通話を終えて、電話を切る。ピ、という電子音に、道行くヒトを眺めていたらしい亘が、顔を向けた。

「アヤちゃん、何だって?」
「ホームルームが長引いたって。今学校を出たって言うから、まだもうちょっとかかるな」
「そっか」
「慌てるなよって言っといたから」
「うん、雨も降ってるしね」

 亘はそう言うと、空を見上げた。美鶴も携帯電話をしまうと、亘に倣って空を見上げる。雲に覆われた梅雨空は、しとしと鬱陶しい雨を降らせていた。ここ一週間、晴れ間を見た覚えがない。無意識のうちに、吐息が零れた。






雨降り





 
 美鶴と亘は、駅のコンコースの端でアヤを待っていた。明日から夏休みである。アヤの中学校も、美鶴と亘の高校も、今日は午前中で終わるから、じゃあ待ち合わせをしてどこかでお昼ご飯でも食べようかと言い出したのは、誰だったろう。

「……折角明日から夏休みなのに、梅雨、明けないねぇ」

 亘が視線を駅前の道に移して、ぽつりと呟いた。美鶴も肯く。

「洗濯物が溜まる」
「ははは、確かに」

 亘は笑いながら、背後の柱に寄りかかった。それを横目に見て、美鶴もなんとなく寄りかかる。コンコースを支える柱は大きく、男子高校生二人が寄りかかってもまだ十分に余裕があった。

 そうして二人はぼんやりと道行くヒトを眺めていた。平日の昼間、しかも雨降りとあって、あまり人通りは多くない。そういえばこれからどこへ行くのか、まだ決めていなかった事を思い出して、美鶴は亘の希望を聞こうと口を開きかけた。しかし唐突に吹き込んできた雨に、顔を顰めるに終わってしまった。

「風が出てきたみたいだね」

 亘ももろに雨を被ったらしく、手で顔を拭いながらそう言った。

「そうだな。奥、行こうか」

 美鶴が柱から身を離し、コンコースの奥の方を覗き込みながら提案してみると、亘は首を振った。

「いいよここで。奥だとアヤちゃん、分かり難いでしょ」

 その言葉に、美鶴は微かな笑みを浮かべると、再び柱に寄りかかった。つと身体を横に滑らせ、亘の肩に触れる程度に近付く。亘がきょとんとした表情で美鶴を見るのに、今度はにっこりと微笑んでみせた。

「ありがと」
「は?え?何が」
「……なんでもない」

 亘は訳が分からない、という顔をして首を傾げている。美鶴はその面をじっと見つめながら、心の中で、だからおまえが好きなんだ、と呟いた。亘はいつも、いつも、美鶴が望んでいる事をしてくれる。本当なら、とっくに愛想をつかされていても不思議ではないのに、こうして隣にいてくれる。

 どうしてだろう。これまで何度考えたかしれない疑問が、ふと脳裏を過ぎる。どうして亘は、こうして美鶴に優しくしてくれるのだろう。だって亘は、美鶴がどれ程汚い人間か知っているのに。自分の願いの為だけに、沢山のヒトを不幸にしてしまったと知っているのに。  しかもその所為で亘は、自分の願いを叶えられなかったのだ。どれ程恨んでも恨みきれないだろうに、それでも亘は美鶴と一緒にいてくれる。美鶴とアヤに、優しく接してくれる。それだけでなく、美鶴の事を、好きだとさえ言ってくれるのだ。
 
 美鶴は静かに首を振った。亘がどうしたの?と視線で問いかけてくるのに、今一度なんでもない、と答えてから、美鶴は手にした傘に目を落とした。

 亘には、絶対にそんな事々を口にするつもりはなかった。だってそれで、この幸せな関係が崩れてしまったら?美鶴の仕出かした数々を、小学生だった亘は許してくれた。けれども高校生の亘は?あの頃と違って色々と分別もついたし、考え方も変わってきてるだろう。下手に事を蒸し返して、亘に離れられてしまうなんて、美鶴は絶対に嫌だった。

 まだ何か言いたげな亘をあえて無視して、美鶴は身の内を埋め尽くす疑問の数々を振り払うように、手にした傘をぱっと開いた。それを二人の前に掲げる。

「こうしてよう」と美鶴が言えば、亘はああ、と肯いた。

「これなら、吹っ込んできても大丈夫だね」

 そう言って、美鶴に笑いかけてくれる。その笑顔は梅雨時にはあまり目にする事の出来ない太陽のように輝いていて、美鶴も眩しそうに目を細めて笑い返した。引き寄せられるかのように顔を寄せれば、亘は目をまん丸にして、それでも美鶴のされるがままになっていた。

 美鶴の傘の陰で、二人は静かにキスをした。軽く触れ合わせるだけで、美鶴はすぐに顔を離す。すぐ目の前では、亘が顔を真っ赤にしている。口をぱくぱくさせて、何か言いたげだ。美鶴が首を傾げると、亘は漸く言葉を発した。

「おま、なに、こんなとこで」
「大丈夫、傘に隠れて見えないよ」

 なんでもない事のように美鶴が言うと、亘は一瞬口を噤み、それからぶつぶつとそういう問題じゃなくって、なんて呟き始める。美鶴はくつくつと笑いながらコンコース前の道に視線をやった。傘を、二人の頭上へ掲げて吹き込む雨を防ぐ。

 その時、遠くに見慣れた傘を見出して。美鶴は手を振りながらその名を呼んだ。









もいっちょ雨ネタ。
なんか亘が色々可哀相ですが。
20060730



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