【車掌22-4号の立ち読み】
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イービーナーシング(看護婦誌)連載までの遠い道のり 第2部 塔島ひろみ
看護婦雑誌「イービーナーシング」へのエッセイを依頼されたひろみ。エッセイを読んで衝撃を受けた白衣の天使たちが「車掌」を買い求め、「車掌」の売り上げが飛躍的に伸びるだろう。そしてひろみのエッセイ目当ての「車掌」ファンが「イービーナーシング」を購入し、同誌の売り上げも突然伸びることになるだろう。塔島ひろみを媒介に、全く異ジャンルの2つの雑誌が読者数を倍増させるはず。そんなもくろみから書かれた、ひろみの医学論文。

近視について


 メガネもコンタクトもやめて、10年近く裸眼(両目とも0.1くらい)生活を続けている。
 メガネというものはとてもうっとおしく、また人をブスに見せるものだった。
 コンタクトは、痛くて、涙がボロボロでるもので、すぐどこに行ったかわかんなくなっちゃうものだった。またすぐくもって何も見えなくなってしまう(見るためにつけてるのに!)。つけてていいことなど一つもなかった。

 そしてやめてみるととても快適な生活が待っていた。痛くない、お金も手間もかからない、顔もかわいい(?)。「見えづらい」という1点を除けば、いいことづくめだ。
 そしてその欠点は携帯して「必要が生じたらかける」ことで克服できたし、しかもそのうちその「必要が生じる」こと自体、なくなってきた。
 矯正←→裸眼を往復すると、見える・見えないの差が生じるけど、裸眼のみの生活では見えないものは存在しないのと同じだから、見えないことがストレスにならない。仮に見たいものが見えないことに気づいたら、近づけばいい。近視じゃない人だって、すごく遠くの字は見えないんだから、同じである
 どうしても矯正が必要なのは、遠くから、相手に知られず、相手の様子を観察する必要がある尾行者くらいのものであろう。

 さて、「近視」をテーマに文章を書くことになり、上記の経験から、これから<裸眼のススメ>を説いてみたい。が、自慢じゃないけど私には医学の素養が皆無で、学術的な根拠は全くないです。でかわりにボロ(理論上の間違いなど)がたくさんあるでしょう。お楽しみに!
★22-4号では…
歌曲歴代スタッフ座談会が完結
 昔の人やアフリカ人はとても目がいい(視力5.0とか?)
 ところが今の人(文明人)の視力は、1.2とか1.5とかが標準とされる。
 これ1点をとっても、1.2とか1.5という数字が<絶対>のものでないことが知れる。
 遠くの山を走ってるウサギに石を投げつける必要のない人に、5.0の視力は必要がない。
 だから私たちの視力は、1.2とか1.5とかに、自然に落ちた。
 そしてまた時代が変わり、私たちは普通に成長すると近眼になるように進化した。
 私たちはものすごく狭い部屋でテレビゲームやネットをして大人になるから、外に出ても高いビルばかりで空もないから、私たちの視力は変わった。
 1.2や1.5である必要がなくなったから。
 0.1で十分だから。
 なのに、このような時代の趨勢を日本眼科学会(なんてあるっけ?)は一体どう思っているのだろうか? なぜ1.2もしくは1.5という(本当はどっちか一つ?)標準を変えないのか? この無用な「標準」のせいで、もーのすごく多くの人々が、目に異物を入れて目を傷め、ブスに陥って苦悩している。
 だからデノミネーションみたく、たとえば今の0.1を1.0としてはどうか?(つまり私を標準とする!)
 すると0.5(今の0.05)くらいから正常視力の範囲となり、そしたら一体数億の、メガネ・コンタクト地獄の住人が救われることだろう!
 しかも0.1の世の中は、細かいものが見えないので、細かいシミや小じわで悩む人々にも光明をもたらす。
 また、標識が遠方から見えないと危ないから、この近視デノミネーションに合わせて、交通法もついでに改正してしまおう。車も電車もとてもゆっくり走ることにするのである。矯正に伴うストレスもなく、のんびりライフで、私たちは心身共にリフレッシュされ、健康的な新人類となるだろう。


このあとひろみは図書館で……まあ続きは買って読んで下さい。しかしこれ、どう考えても「イービーナーシング」には向かないと思う。「イービーナーシング」は偉い。記事はほかに「売り男日記」「ドキュメント・ザ・尾行」「第101回車掌賞グランプリ」「私の特技はずばり、エロ(かおる)」「早く死にたい(宮野)」など。