始まりの季節
真新しい制服に身を包み、真新しい通学定期を改札に通して、亘は早朝のホームに降り立った。そこは既にヒトで溢れていて、亘にこれからの三年間の通学に懸念を抱かせるには十分な程であった。
心持ちうんざりとした表情で、亘はヒトの間を縫って歩き始めた。ホームの端に記されている、電車の停止位置を慎重に目で追う。暫くして目的の車両番号まで辿り着くと、次に亘は間違いのないように、これまた慎重にドアの数を数える。進行方向から数えて三つ目、それが美鶴との待ち合わせの場所だった。本当なら一番前とか後ろとか、分かり易い位置が良かったのだけれども、双方の乗り換えの都合を考えたら、随分と中途半端な車両になってしまった。
程なくして電車がホームに滑り込んでくる。亘は人波に半ば攫われるような格好で、乗り込んだ。きゅうきゅうの車内でなんとか自分の場所を確保すると、こんなんで本当に美鶴と合流出来るのかと、亘は一抹の不安を覚えた。
だが幸いな事に、四つ離れた美鶴の利用する駅は、大きなターミナル駅だった。ホームで待つヒトも多かったが、降りてゆくヒトも多い。一時的にどっと空いた車内で、亘は咄嗟にドア横へと移動した。そこで乗り込んでくるヒトの列を順に眺める。列の最後の方に美鶴の姿を認めて、亘はほっと安堵の吐息を漏らした。
美鶴もドア横に立つ亘の姿に気がついたようで、片手を上げて合図を送ってきた。亘が頷くと、美鶴は周囲の様子を伺いながらぎりぎりまでホームに留まり、最後の最後でするりと亘の目の前のちょっとした隙間にその身を滑り込ませてきた。
喧しいアナウンスと共に、ドアがゆっくりと閉まった。いっぱいにヒトを乗せた電車が、その重みによっこらしょと掛け声をかけたかのような振動の後に、動き出す。
「おはよう」
亘にぴったりと身を寄せて立つ美鶴に、亘は言った。すると美鶴はくしゃりと顔を顰めて、さいあく、とだけ呟く。亘は思わず吹き出してしまったが、美鶴にじろりとにらまれて、ごめんごめんと謝った。
「美鶴、人込み苦手だもんね」
内緒話でもするかのように耳元で囁けば、美鶴は顰めっ面のままこくりと頷いた。もう喋る気力もないのだろうか。だがそんな美鶴の態度には慣れっこの亘は、構わずに喋り続ける。
「入学式が遅いのって、初日から新入生疲れさせない為なのかな」
「……そうかも」
「美鶴んとこの入学式、どうだった?」
「別に、普通」
「ふーん、こっちはねぇ、なんか面白かった。在校生と新入生の引き合わせみたいな感じで」
「うん」
「学校、楽しそう?」
「……どうだろ」
「まだ、分かんないか」
美鶴は今一度こくりと頷くと、そのまま亘の肩に頭を預けてきた。色の薄い、さらさらの髪が亘の鼻先を掠めて、亘は心臓が高鳴るのを感じた。だがそんな事よりも、今は美鶴の方が心配だ。亘は美鶴の後頭部に向かうような格好で聞いた。
「……もう疲れちゃった?」
うん、と呟くような声で返されて、亘はどうしたものかと考え込んでしまった。その間にも、電車の揺れに合わせてぎゅうぎゅう押され続けている。仕方ないのだとは分かっている。だがなんとかしてあげたかった。
その時、美鶴が乗り込んでからひとつ目の駅に到着した。ドアが開いて、わさわさとヒトが降りてゆこうとする。ドア前に立っていた美鶴はその流れに巻き込まれそうになり、亘は慌てて美鶴の身体を自分の隣に誘導する。顔を上げた美鶴は辺りの喧騒にうんざりとした表情を浮かべながらも、素直に亘に従った。乗降の為に、ドア付近にちょっとした空間が生まれていた。
亘はふいに思い立って、そのまま美鶴と自分の身体をくるりと入れ替えた。美鶴の身体をドア横の手すりとの隙間に納めると、途端に駅で待っていたヒト達が乗り込んできた。亘は手すりを掴み、壁に手をついて、自分の身体を盾にするような格好で美鶴を庇ってやる。程なくしてドアが閉まり、電車はまたゆっくりと動き出した。
亘はなるべく押し合いへし合いの振動が伝わらないように腕を突っ張りながら、美鶴にちょっとは楽?と囁いた。美鶴はあまりにも早い展開についてゆけないといった様子で、少しぽかんとした顔をしていたが、すぐにその面に微かな笑みを浮かべると、亘の耳元で呟いた。
「おまえと一緒で、良かった」
そしてもう一度亘の肩に頭を預けてきた。亘は軽く首を傾げると、美鶴の後頭部に自分の頭を預けるような格好にして、えへへと笑った。美鶴に頼ってもらえて、すごく、すごく嬉しかった。
三つ目の駅で美鶴は先に降りていった。じゃあまた帰りにと言って、電車に残された亘に手を振ってくれる。その顔は心底ほっとしていて、亘も漸く安心出来た。
亘の降りる駅は、更に二つ行った先である。ちょっと遠いんじゃない?と難色を示した母を、必死に説き伏せた甲斐があった。レベル的にも亘が受かった中では最高だったし、何よりこうして美鶴と登下校出来るのだから。
実は一緒に登校する為には、美鶴にちょっと早めに家を出てもらわなければならなかった。だから亘は不安だった。いつ美鶴が面倒だから止めようと言い出しても不思議ではないからだ。
でも今日の様子からして、そんな心配は杞憂だったようだ。
亘は思わずにんまりしてしまいそうになる顔をぎゅっと引き締めた。一時は美鶴と同じ学校に行けない事で随分へこんでいたけれども、今日も一日頑張れるような気がした。
終
美鶴は人の目に晒されてきただろうから、人込みというか人自体が苦手なのではと思う。
20060724
戻る