「みつるぅ、クーラー」
「駄目、もったいない」
 涼しい顔で冷たくあしらわれて、亘はがっくりと項垂れた。






二人の距離






 高校に入学して初めての夏休みは、毎日がうだるような暑さだった。連日テレビでは、聞きたくもない最高気温と、今日も真夏日です、お出かけには云々と、お決まりの文句を垂れ流している。不快な湿気と相まって、ヒトからやる気を削ぐにはもう十分すぎる程のお膳立てである。

 だが一介の高校生である亘は、だからといって出かけない訳にはいかない。夏休みといえども、毎日部活動があるからだ。好きで中学から続けているサッカーだけれども、こんな時はほんのちょっぴり、帰宅部にすればよかったかなと後悔する。ごく身近に帰宅部がいるから、尚更だ。

 でもそのおかげで、夏休み中にも関わらず、こうして毎日彼の顔を見る事が出来るのだから、やっぱり部活様様なのである。

「ていうか、なんでわざわざ家に寄る訳?」
 勉強机に腰掛けて、一心に宿題の問題集を解きながら、美鶴は亘を振り返りもせずに呆れた口調で言った。

 ところが亘の大好きなヒトは、こういうヤツなのだ。なんでもなにもない、美鶴に会いたいからに決まっているのに、どうしてそんな簡単な事が分からないのだろう。それとも分かっていて、わざと意地悪を言っているのだろうか。

 こんな時、亘はちょっと泣きそうになってしまう。だって、二人はただの友達なんかじゃないからだ。






 中学生の時、思い余って胸の内を告白したのは、亘だった。ちょっとずつ大人になるにつれ、美鶴に抱く感情がとても友達に対するものだとは言い難い事に気がついてしまったからだ。勿論当初は、そんな事言える訳がないと黙っていた。黙って、これまでのように友達でいるつもりだった。ただ美鶴の隣にいられれば、幸せだと思っていた。

 けれどもそうやって自分を騙していられたのは、ほんの僅かな時間だった。二人の距離はただの友達と言うには近すぎて――それは小学生の時の、二人だけの秘密の所為だ――、亘はすぐに、美鶴と共に居る事を苦痛に感じるようになってしまった。

 当然の結果だったろう。二人は物好きな女子達に、ちょっと怪しいんじゃない、なんて噂を立てられる程親密だった。その、怪しい関係に、実はなりたかった亘には、一事が万事我慢の連続だったのだ。

 もう触れてくれと言わんばかりのところに美鶴がいる。でも触れられない。手を出してくれと言わんばかりに無防備な美鶴がいる。でも手を出せない。

 お年頃の亘には、限界だった。

 だから亘は告白した。自分はおまえといる時、こんな事を考えてますよ、危ないですから、離れて下さいと告げる意味で。そんな風にしなければならないなんて、亘にとってとてもとても辛い事だった。けれども変な形で美鶴に知られるよりは、自分から終わりにする方がましだと思ったのである。

 中学からの帰り道。
 二人並んで歩いている時に、亘は唐突に好きなんだと告げた。
 美鶴はちょっと驚いた顔をしてから、首を傾げる。なにを今更。美鶴の顔は確かにそう物語っていた。
 亘は伝わらない事のじれったさに苛々した口調で、もう一度美鶴が好きなんだと言った。そして美鶴の手を取ると、ぎゅうっと握り締めた。

 小学生の頃はよくこうして手を繋いで歩いていたけれど、流石に中学生になってからはしたことがなかった。突然の出来事に美鶴は一瞬足を止めかけたけれども、亘が手を繋いだままどんどん先へ行こうとするので、仕方なくといった態でついてくる。それから暫くは、二人無言で歩き続けた。

 信号待ちで一旦足を止めると、亘の隣に美鶴も並んだ。亘は恐くて、とても美鶴の方を見られないでいた。じっと信号機の赤色をにらみつけていると、隣の美鶴が小さな声で――亘にだけ漸く届くような小さな声で、ぽつりと言った。

 それって……。

 最後の方はもう言葉にはなっていなかったけれども、美鶴が亘の言いたいことを察したのだと知れた。亘は同じく小さな声で、うん、とだけ答えた。繋いだ手を振り払われてしまうのではないかと、自然と力が入ってしまった。

 ところが予想に反して美鶴も、ぎゅうっと亘の手を握り返してきたのだ。驚いた亘は反射的に美鶴の方を向いたが、ちょうどその時、信号が青に変わったようだった。
 美鶴はなにを言うこともなく、亘の手を引いてさっさと歩き出してしまう。亘も慌てて美鶴の後に倣った。先刻とは逆の状態である。

 美鶴は無言のまま歩き続けた。美鶴の心の内が分からない亘も、黙って彼に従った。とりあえず亘の想いが拒絶されることはなかったようだ。だがだからといって上手くいった訳でもない。
 このままなかったことにされたらどうしようと、亘はドキドキしていた。美鶴が亘の想いに答えてくれよう筈はないとしても、告白自体をなかったことにされるのだけは辛かった。それでは決死の思いで告白した意味さえなくなってしまう。

 振るんなら、早く振ってくれよと亘は思った。だが美鶴はやっぱり口を閉ざしたまま、歩き続けている。どうやら美鶴が叔母と妹と住むマンションへ向かっているようだった。

 エントランスの自動ドアが開き、中から冷たい風がさあっと流れ出てくる。
 亘がその心地良さにほっとする間もなく、美鶴はエントランスを横切り、オートロックの自動ドアの前まで進んだ。数字を叩くと、程なくしてドアが開く。繋いだ手に促されるまま、亘はその奥のエレベーターホールへと歩いた。ボタンを押して、待機していた箱に乗り込む。

 そこで漸く美鶴は亘の手を振り払うと、こう言ったのだった。おまえあんな所でなにを言い出すんだよと。亘は俯いてごめんと呟いた。だって亘や美鶴の部屋では、どちらかにとっては有利だし、どちらかにとっては不利になってしまうだろうと思ったからだ。
 だが亘はそんなことは口にせず、ただ俯いてごめん、と繰り返した。

 美鶴はちっと舌打ちをすると、吐き捨てるように、やっと言ったな、と言った。亘は思わず顔を上げて、じっと美鶴の顔を見た。やっと? やっと言ったって、どういう意味だ?
 亘がその答えに辿り着く前に、美鶴が動いた。

 気がつけば亘は、美鶴に抱きつかれて口唇を塞がれていた。美鶴の整った顔がすぐそこにある。閉じられた瞼を彩る長い睫が、微かに震えていて。亘はぼんやりと、やっぱり美鶴は亘の知っている誰よりも綺麗だと、思った。

 目的の階への到着を告げる、チーンという音と共に、美鶴は亘から離れた。美鶴は目を伏せて、ほんのりと頬を赤くしている。いつの間にか大きくなりやがって、なんて憎まれ口を叩いた。中学に入ってから亘の身長はぐんぐん伸び、とっくに美鶴の身長を追い越していたのだ。

 亘はあんまりにも突然のことに、思考回路が完全に停止してしまっていた。ただただ呆然と、美鶴を眺めるばかりである。そんな亘を尻目に、美鶴はさっさとエレベーターを降りると、ぶっきらぼうに今日は帰れよ、と言った。小さな声で付け足された、恥ずかしいから、という言葉は、辛うじて亘の耳に届いた。

 美鶴が去って、一人エレベーターの中に取り残された亘は、今更のように足が震えだし、立っていられなくなって、その場に座り込んでしまった。手を上げて、そっと自分の口唇に触れてみる。途端に美鶴の口唇の感触が思い出されて、亘は思わずわーっと叫んでしまった。そして運命の女神様は、またしても亘に微笑んでくれたのだと、漸く分かったのだ。
 
 行き先を決めない乗客の所為で、エレベーターはいつまでも美鶴の家のある階で、止まったままだった。






 あれから、ちょうど一年だ。亘が死ぬ程努力したおかげで、二人は無事同じ高校に通うこととなった。もうずっと一緒にいるものだと亘は信じて疑わないのに、時折、こうして美鶴との温度差を感じるのだ。

 あの時、美鶴も同じ想いを抱いてくれているのだと、亘は思った。でも実は違ったのではないだろうか。付き合ってみたら、亘のことが鬱陶しくなってしまったとか。今になって気持ちが冷めてしまったとか。

 なんだかとても悲しくなってきて、亘は転がっていた美鶴のベッドの、枕に顔を埋めた。すうっと息を吸い込むと、美鶴の匂いがする。大好きで、大好きで、大好きで堪らなくて一緒にいる筈なのに、どうしてこうも寂しくなってしまうのだろうか。

「……変態」
 不意に、美鶴が氷点下の声音で呟いた。亘はゆっくりと顔を上げると、勉強机の方を見る。いつの間にか美鶴は、くるりと椅子を回転させて、ベッドにいる亘をにらみつけていた。

「は?」
 なんだか今、すごくひどいことを言われた気がする。亘が訝しげな声を上げつつベッドに頬杖をつくと、美鶴は眉を顰めて繰り返した。
「変態」
「何で?」
 亘が問い返すと、美鶴は眉間に刻まれた皺を更に深くして、答えた。
「ヒトのベッドの匂い嗅ぐな」

「ああ……」
 そういうことですかと、亘は身体を起こした。床に足を投げ出して、ベッドの縁に腰掛ける。すると美鶴はふんと鼻を鳴らして、またしても机に向かってしまった。取り付く島もないとは、今の美鶴のような態度を言うに違いない。そんなことを考えながら、亘はぼんやりと美鶴の背中を眺めていた。

 だから、だろうか。美鶴の深い深いため息を、ぽつりと呟かれた、きっと独り言のつもりだったであろう言葉を、亘が聞きとがめてしまったのは。
 
「……それ、どういう意味?」
 気がつけば亘は、低い低い声でそう問うていた。これまで美鶴に、聞かせたことのないような苛立ちを露にした口調である。先の美鶴の言葉は、今の亘にとってそれほどまでに聞き捨てならないものだった。

 亘のあからさまな変調に気がついたのか、美鶴が再びくるりと振り返った。だがその表情は、決して亘の態度を訝っているのでも、ましてや気遣っているのでもないことを物語っている。その証拠とばかりに、美鶴は不機嫌な表情のまま、亘に負けず劣らず苛々とした調子で、言った。
「言葉通りだけど?」
「言葉通り?」
 亘が絞り出すようにして言葉を重ねると、美鶴は憤りからか、ちっと舌打ちをした。

「だから」
 まるで聞き分けのない幼子に言い聞かせるかのように、美鶴は一言一言、区切って話した。
「おまえは、なにをしに家に来てるんだって、言ってるんだよ」
「それを……美鶴が聞く訳?」
「……他に誰がいるんだよ、アヤは夏休み中親戚のところだって」
「分かった」
 とても聞いていられなくて、亘は美鶴の言葉を遮った。だがその胸中とは裏腹に、随分と掠れた、情けない声しか出なかった。
 けれども美鶴は、亘の言外になにかを感じ取ったのか、口を噤んだ。椅子の背にもたれて、じっと亘を凝視している。亘もひたと美鶴に視線を注いだ。一度は同じ想いを共有したであろう、そのヒトに。
 
 亘はため息を吐いた。それからぎゅっと口唇を噛み締める。そうでもしていないと、なんだか訳の分からないことを喚いてしまいそうだった。感情の赴くままに、美鶴を罵ってしまいそうだった。そんなことをしても、どうにもならないのに。それどころか、ひどい八つ当たりでしかないのに。
 
 美鶴の言葉にかっとなっていた頭が、急速に冷えてゆく。と同時に、亘は居た堪れなくなって、もぞもぞとベッドの上で身動ぎした。
 改めて問うまでもなく、美鶴の意思はもう随分と前から、亘の目前に提示されていた。だがそれらを受け入れたくないばかりに、つらつらと理由を探しては、目をそらし続けていただけである。
 しかしそんな危うい関係が、いつまでももつ筈がない。ほんの些細な綻びからも、取り返しのつかない事態を招いてしまうものだ。今、現在のように。

 たとえ一時の間でも、手に入れたと思った幸福を手放すのは難しい。寂しくて、悲しくて、認めたくなくて。でも亘が意固地になっていたところで、事実に変化が生じる訳もなく、むしろお互いにとって非常に好ましくない状況に発展してしまった。
 そろそろ現実を見つめるべきだろう。そして美鶴の望むようにするのだ。ヒトの気持ちは時と共に移り変わってしまうことを、亘は嫌というほど知っているだから。

「分かった」
 確かめるように、亘は繰り返した。気を抜けば、今にもぼやけてしまいそうな視界の中で、美鶴が僅かに首を傾げる。
「美鶴は僕のこと、迷惑だったんだね」
 亘の震える声を受けて、美鶴はひゅっと息を飲んだようだった。
「ごめん、毎日押しかけて」
 そう呟くと、亘は膝の上に視線を落とした。ひとつため息を吐いてから、意を決して先を続ける。
「もう、止めるから」

「……なんだよ、それ」
 しんとした室内に、どこか虚ろな美鶴の声が響く。だが亘の耳には、意味のある言葉として届いてはいなかった。言うべきことは言った、後は一刻も早くこの場から逃れようとばかり考えていた所為かもしれない。
 美鶴の言葉に反応することなく、亘は腰掛けていたベッドから立ち上がろうとした。とてもじゃないが、美鶴の様子を窺うなんて出来なかった。
「なんでそうなるんだよ!」

 咄嗟になにが起こったのか、亘には判断がつかなかった。ぱちくりと目を瞬くと、眼前の美鶴の顔を呆然とした心持ちで見つめる。美鶴は怒っているのか、それとも泣き出しそうなのか、判別のつかない表情をしていた。
 ただその瞳だけは、きつい眼差しを亘に注いでいる。

 美鶴にじっと凝視された亘は、居心地の悪さに身動ぎしようとして、漸く自分の置かれた状況を把握した。亘はベッドの上に、転がっていた。縁に腰掛けた状態から、そのまま後ろにひっくり返ったのだろう。そして美鶴は、仰向けになった亘にのしかかっている。そういえば、美鶴の叫び声を聞いたような気がした。大きな物音や、慌しい足音も。亘の視界が反転したのは、その時だったと思う。美鶴の部屋には不釣合いな喧騒に呆気に取られていて、いとも簡単に押し倒されてしまったのだ。

 二人分の加重に、ベッドがぎしりと軋んだ。美鶴は亘の両肩を掴んで、柔らかな布団に押し付けている。その腕の長さの分だけ離れた場所から、亘を見下ろしている。亘はベッドに両腕を広げて転がったまま、なすすべもなく、美鶴の視線を受け止めていた。なにがどうなっているのか、全く分からなかった。

「……美鶴?」
 疑問が、彼の名前となって口をついて出る。しかし美鶴は微かに目を伏せただけで、亘に返答を与えることはなかった。代わりに、美鶴の端整な顔がゆっくりと近付いてきた。

 目を伏せて、そっと顔を寄せてくる美鶴の様に、亘は場違いにも心臓を高鳴らせた。どうにも見ていられなくて、亘は思わず目を閉じる。唇にふんわりと柔らかい温もりを感じたのは、その直後だった。

 微かに触れるだけで離れていった温もりを追いかけるように、亘は瞼を持ち上げた。吐息さえも感じられる距離に、美鶴がいる。目を伏せたまま、ほんのりと頬を赤らめている。ほうと吐かれた小さなため息が、亘の口唇をくすぐった。
 まるで一年前のあの日みたいだと、亘は不意に思う。あの幸せだった日の、これは再現のようではないか。だが決定的に違うのは、亘には美鶴の意図がさっぱり掴めないという点である。それ故亘は、ただただ呆然とするしかない。一体どういった反応を見せればよいのか、皆目検討がつかない。

 そんな亘の心境を知る由もない美鶴は、長いこと黙ったまま、亘に覆い被さっていた。だが決して、亘と視線を合わせようとはしない。その姿はあたかも、心の中の葛藤と必死に戦っているようで。益々亘から行動を起こす気を失わせていた。

「……俺だけ?」
 唐突に口火を切ったのは、美鶴だった。
「え?」 
 勿論亘は意味が分からない。思わず間の抜けた声を上げてしまうと、美鶴は一呼吸置いてから先を続けた。
「こんなことしたいって思ってるの、俺だけだった?」
 先刻までの勢いが嘘のような、随分と弱々しい口調だった。

 漸く美鶴の言いたいことを察した亘は、だからこそ余計に、訳が分からなくなってしまった。美鶴の言い分が、俄かに信じられる類のものではなかった所為だろう。だって美鶴は、あんなに冷たかったじゃないか。美鶴に会いたい一心で、毎日部活帰りに家に寄る亘を、つれない態度であしらっていたくせに。それなのに、なんで今更、そんなことを言い出すのか。亘の頭は疑問で埋め尽くされるばかりで、返事に窮する。

 亘の沈黙をどう受け取ったのか、美鶴は不意に亘の上から身体を起こした。その身を投げ出すようにしてベッドの端に腰掛けると、腿に肘をつき、両手の中に顔を埋めてしまう。
 亘もゆっくりと上体を起こした。ヒト一人分の隙間を空けて、美鶴の隣に座り込む。深いため息を吐いてから、口を開いた。
「……よく分からない」

「……なにが?」
 手のひらに遮られた所為で、くぐもった美鶴の声が答える。
「美鶴の言ってる、ことが」
「どうして」
「どうしてって、当たり前だろう」
 ちょっとだけ語調を荒げると、亘は更に言い募った。
「散々ヒトに冷たくしておいて、それなのに今更、あんなこと……したいなんて言われても……」
 訳分かんないよと、尻すぼみになりながらも、亘は訴える。

「誰の所為だよ」
 美鶴が苛立ったような語気で吐き捨てるのに、亘はびくりと身体を竦めた。
「僕の所為だって言うの?」
「……いや、そうじゃないな……」
 だが美鶴はすぐに口調を改めると、まるで自嘲するかのような調子でぽつりと呟いた。

「ごめん」
「えっ……」
 亘は弾かれたように、美鶴を見た。相変わらず両手に顔を埋めて、ベッドに腰掛けている。微動だにしないその姿は、呼吸すら止めているかのようだ。しかし言葉だけは、手のひらの隙間から淡々と紡がれていく。
「おまえの所為じゃ、ないよな。俺が勝手に勘違いしてただけなんだから」
「美鶴……分からないよ」
 ころころと変わる美鶴の態度に、亘は途方にくれた声を上げた。
「さっきからなに言ってるのか、全然分からない」
「そうだよな、分からないよな。分かってるつもりで、実は全然分かっていなかったんだから、当然だよな」
「美鶴……?」

「亘」
「はい」
 少し改まった美鶴の言い様に、つられて亘も居住まいを正した。美鶴はゆっくりと両手を下ろすと、亘に顔を向けた。まるで今にも泣き出しそうな濡れた瞳にじっと見つめられて、亘はどきりとする。
「俺は、おまえが好きだよ」
「嘘……」
 亘は反射的にそう口にしていた。

「嘘だ……だって、それじゃ、どうして」
 すると美鶴はゆるゆると首を振り、嘘じゃない、と言った。
「俺は、おまえが好きで、おまえもそうじゃないかなって……そうだといいなって、ずっと思ってた。だからおまえが好きだって言ってくれて、やっぱりそうで嬉しくて」
 亘はじっと黙って、美鶴の話に聞き入っていた。挟むべき言葉が、見つからなかった所為でもある。

 美鶴が、大きなため息を吐いた。
「……浮かれて、たんだろうな。だから都合のいいように勘違いしてしまったんだと、思う。期待して、でも勿論そんな風になる訳なくて、勝手に失望して苛々して……」
 一旦言葉を切ると、美鶴は目を伏せた。暫くの沈黙を挟んでから、とても言い難そうに先を続ける。
「ごめん……おまえはあんなこと、したくなかったんだよな。おまえの好きは……そういう意味じゃなかったんだよな。でも俺……俺は……」
 亘ははっと目を見開いた。美鶴の台詞に、ぱしっと頬を叩かれたような気がした。

 口を噤み、今一度大きなため息を吐いた美鶴は、再び両手に顔を埋めてしまった。ひどく聞き取り難い声で、帰れよ、と呟く。
 美鶴には見えていないと知りながらも、亘は首を横に振った。勢いよく、振動でベッドが軋むほどに。そうして美鶴に決して伝わることのない否定を繰り返しながら、頭の片隅でこんなところまであの日と同じだと思った。幸せの真っ只中にあったあの日は、素直に彼の言葉に従えたけれども、今日は絶対に無理だった。そんなことをしては、互いに取り返しのつかない誤解を抱えたままになってしまう。

 そう、誤解なのだ。つまらないすれ違いだったのだ。それが先の美鶴の台詞で、亘にははっきりと分かった。なれば亘が取る道は、ひとつきりであろう。

「美鶴」
 小さな声で呼びかけてみる。だが予想した通り、美鶴は一片の反応も見せなかった。亘はひとつ息を吐くと、意を決してベッドに片手をついた。その手を支点に、美鶴との間に横たわっていた距離を一気につめる。
 マットレスの沈み具合で亘の行動が知れたのか、美鶴が僅かに身を震わせた。だがそれだけだった。何事か口にすることも、亘から逃れようともしなかった。ただただ、じっとしている。まるで吹きすさぶ嵐から、懸命に身を守っているかのようだった。
 
「美鶴」
 そんな彼を驚かせてしまわないように、亘はもう一度名前を呼んでから、そっと腕を伸ばした。上体を美鶴の前に傾けて、その肩に両手を置く。大して力を入れる必要もなく、美鶴の身体はいとも簡単にベッドの上に倒れこんだ。一瞬遅れて、美鶴の顔を隠していた両手が、布団の上に落ちる。
 
 自らの身体がベッドに沈む音に、美鶴ははっとしたような、それでいてどこかぽかんとしたような表情を浮かべた。暫し視線を彷徨わせてから、美鶴の瞳は漸く亘へと焦点を結ぶ。その面は、自分がどのような状況にあるのか、いまいち分かっていないと訴えていた。きっと亘も、先刻はこんな顔をして美鶴を見上げていたに違いない。
 亘は息を飲むと、ゆっくり二人の距離をつめていった。亘の意図を察したのか、美鶴がいっぱいに目を見開く。それを視界に捉えた亘は、ちょっとだけ微笑んでみせた。なにも心配することはないんだと、言って聞かせるように。

 先の美鶴の行動を倣って、亘は軽く触れ合わせるだけですぐに顔を上げた。閉ざしていた瞼を開けると、相変わらずいっぱいに目を見開いた美鶴の顔が飛び込んでくる。その訝しげな視線に、亘はこう答えた。
「僕もだよ」
「え……?」
 美鶴が、掠れた声を出す。亘は今度こそしっかりと、笑みを浮かべた。
「僕も、美鶴とこういうこと――したかったんだ」
 だから誤解しないで? 美鶴の勘違いなんかじゃないんだよ? 僕だって美鶴と同じ風に思っているんだから。亘は言外にそう伝えたつもりだった。

 ところが美鶴は、悲しげに瞳を揺らすと、不意に目を伏せてしまった。亘に首を傾げる間も与えず、困ったような調子でぽつりと呟く。
「無理、するなよ」
「……無理?」
「おまえって、本当にお人好しだな。でも……こんなことまで無理すること、ないんだ」
「そんな、無理なんてしてない……」
 どうしてだか亘の言い分を理解しようとしない美鶴に、亘は慌てて言い募った。だが美鶴は聞く耳を持たないようである。ふるふると首を横に振って、亘の言葉を否定してみせる。
「いいんだって、もう十分だから」
 それから両手を持ち上げると、亘の身体を押し退けようとする。いいからもう帰れよと、投げ遣りに言う。
 
「……じゃあ美鶴は、本当のわからずやだ」
 気がつけば亘は、苛立たしげな口調で吐き捨てていた。亘を押し退け、起き上がろうとしていた美鶴の両手を掴むと、今一度ベッドに押し付ける。
「亘?」
 途端に怯えたような目をして、美鶴が見上げてくる。その視線を受け止めた亘は、今日の彼は本当によく分からないと思った。冷たい態度から怒ってみせたかと思えば、不意に自嘲気味に己の行いを反省する。それは誤解だと亘が言動で解いて見せても、何故か信じようとせずに、なにを恐れているのか怯えたような視線を向けてくる。
 
 頑ななまでに亘のことを信じようとしない美鶴。ならば亘は、一番手っ取り早い方法で分かってもらおうとするまでだ。

 美鶴は少しだけ、抗ってみせた。でもすぐに大人しくなると、亘にぎゅっとしがみついてきたのだった。






「ねぇ美鶴、クーラー……」
「駄目、風邪ひく」
 火照った顔に汗を浮かべた美鶴が、掠れた声で言う。それはそうかもと、亘は大人しく引き下がった。

「……暑いならさ」
「うん?」
「ちょっと離れれば?」
「それはやだ」
 亘はきっぱり断ると、殊更ぎゅっと美鶴の身体を抱き締めた。美鶴は呆れたような顔をして、困ったヤツだなと呟いた。だが苦笑混じりのその声が、彼が本気でそう思っている訳ではないと教えてくれる。亘は笑みを浮かべると、美鶴の頬に自分の頬をくっつけた。亘に腕枕された状態で抱きつかれている美鶴は、ちょっとだけ居心地悪そうに身動ぎしたけれども、大人しくされるがままになっていた。

 すうっと息を吸い込めば、甘いよい香りで鼻腔がいっぱいになった。美鶴のシャンプーの匂いである。叔母さんと、アヤちゃんと、女所帯に美鶴一人なものだから、そういった品物はどうしても彼女達の趣味に適ったものになってしまうと、前に聞いたことがある。

 堪えきれずに笑みを零すと、美鶴が眉を顰めた。
「なんだよ、気持ち悪いな」
「だって」
 亘はへらへらと笑いながら答えた。
「幸せだなと思って」

 その言葉に、美鶴は一瞬黙り込んだ。それからああそうですかと、小さな声で言った。頬が先刻よりも赤いのは、きっと気のせいではないだろう。随分と可愛い美鶴の反応に、亘は益々笑みを深める。
「でも……」
 不意に深刻そうな口調で呟けば、美鶴が訝しげな視線を寄越してきた。
「なに?」
「随分勿体無いことしてたんだなって思って」
 美鶴の視線をしかと受け止めて亘が言うと、美鶴は首を傾げた。
「……なにが?」

「もう傍にいられるだけで最高に幸せだと思ってたけど、こうやってくっついてた方がもっと幸せだって、この一年気づかなかったことだよ」
 そう言って、亘はじっと美鶴の顔を見た。察しのいい彼のことだから、落ち着いて聞いてくれればこれだけで分かってくれるだろうと思ったのである。
 はたして美鶴は、はっとした表情を浮かべた。それから困ったように目を伏せ、ため息を吐く。だが暫くして視線を上げた頃には、その面は満面の笑みでもって彩られていた。

「そっか」
「うん」
「なんか馬鹿みたいだな、俺たち」
「そんなことないよ」
 亘が自信ありげに否定すると、美鶴は疑わしげな眼差しでもって見つめてくる。

「この世に必要じゃないことなんて、きっとないんだよ」
 だって、おかげでこんなに美鶴に近づけたじゃない? と、亘は美鶴の耳元で囁いた。くすぐったかったのか、ちょっとだけ首を竦めた美鶴が肯く。
「それは、そうかも」
 顔を寄せ、くすくすと笑いあう。






 いつか二人の距離は、ゼロになるに違いない。









終 わ り ま し た! いつもの悪い癖でついダラダラと書いてしまいました。
でも楽しかったですv お楽しみ頂けると幸いですv

20061120



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