* * *

「ない……ない……ない……、全然ないよっ!」
 コピー用紙をホッチキスで留めただけの、旅のしおりを握り締めながら、亘が呻いている。その様子を横目に、美鶴は軽く肩を竦めてみせた。

「そんなこと言ったって、仕方ないだろ? 往来で喚くなよ」
「でも……だって……折角なのに……つまんないじゃないか」
 途端に足を止めた亘は、じっとりと恨めしげな視線を向けてくる。だが美鶴は構うことなく、先を急いだ。

「それとも美鶴は残念じゃ、ないの? 僕と一緒じゃなくてもいいんだ?」
 するとこんな台詞を背中に投げつけられた。その、完全に不貞腐れてます、と主張する口振りに、美鶴は大仰にため息を吐く。立ち止まると、数歩分後ろにいるであろう亘を振り返る。

 果たして亘は、美鶴の予想通りの位置にいた。夕暮れ方の陽に、長く伸びた美鶴の影の先に佇んでいる。ぎゅっと握り締めた手の中で、しおりはもうくちゃくちゃだ。随分と薄暗い時分にあっても、亘の目が若干潤んでいるのが見て取れる。美鶴は今一度ため息を吐いた。

「……どうにもならないことを、ぐだぐだ言うつもりはない」
「そりゃ、そうだけど……」
「ホテルは一緒だろ? 夜会えるじゃないか」
「でも……昼間は全然だよ? 京都まで行くのに、勿体無い……」

 僅かに目を伏せてなお言い募る亘に、いい加減苛々してきた美鶴は返事もせずに踵を返した。亘を置いてさっさと歩き出すと、背後であっという声が上がった。と同時にばたばたと慌しい足音が聞こえる。美鶴が後ろを振り返ろうとした時、左腕に衝撃を感じた。

「ごめん……怒った?」
 美鶴の腕にぎゅうとしがみついた亘が、恐る恐るといった態で聞いてくる。それから上目遣いに美鶴を見た。美鶴は吐息を漏らすと、ゆるゆると首を振った。

「別に……気持ちは分かるし」
 自分でも随分譲歩した言い様だと思った。亘もそれを理解したようで、一瞬だけ顔を輝かせた。しかしだからといって修学旅行のクラス別行動は如何ともし難い。すぐに元通りに表情を曇らせると、亘はため息混じりに呟いた。

「やっぱり……残念だ……」
「俺はちょっとだけ、安心した」
「は? なんでよ」

 途端に絶望のどん底に突き落とされたような面持ちになる亘がおかしくて、美鶴は思わず笑い出しそうになる。だがすんでのところで堪えると、亘の耳元に顔を寄せた。
 小さな小さな声は、辛うじて亘の元にだけ届いた。

「お風呂、クラス別だから」
「……だから?」
 美鶴につられたのか、亘までひそひそと小声で応じてくる。
「お互い、まずいでしょ? 変な気分になってもどうにも出来ないし」
「……」

 暫しの沈黙の後、亘の顔が真っ赤に染まった。なにか言いたくて、でも言葉にならないのか、ぱくぱくと口を動かしている。その様はまるで金魚のようで、美鶴はとうとう噴出してしまった。




* * *

 今日は寒いらしいから、冬物のコートを着ていきなさい。そんな母の言葉通り、寒風吹きすさぶ通学路はきんと冷えていた。天気が悪かった訳ではないけれど、昼日中の太陽でさえ、気温の上昇には役立たなかったようである。底冷えのする帰宅時となった。黄昏る空も寒々しい。

 厚手のコートを着込み、きつく撒いたマフラーに顔を埋めた亘は、吹きつける風に身震いした。一刻も早く駅に着き、電車に乗り込みたいというのに、消化した道のりはまだ半分程度である。ポケットに手を突っ込み、背を丸めて歩んでいる所為だろうか? 常よりも時間を浪費している気がしてならない。

 ――けど、それだけが理由じゃないかも。
 すんっ、と鼻をすすった亘は、横目で隣を歩く美鶴を見た。美鶴も昨日までとは違った、厚手のコートを身にまとっている。きっちりと巻かれ、きゅっと結ばれたマフラーには、不機嫌そうな顔が埋まっていた。むっつりと口唇を引き結び、黙々と足を動かしている。あまりの寒さに、まるで面が凍ってしまったかのようだった。そういえば、学校を出てから一言も口を利いていない。
 だが亘の意識を占めているのは、そんなことではなかった。

 最初は、気のせいかと思った。でもすぐにそうじゃないと知った。仕方ないから合わせていたけれど、それももう限界だ。だって、このままじゃ――。

「美鶴さっきからなんで寄って来る訳?」
「おまえさっきからなんで避けてくんだよ」
 同時に発せられた言葉に、亘は思わず足を止めていた。隣に顔を向ければ、美鶴も立ち止まり、呆気に取られた表情で亘を見ている。亘もきっと、同じような顔をして美鶴を見ているに違いない。

「美鶴が寄ってくるからじゃない」
「おまえが避けてくからだろ」
「は?」

 なんでそんな風に言われるのか全く分からない亘は、訝しげな口調で問い返した。
「だって寄ってこられたら歩き難いもん。普通避けるでしょ?」
「……もういい」

 すると美鶴は、いかにもむっとしました、という表情を浮かべて、さっさと歩き出してしまった。もうなにがなんだかさっぱりな亘は、慌てて美鶴の後を追うと隣に並んだ。
「なに怒ってんのさ、訳分かんないよ」

 そう言葉をかけても、美鶴にはもう口を利くつもりはないようだった。一心に前を見て、ひたすら足を動かしている。まるで今にも駆け出しそうな雰囲気に、亘はあっと思った。
「駅まで走れば、ちょっとは寒さもまぎれるかも」
「……馬鹿」

 しかし冷たい一言の元に、却下されてしまった。どうやらひどく機嫌を損ねているらしい。だが原因の分からない亘には、どうすることも出来ない。仕方なく亘も口を閉ざした。美鶴のペースに合わせて、ただただ歩く。より一層、寒さが身に沁みるような気がした。

 そんな沈黙に、先に耐えられなくなったのは、意外にも美鶴だった。語気は変わらず不機嫌そうだったけれども、ぽつりと言葉を漏らした。
「走ったりしなくても、暖かいのに」
「え?」

 美鶴の台詞に反応した亘は、隣を見ようとした。だがそれより早く、美鶴が動いた。唐突に亘の腕にしがみつくと、ぎゅっと身体を寄せてくる。
「ほら」

 ぶっきらぼうにそう言い放つと、美鶴はまた口を噤んでしまった。表情は、俯いているので伺えない。思わず立ち止まりかけた亘だったが、美鶴が構わず歩き続けるので、なんとなく彼に従った。

 寄り添った部分から、美鶴の体温がほんのりと伝わってくる。だが先刻までより随分と寒さがましに感じられるのは、それだけが理由ではないだろう。

 ここにきて、漸く美鶴の意図を察した亘は、小さな声でごめんね、と言った。すぐにおまえは鈍い、と容赦ない言葉が返される。それには亘も、思わず苦笑いしてしまった。




* * *

 背中をどんと押されて、亘は腰かけていたベッドから転がり落ちそうになる。だがすんでのところで堪えると、パジャマのズボンをはきつつ立ち上がった。ベッドを振り返って、思わずため息を吐く。先刻までとても仲良くしていた大好きなヒトが、何故かひどく不機嫌そうだったからだ。

「美鶴……蹴らないでよ」
「ちょうど蹴りやすいところに背中があったから」

 素っ気ない口調で答えた美鶴は、ヘッドボードと壁の角に枕を当てて背を預けていた。同じ年の男とはとても思えない、白く滑らかな両足は、ベッドの上に投げ出されている。腰の辺りをおざなりにタオルケットで覆っているだけで、他にはなにも身につけていなかった。辛うじてまとっていた筈のパジャマが、いつの間にか丸めて床に落とされている。

「……なに怒ってるのさ」
 椅子の背もたれに放っておいたパジャマの上衣に手を伸ばながら、亘は恐る恐る聞いてみた。久しぶりの母の不在にお泊りで、折角仲良くしていたというのに、機嫌を損ねられては堪らないからだ。滅多にない二人きりの時間を、楽しく過ごしたいと思うのは当然のことだろう。

 とはいえ、亘がなんとなく下手に出てしまうのは、二人仲良くする際の負担が美鶴にばかりかかっているからだ。不機嫌の理由がそこにあるのなら、亘に弁解の余地はない。

 だが、そんな亘の心境を知る由もない美鶴は、暫くの間問いにも答えずむっつりと黙り込んでいた。亘は上衣を手にじっと彼の様子を窺っていたのだが、なかなか話し出そうとしない。これは長期戦になるかも? そう危惧した亘が、とりあえずパジャマを着てしまおうかと袖に手を通しかけた時、漸く美鶴が口を開いた。

「着るものがない」
「……はい?」
「だから待てって言ったのに」
「え?」

 首を傾げる亘に、美鶴は冷たい一瞥をくれた。それから視線を床の上に移すと、大仰にため息を吐いてみせる。
 訳が分からない亘は、美鶴の視線を辿ってみた。そこにはくしゃくしゃに丸められたパジャマが、こんもりとした山を作っている。

「ああ……そういうこと」
 美鶴の言い分を漸く理解した亘は、ちょっぴり呆れた声を出してしまったようだった。途端に、美鶴にじろりと睨まれる。

「俺は、待てって、言ったよな?」
「……言ってましたすみません……」
 一句一句、区切るようにして念を押されて、亘は首を竦めた。

 今日のお泊りは、本当に急に決まったものだった。当然美鶴に、外泊の支度などない。だが時間が惜しものだから、学校帰りに下着だけを調達して、そのまま亘の家に来てしまったのだ。パジャマや着替えなどの大物は、亘のものを貸せばよい。

 そういった事情から、美鶴は亘の家に着くとすぐ、部屋着代わりのパジャマに着替えた。亘も美鶴に倣って、パジャマを着た。 二人で夕食を取り、宿題を済ませ、亘の部屋で取り留めのない話をしていた時もパジャマだった。ベッドに寄り添って腰かけ、言葉を交わすうちに、なんとなくそういう雰囲気になった時も、やっぱりパジャマだった。

 まだ高校生でしかない亘と美鶴は、保護者の監視下にある。更に男同士というハンデも手伝って、そういう時間を確保するのはかなり難しい。廻ってきた機会に、つい我を忘れてしまったとしても仕方がないだろう。

 二人は縺れあうようにしてベッドに倒れこんだ。暫くの間浅く、深く、キスを繰り返す。久しぶりの互いの感触に夢中になっているうちに、キスだけじゃ飽き足らなくなって、亘は美鶴をベッドに押し付けた。その上に伸しかかりつつ、手早くパジャマを脱ぎ捨てる。

 美鶴は潤んだ瞳で、その様子をぼんやりと見上げていた。だが身に付けていたものをすっかり取り払った亘が、改めて美鶴に口づけるべく顔を寄せると、はっとしたような表情を浮かべた。両手を突っ張って、亘を押し退けようとさえ、する。

「なに? もしかして……そこまでの気分じゃない?」
 ちょっとだけ身体を離した亘が首を傾げると、美鶴はゆるゆると頭を振った。
「そうじゃなくて、パジャマ」
「パジャマ?」

 行為自体を嫌がっているのではないのだと知って、亘は安堵の吐息を漏らす。早速行動を再開しながら、疑問を美鶴に問うてみる。美鶴はちょっとだけ抗うような素振りを見せつつ、言葉を続けた。

「俺も脱がないと……だからちょっと待て」
「ああ、そうだね……」
 そう答えたものの、亘に中断するつもりは一切なかった。だってパジャマなんか、また新しいのを出せばいいのだから。

 ――なんて正論は、恐ろしくてとても口に出せなかった。亘は全然気にならないのだけれども、人様の家で余計な洗濯物を増やすなんてことは、きっと美鶴の信条には反するのだ。
 亘は大きなため息を吐くと、手にしていた上衣を美鶴に放った。

「とりあえず、それ着てよ。お風呂の用意してくるから」
 繋ぎに亘の上衣を着てもらって、風呂上がりに別のパジャマに着替えてもらおうという寸法である。

 ちょうど足の上に落下した上衣を、美鶴はまじまじと見つめていた。だが他に策なしと思ったのか、渋々といった態でそれを手に取ると、身体を起こして身に纏った。先刻の行為の所為で怠いのか、ボタンを適当に留めている。

 美鶴が上衣を羽織ったのを確認した亘は、風呂場へ向かうべく踵を返した。と同時に、背後でベッドの軋む音がする。気だるげな足音で、美鶴が後を追っているのだと知った。

「美鶴……」
 どうしたの? と続く筈だった言葉は、振り返って美鶴の姿を認めた途端に、違う言葉に取って代わられてしまった。

「なんか、新婚さんみたいだね」
 美鶴は、一瞬きょとんとした顔をした。それからふと自分の姿を見下ろして、頬をほんのりと赤く染める。

 亘のパジャマは美鶴には大きくて、上衣だけでも十分に腿の中ほどまでを覆っていた。袖から覗くのは、指先ばかりである。だがゆとりがありすぎて、身動きする度に合わせ目から素肌が窺えるのだ。所々に、先刻までの仲良しの証が散っているのさえも。きちんとボタンを留めていないから、尚更そういう風になってしまったのだろう。

 そして亘は、同じパジャマの下衣だけを纏っている。当然上半身は裸だ。とくれば誰だって、亘と同じ様な感想を抱くに違いない。

「ばぁーっか」
 亘の隣に追いついた美鶴に、ばしっと頭を叩かれたけれども、亘は満面の笑みをどうすることも出来なかった。そうしてこっそりと、明日までこのままでいてもらおうなんて、邪なことを考えたり、した。





日記小話Logでございます。
070203



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