥ずかしさから肩をすぼめていると、美鶴が肘でわき腹を突いてきた。そろりと顔を向けると、この馬鹿、という表情で亘を睨んでいる。その面からは、先のような危うげな雰囲気は感じられなくて、亘はほっと安堵の吐息を漏らした。

 それきり二人は、黙って電車に揺られていた。一つ目の駅が過ぎ、二つ目の駅も過ぎてゆく。

 やがて美鶴の降りる駅へと電車が辿り着いた。ちょっと大げさに車体を震わせて、電車はホームに停車する。アナウンスと同時に、扉が開いた。美鶴はすっと立ち上がると、扉へ向かい、ホームへ降り立った。そこでくるりと振り返ると、亘に向かってぱたぱたと手を振る。亘も手を振り返した。空気の抜けるような音と共に、扉が閉まった。電車は再び、ゆっくりと動きだす。ホームに立つ美鶴の姿が、どんどんと遠くなる。

 その姿が完全に見えなくなるまで、亘は頑張って窓の外を眺めていた。見えなくなっても、なんとなく窓の外を見続けていた。

 その時、握り締めたままだった携帯電話が振動を始めた。驚いた亘は、危うく携帯を取り落としそうになりながらも、着信を確かめる。

 美鶴からはたった一言、こう送られていた。

 ―――分かった。

 でも亘には、その意味するところがすぐに分かって。くしゃりと顔をほころばせた。










なんだか書き始めた頃に考えていた話とは、全く違うものになっていて自分でもびっくりです。
20060802



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