* * *
「美鶴は、アヤちゃんだ」
ぽつりと呟かれた言葉に、ぼんやりと帰路を歩んでいた美鶴は我に返った。ゆっくりと隣を見やれば、傍らを行く亘が視界に入る。彼もやっぱりどこかぼんやりとした表情をしていて、先刻の台詞が空耳だったのじゃないかと思われた。
だが美鶴の視線を感じたのだろう亘が、振り向いて首をかしげると、そうだよね? と同意を求めてきたので、気のせいなんかじゃなかったと知れる。しかし宮原や小村と別れてから、二人黙々と家路を急ぐばかりで、なんの会話も交わしてはいない。いったいなんのことだろうと、美鶴もつられて首を傾げた。
「って、なにが」
「今年のクリスマスプレゼント」
亘がきょとんとした顔でもって答える。それで漸く美鶴も、四人で帰路についていた時の、話題の続きなのだと気がついた。
「随分と早いし、女神さまからだったけど、そうだよね?」
そう言って亘は、周りの空気がほんわり暖かくなるような笑みを浮かべる。その、あまりにも他人事のような物言いに、美鶴は思わず苦笑を漏らしてしまった。それを言うなら、贈り主は亘じゃないかと、美鶴は思う。確かに、奇跡を起こしたのは女神の力だろう。だが亘がいなかったら、奇跡自体起こりえなかったじゃないか。
でもそんな風に考えたり、ましてや美鶴に恩着せがましく振舞ったりしない亘だからこそ、女神の恩寵に与れたのだ。
「アヤだけじゃないよ」
「え?」
「もっとすごいもの、貰ってる」
物問いたげな亘の視線に、美鶴は微笑み返した。すると亘はどうしてだか、ほんのりと頬を赤らめた。落ち着かなげに、目を泳がせている。そんな風にしていると、とても幻界や美鶴を救ってくれた勇者さまには見えなくて。美鶴は益々笑みを深めた。
「もっとすごいって、なにさ?」
亘が、狼狽を取り繕うかのように口を開く。だが美鶴はあえて答えずに、無言のまま腕を伸ばして、亘の手をそっと握り締めた。言葉なんかじゃ、とても伝えきれないからだ。
突然のことに驚いたであろう亘は、僅かに歩調を乱した。けれども、取り立てて言うことはなかった。美鶴のされるがままになっている。
それきり、美鶴は口を閉ざした。美鶴に倣ってか、それともなにか思うところでもあるのか、亘もじっと黙り込んでいる。黄昏時の太陽に、橙色に染め上げられた通学路を、二人は手を繋いでただただ歩き続けた。
この想いがちょっとでも伝わればいいと、美鶴は握った手に力を込める。すると、まるで美鶴の気持ちを汲んだかのように、亘もぎゅっと握り返してくれる。
嬉しくて、でもどうしてだか鼻の奥もつんと痛くなって、美鶴はそれらを誤魔化す為に夕焼け空を見上げて、目を細めた。
終
* * *
ない。
幾枚かの葉書を手にした美鶴は、首を傾げた。見落としたのかと、もう一度最初から繰ってみる。だがやっぱり、ない。そもそも見落とせるほどの量を貰った訳ではないので、そんなことはありえないのだけれども、来ていないという事実の方がありえなく思えて、美鶴は今一度葉書を繰ってみた。しかしないものは、何度見たところでやっぱり、ないのだ。
アヤが仕分け損ねたのかもしれない。
そんな考えが美鶴の脳裏を過ぎった。確かめようかと、腰かけていた自室の学習机の椅子から立ち上がりかける。けれどもその途中で時計が目に入り、結局元の通り椅子に納まり直してしまった。アヤがこれお兄ちゃんの分、と言って持ってきてくれてから、もういいだけ時間が経っていたからである。仕分け損ねがあったとしたら、アヤがとっくに持ってきてくれている筈だ。
そう思い至ると同時に、随分と長い間葉書を手に悶々としていたことに気がついて、美鶴は自嘲のため息を吐いた。馬鹿らしいと、小さな声で呟く。
そもそも美鶴は、他人に興味などなく、友達付き合いも希薄だ。したがってこんな馴れ合いじみた行為には意味を見出せず、自分から出したこともなければ、誰かに催促したこともなかった。枚数を競い合うクラスメイトを、飄々と横目で眺めるばかりであった。
にも関わらず美鶴は今、たった一枚の葉書がないことに心を奪われている。くるはずのものがこないのは、こんなにも落ち着かないものかと、美鶴は独り言ちた。数少ない、律儀なクラスメイトが寄越してきた葉書を、なんとなく眺める。
貰ってしまった分に関しては、美鶴とて当然返事は出していた。メールアドレスを知っていれば、取り急ぎメールでの返信もする。決して無礼を働いている訳ではなかった。去年も、一昨年も、一昨々年も、その前だって、ずっとそうしてきた。それを美鶴らしいや、と言って笑ったのは、他でもないアイツなのに。
勿論こんなものは、出す側の采配に委ねられているのだから、貰えなくとも仕方がない。それを出しているならともかく、出しもせずに貰えないと不満を覚えるなんて、見当違いもいいところだ。単なる我儘である。
しかしそう分かっていても、美鶴はどうしてだか八つ当たりせずにはいられない気分だった。なにもかもおまえが悪いと、彼の能天気な笑顔を思い浮かべて悪態を吐く。出会ってから欠かすことはなかったのに、どうして今年は届かないんだよと言い募る。出さない代わりに、いつだって届いたらすぐにメールを送っていたのに。今年だってそうするつもりだったのに。
けれども想像の中の彼は相変わらずのほほんとした顔をしていて、美鶴の苛立ちをかきたてるばかりだった。美鶴は、そうすれば思考を吹き飛ばせるとでもいうかのように、頭を振った。ついでに、手にした葉書を机の上に放る。ぱさぱさと軽い音を立てて落下したそれらは、机上のいたる所に散らばった。色とりどりの文字で、イラストで、新年の挨拶をつづった年賀状を、腕を組んだ美鶴は意味もなくむっつりと睨みつけていた。机の片隅には、用をなさなかった携帯が、ぽつんと置かれている。
それが、不意に着信を告げて鳴り響いた。
一心に年賀状をにらんでいるようでいて、実はどこかぼんやりしていた美鶴は、突然の物音にびくりと身体を震わせた。だがすぐに気を取り直すと、携帯を手に取り発信者を確認する。とはいっても美鶴の携帯に、家族以外でかけてくる者はただ一人と言っていい。しかし今回に限っては、だからこそ確認したのである。
美鶴は暫く、手にした携帯を見つめていた。ちょっと焦らせば諦めるかなと思ったが、先方にそんなつもりは全くないようである。十コール。二十コール。それでも電話は切れなかった。
仕方なく美鶴は、通話ボタンを押した。殊更ゆっくりとした仕草で、携帯を耳にあてる。
「なんだよ……」
応じた声は、隠し切れない不機嫌を露にしていた。そう美鶴には感じられた。
『あっ、美鶴? 僕だよ亘です』
だがたった一言では、流石に感情までは伝わらなかったようである。まるで正反対な、明るく元気のいい口調で亘は話出した。
『もしかして、まだ寝てた? それとも出かけてる? 元旦の朝からごめんね』
どうやら美鶴がなかなか電話に出なかった事情を、色々と慮ったらしい。しかし当然のことながら、ことごとく外れている。年賀状貰えなくて不貞腐れてました、なんて、亘にとっては想像の範囲外であろう。
「別に……で、なに?」
けれどもそんな想像の範囲外の理由で不貞腐れている美鶴は、どうしても亘と話していたくなくて、さっさと用件を聞いて電話を終わらせようとした。そういえば、新年を迎えてから初めて話をするのに、年始の挨拶も交わしていないなと、頭の片隅で思う。
『え……っと、美鶴今、家?』
美鶴の疑問に、どうしてだか不意にもじもじした雰囲気を醸し出した亘が応じる。
「そうだけど?」
相変わらず素っ気ない調子で、美鶴は答えた。
『少し時間、ある?』
「なんで?」
『僕今、美鶴の家の前にいるんだけど……』
「は?」
言われた意味がよく分からなくて、美鶴は眉を顰めた。訝しげな声を発すると、亘が美鶴の機嫌を伺うような声音で先を続けた。
『ちょっと出てきてくれると嬉しいかなぁ、なんて』
それで漸く美鶴にも、亘の言い分が理解出来た。理由は分からないけれども、亘は今、美鶴の家の前にいるというのだ。まだ日も昇りきっていない、薄ら寒い元日の午前中にも関わらず。
そうと気がついた時には、美鶴は動き出していた。椅子から立ち上がり、自室を後にする。玄関へと続く廊下を慌しく走ると、リビングの方からお兄ちゃん? と問うアヤの声が聞こえてきた。普段は廊下を走るなんて行儀の悪いことをしない美鶴だから、きっと驚いたのだろう。
人気のない玄関は、ひんやりと冷たい空気に満ちていた。美鶴はひとつ身震いすると、サンダルをつっかけて三和土におりた。ドアに取り付くと、寒さにかじかむ手で開錠する。それから勢いよくドアを開ければ、表から聞き慣れた声が飛び込んできた。
「わっ」
おそらく、ドアのすぐ前に立っていたのだろう。物音は聞こえていても、まさか間を置かずに全開されるとは思っていなかったに違いない。悲鳴交じりの声を上げて、辛うじてドアを避けたらしい亘が、それでなくとも大きな目を見開いて、美鶴の前に突っ立っていた。
「ああびっくりした!」
美鶴の姿を認めた亘は、胸を撫で下ろした。その頬も鼻の頭も、寒さの所為で真っ赤に染まっている。だがそんな面にも関わらず、亘は幸せそうな笑みを浮かべてみせた。
「よかった、いてくれて」
「……なんの用?」
けれども亘の、見ようによっては能天気とも取れる笑顔を見るうちに、先刻までの胸のもやもやを思い出してしまった美鶴は、ひどく冷たい口調で聞いた。子供じみたことをしていると、頭では分かっている。でも理解するとの納得するのでは、話が別物だ。
「うん……」
すると亘は、美鶴の不穏な態度に気がついているのかいないのかいまいち図りかねる様子で、ひとつ肯いた。不意に表情を改めると、ひたと美鶴の目を覗き込んでくる。小さな深呼吸をしてから、ゆっくりと口を開いた
。
「えっと、あけましておめでとうございます。これからもずっとずっとよろしくお願いします」
そう言って、折り目正しく一礼する。
亘の、突然の改まった物言いに、美鶴は瞬間呆気に取られた。だがすぐに気を取り直すと、おまえまさか……、と呟いた。
「それ言う為に、わざわざ来たの?」
「勿論、そうだよ」
大きく首肯した亘は、先刻の改まった態度が嘘だったかのように、ほんわりと微笑んだ。
「美鶴には一番に会って、直接よろしくって言いたかったんだ。でも去年までは元旦に友達の家に行くなんて駄目って言われてたから出来なかったんだけど……」
今年から解禁になってね――。そんな亘の言葉に、美鶴は頬が赤らむのを感じた。寒さの所為では決してない。嬉しさと、恥ずかしさとがないませになり、居た堪れない心境になったからだった。落ち着かなげに視線をさ迷わせる。
「あっ、ごめん。寒いよね、ごめんね急に来ちゃって」
それを亘は、そんな風に勘違いしたようだった。もしかしたら美鶴の不機嫌にも気がついていて、でも挨拶するまではと気がつかないふりをしていたのかもしれない。けれどもその理由を、急の訪問に結び付けている辺りが、やっぱり勘違いをしている。
だが美鶴に、本当のところなど言えよう筈がない。
美鶴の所作を思い違いしている亘は、慌てて暇を告げると、踵を返した。その背中に向かって、美鶴は鋭い声を発した。
「亘!」
一歩、二歩と足を踏み出していた亘は、僅かに躊躇する素振りを見せてから振り返った。美鶴に向かって、首を傾げている。
「これからの、予定は?」
「え?……家に帰るだけだけど……?」
美鶴が問うと、亘は不思議そうな顔をして、それでも素直に答えた。その内容に美鶴は肯く。
「じゃあ、ちょっと待て」
「美鶴?」
「一緒に、初詣行こう。支度してくる」
そう告げると、亘の返事も待たずに家へと取って返す。ドアが閉まりきる一瞬前、なにやら亘が言ったように思ったが、美鶴は構わなかった。亘は絶対に美鶴を待っている。それは希望ではなく、確信だ。
自室でコートとマフラーを手にしながら、美鶴は気がつけば微笑んでいた。あんまり当たり前になっていて忘れかけていたことを、ふと思い出す。
亘はいつだって、美鶴の考えるよりずっと大きなものを与えてくれる。
コートを着込み、その上からしっかりとマフラーを巻きつけた美鶴は、これから亘と出かけてくると叔母に伝えるべく、リビングへと足を向けた。
終
日記小話Logでございます。
070325
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