8.13
日鉱記念館


日立市本山(もとやま)地区には「日鉱記念館」というものすごく立派な博物館がある。立派なのに地元民にはあまり省みられていない。ニッコーとは「日立鉱山」の略で、久原(くはら)房之介が明治38年に作った会社だ。銅を中心に産出したが昭和56年閉山した。最盛期は8000人いたという従業員が閉山時には500人程度に減り、本山地区はゴーストタウンとなった。といっても鉱山関連のアパートや病院はすでに取り壊されてゴーストタウン度は低い。
私の父方の祖父は日鉱の坑夫をしていたそうで、叔父がしばらく鉱山アパートに住んでいた。私も小学生ぐらいまではよく叔父の家に遊びに行っていた。なんかその頃、操業時のほうが今よりゴーストタウンぽかった気がする。
山道をしばらく走って日鉱記念館に到着。広い駐車場に車は1台だけ。しかもなにわナンバー。地元民には省みられてないのだ。
中に入っても客はほとんどいない。展示パネルによれば、日鉱の工作機械を作る部門で小平浪平という人が日鉱から独立して日立製作所を作ったらしい。「小平浪平」なんて漫才師みたいだが「おだいらなみへい」と読む。そういえば小平は地元の名士として学校で習ったなあ。でも久原や日鉱なんて聞いたこともない。関係ないけど私は子供のころ、小平会館で「ゲゲゲの鬼太郎ショー」を見て大泣きした記憶があります。
そんなわけで、今はどうだか知らないが、日鉱は20年前には地元民からも忘れられてた存在である。でも展示によれば日鉱は、昭和3年ぐらいに日本産業株式会社になり、のちに日産グループの一社として日本鉱業、現ジャパンエナジーになったのだ。閉山したとはいえけっこうな大企業なんだが、どうして学校で教えなかったのか。だいたい、この記念館に来るまで日鉱のほうが日立グループの子会社かなんかだと思い込んでたよ。

その昔、日立には鉱山電車という都電みたいな運搬用電車が走っていた。明治41年に助川鉄道として開通したこの電車は、現在の日立駅前の大通りと銀座通りの中間あたりを通って国道6号線を横断し、芝内経由で大雄院(だいおういん)まで軌道が延びていた。本来は貨物だったが従業員用に無料客車も走り、従業員じゃない人も勝手に乗ってたが昭和35年に廃線になった。
さて「銀座通り」という実もフタもない名前の通りは、ちょっと前まで日立市の繁華街だった。私は小学生の頃から銀座通り付近が大好きで、毎日のように田所書店とすみれ書房で立ち読みをし、五番館でレコードを眺め、十字屋でサンリオグッズにため息をついていた。
しかしこの銀座通り、なぜか駅前から6、700m以上も離れている。逆に駅前は閑散として何もなく、特急停車駅とは思えないさびれっぷりだった。なんでだろー? と長年の疑問だったが、鉱山電車の軌道地図を見て、あっそうか、もともと栄えていたのは駅がある大雄院で、鉱山の拡大とともに町も拡大し、銀座通りまで繁華街が降りてきたのではないかと気づいた。電車がなくなると町も衰退する。ならば銀座通りはよくもったほうかもしれん。今の銀座通りは「シャッター通り」と呼ばれているそうだ。

大雄院には「旧共楽館」が残っている。日鉱の福利施設として大正6年に建築された芝居小屋だ。唐破風の朱塗りで、花道や廻り舞台もあったという。六代目尾上菊五郎が公演した産業戦士慰問演芸大会にはキャパ1000人弱のところに4000人の観客がつめかけた。すげえ。どうやって見るのかそれ。昭和30年代まで映画や歌舞伎、相撲などが興行されたが、昭和42年に日立市に寄贈され現在は「日立武道館」になっている。
私は中学時代、何を思ったか剣道を習いたくなり、しばらくここに通っていた。でも中学生なのに、小学生からどんどん面とか小手とか胴とか打ち込まれウンザリしてすぐやめてしまった。あのー、剣道って胴着つけてるし竹刀なんだけど、面とか思いっきり打ち込まれるとマジで脳震盪おこしそうに痛いんですよ、小学生相手でも。旧共楽館の中はホントに普通の体育館だ。なので当時の私は、貴重な建築に気づかないばかりか、ここに通うのがイヤでたまらなかった。でも今は違いますよ、こんな歴史ある建物、ぜひじっくり見たいわ。と思っていたが、やっぱり実際に行ったらイヤな場所でしかなく、何の興味も湧かなかった。

えー話があっちこっちしてしまうが、記念館には日鉱の大煙突についてのパネル写真がいくつかあった。「大煙突」というのは、鉱山の製錬所の煙害を解消すべく作ったでっけぇ煙突のことだ。大正3年にできたのに155.7mという高さで、当時は東洋一を誇ったという。だもんで日立銘菓には「モーター最中」と並んで「東洋一」という瓦センベイもある。今もあるか知らないが。というのは、この大煙突、平成5年にボッキリ折れてしまったのだ。
しかし155.7mはすごい。標高350mぐらいの山の上、足場は竹とシュロ縄で組んでんだもの。煙突がどんどん高くなるにつれ、作業員がどんどん逃げ出すようになったので、賃金もどんどん値上がりしていったという。なので近隣のおばちゃん連中が稼ぎに来てたそうだ、女は偉い。この大煙突を作る前には、「ムカデ煙突」と呼ばれた2kmに渡る煙道や、「阿呆煙突」と呼ばれた低い煙突も作られていたそうだ。阿呆煙突は“政府調査会の指示で作ったので別名命令とも呼ばれました”と説明書きが。メイレイ。煙突の名前とも思われない。
しかし「製錬所の煙」ってそんなに有害なのか。と思ったら煙の中味は亜硫酸ガス。歯が溶けたり皮膚が溶けたりする強酸性ガスだ。ちなみに日立市は桜の名所でもあるが、これは煙害で丸裸になった周辺に緑を戻そうと、明治43年から大正6年にかけて耐煙樹種のオオシマザクラを53万本植樹したことが発端になっている。

立派な記念館の外には、かつての工場や竪坑のクレーンなどが残っている。写真は昭和19年、鉄骨不足のため木造建築されたコンプレッサー室。戦争に金属資源は必須だったがそのための建築に鉄骨を使う余地がないアンビバレンツを、金属と同強度の木造建築という荒業で解決したわけだ。じゃあ戦艦や弾丸も木で作ればよかったのに。間伐材とか使ってエコロジーにも配慮すると良い。
ところで日立市にはとても幽霊話が多い。鉱山の坑道事故も理由のひとつだろうが、日製の工場がらみで空襲や艦砲射撃にあったりして大量の人が死んでることが大きい気がする。日立では、昭和20年の6月から7月にかけてミズーリやB24が大煙突を目標に押し寄せ、1500人以上の人が死んだ。夜間艦砲射撃というやつは、ドーンという爆音と共に沿岸の防空壕が崩れ工場が燃え、犬は恐怖で吠えることもできず闇に地鳴りだけが響き、重く恐ろしい夜なのだそうだ。なのに一ヶ月もたたないうちに降伏だなんてムダ死に。そりゃー化けて出たくもなる。

“工場”や“学校”みたいな、人がいっぱい集まる場所には幽霊も集まる。人がいっぱいいたのに今はいないとなればなおさら、その落差に耐えかねて幽霊を出したくなる。そういう点からいえば、この記念館は格好の幽霊スポットだ。だから幽霊が出るかもなーと思って来たのである。もちろん幽霊は出ない。幽霊はそう簡単には出ない。でも気配とか残像みたいなものを感じる場所ではある。
帰りがけ、三女が立入禁止の鎖を超えて工場裏手の坂道を登って行って戻って来ない。夫が追い、次女が追い、私は一人で取り残されてしまった。ややしばらくして帰って来たみんなに「何があったの?」と聞いたら「運動場。広かった」と答えた。そういえばそこでお祭りをしたのじゃなかったかなあ。ゴーストタウンを排除したはずなのに、そして立派な建物なのに、記念館は廃墟だった。

日鉱記念館
所在地:茨城県日立市宮田町3585
電話:0294-21-8411
休館日:第2・第4日曜、月曜、祝日
開館時間:9時〜16時(入館受付15時30分まで)
入館料:無料