<ごんふく増刊号・100号>東北大震災、帰宅難民となる(2011年3月11日)

記念すべき「ごんふく増刊号」の100号目は、未曾有の大震災についてになりました。

その時、わたしは新宿区の会社で勤務中、激しい揺れに見舞われました。
ただ、幸いなことに会社も自宅も損害はなく、わたしも周囲もケガもなかったのですが、報道されている通り、東北地方は大津波でひどい被害状況になっています。
マグニチュード9.0というとんでもない地震のエネルギーでは、ひとたまりもありません。
さらに追い討ちをかけるような、福島原発の炉心溶融。
1945年の敗戦以来の「国難」ではないでしょうか。
とにかく、少しでも多くの方々が救助され、被災者支援が一刻も早くなされるよう、祈るばかりです。
非力なわたしですが、せめて義捐金を送ってなんらかの手助けになれば・・と思っています。
首都圏ではあの日、交通マヒのため、「帰宅難民」が続出、わたしもその当事者になってしまいました。
そのことについての記録です。


2011年3月11日午後2時46分、わたしは会社5階奥の会議室で、上司と面談中だった。
平成22年下期の反省と、23年上期の業務の目標設定、などといったことを話していたのだが、すぐ上の天井がミシッ、ミシッと鳴っている。


あれ、上の6階で何かやってんのかな?
引越しか何か?
と最初は思ったのだ。
と、上司と話しているうち、横揺れがはじまった。
つい二日前も宮城県沖が震源の地震があったばかりで、そのときも東京は震度2ぐらいだったが、ゆっくりした横揺れが気味悪かった。ちょうどあのときと同じ感じだ。


やれやれ、また地震か、と思っていたら揺れが大きくなる。
あ、これはヤバい、とあせっていたら、かなり激しい横揺れが。
ビル全体がグラグラと揺れている。
ニュージーランド地震の倒壊したビルの映像がいやおうなく思い出されてしまう。


わたしはとっさに会議室のドアを開けた。
2005年の福岡県西方沖地震の際、知人が「すぐにストーブを消して玄関ドアを開け放った」と言ってたのを思い出したからだ。
あのときも激しい揺れで建物がゆがみ、ドアが開かなくなってマンションに閉じ込められた人がいたのだ。


そして上司には悪いが
「こんなトコで上司とふたり死にたくないよぉ・・」と思ってしまったが。


とにかく、横揺れの時間が長く、
早く、早く収まってくれ! いつまで揺れが続くんだ??という感じだった。1分ぐらいはげしい揺れが続いていたように思う。
窓ガラスがピシッ、ピシッ、と音をたてているのが耳に入る。今にもフロアじゅうのガラスが割れてしまうのでは?と思われた。
そのあいだ、わたし必死に机にしがみつくようにしていたが、ほかの社員たちは、机の下にもぐっていた人が多数だったようだ。


怖かった。
あの揺れにはかなりの恐怖心をおぼえた。
東京23区は震度5弱か震度5強だったかと思う。
ようやく揺れがおさまってオフィス内のキャビネットなどが倒れたりしていないのを確認。
しかし、それから30分ほどたって、また大きな揺れ。
今度は机の下にもぐって、収まるのを待つ。


そのあと、いったい何度余震が起こったか覚えていないぐらい地震が頻発。
もう、仕事どころではない。
福岡の地震のときの経験から、当分、電車が動かなくなるのが目に見えていた。


会社の若い男性社員が四ッ谷駅まで走って駅員さんにたずねたところ、今日中の運行再開はむずかしいかも、という答え。
当初、会社で待機して、電車が夜、動き始めたら帰宅しようかと思っていたけどこのままだと帰れそうにない。会社で夜あかしももイヤだし、何より自宅が気になる。我が家のねこ・ゴンちゃんは大丈夫だろうか、それが一番の気がかりだ。


結局、いろいろ考え、社内で情報を集めた結果、同じ東西線沿線の社員たちと歩いて千葉・市川を目指し、東京方面にクルマで迎えに来る同僚の旦那さんと合流して乗せてもらうことにした。

首都圏全域で電車・地下鉄が止まってしまったので、都内には「帰宅難民」があふれていた。歩道は、徒歩で家を目指すサラリーマンたちがおおぜいで、歩きにくいほどだ。
いやはや、まさかホントに自分が「帰宅難民」になろうとは。


わたしたちが歩いたのは
四ツ谷〜市ヶ谷〜九段下〜神田神保町〜岩本町(秋葉原の隣)というルート。
国道14号線沿いになる。
しかし、会社にいたころから、ウチの旦那にまったく携帯が通じず。
連絡が取れないので困ってしまった。こういう大災害のとき、携帯はほんとうに通じない。
実家の母には会社の固定電話から無事を連絡。


午後6時40分過ぎに会社を出て、歩道が混雑していたこともあって、靖国神社を午後7時10分ごろ通り過ぎる。
ちょうど福岡の友人・Wさんから携帯に電話が入る。わたしの旦那とは共通の友人だ。
うちの旦那とは携帯で全然連絡がつかないので困ってると言うと、彼女は彼と電話でさっき話せたらしい。今度携帯に通じたらわたしのほうから、奥さん今靖国神社のあたりを歩いてたよ、と伝えておくから、と言ってくれる。


午後7時半、神田神保町に到着。その後もひたすら歩き続ける。
メールも通じない、と思ってたら遅延で、まとめて10通ほど一気に着信メールが届く。九州の友人や義姉たちからで、メールを下さったみなさん、心配してくださってありがとう。

午後8時5分、旦那から携帯に電話が。
何十回となく電話をかけつづけて通じなかったので、やっとやっとつながったよ!という感じだ。
彼は午後7時15分ごろ、江東区東陽町の事務所を出て、市川の自宅に向かって歩いて帰っているという。自宅に着けたら、クルマで迎えに行くというが、それもいつになるかわからないので、こちらの状況を話す。


午後8時25分、隅田川にかかる両国橋を渡る。
風が冷たくて身をすくめる。左手にきらめく東京スカイツリーが見える。
疲れているのを忘れて、つい見入ってしまった。
「避難民」として、自宅を目指してもくもくと歩くおおぜいの人々とともに見たこのスカイツリーは、一生忘れられないだろう。


同僚のSさんは、ご主人が東京に向かってクルマを走らせてくれていたのだが、途中から携帯が会話もメールも通じなくなってしまった。
落ち合うだいたいの場所は連絡していたのだが、道路も渋滞し、ご主人のクルマの到着がわからない。
両国に着き、渋滞で動かない車列から、Sさんはプリウスを見つけようとする。
少し遠くに1台見つけ、走ってナンバーを確かめたが違っていた。
この状況だと、果たして待ち合わせなどできるのだろうかと心配になってた矢先、Sさんが「あ、あれ!」とご主人のクルマを見つけ出したではないか!


こうしてわたしはもうひとりの同僚とともに、Sさんのご主人のクルマに同乗させてもらうことができた。
連絡がとれなくなっていたあの中で、よくぞすぐ近くにご主人のクルマが着いていたものだ。
まさに奇跡的というほかない。


実は2時間歩き続け、かなり足が疲れていただけに、わたしはすごく助かった。
午後8時40分、両国でクルマに乗ったものの、大渋滞でまったく動かず。
少しして横道を見つけ、そちらに入って市川を目指す。
当然ながら首都高速は全面通行止めなので、下道を使わざるをえない。


カーラジオから聞こえてくる東北の被害が予想以上に大きい。
大変なことになっているようだ。
仙台の若林区で200から300の遺体が見つかった、という。
いったいどういうことなのだろう。もしかして津波にさらわれた犠牲者?
さらに福島原発のニュースが伝えられ、地震被害の深刻さがますます大きくなっていく。

午後9時20分、旦那から携帯に電話あり。歩いて江戸川区葛西までたどり着いたらしい。
そっちは今どこかと聞かれ、Sさんのご主人にカーナビで確認してもらい、江東区の南砂町あたりだと連絡。


しかし、走っては渋滞、また走っては渋滞の繰り返し。
電車が使えないものだから、クルマを頼るしかなく、道路は予想以上の大渋滞だった。
結局、市川市の自宅にたどり着けたのはちょうど日付が変わる頃。
両国から実に3時間半もかかったことになる。
いや、それでも後部座席に座っているだけだったから、ほんとうに助かった。
両国からさらに市川まで歩いたとしたらいったい何時間かかったことだろう。
うちの旦那は結局、帰宅に丸3時間かかったそうだ。
Sさんの旦那さんに重ねて御礼を言って、ようやく自宅に向かう。
歩いたのは2時間だけだったので、クルマで拾ってもらえたわたしはまだ運がよかったと思う。
おおぜいのサラリーマンたちが黙々と夜の東京を歩いていく姿は、かなり非日常的だった。
ヘルメット姿の人たちもけっこういた。
会社から支給されたのだろう。
ウチの会社、損保をやってるというのに、こういう備えってないよな。


翌日は、普段の運動不測が露呈して、筋肉痛に悩まされた。
3時間歩き続たうちの旦那は、足のウラにマメができていた。
でもそんなことも、東北の被害を思えばなんでもないことだ。
元気に生きていけるだけでもありがたい。改めてそう思っている。

   

以下、2005年の福岡県西方沖地震のときの記録です

第55号・福岡県西方沖地震報告(2005年3月21日)

56号・地震のその後(1)(2005年3月23日)

第57号・地震のその後(2)(2005年3月28日)

第58号・地震のその後(3)(2005年4月22日)